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2016
11.08

ツワブキとの初対面

 ツワブキがどういう花なのかをようやく知った。
 開ききった小さな菊花で、土手の目立たないあたり、あるいは、やや日陰になって他の華やかな花たちが見当たらないような場所で、ひっそりと咲いている。
 華奢な花弁の割には広葉樹のようにしっかりした濃緑色の葉をもっており、目を奪われた。

 昭和62年、小椋佳の作詞作曲による『流氷の街』が渡哲也の唄で巷に流れた。
 確か、テレビドラマの主題歌か挿入歌だったと思う。
 そのドラマを観たことはなかったが、いつしか、もろもろの問題で苦吟する者の耳の底に居ついた。

流氷の街の 片隅で
 心にしみ込む 優しさは
 涙おく 露草か
 ひそやかな ひとよ

 すまじきは恋の 戯れか
 心のなごみの 華やぎも
 ひとむれの つわぶきか
 隠れ咲く 花よ」

 小椋佳が言わんとするところは想像がついても、花そのものがいなかる姿をしているか、調べないままに約30年の月日が流れた。
 今回の四国遍路を迎える準備中、不思議とこの歌がよみがえった。
 そして、“この哀しみは何だろう?”と訝る思いを持ったまま飛行機に乗った。

最初に訪れた鶴林寺の参道で小さく黄色な花を見つけ、同行のご婦人方に訊ねた。
「何という花でしょうか?」
 そして、あっけない初対面となった。

 その慎ましさに涙を感じた。
 “小椋佳はいかなる思いでこの花を眺めたのだろう?”
 大ぶりでしっかりした葉にも唸らされた。
 食用にもなると聞き、今度は深く頷かせられた。
 あの歌の主人公が流氷の街で出会った女性のイメージは、霧の去った朝に存在感を増す風景と同じく、鮮明になった。

 知ってしまったせいで、よく目に入るのだろう。
 行く先々の札所で、ツワブキたちが出迎えてくれた。
 ポンと孤独に咲いているものもあり、群れているものもある。
 心で挨拶をしながら本堂へ向かう。
 祈りは確実に深まった。

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2013
11.07

橋本武著『一生役立つ学ぶ力』を読む(その2)─美人は遅れて暮れる─

DSC00020.jpg

 今日は「水はじめて氷る、地はじめて凍る」立冬です。
 30度を超えた夏の印象が、そして扇風機のある光景がまだ記憶からほんとんど薄れないまま、とうとう、冬支度となりました。
 故橋本武先生が100才で語り下ろした教育論を読み進めましょう。 

 氏は読書を出発点とし、次は書かせ、そして、よく考えるところまで導く。

「わからなくても読み通してさえおけば、次に細かく見ていくときに必ず役に立つ。」
「考える力を付けるためにゆっくりじっくり一冊の本を読みこむ。
 それと同時に、人の生き方、あり方の幅を知るために、まるべく多くの本を読む。
 この両輪がそろってはじめて、『真に国語力を養う読み方』と言うことになるのです。」


 文字の奧へ広がる世界を感得するためには、熟読が欠かせない。
 たとえば、「美人遅暮(ビジンチボ…美人は遅れて暮れる)」という言葉がある。
 美人は周囲の女性たちよりも長く美しさを保ち、遅れて老けるという意味だが、中国の詩人屈原(クツゲン)はこう詠んだ。

「日月は忽(コツ…たちまち)として留まらず、春と秋と、それ代わり序(ツ…続くものの糸口となる)ぎて、ああ、草木は零落(レイラク)す。
 恐ろしきは、美人の遅れて暮れんこと。」


(時はたちまちにして過ぎゆき、春がくれば秋が来て、季節はいつも続く季節の序章となり、草木は変化の中で滅んで行く。
 恐ろしいのは、心根の佳き人が雑事に気を取られ、周囲が変化しても気づかず、ずれた人になってしまうことだ)
 憂国の詩人屈原は、楚の国が滅ぶ前夜、入水した。
 この一句は、大国秦に翻弄され、権謀術数(ケンボウジュッスウ…はかりごとを巡らすこと)の戦いに乗り切れず、真情を保ったままで滅び行く人々の思いを詠んだものと思われる。
 いつの時代も、〈うまくやれない心麗しき人々〉はいる。

 一方、魯迅はこう詠んだ。

「私は、あの、去って行った、悲しいとりとめもない青春を追い求めたい。
 だがそれは身の外にでもよい。
 というのは、身の外の青春まで消えたなら、私の中の遅暮も凋(シボ)んでしまうからだ。」


 魯迅は、若い人々を眺め、自分の胸にある歳不相応な残り火を確認している。
 それができるのは、明々(アカアカ)と松明(タイマツ)を掲げる人々や、文字どおり遅春を生きている人々がいるからであって、もしも枯れ野に立つならば、残り火はたちまち消え去ってしまうことだろう。

 故橋本武先生は、還暦を過ぎてから宝塚歌劇のファンになり、「病気で見に行けなくなるまでの20年間中、月に何十回、年間150回、ほぼ2日に一度は見たという年も」あったほど熱中された。
 魯迅に相通ずる面がおありになったのだろうか。

 小椋佳氏は『しおさいの詩』にこう書いている。

「汐さいの浜の岩かげに立って
 汐さいの砂に涙を捨てて
 思いきり呼んでみたい 果てしない海へ
 消えた僕の 若い力 呼んでみたい

 青春の夢にあこがれもせずに
 青春の光を追いかけもせずに
 流れていった時よ 果てしない海へ
 消えた僕の 若い力 呼んでみたい

 恋でもいい 何でもいい
 他の全てを捨てられる 激しいものが欲しかった

 汐さいの浜の岩かげに立って
 汐さいの砂に涙を捨てて
 思いきり叫んでみたい 果てしない海へ
 消えた僕の 若い力 呼んでみたい」


 氏の青春はそもそも、残り火のようなものだったのだろうか。
 人ではなく海へ向く希求の思いは叶うのだろうか。
 それとも、氏は青春時代の〈もどかしいような飢渇感〉を失ってはいないのだろうか。
 ならば、69才の氏もまた、「遅暮」のまっただ中におられるのかも知れない。
 
 今はアンチエイジングのかけ声が昼夜を問わず鳴り響き、老いた人が若さを競い合う時代になった。
 そうであればこそ、老化の激流に逆らう「遅暮」とは何であるか、いったい何を目的として「遅暮」へ精力を注いでいるのか、立ち止まって考えてみたい。
 熟読は、明らかに、その手助けとなる。

 ただし、それだけではなく、多様な人生や万華鏡のように変化する心に想いをいたし、心を広く深いものにするための多読も欠かせない。
 深い井戸の水にも、流れる河の水にも、それぞれの味わいがあるように、熟読と多読が双方そろって初めて、読書は人生に対する真の力を発揮するのだろう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2010
02.18

3月の俳句

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。
 妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

晩年の逃げ足早き二月かな

 二月は二十八日しかなく、ちょうど四週間経つと、もう翌月になってしまう。
 あっという間に去る二月は、確かに、逃げ足が早い。
 晩年になると自然に動きが遅くなるので、それほどのことをやらなくても一日は〈早く〉なる。
 逃げ足は一層、強く感じられる。

明日も咲く力を見せてシクラメン

 シクラメンは形にも色にも、必ずどこかに微妙で不思議な変化を含んでいる。
 この「一ひねり」はいかなる造化の神がなせるわざか、と思わせる。
 多様性は、それを生む力を予想させる。
 群れて咲いている様子は頼もしくもある。
 作者は陽の面に励まされている。

蕾抱き水仙の葉のしたたかに

 水仙の葉は密集して茎を取り囲み、強く立つ。
 蕾はまぎれもなく守られている。
 それは母親のしたたかさか。
 こう指摘されてみると、色の濃さもシルエットの鋭さも一段と際立ってイメージされる。
「勁(ツヨ)い」が「莖(クキ)」に通じる事情は理解できる。

水仙に今年の寒さ春遅し

 水仙は緑色のままで風に震えている。
 蕾は見えているが、この寒さではいつ開くことやら、見当もつかない。
 立春とはいうものの、春の実感はあまりに遠すぎる。
 秋の桔梗は五枚、水仙は六枚だが花の形は似ていて葉の勢いは全く違う。
 陽と陰なのだろうか。

春立つ日足はおのづと花屋かな

「春」と聞けば「花」である。
 時を待って咲く花を買いにゆくのは自然なことであり、「おのづと」足は動く。
 季候と心と自然は連動している。
 連動の中にある心が俳句を生む。
 心が連動から離れて俳句が詠めなくなれば、それは枯渇であり、死に近いのではないか。

冬見舞筆すすまぬに昏(クレ)かかる

 寒中見舞は、寒の入り(一月五日頃)から節分までの間に投函する。
「風邪をひかないように」と相手を労る自分も寒さに縮こまっている。
 同じく寒い時期に出す年賀状には新年への希望があるが、寒中見舞には「もう少し」というガマンがある。
 筆は進みにくい。

黄昏(タソガレ)の雲飛ぶ空や風花(カザハナ)す

 雲は飛んでいても、ちっとも雪雲らしくないのに、チラリチラリと雪片が舞い降りてくる。
 風花である。
 風花を見ると散華(サンゲ)を思い出す。
 特殊な法要の際などに撒かれる花びらに見立てた色紙である。
 悪鬼神を除け、み仏を供養する花びらはヒラヒラと舞う。

寒椿蕾は色を握りしめ

 寒椿の蕾は薄緑色だが、ところどころに紅色が見え隠れしている。内側にたっぷりとある紫がかった紅色を隠しきれないのである。
「握りしめ」には思わず手を握らされた。
 内側からはじけようとしている力を「まだ早い」と抑えている固い蕾が乗り移ってきた。

寒明ける花無き庭に風走る

 立春となり寒の時期は去った。
 しかし、まだ凍えさせられるような寒気は去らず庭には花もない。
 そこを一陣の風が走り抜ける。
 それは冬の風なのか、それとも春の風なのかよく判らない。
 もう、土用ではないが、気候がはっきりと移る前の陰陽の交錯がある。

ひとり言聞いてほしくてシクラメン

 小椋佳シクラメンを「清しい」、「まぶしい」、「淋しい」花と詠んだ。
 いずれも、情を強く喚起されている表現である。
 シクラメンは、そこに「在(ア)って」、そこに「居る」ように思わせる花だ。
 格好の話し相手になれる資格がある。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2009
11.15

故夢慧氏の追討DVDコンサートを行いました

 11月14日、午後2時k10月11日に逝去された夢慧氏の追討DVDコンサートを行いました。
 鑑賞したのは最期の作品となったアルバム「聖山を行く」です。
 万葉集の中から花・恋・抒情・里をテーマにした作品に曲をつけました。
 画像は高野山・熊野・吉野・四国の仏像と風景です。

 最初の曲「橘」は合掌瞑目して聞きました。
「ほととぎす 花橘の 枝に居て
 鳴き響(トヨ)もせば 花は散りつつ
 風に散る 花橘を 袖に受けて
 君がみあとと 偲びつるかも
 あしひきの 山橘の 色に出でよ
 語らひ継ぎて 逢うこともあらむ」
(橘の枝にいて盛んに鳴くほととぎすの声へ合わせるかのように、橘の花が散ってゆく。
 風に散る花を袖に受けて、もう会えない君を偲ぶきっかけにしようか。
 山橘の鮮やかな赤色のように思いを表面に出そうか。
 そうすれば話題が広まり、逢う機会ができるかも知れない)

 全10曲の最後は写真家櫻井恵武氏の作詩による「うつりゆくまま」です。
 そして、平成20年6月29日に新橋ヤクルトホールで行われた「第三回 夢慧 日本を謳う」から冒頭の3曲を鑑賞しました。
 当時64歳でおられたとはとても思えない精気に満ちた演奏で、4月26日に当山で行ってくださった「 夢慧 抒情歌を唄う ━寺子屋チャリティコンサート━」のシーンがダブって見えました。
 逝去後数日して奥さんから「法楽寺で唄えなくて残念です」との故人の言葉をお聞かせいただいたことを思い出し、12月12日に(土)開講する寺子屋において、夢慧氏の表現しようとした抒情の大切さも伝えてゆこうと決意を新たにしました。


 コンサート後は、佐藤さんと里佳さんが腕によりをかけた軽食をいただきました。
 パンや紅茶やコーヒーのあまりのおいしさに、皆さん、びっくり仰天でした。
 松の木と葉で茶葉をいぶしたラプサンスーチョンも絶品でした。

 今後、「ラジオ番組にリクエストしよう」などど語り合いました。
 小椋佳氏が絶賛した夢慧氏の曲想や表現力のすばらしさは、まだまだ広く知られてはいません。
 決して喉先でごまかさず、すべての音を勁い糸のように発して妥協しない歌唱法は、私たち僧侶にとっても永遠の模範となるものです。
 これからも、おりにふれて鑑賞会を催してゆきたいものです。
 そして、寺子屋を見守っていただきたいと願っています。

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〈クリームチーズのホカッチャサンド、プレーンスコーンのブルーベリジャム・クリーム添え、抹茶のケーキ小豆と生クリーム添え〉
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〈仏前にも供えられました〉
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「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。





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2008
01.28

『君と遊ぶ時』余話

 毎日欠かさず聴いている夢慧氏の唄う『君と遊ぶ時』の歌詞に疑問を感じて連絡してみました。
 何しろ作詞作曲が小椋佳氏なので一瞬どうしようかと思いましたが、こちらは仏法のプロであり、疑問は解消しておかねばなりません。
 それはこんな内容です。
 七番まである歌詞のそれぞれに、お大師様が説かれた「六大」である地・水・火・風・空・識が配されています。
 ところが、最初の「地」が「土」になっており、通常、「土」を使うのは木・火・土・金・水の「五行」なので不思議に思ったのです。
 夢慧氏の事務所へ問い合わせたところ、思いがけず、写真家の櫻井恵武氏から連絡がありました。
「小椋さんに聞いたら、メモをする時に書き間違っただけだから、訂正しますとのことでしたよ」
 そして、この名曲の誕生について教えていただくという幸運を得ました。

 櫻井氏と小椋氏はかねての知り合いで、ある日、一緒に高野山へ参詣しました。
 二十万基とも二十五万基とも言われている奥の院の墓所を訪ね、五輪之塔がある一番基のところへ至った時、歌詞とメロディが一緒に口から流れ出ました。
 きっと小椋氏へ霊気がはたらきかけたのでしょう。それをメモし、関係者へ渡したそうです。
 
 これほどの歌が一挙にできてしまうとは、まさに神業です。
 天才といってしまえばそれまでですが、凡人としては、呆気にとられるしかありません。
 荻生徂来の言葉を思い出しました。
「物の形なき者に至りては、すなわち常人の睹(み)ること能(あた)わざる所の者にして、聖人これを立ててこれに名づく、然(しか)るのち常人といへども見てこれを識(し)るべきなり」
(真実世界は、常人に感得し難い。聖人は、それを言葉に表現する。そうして創られた言葉により、常人にも真実世界を感得できる道が開かれる)
 小椋氏は、きっと「名づく人」すなわち聖人なのでしょう。

 この歌が収録されているCD「千の風になって ~夢慧日本を謳う~」にあるもう一つの名曲「風を観つめて(おへんろまんだら)」を絶賛したところ、櫻井氏は、サラリと言いました。
「ありがとうございます。あの歌は、やはり、私と一緒にいた時に夢慧さんが作詞作曲したものです。私の意見も入っているようです」

 こうした成り行きもあって、瓢箪から駒が出ました(!)。
 4月26日(土)、『守本尊道場』建立予定地において、夢慧氏が建立に向けてのチャリティコンサートをしてくださる予定です。
 詳細は追って発表しますので、関心がある方はご覧ください。

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