
〈キリシタン灯籠〉
おかげさまにて、四国の霊場を25カ寺、予定通り巡拝し終えました。
雨も風もありましたが、前回のような嵐には遭わず、60代から70代の男女7名はそれぞれの目的を達しました。
お大師様をはじめ仏神のご加護と有縁無縁の方々の善心とが、強い悪縁を避け、弱りつつある足腰をお支えくださいました。
感謝にたえません。
48番札所西林寺では、考えごとをしているうちに車の中へ頭陀袋(ズダブクロ…托鉢などで首に懸ける袋))を置き忘れ、せっかく納経所に並んでいる運転手の滑田(ナメタ)さんを列から外させるわけにもゆかず、心でお線香やおローソクを捧げました。
情けなく、申しわけない気持でいたところ、帰り際、滑田さんから教えられました。
「納経所の横におられる福授地蔵様は、願い事をお聞き届けくださることで有名です。
ただし、願いは1つだけしか懸けられませんから、くれぐれも欲張られませんよう」
もちろん全員が、池の中に立つお地蔵様へとつながる橋の前に並びました。
引け目を感じている小生は、「さあ、誰の何を願うんでしょうか?」などと軽口を叩きながら最後尾につきました。
結局、忘れた不始末をお詫びして、何とか最後まで役割を果たさせてくださいと祈るしかありませんでした。
46番札所浄瑠璃寺では、ご本尊薬師如来様の前に立ったところ、早朝でまだ参拝者もほとんどいないのに、大きな屋根の下に集う無数の人々の気配を感じて鳥肌が立ちました。
〝これはどうしたことだろう?〟
畏怖の念を抱きながら大師堂へ向かったら、「抱っこ大師」がおられました。
幼少時のお大師様に擬した小さな木彫りのお像で、皆さんがいなくなってからこっそり抱っこしたところ、妙にしっくり来るではありませんか。
男女それぞれ、肉体的にだけでなく精神的にも特性があり、男性原理、女性原理という言葉もありますが、男女共に、精神的には両性の要素を持っているようです。
その比率には当然、個人差があって、その人らしさが形づくられています。
抱っこ大師は、女性に母性を意識させるだけでなく、男性からも隠された善き女性的何ものかを引き出してくれるのでしょうか。
帰山してから調べたところ、江戸時代、地元の庄屋が托鉢僧堯音となって全国から寄進を募り、山火事で消失した伽藍を再興したと知り、二度、鳥肌が立ちました。
そういえば、飛行機に備え付けられた雑誌に、競馬馬を指導する調教師の話が載っていました。
牡馬は自己主張が強くてよく抵抗するが、嫌なことをすぐに忘れてくれる一方、牝馬は嫌なことをよく覚えているから慎重につき合わねばならないと書いてありました。
隣に座ったAさんにこのことを伝えたら、「私は牡馬ね」と大笑いになり、妙に納得したものでした。
最後の53番札所円明寺では、ご本尊の阿弥陀様とすっかり感応してしまい、声明(ショウミョウ)からすぐに阿弥陀様の真言に入り、たった3度ですが存分に唱え終わって振り向いたところ、皆さんから般若心経がまだですよとお叱りを受けました。
それでも気を取り直して大師堂へ向かい、最後に九字を切って無事、行程を終えました。
「善男善女、心願成就」
帰り際に、滑田さんからキリシタン灯籠へ導かれました。
キリスト教が禁制だった時代、円明寺では事実上、キリシタンの祈りを認めていたとされています。
さすがはマンダラを説くお大師様の姿勢を受け継ぐ寺院であると感じ入りました。
途中でアメリカ大統領選挙の結果を知りました。
私たちはさまざまな観念を持ち、願いを持って生きていますが、人間の歴史と共に練られ、深められてきた普遍的な価値を伴った観念は、目先の現象を眺めているだけではつかめず、実感もできません。
移民国アメリカで培われてきた〈平等〉の思想は、公正な社会を実現するために不可欠であるにもかかわらず、目先の結果を競う方向へと強く傾斜した〈自由〉の意識に覆われつつあるように思えてなりません。
それは、資本主義体制をとる先進国各国に共通する問題です。
自由に結果を競うだけの単純な原理で世界が動けば、弱肉強食という現実の前に勝者と敗者は固定化し、勝者はより富み、増殖する敗者たちはより簒奪されて悲惨な境遇に陥ることでしょう。
これではケダモノの世界と変わりないではありませんか。
トランプ氏は叫び続けました。
「アメリカを偉大な国にする!」
それは、アメリカ人以外を除く世界中の人々にとっては、迷惑で独り善がりな意識でしかありません。
自国や自国の仲間だけが勝者であろうとするような意識を喚起する指導者には、世界中が注意せねばならないと思います。
一方、彼の最大の功績は、民主党のサンダース氏と共に、没落しつつある層の苦しみや怒りをしっかり受け止めたという点にあるのではないでしょうか。
硬直した原理だけでは公正な社会を気づきにくいという現実の前で苦闘しているフランスのオランド大統領だけは、さすがのコメントを発表しました。
「今般のアメリカ大統領選挙は不確実な時代を開きます。」
単純で俗耳に入りやすいフレーズを叫ぶ人ではなく、対立する思想や立場や利害を公正に調整できる慎重で叡智に富んだ指導者が求められていると思います。
そして、私たち一人一人もまた、そうした人を選べるよう意識を高めねば、社会の亀裂や対立を深めて行くおそれがあります。
お釈迦様は2500年前、弱肉強食から自他共に救われる道へ向かうよう説かれました。
お大師様は1200年前、個人的・歴史的人間性の深まり、高まりがどのように進んで行くか明確に説かれました。
実際に主著「十住心論(ジュウジュウシンロン)」「秘蔵宝鑰(ヒゾウホウヤク)」を読み解いた岡倉天心、菊地寛、湯川秀樹、井筒俊彦といった人々は、その真実性と価値を指摘しました。
不確実な時代に、私たちと日本が進路を誤らぬよう、45番札所岩屋寺の穴禅定では魂魄の力を込め、九字を切りました。
「天下泰平、万民富楽、不戦日本、世界平和」
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M
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前回、お遍路さんとして目立ったヨーロッパ系の方々、特に、自転車で回る若い方はほとんどいない。
多いのが僧侶に連れられた団参者だ。
女性のリーダーもいて頼もしい。
季節によって、これほど違うものかと驚く。
最大の難所とされる45番札所岩屋寺で、40代の僧侶に声をかけられた。
「どちらからですか?」
「宮城です」
即座に、震災の被害は?と返ってきた。
あちこちで幾度か一緒になった彼は三重県からやってきたらしい。
頭(ズ)が低く、自分より年上の20人ほどを巧みに率いている。
まことに好ましく思えた。
こういう人々が仏法を生かしてゆくのだろう。
さて、「修行の道場」である高知県が終わり、「菩提(ボダイ)の道場」愛媛県に入ったところで、菩提心(ボダイシン)について少々、お話をした。
お大師様が重要視されたこの言葉にはいくつもの意味がある。
要は悟りを開くことに収斂するが、それではますますわかりにくいので、小生はよく「まっとうに生きたいと願い、精進する心」と表現する。
湯川秀樹博士は、お大師様がこう願って生きた人であると指摘した。
「一日生きるとは、一歩進むことでありたい」
ならば、私たちは今回、どう一歩進もうか?
前回の巡拝では、「限られた時間内でしっかり思いを確立して歩くために、真言や御宝号を一区切りづつ丁寧に、ご本尊様とお大師様へ届けよう」と提案した。
その結果、当山のグループは他のグループとかなり、リズムの異なった唱え方をしながら歩いている。
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、~」とバンバン、重ねてやらない。
「南無大師遍照金剛━━━、南無大師遍照金剛━━━、南無大師遍照金剛━━━」
もしかすると、声をかけてきた彼は、そんなところが気になっていたのかも知れない。
プロは他のプロが自分と違うことをやっている状態にすぐ、気づく。
さて、今回はそのちょっと先へ進みたい。
たとえば、最後の「南無大師遍照金剛━━━」が終わり、声が切れた先にやってくる静寂の数秒。
この<余韻>大切にしたいのだ。
そこは無限のスピードで思いがお大師様へと通じて行く時間であり、同時に、お大師様からも無限のスピードでご加護が返ってくる時間であると思う。
また、日常生活ではほとんど望めないほど意識が深まる貴重な時間だ。
運転手の滑田(ナメタ)さんにもご協力をいただいたおかげで、本堂の前でも、大師堂の前でも、唱え終わってから次の動作へ移る直前の静寂を共有できるようになった。
静寂と言っても、周囲で物音一つしないわけではない。
大きな声でお唱えする声が周囲に満ちていようとも、息を吐ききり、無呼吸の状態となった自分の心に必ず静寂がやってくるし、それは、心を合わせて修行しているメンバーには<気配>としてわかるのだ。
今回も貴重で、生きた修行ができた。
もしかすると、息が止まったままになり、この静寂に入りきってしまえば、安寧な成仏となるのかも知れない。
○捨てられた猫
37番札所岩本寺を過ぎ、金剛福寺へ向かう途中のドライブインで、ほっそりした猫に出会った。
軒下で毛づくろいをしていたのは、白と薄茶色の若い雌猫だった。
毛足の長い背中はさっきまでの雨に濡れ、やや狐顔のまなざしは、いかにも空腹そうに見えた。
ゆっくり近づき、しゃがんで頭を撫でるとゴロゴロ言いながら身体を擦り付けてくる。
やはり、捨てられた猫なのだ。
餌になりそうな食べ物も持っていないので、「しっかり生きろよ」と声をかけてジャンボタクシーに戻ろうとしたら追いかけてくる。
かわいそうだが振り切って乗り込むのを見た彼女は、隣に停まっている白い乗用車の下へもぐり込み、長めのしっぽがするりと消えた。
それが永久の別れとなった。
車中から一部始終を眺めていたらしいAさんは言う。
「捨てるくらいなら。飼わなければいいのにねえ」
小生は応えた。
「そうですが、やむにやまれないケースもきっとあるんでしょうねえ」
昼食時に潮騒を聞きながらうどんを食べている時、彼女を思い出した。
“誰かに餌をもらっているだろうか”
宇和島駅前のホテルで夕食を食べ終える頃、一階のレストランから見える街路を急ぐ女子高生の白い傘が視界を流れ、またもや彼女を思い出した。
不憫さに胸が詰まり、言葉も詰まった。
「━━あの猫はどうしているんでしょうか……」
誰もが口をつぐんだままだった。
○現れた亀
ジョン万次郎の巨大な銅像と道路をはさんだ向かい側に、目立たぬ宝篋印塔と、それを取り囲むさほど大きくない池がある。
渡海僧の碑だ。
その昔、手漕ぎの小舟で、遥か西方にある補陀洛浄土(フダラクジョウド)を目ざす渡海が試みられた。
助手は神の遣いである亀。
一人の観光客もいない池を見つめていたら大きな野鯉が二匹、やってきて、背中を水面より高く出し、すばやくUターンした。
続いて、30センチほどもありそうな亀がゆっくりと頭を出したかと思う間もなく、水中へ没した。
あとは、どんよりと雲の垂れる空の下、暗い水面が静まり返るだけだった。
渡海僧は確かに亀と会い、亀に連れられて行くべきところへ逝ったのだろう。

〈地にあるもの〉
今は、〈マルチ〉な人間が喜ばれる時代である。
何かで名を上げれば、その人の行為は他の分野に関するものでも関心を呼び、マスコミに重宝される。
しかし、そうした人々の中には、専門分野以外のところで、いかがなものか、と思われる行為に走ってプロのプロたる土台を疑われたり、自分で破壊してしまったりするケースも散見される。
かつて、「人間探求派」と呼ばれた俳人に石田波郷(ハキョウ)がいる。
これから四国八十八霊場へでかけることを縁として、愛媛県出身の彼について少々、書いておきたい。
昭和40年2月21日、俳人石田波郷は、毎日新聞に「俳句の魅力」を発表した。
以下、抜粋を読んでみよう。
歴史的仮名遣(カナヅカイ)で書かれたもので、読みにくいかも知れないが、当時のままで引用したい。
「今日では小中学生に俳句を教へる先生は、子供たちに、自分のほんたうに歌ひたいものを、自分の言葉で歌ひなさいといふにちがひない。
俳句も詩である以上、私もこの考へは当然だと思ふが、私は形からはひつた私の入門を間違つてゐたとは思はない。
私は形からはひつたが、それゆゑに俳句形式のもつ魅力を存分に学ぶことができたし、後年、自由な詩の欲求が起こつた時にも、自分のやつてゐるものが俳句であることを決して忘れず、形をくづすことを拒んできた。
そして自らの表白の欲求によつて自らの俳句を生み出してゆく、生々たる営みを、これが生きるといふことかと思つたほどである。」
波郷は、五・七・五という韻文の形を重んじた。
切れ字がきちんとしていてこそ俳句であるとし、「歌ひたいもの」をそこに納めるべく苦闘した。
「俳句の魅力は、一口にいふと、複雑な対象を極度に単純化して、叙述を節してひと息に表現することにあると思ふ。
複雑なものは複雑ななまゝに、多元のものは多元のまゝに詠まうといふ新しい方法も今日広く行われてゐるし、その方が、現代の句法と言へるのかもしれないが、俳句独自の魅力は弱まるのではないか。」
詠みたい内容に合わせた自由な表現を否定はしないが、定まった形での表現にこそ、俳句の醍醐味があると言う。
「俳人は俳句しかないのである。
詠みたいことはすべて俳句でやるほかはない。
おびたゞしい字余りや破調、日本語本来の語法を犯す叙法も、詠みたいものがあふれてやまないからだといふ考え方にも、同じ俳人として同情はできるのである。
しかし同調はできない。」
文字どおり、血を吐くような叙述である。
誰しも、言いたいこと、言わずにいられないこと、表現したいことを抱えている。
それをどのように吐き出すかは自由だし、その気持は理解できるが、自分はプロとしての境界を破るわけには行かないと宣言している。
まったく同感である。
小生も、宗教者として最大の難問をそこに感じ、役割をまっとうできるかどうかの難関はそこにあると覚悟している。
いわゆる「分際(ブンザイ)」の問題だ。
小生のような凡人は、身の程を弁(ワキマ)えることによってしか、自分をかけた結晶体はつくれない。
「俳句表現にはたしかに限界がある。
俳句といふ詩形を破ることなく、この限界をひろげることはむづかしいかもしれないが可能である。
過度的に破調を来たすことはあつても必ず見事な完成をもたらして、俳句を前進させてきたのである。
金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎
葛城の山懐に寝釈迦かな 青畝
かういふ珠玉のやうな俳句、俳句表現の魅力を典型的にもつた句が私はたまらく好きだ。
この二句の短冊を私は宝物のやうに大切にしてゐる。」
お大師様は説かれた。
「夫(ソ)れ、仏法遥かに非(アラ)ず、心中にして、即ち近し。」
(そもそも、仏法はどこか遠くにあるのではなく、自分自身の心中にあり、身近なものである)
この一文は、般若心経の真髄を説いた「般若心経秘鍵(ヒケン)」にある。
仏教の行者は、世間に起こり自分に起こるいかなる現象についての〈解〉も、〈表現〉も、ここに求めるしかない。
さまざまな理由から非宗教な分野にそれらを求める人びとに「同情」はできる。
しかし、いかなる理由があろうとも、小生は「同調」できない。
そうして、宗教の役割の「限界」をひろげ、「前進」させて行きたい。
四国の霊場で、その力を授かりたい。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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画像処理が間に合えば、今回、巡拝した写真もお目にかけられます。
四国の霊場は、日本の宝とも言うべき〈生きた聖地〉です。
ご関心のある方はどうぞ、おでかけください。
・日時:4月9日(土)午後2時~
・場所:法楽寺講堂
・参加費:千円(中学生以下:五百円)
・送迎:午後1時30分に地下鉄泉中央駅そばの「イズミティ21」前から送迎車が出ますので、乗車を希望される方は前日午後5時までに電話(022-346-2106)などでお申し込みください。
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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