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2011
08.02

仏壇はなぜ必要か ─仏壇は位牌の箱ではありません─

 文字通り功成り名遂げた男性Aさんが人生相談に来山されました。
「小さな仏様を置いて手を合わせているのですが、最近、仏壇が欲しくなりました。
 身近な人からは仏壇なんか置くもんじゃないよと言われたりして迷っています。
 どうしたものでしょうか」
 髪はやや白くなったものの、目には自信にあふれた光が湛えられ顎の線が太くくっきりとしている意志の人が真剣に訊ねられました。

 仏壇が小さなおであることはほとんど知られていない真実です。
 仏壇へ最初にお祀りするのは位牌ではなく、何よりもまずご本尊様でなければならないこともあまり認識されていません。
 ご本尊様がおられればこそ位牌をよりしろとする御霊も家族親族もお守りいただけるのですが、仏壇位牌の箱であるという感覚の方が結構おられるのではないでしょうか。

 院にはご本尊様としてのみ仏がおられ、同時に教えと救いがあり、それらを守る人々もいます。
 仏法僧三宝です。
 同じく仏壇には導き手としてのご本尊様がおられ、教えと救いがあり、それによって仏壇の中に納まる位牌を頼る御霊も、仏壇の外で手を合わせ、守ろうとする人々も救われるのです。

 最近はとてもシンプルな造りの仏壇が多くなり、ご本尊様がおられる最上壇と位牌が置かれる次の壇、そして仏器などが置かれる次の壇の区別もなくなってきたので、こうした真実が忘れ去られようとしている感があります。
 仏壇を荘厳するのは、単に〈そうすることになっているから〉でなく、〈そうしておかないと心配だから〉でなく、見栄やはったりのためではありません。
 院の本堂でご本尊様の周囲を飾り、六種供養などをもってご供養するのは、見栄やはったりのためではありません。
 一身を抛(ナゲウ)ってご本尊様へ尽くす行者としての僧侶も、院を守り救われたいご縁の方々も、至高のご本尊様を、拝む心に応じた形でお祀りしたいという真情に応える形が考えられ、伝えられてきました。
 経典には、ご本尊様のお姿も、ご本尊様がおられる仏国土のご様子も説かれており、それに準じて院が造られ、仏壇が造られてきました。

 たとえシンプルな仏壇であっても「ここはおだ」という意識を持ち、、「ありがたい」と思う心で、できる限りのことを行いましょう。
 おみやげを買って帰り親へ渡す時に、自分が床の間に座って親を入り口近くに座らせる人はいないでしょう。
 それと同じです。
 尊いものを高くしよう、さまざまなもので供養しようとするのは、自然ですなおな心のはたらきです。

「すばらしいご縁の時が来ましたね。
 ぜひお仏壇をご用意ください。
 貴方は今、拝んでいるみ仏のために小さなお寺を建てようとしておられるのです。
 お仏壇のご本尊様はどなたでなければならないというものではなく、信じるみ仏をお祀りすることが大切です。
 信心しているみ仏のためにお寺を建てようというのは理想的な成り行きです。
 より、まごころに添った形でみ仏を守り、み仏に守られる清浄で安心な日々をお過ごしください」
 Aさんの緊張がゆるみ穏やかな気配が顔中に広がり、これで安心しましたという言葉が口から出ました。
 Aさんは今、身体も言葉も心も、み仏そのものです。
 この瞬間に立ち会えるのは、行者にとって何よりのご褒美です。
 Aさん、ありがとうございました。

20110802 0101



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2007
02.24

ブームの怪

 ゼネコンの役員さんがご来山されました。
 あちこちのお寺へ行くと、住職から決まって聞かされるのが「若い人たちが来ない」「お墓の後継者が減っている」というぼやきだといいます。
“なるほど。それで、皆さんどうしているんだろう?”
 あるいは有益なヒントがあろうかと勝手な期待をしつつ、次の言葉を待ちました。
 とにかく自分の修行と法務で精一杯の毎日なので、情報は大変ありがたいのです。
 ところが、貫禄十分な役員さんのにこやかな表情と一緒に口から出た言葉には愕然としました。
「どこのお寺さんも、今のうちに本堂を建て替えたり改修工事をしておきたいということで、ちょっとしたブームになっています」

 若い人たちが教えと法に惹かれて足を運ぶようにするのではなく、檀家さんがあるうちにご喜捨を募って建物を立派にしておこうというのです。
 これではまるで、老舗のお菓子屋さんの常連客が減ったからといって商品に改良を加えるのではなく、借金して店舗改装をするようなものです。
 建物は残っても商売が廃れればおしまいではありませんか。
“本当にそんなことがあるのだろうか?”
 どうにも腑に落ちず、釈然としません。
 壇信徒の数が増え続けている当山は、特別なことをしているわけではないからです。

 たとえば、ご葬儀のおりに、戒名の意義やお線香を捧げてご供養する意味などを欠かさずお話し申し上げますが、こんなことは住職なら誰でも知っているはずであり、仏法においては基本中の基本に関する法話です。
 いやしくも衣をまとっているプロに不可能な仕事ではありません。
 しかし、それが乾いた布が水を吸うようにご縁の方々の心にしみ込みむものす。
 昨日も、すべてが終わってから、お祖母さんを失った若いご夫婦に改まってお礼を言われました。
「この二日間は自分たちの人生にとってとても有意義な日になりました。
 これまでは、お墓参りをしても戒名の意味は解らないし、お墓に向かって手を合わせても自分は一体何をしているのか、明確に意識できなかったからです。
 どういう心で手を合わせるのが供養なのか、はっきり解りました。
 これからはご先祖様がつくってくださった修行の機会を生かして行こうと思います」
 こんな時は心の底からありがたく、み仏と御霊と目の前にいる方へ合掌してしまいます。

 若い人たちは決して仏神に無関心なのではなく、きっと、“そうか!”“ああ、ありがたい”と納得でき、感謝する機会が少ないのでしょう。
 そうした体験をしていただくために必要なのは、皆さんにとって必要な教えを理解しやすくお話し申し上げ、求める方へはご加護をいただけるよう法力をもって祈れば良いだけのことです。
 それは、運転手さんが安全運転をし、新聞配達さんがきちんと郵便物を届け、八百屋さんが新鮮な野菜を提供してくださるのと同じく、プロとして生きる以上、当然な範囲でしかありません。
 これからも、仏法への信頼を取り戻すため、微力をもって法務に邁進します。




2005
08.02

生前に建てる寿陵墓って、本当に縁起の良いものですか?

 寿陵墓が完成し一年経って亡くなられたご当主様のご家族から
「早く造って準備をしてしまったようで………」
と率直な感想をお聞かせいただたことは、他のページに記しました。
 直後は無念さからそんなことを考えて迷ったご家族も、今は、思い通りのお墓で眠っているのだから安心しているに違いないと納得しておられます。

 最近、お別れ会を終えてから当山のご縁になったご遺族が述懐されました。
「葬儀屋さんが、とにかくご主人の実家と同じ宗派のお坊さんを呼びますよと言うのですが、『どういう活動をしているお寺なのか知らないし、住職に会ったこともなく、どんな人柄かも判らないで大事を任せることはできません』と断りました。
 失礼かも知れませんが、じっくり選んで良かったと思います」
 当山では、いつも「お墓選びはお寺選びです」「お寺を選ぶには、とにかく住職と会って人生の大事を相談してみてください」と申し上げています。
 魂は不滅です。
 お寺も生きてはたらいています。
 寺はいかなる方法で何をめざしているか、どんな修法が行なわれているか、総指揮をとる住職は何を理想としいかなる人柄でどんな生活を送っているか、よく観て魂の交感があるかどうかで判断すればまちがいありません。
 石屋さんは異口同音に言われます。
「お寺と縁になると後が大変だからとお寺と縁を結ばずに済む公営墓地を利用する方が激増しています。
 仙台の人には、全国的に見てもすさまじい公営墓地志向があります」
 法をもってこの世とあの世の区切りをきちっとつけられない御霊が増えているのはまことに残念です。
 これからの日本が心配でもあります。
 お寺が怠慢・傲慢でお寺離れが進んでいることは、私たち僧侶が強く自戒せなばなりませんが、皆さんにも選ぶ努力をしていただきたいと強く願っています。
 公営墓地を持たれても、おりおりの供養はぜひしっかりと続けていただきたいものだと願っています。
 御霊は安心してこそ家族と子孫と郷土と日本の守護霊となられるのであって、御霊が迷ったままでは、あの世もこの世も極楽にはなりません。

 さて、主題の寿陵墓です。
 ここまで読まれた方は、お寺を選ぶのと同じく、お墓についても、じっくりと判断することの大切さがお解りでしょうが、以前記した文章を転載し、まとめとします。

 よくあるご質問の一つに「生前にお墓を建てると早くあの世に連れて行かれるようで………。」というものがあります。
 寿陵墓(ジュリョウボ)は縁起が悪いなどと説く有名人もいるようです。
 もし、そうであるならば、なぜ生前に造るお墓を寿陵墓と縁起の良い名で呼ぶのでしょうか。
 なぜ、聖徳太子が率先してお造りになられたのでしょうか。
 この慣習はインドに発し、多くの教典と同じように中国を経て奈良時代に日本へ入りました。
 仏教の伝来と期を一にしています。
 寿陵墓の一番の価値は、何よりも建てる人の「心が定まる」ことです。
 自分を導いて欲しいと思う信頼できるお寺を選び、気に入った場所を選び、天地の理に即していて、み仏のご加護をいただくにふさわしい形などを決め、自分のいのちの終末をしっかり見すえるわけですから、もう、あの世の安心は確保されたようなものです。
 当山は、寺院は「この世の幸せとあの世の安心」を得られる場でなければならないと考えていますが、寿陵墓を建てるのは、その意味で半分を成就するようなものです。

 また、もう一つの価値は、お墓はみ仏のご加護をはっきりと受ける場ですから、お墓を造りみ仏に降りていただけば、御霊も今生きている人々も子々孫々もお守りいただく一族の聖地ができるということです。お詣りをすれば、そこに先亡の方のお骨があろうとなかろうと、いつでもみ仏のご加護が受けられます。
 何とすばらしいことでしょうか。
 あるいは、現実的な面としては、お墓は御霊の家ですから、この世の家を建てるのと同じくあの世のための永遠の家も建ててしまえば、自分が安心なだけでなく、後に続く人たちへも大きな安心を与えることになります。
 また、「あのお祖父さんのようになりたいなあ」などと思うご先祖様のおられるお墓が遠かったりした場合、寿陵墓として近くに建てたお墓に分骨してお祀りすれば、いつでもご供養し、お導きいただけます。
 それに、不慮の事態になればどなたも心に大きな波が立つわけですから、そうした状況にあって限られた時間の中でバタバタとことを進めるのはいかがなものでしょうか。
 建墓は、御霊だけでなく建てる人にとっても一生の一大事であり、子々孫々に関わることです。
 ゆとりをもってじっくりと構想を練り上げて建てるべきではないでしょうか。
 お墓は、ただただドタダタと流されず、誤った観念や怖がらせるだけのタブーに惑わされず、根本の理を考えて造っていただきたいものです。





2005
07.12

憎しみを離れた人

 釈尊は、善悪を厳しく分けて悪の生む地獄をくり返し説かれ、何としても人々を善行へ導こうとしてされましたが、その教えに、悪行をなした人を憎む表現はまったくありません。
 いつも、憐れんでおられます。
 それはきっと、ご自身が自分以外の人を悲しませ、辛い思いをさせ、傷つけずにはいられない人間だったという「俗世の時代」をしっかりと見つめておられたからでしょう。
 たとえば、立場を捨てて修行者となった時、何としても部族長の後を継がせたかった父親や周囲の人々がどんなに悲しんだかは、容易に想像がつきます。
 後継者を失うのは、いかなる道にある人にとっても最大の悲嘆・落胆を招くはずです。
 それは、お大師様も同じでした。
 まさに神童で「とうと(貴)もの」とまで呼ばれ、立身出世して一族を率いて欲しいという人々の願いを振り切って一行者となりました。
 釈尊と同じ道を通られたのです。

 お二人が常人と違うのは、究極まで研鑽し結果的に聖者となって人々を喜ばせ、納得させたことですが、その過程で「愛別離苦(アイベツリク…愛する者と別れる苦しみ)」に泣いた人たちが確かにいたはずです。

 苦を与え、与えられ、心で涙した体験をしっかりふまえ、人は誰であれ他へ苦しみを与えずにはいられない存在であるという宿命を見つめておられたからこそ、憎しみを離れ慈悲のみの存在となられたのでしょう。
 宿命を克服されたのです。

 経典は「最も大切なのは、自分自身の心の底を知ることである」と説いています。
 誰の「心の底」にも必ず「み仏の心」があるのですが、そこへ到達するには、自分自身がいかなる行動をしているか、いかなることを口にしているか、いかなることを思っているかを直視せねばなりません。
 そうして、いわば「表面に現れている自分」をちゃんと知ることができれば、自ずから「どう生きれば良いか?」と道を求める心が起こります。苦を与え与えられる世界を脱する入り口に立てるのです。

 なかなかその入り口に立てない時は、お寺の門をたたいてください。
 皆さんより一足先に門をくぐり少し先を歩いている人が、蛍の明かりのように見えることでしょう。




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