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2015
10.08

不殺生の人はどうなるか? ―お釈迦様の約束―

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 不殺生戒を念じ、無益な殺生ができない生き方になれば、10の功徳が得られると『大集経(ダイジッキョウ)』に説かれています。

1 どのような生まれをしようと、畏れがない。

 自分の心が慈悲心にあふれていれば、それが周囲の人々に感化を及ぼし、害意を起こさせず、畏れのない平安な日々が送られる。
 しかし、お釈迦様すら二度しか戦争を止められず、故郷の釈迦族は滅ぼされた。
 個々人の善行をたやすく踏みにじる戦争という巨大な悪行はどうしても止めねばならない。

2 どのような生まれをしようと、慈悲心が輝くようになる。


 生きとし生けるものに対して無益な殺生をしないと決心すれば、心中にある仏心が生き生きとはたらき続ける。
 殺生は、貪りか怒りによって愚かな考えが生まれるところに行われる。
 殺すことができず、不殺生戒そのものになって生きれば、貪り、怒り、愚かさが消え、心の核である仏心が遮るものなくはたらく。

3 悪しき習い性を脱する。

 私たちは鉄に錆が生じるのと同じく、悪業(アクゴウ)を積まずにはいられない因縁を背負っているが、戒めに従う清浄な生き方がそうした習い性を削ぎ落とす。
 歯磨きや顔洗いなど生活に習慣的行動があるのと同じく、心にも又、生まれと生活によってさまざまな習慣的はたらきが伴う。
 イジメなどもそうした「パターンの悪しき表れであり、殺せない生き方になれば、無慈悲な考えと行動も消えている。

4 悩みや憂いを離れ、善き決断を行える。

 因果応報の理法により、他のいのちをないがしろにする悪行(アクギョウ)が悩みや憂いをもたらし、善き決断を妨害するが、戒めに従う清浄な生き方は心の黒雲を除き、仏光の中ではっきりとなすべき決断をして善行(ゼンギョウ)に進むことができる。
 悩みや憂いは決して〈外から自分へ襲いかかる〉のではなく、自分の心に生まれ、善心のはたらきを妨げる。
 殺生という最悪の悪行を離れればそれを原因とする悩みや憂いは起こらず、善心は善行を存分に実践させる。

5 寿命をまっとうできる。

 心と環境は互いに影響し合うので、他のいのちを尊ぶならば、自分も生まれ持ったいのち分を尽くして生きられる。
 医師の話を聴くと、感謝し、笑顔を絶やさない人々の中には、科学的判断による確率からすれば考えられないほどの長寿をまっとうする例がいくらもあるという。
 他を慈しまないではいられない心にはきっと、計り知れないほどのエネルギーが隠されているのだろう。

6 神霊のご加護を得る。

 いのちの世界に宿る神霊は、いのちを尊ぶ者を喜び擁護する。
 花に興味のない人は、町並みを眺めても花屋さんが目に入らないかも知れない。
 人であれ、花であれ、山であれ、いのちに不思議さを感じ、精霊や神霊など異次元を感じとれる人はきっと、感得した何ものかから、非日常的なエネルギーをもらえるのだろう。

7 寝ても醒めても安穏で、悪夢に悩まされない。

 戒めに従う清浄な生き方は、周囲から守り育てる徳を集め、護られるので、いつも安心である。
 殺人犯が悪夢にうなされて自白したり、発狂したり、あるいは自殺してしまうといった例は数限りない。
 他者のいのちに手をかけない人には、そういった心配のあろうはずがない。

8 怨みや復讐を受けない。

 殺さず、害さない行いは、周囲に怨みや復讐心を起こさせない。
 日本では5世紀あたりから明治の初めまで仇討ちが社会に認められ、理由の如何を問わず、人を殺せば報いとして殺される可能性が現実的にあった。
 菊地寛著『恩讐の彼方に』は、敵対する同士の心の交流で制度的復讐としての殺人を超越した名作である。

9 地獄界や餓鬼界や畜生界に転生しない。

 慈悲心にあふれている人は、この世でも、あの世でも、殺生と無慈悲の風が吹き荒れる地獄界や餓鬼界や畜生界と縁にならない。
 出口の見えない地獄や、貪りたいの貪れない餓鬼や、咬み合う畜生にならないためには、その最も強力な原因である殺生とまず無縁にならねばならない。
 殺せず慈しむ人は決して、地獄の住人にならない。

10 死後、人間界か天界へ転生する。

 殺し害する心がなければ心身が優しい姿であり、頭に堅い角はなく、口に尖った牙はなく、手に鋭い爪もなく、慈悲心を持った者として生まれ変わる。
 人間界には争いがあり、天界の神々にも他の世界へ行かねばならぬ寿命はあるが、他を傷つける姿をしてはいない。
 あとは、心にも、口にも、手にも武器を持たぬことである。 

 どうでしょう。
 お釈迦様がありとあらゆる仏菩薩を集めてこう説かれたのです。
 共に、不殺生を念じませんか?




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2011
06.14

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その63)─別れと微笑み

 6月4日に行ったシンポジウム「大震災と原発問題 ~団塊、戦後世代はどう立ち向かうか~」の最後に、私は「原発のもたらす災厄は過去・現在・未来を覆う。このリスクは計算できるのか、そして避けられるものなのか?」と聴衆の方々へ問いかけました。
 今日も、どこかに、祖先から受け継ぎ息づいていた文化を捨て、人間や動物や自然との絆を断って故郷をたち去らねばならない方々がおられます。
 泣きつつ、歯をくいしばりつつ、時には無理に微笑みつつ、あるいは顔面を凍らせて生活の場へ背を向ける方々の思いは、とても第三者に忖度できるものではありません。
 当山には、その先に待つ心の崩壊から何とかして立ち直りたい、あるいは崩壊の予兆に怯えた方々がご来山されます。
 皆さんは、災厄そのものについてはあまり話さず、現在の思いを話されます。
 断ち切られるということの冷酷さに圧倒され、とりかえしのつかないできごとの重さにうちひしがれそうになります。
 失ってこそ深くわかる生活することの価値──、生活を成り立たせていた何の変哲もないものたちの価値──。
 あまりにも膨大な喪失です。

 41才の小泉八雲ラフカディオ・ハーン)が、一年間奉職した島根県松江尋常中学校を後にする時に書いた「さようなら」を思い出します。

「もしどこか別の国で、同じ時期、同じ仕事をして暮らしたとして、これほどたゆまぬ温かな人情の機微に触れる喜びを味わえただろうか」
「私はどの人からも、親切で丁寧な扱いしか受けなかった。
 ひとりとして不注意からでさえ、私に卑劣な言葉を発した者はいない。
 五百人以上の学生を教えていて、堪忍袋の緒が切れそうになったことは、一度としてなかった。
 こんな経験ができたのも、日本だからではないだろうか」
「この土地の魅力は、実に魔法のようだ。
 紛れもなく神々の存(イマ)す国が持つ魅力であるといえよう。
 それは、なんと霊妙で優美な色彩であることか。
 何と美しく雲と溶け合う山々の姿であることか。
 なかでも、山の頂を空に懸かっているように思わせる、長く棚引く霞の美しさ。空と大地が妖しく混ざり合っていて、現(ウツツ)か幻か、区別がつきかねる国なのだ──
 すべてが、今にも消えてしまいそうな蜃気楼のようである。
 そして、それが今まさに永遠に姿を消そうとしている」


 また、私たちが、いかに評論家から「騒げ!」と扇動されてもじっと生活しつつ、どこかに保持して絶やさない微笑みについても、「日本人の微笑み」を思い出します。

「銅とか石でできた仏像の微笑は、単にインドや中国の模倣ではない。
 仏師たちは、そこに、日本民族特有の微笑を象徴的に表現したのだ」
「日本の民衆の美所は、菩薩像の微笑と同じ観念、つまり、自己抑制と克己の精神から生まれる至福を表しているのである。
 仏教の経典『法句経』には、『戦場で千の千倍もの敵に勝つ者よりも、ただ自分自身に克つものこそが、最も偉大な勝者である』とか、『自分自身に打ち克ったものの勝利をくつがえすことは、天の力をもってしても不可能である』などとある。
 このような仏教の経典の文句は、はなはだ多いのであるが、日本の国民性の最も魅力的な面である、道徳的な傾向を形造ったとまで言わないまでも、よく言い表していると思う。
 日本民族の道徳的な理想主義が体現されているのが、鎌倉のあの素晴らしい大仏様であるように、私には思われる。
『深く、静かにたたえられた水のように穏やか』といわれる大仏様の慈顔に、込められているものは、かつて人の手が作り出した、他のどんなものにも比べることのできない『こころの安らぎこそ、最高の至福である』(法句経)という、永遠の真理であろう。
 東洋人が願い望んできた境地は、このような無限の平安である。
 だからこそ、究極まで自己を抑制することが、理想とされたのである。
 水面には新しい文明の流れが注ぎ込み、早晩、いちばん深いところまで、揺り動かされるには違いないが、西洋人の思想と比べるなら、それでも今なお、日本人の精神には素晴らしい平静さが保たれている」


 喪失した美しいものは、喪失によって、さらに心中での美しさを増します。
 そうしたものを抱えてしまった切なさ、辛さに耐えかねた善男善女が重い足をひきずりながら当山へ足を運び、み仏の前で座られます。
 私は、皆さんに、小泉八雲と同じく、「菩薩像の微笑」が隠されているのを観ます。
 もちろん、屈強な身体に蒼白な顔面が乗っている青年や、修法の間中ずっと涙が止まらない老婦人などが笑うわけではありません。
 しかし、み仏の前へ来られる方々には、はっきりと菩薩の心が宿っており、修法後にそれが表面に出たりすると思わず合掌したくなります。
 今日も、菩薩になれるよう修行し、皆さんの持つ菩薩の心と感応できるよう、法務に励みます。
 7月から『法句経』をテキストとした勉強会も再開します。
 心の源流を大切にしつつ、共に耐え、学び、励みましょう。
 

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2011
04.30

『大日経』が説く心のありさま六十景 その32 ─迦留羅心(カルラシン)─

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
 第32回目です。

30 迦留羅心(カルラシン)
 仲間と一緒でないと何もできない心です。

「朋党羽翼(ホウトウウヨク)の法に随順す」

 
 「迦留羅(カルラ)」はインドの神々の主たる梵天(ボンテン)が、仏法を守護し人々を救うためにどこまででも飛んで行けるよう変身した巨大な鳥です。
 不動明王が背負う炎などにも現れるとされ、実際に鳥の姿が表現されている炎もあります。
 「朋党」は友人と党派です。
 そもそもは中国でできた政治的な同志の集まりを指します。
 「羽翼」はつばさであり、右大臣、左大臣などというように、王様などの助けとなる人のたとえです。
 だから、全体としては、翼を持たない鳥が飛べないのと同じく、誰かの助けを借りなければ自分一人では何もできないような自立心や自信のない心の状態を指します。

 仏法の修行には勇猛心が欠かせません。
 経典は、大日如来のおはたらきを獅子奮迅と表現しています。
 無明が愚かな考えを起こさせ、煩悩が行動を命ずる時、それらをうち払い制御して、真理に立った判断と真実に即した行動をとるには心の強さが必要です。
 生やさしい気持では、自己中心的で、楽で、おもしろそうな方向へ行くだけです。

 仏法は「常・楽・我・浄(ジョウ・ラク・ガ・ジョウ)」という4つをもって、迷った状態と悟った状態を説きます。
 悟られた釈尊は、私たちの迷いを見極めました。

1 すべては変化を免れず無常なのに、財産などをいつまでも持っていられると考えている。
  「常」という錯覚です。
2 自分もこの世もままならないのに、思い通りにできると考えている。
  「楽」という錯覚です。
3 自分は儚い肉体に宿った儚い存在であり、実体的で不変なものではないのに、いつも自分が主であると考えている。
  「我」という錯覚です。
4 心は煩悩に覆われ、美しく見える肉体もまた汚物を体内に抱えた袋なのに、表面的な美しさに惑わされている。
  「浄」という錯覚です。


 しかし、真理を観る眼になれば、自分もこの世も「無常・無我・不浄」であることがわかると説かれました。
 そこから、根本真理としての四法印(シホウイン…4つの真理)が示されました。

1 諸行無常(ショギョウムジョウ)
 すべては時々刻々と変化しており、時間の流れに逆らっている「常」なるものはない。
2 諸法無我(ショホウムガ)
 すべては因と縁によって生じ、滅するので、自分を含め、それ自体として完結自立している「我」なるものはない。
3 一切皆(イッサイカイク)
 私たちは真理を知らず自己中心的に生きて互いにぶつかり合い傷つけあって、ままならぬ「」を生きている。
4 涅槃寂静(ネハンジャクジョウ)
 真理を知り、自己中心を離れた境地では自他を焼きしめる煩悩の炎が消え、絶対の安楽「寂静」がもたらされる。


 四法印は仏法として掲げ続ける旗であり、この旗の下に集うのが仏教徒です。
 
 仏法が奥深いのは、四法印を観て修行し悟りを開いた先に開ける境地は、否定したはずの「常・楽・我・浄(ジョウ・ラク・ガ・ジョウ)」になるということです。
 私たちは、真理を知らない無明と、自己中心の煩悩によって、財物に執着し、我を張り「常」や「我」の迷いに陥りますが、修行して「無常」や「無我」の境地に至れば、心のレベルが上がった世界で、「常」や「我」を知るのです。
 執着を離れた財物は、常にそのものなりのあり方で生存を保護し、自己中心を離れた自分は、自他のために自分でなければできない役割を確かに果たす確固たる存在になります。

 こうした教えを学び、所定の修行を行って心に深い納得と安心と力を得るためには決心や覚悟が必要です。
 誰かと一緒でなければ学べない、あるいは修行できないなどという状態では確かな結果を得られません。
 釈尊は説かれました。

「愚かしい者と共にいるのはである」
「共にいるのが正しく修行する者でなければ、荒野の像のごとく一人で歩むべし」


 ところで、迦留羅心を克服するための方法として、チームプレーが求められるスポーツの体験はとても有効ではないでしょうか。
 全体のために、自分でなければできない自分の立場に応じた役割を果たす。
 そのためにトレーニングを行う。
 スポーツが青少年の健全育成に果たす役割は大です。
 また、被災地へ向かうボランティアの方々も迦留羅心を克服する人々と言えるのではないでしょうか。
 全体を考え、自分を見つめ、そして断固、行いたいものです。

〈確固として〉
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2010
08.07

『大日経』が説く心のありさま六十景 その7「決定心(ケツジョウシン)」

 私たちの仏性が輝こうとする時、邪魔をする心の曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 貪り怒り迷いを脱し、感謝平安智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の私たちの心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第7回目です。

7 決定心(ケツジョウシン)
 これは、いわゆる「鵜呑み」の心です。
 勝れた師や善き友の教えを、何の咀嚼も理解も経ず、そのまま丸ごと実行することです。
 経典はこう説いています。

「尊の教命(キョウミョウ)を、説くが如く奉行(ブギョウ)す」


(貴い人の教え命ずるところを、説かれたとおりに奉じ、行う)

 一見、とてもすばらしそうですが、鵜呑みには落とし穴が待っています。

「涅槃(ネハン)経」は説きます。

「信あって解(ゲ)なければ無明(ムミョウ)を増長し、解(ゲ)あって信なければ邪見を増長する。
 信解(シンゲ)円通(エンツウ)してまさに行(ギョウ)の本(モト)となる」


(信仰心だけがあって理解力がなければ、根本的な無知が強まり、理解力があって信仰心がなければ正しくない見解が強まる。
 信仰心と理解力が円かに備わってはじめて、修行の土台ができる)

 ただやみくもに信じるだけでは、無知の状態を深めてしまいます。
 ただやみくもに理解するだけでは、勝手な見解を深めてしまいます。
 すなおに信じる姿勢と、教えの意とするところを理解する姿勢とが円満にあいまって修行の土台がつくられます。

 たとえば、あそこは「ご利益がある」と聞いてどこかの寺院から御守を求め、一心にすがっていたとします。
 それでもなかなか願いが叶わなかった場合、「効き目がなかった」と落胆したり怒ったりして、別の寺院へ走り、次々と効き目のある御守を求めるのでは、せっかく教えのある寺院とご縁ができても、人間的な向上は望めません。
 これでは残念です。
 信じられる寺院が見つかったならば、ぜひ、善願成就のためにはどうすれば良いか、人生相談をしてください。
 その上で御守を求め、目的に合わせて自分の生き方を変えるならば、必ずや願いは叶うことでしょう。
 もしも、願いどおりの結果を得られなかったとしても、ご加護を信じ、自己変革を実践した体験は必ず、人間的向上をもたらします。
 そして、得られた結果は、後日、「やはり、自分にとって最善のものをいただいた」と理解、納得できることでしょう。
 信じた日々に後悔は伴いません。

 たとえば、教えを聴いて興味を持ち、それに関する本をたくさん読み、「こうすれば良いのか」と納得したと仮定しましょう。
 それでも、そのようにできなかった場合、「宗教なんて役に立たない」とせっかく縁となった教えを捨ててしまったのでは、永遠に〈流離(サスラ)い人(ビト)〉のままです。
 もしも、信頼できる僧侶の説法によって守本尊様の真言を知って納得したならば、教えられたとおりに唱えてみましょう。
 ここ一番という時、心が沈んだ時、思わぬ幸運に巡り会った時、真言の示された御守を見て「おんあらはしゃのう(卯年生まれの方の場合です)」と口にするのです。
 必ず勇気が湧き、心に光明が差し、感謝が深まることでしょう。

 この教えは、自分の持てる感性と理性をしっかり発揮することの大切さを説いているとも言えます。
 感性に走って怪しい宗教に騙されたり、見える、聞こえると妄想を言う人になってはなりません。
 理性に走って独りよがりな世界に閉じこもり、尊い次元のものへすなおに心が開けない人になってはなりません。
 よく考えてみましょう。

〈ご近所の方からご本尊様へいただいた採れたての野菜たち〉

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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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