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2014
10.24

同居している母親と夫があまり口をきかないので悩んでいます

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 何度かあったタイプの人生相談です。
「同居している母親があまりくちをききません。
 男性にちやほやされ、美人で通ってきた母親は、無視するが気に入りません。
 自分が何とか仲を取り持っているのが大変です。
 幸い、小さな子供が元気なので助かっていますが……」

 お答えしました。

家庭とは多かれ少なかれ、そんなものです。
 生まれも育ちも、箸の握り方も頭の下げ方も違う大人同士が〈心からうち解け合って一緒に住む〉などということは、テレビドラマならいざ知らず、例外的であると考えたが現実に即しています。
 もしも、うち解け合わせるものが、貴方様の場合、ご主人がお母様を必要以上に〈女〉として観てしまったり、貴方様よりもお母様と趣味などが一致して気があってしまったりという状況であれば、ことは遥かに深刻です。
 それこそ、テレビドラマや小説の世界が現実化して、とんでもない日常生活になってしまいかねません。

 貴方様のご家庭がすばらしいのは、まず、皆様が〈大人〉であるということです。
 気に入らなくても感情的になってぶつかり合わず、それぞれが、それぞれなりのものを胸にしまって日常生活を淡々と続けておられることはすばらしいと言うしかありません。

 もしも貴方様が気になっておられる〈薄膜〉が破れる場合があるとすれば、何か突発的なできごとが起こった時でしょう。
 そこでガッカリするような事態になるか、感激させられるかは、〈その時〉になってみなければわかりません。
 そこから先はまた、その時が来たならお考えになられれればよろしいのではないでしょうか。

 貴方様が家庭の太陽となり、お母様とも、ご主人とも、お子様ともしっかりつながっていれば、家庭生活の理想的状況として充分とは言えないまでも、必要な要件はかなり整っていると考えるべきでしょう。
 ただし、全体のバランスに対する自分の責務を意識し過ぎず、それぞれと信じ合っていられることに感謝を持って生きられた方がよいのではないかと思います。
 皆々様へ仏神のごかごがありますよう。」

※当山は個人情報に充分留意して文章を作っています。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2012
08.10

子や孫のためにふり返っておきたい(その10) ─男だ、元気だ、やっつけよう─

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11 「を」 男だ、元気だ、やっつけよう
 男に生まれたのだ。
 こんな仕合わせがあろうか。
 元気でいこう。
 勇敢にやっつけよう。
 この意気さえあればきっと偉い人物になれるのだ。


 ここには、家父長制と男尊女卑の観念が強かった時代の色合いがあります。
 当時は、男性に生まれたことを二重の意味合いで喜びました。
 一つは家庭の長として責任を持つこと、もう一つは大きな社会的役割を果たすことです。
 家庭も社会も柱は男性であり、女性は柱を〈支える者〉という感覚が強かったのです。
 だから子供でも、男なら家庭と社会の牽引車としてしっかりやらねばと考えました。
「勇敢にやっつけよう」は、誰かとケンカして勝とうなどというのではなく、自覚と勇気を持ってあらゆることに立ち向かおうという意味です。

 さて、この教えを現代に適用しようとすれば、男性に生まれたこと、日本人に生まれたこと、故郷で生まれたこと、自分の親から生まれたことなどの意義と感謝を自覚させれば良いのではないでしょうか。
 もちろん、同様に、女の子にも、女性に生まれたことの意義と価値を教えねばなりません。
 そして、他国で生まれた子にも、自分と等しく故郷があることを誇りに思い、喜ぶ心があると教えねばなりません。
 もちろん、自分が親にすがり感謝するように、他の子にも自分と等しく親にすがり感謝する思いがあると教えねばなりません。
 つまり、男の子も、女の子も、日本人も、どこかの国の人も、特定の親の縁により、他人と取り替えのきかない一人の人間として生まれた真実をはっきりと自覚するために、一人の人間を特定するさまざまな要因へ目を開かせ、その価値を感じさせることが眼目です。
 そして、自分がそうしたかけがえのない人間であるのと同じく、他の子たちもすべて、それぞれがそれぞれなりの価値をもっている真実に気づかせねばなりません。
 子供が自分の生にかかわる〈事実〉を〈真実〉として気づけるかどうかは、親と先生の力量にかかっています。

 子供の頃、病弱だった私はケンカをした記憶がほとんどありません。
 それでも何かのおりに殴られて血が出たりすると、親からもらった身体に傷つけれたことが悲しく、悔しくてなりませんでした。
 だから他の子供を傷つける心は、ほとんどはたらきませんでした。
 今でも誰かの子供が事件を起こすと、見知らぬ親御さんの気持を思い、悄然としてしまいます。
 もしかすると、私のこうした心は、親が私を大切に育ててくれたことに起因しているのかも知れません。
 そうであれば、事件を起こした子供の家庭事情を暴き立て、家族や親戚にまで攻撃的な言動を弄する人々は、子供の頃、あまり親から大事にされなかったのかも知れません。
 いじめの報に接すると、被害者も哀れ、加害者も哀れ、両者の親御さんや先生も哀れ、そして、ネットなどで非情な行動をとる人々も哀れと思えてなりません。
 無慈悲になれる人が哀れでなりません。
 慈悲はどこから消えてしまったのでしょうか。
 こんな想いが起こると、ロージーベルさんが運営する「少年の家」の尊さがあらためて身に迫ってきます。

 この教えを現代風にアレンジしてみました。
「男の子に生まれました、女の子に生まれました
 それぞれ、等しく、幸せです
 感謝しつつ、元気でやりましょう
 勇気をもって人生を切り拓きましょう
 この意気込みさえあればきっと誰かのために、何かのために役割を果たし、親へも社会へも恩返しのできるまっとうな大人になれます」




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2011
03.06

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その16)─この世の荒波をのりきる法(その1)─

 かつては江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

15 この世の荒波をのりきる法

四等(シトウ)の船(フネ)に乗(ノ)らずんば、
誰(タレ)か八苦(ハック)の海(ウミ)を渡(ワタ)らん。


(慈・悲・喜・捨の四無量心を誰に対しても平等に起こさねば、四苦八苦のこの世を乗りきってはゆけない)

 四無量心(シムリョウシン)とは、慈(ジ)・悲(ヒ)・喜(キ)・捨(シャ)の4つが限りなく起こる心です。

①慈(慈愛)…相手の幸せを望む心
 ここで言う相手とは、すべての人々です。
 自分と同じく幸せを求めるすべての人々です。
 この心は「自分が幸せに生きたいと願うのだから、きっと皆もそうに違いない」という想像力が前提になっています。
〈自分だけ〉という自己中心の気持が薄れると清浄な想像力がはたらき、こうした真実がわかってきます。

 周囲を眺めると、確かに、家族も、友人も、同じく幸せを求めていることがわかります。
 本当に「そうだなあ」と思えれば、「待てよ、憎たらしいあいつだって同じじゃないか」と気づきます。
 そして意識が広まり深まって文字どおり〈すべての人〉は自分と同じであるという実感が持てる時、心のステージが上がり、〈み仏の目〉で自他を平等に観ることができます。
 そうすると、周囲の人々が皆、自分と同じく幸せを求める心を持って生きているという実感が伴い、さまざまなおりに相手が幸せになるため、あるいは幸せを保つため、あるいは幸せを増大させるためのお手伝いをしないでいられなくなります。
 こうして自他の心をきちんと観れば慈愛が起こるのは、私たちが仏性(ブッショウ)という〈み仏の種〉を持っているからです。

 さて、自分が幸せを望む心があって初めて、他人が幸せを望む心を〈我がもの〉と感じられます。
 だから、自分が幸せを求める人でなければ、慈愛の実践はできません。
 それは、「自分なんてどうなっても構わない」と捨て鉢になっている人が、友人の幸せ話に心から共鳴、応援できるかどうかを考えてみればすぐにわかります。
「エッ、それじゃあ仏様はどうなっているの?
 お地蔵様なんて、自分が身代わりになって誰かの苦を引き受け手やろうとおっしゃっているのに。
 ──仏様が自分の幸せを願っているなんて信じられない」
と思うかも知れませんが、心配ご無用です。
 み仏のお智慧はこの上ないレベルであり、人々が幸せを願っていることを知り尽くしておられます。
 そしてこの上ないレベルの慈愛をもお持ちなので、たとえ自分が相手のの苦を引き受けても、相手を幸せにしてやろうとします。
 こうしたはたらきに徹することが、み仏のレベルでの幸せなので、み仏はおしなべて柔和なお顔をしておられるのです。
 捨て鉢なみ仏はあり得ません。

 自分の幸せを願うのが私たち凡人、自他の幸せを願うのが聖者、良き願いそのものになっておられるのがみ仏と考えてはいかがでしょうか。
 
②悲(抜苦)…相手の不幸を取り除く心
 自分が不幸でありたいと願う人はいません。
 自分が不幸でなくなりたいと願うのと同じく、すべての人が不幸でなくなりたいと願っています。
 ならば、〈み仏の目〉で自他を平等に観さえすれば、さまざまなおりに相手が不幸をとり除くためのお手伝いをしないでいられなくなります。

③喜(随喜)…相手の幸せを自分の幸せと同じに喜ぶ心
 幸せになれば嬉しく、笑いを含んだ柔和な顔になるものです。
 そうした表情の人は、接する人々の心を明るくしてくれます。
 幸せ感は伝播して、幸せでない境遇の人の心をも明るくしてくれます。
 心の明るさは運気の上昇を招き、笑顔は運気を上昇させる大きな力を持っています。
 だから、相手の幸せを心から喜べる人は、いつも心に明かりをともしていられ、決して〈我が身の不運を嘆く〉ことはありません。
 苛酷な人生を過ごしてきたはずの人が、笑顔を喜ばれる人になっていたりするのは、大きな不幸の中で小さな幸せの価値を見つけ、それを自分の中にも他人の中にも見つける〈幸せ探し〉の名人になっておられるからではないでしょうか。
 本当に幸せの価値を知っている人にとっては、他人の幸せを自分の幸せと同じように喜ぶことは、あまりにも当然なのかも知れません。

④捨(浄捨)…相手に対するすなおで平静な差別を捨てた心
 自分に具わった幸せを求める心も、不幸を除きたい心も、誰かの幸せに笑顔を浮かべる心も、万人共通の仏性という泉から流れ出ています。
 このことに実感が持てれば、「浄らかな捨」は実践されることでしょう。

〈笑う少女 作:北村声望〉

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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
11.23

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その9) ─学習と復習─

 かつては江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教童子教』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

9 学習復習

故(カルガユエ)に書(ショ)を読(ヨ)んで倦(ウ)むこと勿(ナカ)れ。
学文(ガクモン)に怠(オコタ)る時(トキ)勿(ナカ)れ。
眠(ネム)りを除(ノゾ)いて通夜(ヨモスガラ)誦(ジュ)せよ。
飢(ウ)えを忍(シノ)んで終日(ヒネモス)習(ナラ)え。
(シ)に会(ア)うと雖(イエド)も、学(マナ)ばずんば、
徒(イタズラ)に市人(イチビト)に向(ムカ)うが如(ゴト)し。
習(ナラ)い読(ヨ)むと雖(イエド)も、復(マタ)せざれば、
只(タダ)隣(トナリ)の財(ザイ)を計(カゾ)うるが如(ゴト)し。

 時は矢のように過ぎ、学ぶべき若い日々もまた、すぐに通り過ぎてしまうので、感受性豊かで心を自由に遊ばせられる時期を大切にして、たくさん読書しましょう。
 怠らず勉強しましょう。
 眠いからといって自分を甘やかさず、「ここまでやろう」と決めたなら、何時になってもやり抜きましょう。
 若い頃は、多少の寝不足など問題ではありません。
 ゲームなどでダラダラと時間を費やしただけの寝不足は人生の浪費ですが、勉強して活性化された脳は、一時的な寝不足など吹き飛ばす力をつけているものです。
 また、お腹がすいたからといって、すぐに、おいしい夜食に飛びつくと集中力や緊張感がなくなってだらけてしまいがちです。
 満腹の安心感から眠くなりもします。
 やり始めたなら、一気にやり抜きましょう。

 さて、せっかく導いてくれるにめぐり会っても、その人から学ぼうとしなければ、智慧や知識などを与えるではなく、それぞれ自分のことに勤しんでいる普通の人々との出会いと変わりありません。
 求めなければ得られないのです。
 これではもったいないですね。
 学ぶ意欲や感じとる心の新鮮さがあれば、人も本も風もネコも皆、魂の糧を与えてくれるになりますが、ボーッとしているだけでは、周囲の環境は無関係な景色でしかなく、魂は活き活きしません。
「この人は何か凄い。高い。接すると心の霧が晴れるようだ」
と感じたならば、どんどん質問し、どんどん吸収しましょう。
 そして、自分の知性と感性でそれをよくかみ砕いてみましょう。
 そもそも、「学ぶ」とは吸収すること、「習う」とは、復習し心の血肉にすることです。
 そうしないと、走っている乗り物の窓から漫然と景色を眺めているようなもので、せっかくの佳さがなかなか心に残りません。
 たとえ5分でも、心を澄ませながら歩いて眺めた風景は、長く印象をとどめるものです。
 せっかく教えてもらっても、復習しなければ「隣の人の財産をあれこれ勘定してみる」ように、実際の役に立ちません。

 ちなみに、孔子様は言われました。

「学(マナ)びて思(オモ)わざれば、すなわち罔(クラ)し。
 思(オモ)いて学(マナ)ばざれば、すなわち殆(アヤウ))し」

 学ぶのは、情報を取りこむことです。
 思うのは、道理に合わせ、感性もはたらかせながら考えてみることです。
 せっかくたくさんの情報を集めても、それを心で整理し、正邪善悪などの判断によって取捨選択しなければ情報は役に立たず、場合によっては混乱や失敗を招く原因にすらなりかねません。
 その反対に、あれこれ考えてばかりいて、良き情報や新たな情報を取りこむ姿勢がないと、独りよがりになったり、とり残されたりしかねません。
 現代人は「情報化社会」と言われるほど情報にあふれた環境に住んでいます。
「学ぶ」、「思う」両方のバランスをとってこそ、自分を向上させながら過たず人生を歩めるのではないでしょうか。

 を大切にして学習し、自分でよくよく復習しましょう。

〈水子地蔵様〉
2212122 006




「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
11.20

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その8) ─後悔先に立たず─

 かつては寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教童子教』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

8 後悔先に立たず

四大(シダイ)、日々(ヒビ)に衰(オトロ)え、
心神(シンシン)、夜々(ヤヤ)に暗(クラ)し。
幼(イトケナ)き時(トキ)、勤(ツト)め学(マナ)ばずんば、
(オ)いて後(ノチ)、恨(ウラ)み悔(ク)ゆると雖(イエド)も、
尚(ナオ)所益(ショエキ)有(ア)ること無(ナ)し。
故(カルガユエ)に書(ショ)を読(ヨ)んで倦(ウ)むこと勿(ナカ)れ。
学文(ガクモン)に怠(オコタ)る時(トキ)勿(ナカ)れ。

 四大とは、地・水・火・風を指します。
 その徳により私たちの身体は固い骨格、流れる血液、ほどよい体温、続く呼吸が保たれて生きています。
 しかし、年齢を重ねると共に、いずれのはたらきも衰えます。
 いるのです。
 同時に、根気が続かなくなり、気力もだんだん弱くなります。
 こうして年をとってから「あの頃、もっと勉強しておけば良かった」と後悔しても、時間は逆戻りできません。
 過去についてあれこれ愚癡を言っても役に立ちません。
 だから、本を読み、基礎的な勉強をすべき時期には、嫌がらず、飽きず、怠らず、しっかり勉強しておくことです。

 子供の頃は、お年寄りの体調や気持はなかなかわからないものです。
 成長過程にあって、「いた自分」をなかなか創造できないのは当然です。
 だから、お年寄りは自分のありのままを見せて、
「年をとると、あれをしておけば良かった……、これをしておかなかったばっかりに……、といろいろ後悔する。
 こういう風に弱くなってからでは、もう、間に合わない。
 元気なうちにしっかり学び、身体の成長と一緒に心も成長させておかないと、まっとうな大人になれないよ
と諭す必用があります。
 それが、〈やりたいこと〉と〈やらねばならないこと〉のバランスのとり方を考えさせ、耐えて結果を出す喜びを覚えさせる指導にも結びつきます。

 人生の成功者となった有名人は、多くの場合、「やりたいことを貫いた」と言いがちです。
 もちろん、その道のりが桁外れの忍耐と共にあったことも話すのですが、一つまちがうと、子供たちに「自分の好きなことをやれば良いんだ」との偏ったイメージを与えてしまいます。
 ほとんどの人々は、悪事を少なく、良いことを多く行おうとしつつ、ほどほどの人生を歩みます。
 歩みが大きく人の道からそれないために必用なのが基礎的学力であり、基礎的素養です。
 それは、与えられ、指導され、習慣づけられてこそ、身につきます。
 たとえあまりやりたくない勉強でも、やるべき時期にやっておいた場合と、精進せず、我欲や自己中心の気持ばかりを育ててしまった場合とでは、天と地の違いになることを知っている大人は、しっかり導かねばなりません。

 あとから後悔するのは、本人ばかりではなく、育てた大人も同じであることを肝に銘じておきたいものです。

〈寒気の中でも粛々と続く営み〉
211116 003




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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