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2005
07.25

五力 6 ―念力 2 義経と常磐御前―

 夕食の準備ができテレビをつけたら『義経』の終盤、常磐御前が義経へ「人をよく観なさい。表も裏も」と言い遺して立ち去るところでした。
 遺言だなと直感し「信じる」ということについて考えていたら、間もなく場面は常磐御前の最期に変わりました。
 義経の長所も弱点も知悉していた母親は、どうしてもやっておかねばならない最後の仕事をしたのでしょう。

 人は、若いうちは容易(タヤス)く信じ、騙されるものです。
 裏切られもします。
 魂の純粋さが生(キ)のままではたらくからです。
 何度も酷い目に遭ううちに、今度は警戒心という鎧をまとうようになります。
 積んだ経験が他人を観るメガネとなり、悪意・害意から身を護る姿勢ができます。
 一方では、経験の範囲でしか、ものごとの予測ができなくなり、だんだん「~は所詮こうしたものさ」と断定的に人やものごとに当たるようになって、新たな人間関係・新たな事態の持つ新鮮な面が観えなくもなります。
 進む時代からとり残される場合もあります。

 我が身をふり返ると、若い頃は人も世間も知らずにつけ込まれ、気持を信じて走っては自分で痛手を負い、人様へも痛手を与えました。
「知らぬ」という愚かさがありました。
 しかし、痛みがそのことを教えてくれました。
 歳を重ねてからは、覚えた立ち回り方が心を汚しました。
 自己保全を言い訳とする「狡猾さ」という愚かさがカメの甲羅のように魂を覆いました。
 今度は、み仏の教えにそれを教えていただきました。
 
 傷つき、汚れ、清めながら死ぬ。これが人の定めなのでしょうか。
 常磐御前は、汚れをはねつけるほどの義経の純粋さ、汚れながら生きて行けないだろうひたむきさに早逝の危険を感じとっていたのでしょうか。
 人は何千年、何万年たっても、この苦の過程をたどらねばならないのでしょうか。

 釈尊の遺言とされる『遺教経(ユイキョウギョウ)』にある一節です。

「若(モ)し不忘念(モウネン)ある者は、諸の煩悩の賊、即ち入ること能わず。
 是故に汝等常に当に念を摂(オサ)めて心に在(オ)くべし。
 若し念を失する者は功徳を失す。
 若し念力堅強なれば、五欲の賊中に入ると雖(イエド)も、為に害せられず。
 譬えば鎧(ヨロイ)を着て陣に入れば、即ち畏るること無きが如し。是を不忘念と名づく」


「人として生きるべき道を求めよう」「人として真っ当に生きよう」という念(オモイ)をしっかり抱き続ければ、道を誤らせる魔ものたちに負けないというのです。
 魂に正しい念という鎧をまとっているのだから、どんな魔ものがいても平気だというのです。

 釈尊の説く「念」、五力の三番目「念力)とは、無邪気な純粋さでもなければ、したたかな狡猾さでもありません。
 もちろん、怪しげな人々の口にする念力などでもありません。
「人の道」を柱とする不動の決心です。

 仏神のことは、いつも「思い立ったが吉日」であり、念を定める発心(ホッシン)に早い遅いはありませんが、やはり人生の早い段階で心に柱をうち立てて欲しいと願わずにはいられません。
 より傷つかず、より汚れずに人生をまっとうして欲しいという願いは、親心の核芯でもあります。
 義経と別れる瞬間、常磐御前がふと立ち止って振り向きかけ横顔に微かに浮かべた微笑は、我が子への最後の乳だったのではないでしょうか。




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