Aさんは、ご主人が最期を迎えた時、病室にいた。
看病に疲れ、ウトウトしてしているうちにご主人の容体が急変した。
すぐにナースコールを押したが、まもなくご主人は息を引き取った。
混乱したAさんは、夫の死を自分のせいだと思い込み、心が塞り、冷えていった。
Aさんのご心痛は、いくばくか理解できた。
小生も義父の病室に泊まり込み、ナースコールが一瞬、遅れたという意識を持っている。
無言の言葉は確かに交わし得たし、その眼差しも忘れてはいない。
告げられた言葉を「受けとめました」という小生の答が届いていたと信じて疑わないが、それでもなお、遅れたのではないかという慚愧の思い、罪悪感といったものは何十年経とうと、消え去らない。
幾度か、来山したい旨の電話があったが来山されず、そのまま、連絡の間隔が長くなった。
やがて、睡眠中にご主人が重く覆いかぶさってきて、圧死しそうだというお話があり、医師の診断を受けるようお勧めした。
家にいれば黒い影がつきまとい、デイサービスに行けば白い靄が天井から降り、道を行けばつけ狙われていると感じ、不安が常態化した。
心配しているうちに、ご家族から入院のご連絡をいただいた。
Bさんは、ご主人を亡くしてから、すっかり気力を失った。
好きだった山登りはもちろん、何をする気にもなれず、他人と接したくなくなり、家からあまり出なくなった。
しかし、おりおりに、当山へ手紙を出した。
お彼岸やお盆や年忌の供養などを申込み、来山する力は出ないけれど、ご主人が信頼していた当山との連絡を欠かさず、当山から送られる新聞『ゆかりびと』や機関誌『法楽』などを熱心に読んでおられた。
数年後、やはり、Aさん同様、ご主人が〈圧する者〉としてたち現れるようになった。
Bさんは「思い当たるふしはありません」と言われるが、小生は、オシドリ夫婦特有の寂しさや執着心が作用しているのではないかと感じていた。
思い余ったBさんは、ご主人共々救われたいとの一心で塔婆供養を申し込まれた。
そして、ついに心が晴れたBさんから届いた手紙の一部を書きとめておきたい。
もちろん、Bさんのお許しを得ている。
なお、手が不自由になったBさんは、一時間ほどの〈稽古〉をしてから、そのままの勢いで書かれたという。
筆達者な人がままならなくなってなお、両手で万年筆を握った。
いただいた手紙は当山の宝ものである。
「昨日、とても立派な『廻向之証』とお便りをいただき、ありがとうございました。
手に取って見ていると、戒名も中央に書いてあり、まるで後光が射しているように思います。
夫も安心して私の所から去っていきました。
私にもご加護を祈っておりますと書いて下さり、とても力強く勇気が出ました。」
Aさんご夫婦も、Bさんご夫婦も、当山の法友である。
この世とあの世に別れても、いかなる状況になっても、ただただ苦を離れ楽を得られるよう、等しく祈るのみである。
南無守本尊大法護如来。
南無大師遍照金剛。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8
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いよいよ立春、暦上の新たな一年の始まりです。
ここで開山にあたっての当山の願いを再確認しておきます。
それは、み仏のお導きにより「この世の幸せとあの世の安心」をご縁の方々と共に追求しようというものでした。
願いは寺院が存在する理由と言い換えることもできます。
そして、「法灯に因(ヨ)り法友と共に法楽に住せん」を標語としてきました。
正統な仏法を信じ実践することにより、法の輪へ入る方々と共に、お釈迦様やお大師様などによって示された悟りの世界をめざすのです。
当山のあらゆる法務はそのために遂行されてきました。
昨年の東日本大震災後、「法友」の意味を考えさせられました。
見知らぬ方々や他の宗教宗派を信じる方々も等しくみ仏の子であり、仏法を信じる者として、区別があってはならないと実感させられました。
被災した現場や被災した方々から、「お前は行者として基本ができているか?」と試されたかに思われます。
おかげさまにて、頭ではわかっていても心からそのように考え行動し難い「人は皆、み仏の子」という教えが一段と血肉になりつつあります。
今、当山にとっての法友は、文字通りあらゆる人々を意味しています。
そもそも、信じる努力は疑いがあればこそ為されます。
信じ切っているならば、努力は無用です。
〈信〉と〈疑〉は対立概念なので、「自分は今、信じている」あるいは「自分は今、疑っている」と分けられそうですが、宗教の実践過程における真実はそのようなものではないと思われます。
無意識の疑いがあればこそ〈やってみる〉のです。
やらないうちからそれを信じ込むことはできないし、むしろ、そうした疑いのなさはオカルトなどに走りやすい危険性を含んでいるのではないでしょうか。
何ごとかを理解し実践して行く過程で、〈信〉が占めるパーセントが大きくなり、〈疑〉のパーセントが少なくなり、結果的にほとんどが〈信〉になってゆくのが修行における時間の効能であり、それが「血肉になる」ということです。
そして、悟りを開かない限り、修行に到着点はありません。
「人は皆、み仏の子」
仏教徒として、この一行にどう向き合うか、それは行者の〈まこと〉をかけた問題なのです。
さて、「この世の幸せ」を願う法務は、春祭厄除け千枚護摩祈祷から始まります。
そして、「あの世の安心」のためには、これまで行ってきた遺骨預かりの態勢を整え、「安骨供養」と称する新たな供養法を始めます。
これまでの遺骨預かりは、お墓を造るまで間、あるいは共同墓へ埋骨するまでの間、共同墓『法楽の礎』内にある納骨棚へお納めし、供養するものでした。
今般、安骨のための『法楽堂』というスペースを用意しました。
住職の手作りだった位牌壇に代わる新たな位牌壇と同時に遺骨壇も堂内に作ります。
『法楽堂』は本堂に隣接しているので、いつでも遺骨と対面しお詣りしていただけます。
また、安骨供養をこれまでのように〈つなぎ〉として考えるのでなく、たとえば三十三回忌まで家族が会える安骨供養にし、その後は共同墓や五輪之塔へ合祀するなど、一つの独立した供養法ととらえていただければ、皆さんの安心の形にまた一つ、選択肢ができたことになりはしないでしょうか。
三回忌・七回忌・十三回忌・三十三回忌までの年忌供養をあらかじめ申し込んでおくなど、安心の幅も広がろうかと考えています。
今年も当山は、皆さんの「この世の幸せとあの世の安心」のため、微力を尽くします。
ご意見・ご批判をお待ちしつつ、皆さんのご多幸を心より祈念しております。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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ここで開山にあたっての当山の願いを再確認しておきます。
それは、み仏のお導きにより「この世の幸せとあの世の安心」をご縁の方々と共に追求しようというものでした。
願いは寺院が存在する理由と言い換えることもできます。
そして、「法灯に因(ヨ)り法友と共に法楽に住せん」を標語としてきました。
正統な仏法を信じ実践することにより、法の輪へ入る方々と共に、お釈迦様やお大師様などによって示された悟りの世界をめざすのです。
当山のあらゆる法務はそのために遂行されてきました。
昨年の東日本大震災後、「法友」の意味を考えさせられました。
見知らぬ方々や他の宗教宗派を信じる方々も等しくみ仏の子であり、仏法を信じる者として、区別があってはならないと実感させられました。
被災した現場や被災した方々から、「お前は行者として基本ができているか?」と試されたかに思われます。
おかげさまにて、頭ではわかっていても心からそのように考え行動し難い「人は皆、み仏の子」という教えが一段と血肉になりつつあります。
今、当山にとっての法友は、文字通りあらゆる人々を意味しています。
そもそも、信じる努力は疑いがあればこそ為されます。
信じ切っているならば、努力は無用です。
〈信〉と〈疑〉は対立概念なので、「自分は今、信じている」あるいは「自分は今、疑っている」と分けられそうですが、宗教の実践過程における真実はそのようなものではないと思われます。
無意識の疑いがあればこそ〈やってみる〉のです。
やらないうちからそれを信じ込むことはできないし、むしろ、そうした疑いのなさはオカルトなどに走りやすい危険性を含んでいるのではないでしょうか。
何ごとかを理解し実践して行く過程で、〈信〉が占めるパーセントが大きくなり、〈疑〉のパーセントが少なくなり、結果的にほとんどが〈信〉になってゆくのが修行における時間の効能であり、それが「血肉になる」ということです。
そして、悟りを開かない限り、修行に到着点はありません。
「人は皆、み仏の子」
仏教徒として、この一行にどう向き合うか、それは行者の〈まこと〉をかけた問題なのです。
さて、「この世の幸せ」を願う法務は、春祭厄除け千枚護摩祈祷から始まります。
そして、「あの世の安心」のためには、これまで行ってきた遺骨預かりの態勢を整え、「安骨供養」と称する新たな供養法を始めます。
これまでの遺骨預かりは、お墓を造るまで間、あるいは共同墓へ埋骨するまでの間、共同墓『法楽の礎』内にある納骨棚へお納めし、供養するものでした。
今般、安骨のための『法楽堂』というスペースを用意しました。
住職の手作りだった位牌壇に代わる新たな位牌壇と同時に遺骨壇も堂内に作ります。
『法楽堂』は本堂に隣接しているので、いつでも遺骨と対面しお詣りしていただけます。
また、安骨供養をこれまでのように〈つなぎ〉として考えるのでなく、たとえば三十三回忌まで家族が会える安骨供養にし、その後は共同墓や五輪之塔へ合祀するなど、一つの独立した供養法ととらえていただければ、皆さんの安心の形にまた一つ、選択肢ができたことになりはしないでしょうか。
三回忌・七回忌・十三回忌・三十三回忌までの年忌供養をあらかじめ申し込んでおくなど、安心の幅も広がろうかと考えています。
今年も当山は、皆さんの「この世の幸せとあの世の安心」のため、微力を尽くします。
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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本当の布施とは? ~今、できることを行いましょう
災害に遭った私たちは、「おたがいさま」「おかげさま」の心で、誰かのために何かできることを行おうとしています。
これこそが真の布施行です。
新聞やテレビやインターネットは悲惨で悲しく厳しい情報を伝える一方、心温まるできごとや、尊い行動に汗を流す人々などの情報も提供しています。
布施はインドの言葉でダーナといい、布施をする人々や家を檀家と呼びます。
この災害を他人ごとと思わずまごころでとり組み、できることを行い、本当の布施、本当の檀家を考えてみようではありませんか。
「檀家」縛りのない墓苑とは?
人は使ったり、使われたりするのでなく、共に支え合わねばなりません。
お寺も同じです。
皆さんがただ便利に利用したり、お寺がお布施を強要するのではなく、心から仏縁を求める人々が救われ、その人々のまごころで維持されるのが真のお寺であると考えています。
それが「脱檀家宣言」を行った理由です。
当山は、頭割りのお布施依頼や、金額を決めての戒名料請求などを行いません。
当山の姿勢を信じる方なら宗教宗派を問わず、お話をお聞きし ます。
どうぞご安心の上、ご相談におでかけください。
当山へご理解を示される「ほこだて仏光堂」様がチラシを作ってくださり、本日より、上記の内容で、墓苑とお墓の説明会を催しています。
もとより、当山は、いかなる業者様とも特殊な関係になってはおりません。
いわゆる「指定業者」はありません。
お互いにそれぞれの道の〈プロ〉と認め合う同士として、さまざまな業者様方と信頼関係が構築された結果、さまざまな業者様が自主的に当山の紹介をされます。
今回もそうした一環であり、まことにありがたいことです。
さて、当山は、すべての方々へ門戸を開いており、墓地の永代使用契約についても宗教宗派の制限や檀家縛りはありません。
ただし、墓苑の経営は商売ではなくあくまでも宗教行為であり、当山を寺院として信じ、当山の奉ずる仏法に守られることを願う方との仏縁でなければ、契約ははウソになります。
もちろん、皆さんお一人お一人が何を信じておられようと、お心へ土足で踏み込んだり、信仰を当山の宗教へ変えさせようなどということはありません。
お大師様のマンダラの法はすべての仏神へ通じるので、お釈迦様であろうと、阿弥陀様であろうと、お不動様であろうと、観音様であろうと、どなたを信じ、どなたをご本尊としておられる人や家であっても必ずお守りできます。
四国八十八霊場のご本尊様方の多種多様を見ればすぐにわかります。
だから、当山の墓地を契約し、当山の修法によって開眼供養や年忌供養を行う場合に、いわゆる改宗の必要はなく、ご本尊様を変えたり、戒名を変えたりする必要もありません。
当山の姿勢に共鳴される方は、どうぞおでかけください。
皆様へみ仏のご加護がありますよう。合掌
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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ホームページで当山の活動を知ったAさんが仙南の農村から来山されました。
「しばらく一緒にいた夫の遺骨を、ようやく思い切って納めました。
代々続く家なので、古いお墓にはご先祖様のお骨でまだ骨壺のままのものもあり、この際、すべて土に還すことにしました。
何か私にできることをしたいと思い、お骨を入れる布袋を5枚、手縫いで縫い上げました。
そうして臨んだ納骨でしたが、私には決して忘れられない嫌な思い出になってしまいました。
前日、お寺へ確認の電話を入れたところ、3ヶ月前に予約していたにもかかわらず、住職は急用で忙しいから息子さんが拝むというのです。
いつものことだと思い、別に怒りもしませんでしたが、お経が2分くらいで終わり、質問を無視していなくなってしまったのには、がっかりしました。
私の家はずっと貧しかったので、こうした扱いを受けるのが初めてではありませんでしたが、このままでは夫にもご先祖様にも申しわけないという気持が強くなり、自分にできることを教えていただきたいと思い、でかけてきました」
お寺へ頼むだけではなく、自分でも供養したいと考えるのはとても尊いことであり、Aさんのように相手の〈仕打ち〉を怨まず、自分の努力を考えるのは大したものです。
この方は花のような方だなあと、あらためて、百合のように白い光がうっすらと漂っているお顔のあたりを拝見しました。
当山では、どなたも守本尊様や年忌供養のみ仏をご供養できるように、経典とCDを用意しています。
兎年生まれの方なら文殊菩薩様の「おん あらはしゃのう」を唱えれば良いし、三回忌なら阿弥陀如来様の「おん あみりたていせい から うん」で立派なご供養ができます。
また、光明真言は、いかなる仏神にも通じるスペードのAのような万能の真言ですから、覚えておけば安心です。
〈ご本尊様へ捧げられた百合が咲きました〉
〈生まれ年の守本尊様や、年忌供養のご本尊様の真言、あるいは般若心経などを、大きな文字でB5版にまとめました。CDを聴けば唱え方がわかります〉
〈供養の意味や、供養する際の真言などをまとめました〉
Aさんのお話は続きます。
「私の叔母は身体に不具合があり、いじめに遭って故郷を離れました。
生涯独り者だった叔母が遠方で孤独死となり、私がお骨の行方を決めなければならない立場に立ちました。
親族は皆が叔母へ批判的で、手を出すな、無縁にしてしまえといった雰囲気でしたが、私は、亡くなった方を生きている人が裁くことはどうかと思っています。
財産や名誉をつかんだ人は『あの人は立派だった』と言われ、貧乏で亡くなったりすると目もかけられませんが、その人の本当の値打ちを他人が判断することなどできないのではないでしょうか。
たとえば、大富豪になる過程で弱い者を踏みにじっているかも知れないし、名もない人が、誰かを死の瀬戸際から助けているかも知れません。
叔母がどういう生き方をしていたのかまったく知りませんが、縁あって連絡が来た以上、やはり、身内として、自分が手を合わせてあげたいのです。
周囲の誰もが振り向こうとしないからこそ、自分にその役割があると考えるのです。
これで良いのでしょうか」
回答するまでもありません。
Aさんは本ものの僧侶が行う仕事を、もう、立派にやっておられます。
そうしたわけへだてない姿勢で亡くなった御霊へ接し、等しく引導を渡し、等しく安心を得ていただくのが行者としての僧侶の務めですが、現実的には、いかがなものかと思われる話題が多すぎます。
特に、「亡くなった方を生きている人が裁くことはどうか」には心底、唸らされました。
Aさんは、娑婆を離れてみ仏へいのちをお任せし切った僧侶顔負けの気持になっておられます。
私たち僧侶がこうした謙虚で敬虔な姿勢で、一切、わけへだてせず祈らねばならないことを再確認させていただきました。
娑婆にも、本筋の考えや心構えで生きている方がおられるのは、本当に嬉しいことです。
同志を得た心持ちになり、真言の唱え方など、祈り方をお伝えしました。
人生相談に来られたはずのAさんは、どうやら私の師だったようです。
〈菩薩(ボサツ)として生きる道をわかりやすくまとめました。すべて手作りです〉
「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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「しばらく一緒にいた夫の遺骨を、ようやく思い切って納めました。
代々続く家なので、古いお墓にはご先祖様のお骨でまだ骨壺のままのものもあり、この際、すべて土に還すことにしました。
何か私にできることをしたいと思い、お骨を入れる布袋を5枚、手縫いで縫い上げました。
そうして臨んだ納骨でしたが、私には決して忘れられない嫌な思い出になってしまいました。
前日、お寺へ確認の電話を入れたところ、3ヶ月前に予約していたにもかかわらず、住職は急用で忙しいから息子さんが拝むというのです。
いつものことだと思い、別に怒りもしませんでしたが、お経が2分くらいで終わり、質問を無視していなくなってしまったのには、がっかりしました。
私の家はずっと貧しかったので、こうした扱いを受けるのが初めてではありませんでしたが、このままでは夫にもご先祖様にも申しわけないという気持が強くなり、自分にできることを教えていただきたいと思い、でかけてきました」
お寺へ頼むだけではなく、自分でも供養したいと考えるのはとても尊いことであり、Aさんのように相手の〈仕打ち〉を怨まず、自分の努力を考えるのは大したものです。
この方は花のような方だなあと、あらためて、百合のように白い光がうっすらと漂っているお顔のあたりを拝見しました。
が見事に実践されています。「我、雨風に負けず咲く花のごとく、耐え忍び、心の花を咲かせん」
当山では、どなたも守本尊様や年忌供養のみ仏をご供養できるように、経典とCDを用意しています。
兎年生まれの方なら文殊菩薩様の「おん あらはしゃのう」を唱えれば良いし、三回忌なら阿弥陀如来様の「おん あみりたていせい から うん」で立派なご供養ができます。
また、光明真言は、いかなる仏神にも通じるスペードのAのような万能の真言ですから、覚えておけば安心です。
〈ご本尊様へ捧げられた百合が咲きました〉
〈生まれ年の守本尊様や、年忌供養のご本尊様の真言、あるいは般若心経などを、大きな文字でB5版にまとめました。CDを聴けば唱え方がわかります〉
〈供養の意味や、供養する際の真言などをまとめました〉
Aさんのお話は続きます。
「私の叔母は身体に不具合があり、いじめに遭って故郷を離れました。
生涯独り者だった叔母が遠方で孤独死となり、私がお骨の行方を決めなければならない立場に立ちました。
親族は皆が叔母へ批判的で、手を出すな、無縁にしてしまえといった雰囲気でしたが、私は、亡くなった方を生きている人が裁くことはどうかと思っています。
財産や名誉をつかんだ人は『あの人は立派だった』と言われ、貧乏で亡くなったりすると目もかけられませんが、その人の本当の値打ちを他人が判断することなどできないのではないでしょうか。
たとえば、大富豪になる過程で弱い者を踏みにじっているかも知れないし、名もない人が、誰かを死の瀬戸際から助けているかも知れません。
叔母がどういう生き方をしていたのかまったく知りませんが、縁あって連絡が来た以上、やはり、身内として、自分が手を合わせてあげたいのです。
周囲の誰もが振り向こうとしないからこそ、自分にその役割があると考えるのです。
これで良いのでしょうか」
回答するまでもありません。
Aさんは本ものの僧侶が行う仕事を、もう、立派にやっておられます。
そうしたわけへだてない姿勢で亡くなった御霊へ接し、等しく引導を渡し、等しく安心を得ていただくのが行者としての僧侶の務めですが、現実的には、いかがなものかと思われる話題が多すぎます。
特に、「亡くなった方を生きている人が裁くことはどうか」には心底、唸らされました。
Aさんは、娑婆を離れてみ仏へいのちをお任せし切った僧侶顔負けの気持になっておられます。
私たち僧侶がこうした謙虚で敬虔な姿勢で、一切、わけへだてせず祈らねばならないことを再確認させていただきました。
娑婆にも、本筋の考えや心構えで生きている方がおられるのは、本当に嬉しいことです。
同志を得た心持ちになり、真言の唱え方など、祈り方をお伝えしました。
人生相談に来られたはずのAさんは、どうやら私の師だったようです。
〈菩薩(ボサツ)として生きる道をわかりやすくまとめました。すべて手作りです〉
「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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石材業者さんのご紹介により、仙台市営泉墓苑で納骨をしました。
最近、お葬式を終えてから当山に縁を結ばれるというケースが多く、仏教界の混乱を感じます。
それは、お葬式を行った寺院に納骨や回忌の供養を依頼するのが当然だからです。
今や、お寺を変え、墓地を変えることは決して珍しくありません。
むしろ、寺院もようやく「選択」される時代に入ったのかと、納得しています。
こういった場合、こちらからは「なぜこうなったのか」「どういうお考えなのか」など一切お訊ねしないことにしています。
事情や考え方や疑問について話す気持があれば話されるでしょうし、話したくないなら何も言わないのがあたりまえで、問いただす筋合いのものではありません。
しかし、ご参列された皆さんの様子で何となく解る部分もあります。
納骨前に戒名を求め、喜びの涙を流されたご遺族もあれば、年忌法要でみ仏のご加護を実感し、ようやく安心した方もおられます。
皆さんがこれまで得られなかったものが解るのです。
こうした体験はすべて自らへの戒めとなります。
今日は好天に恵まれました。
静かな墓苑に読経と鐘の音、そしてお線香の煙と香り、ご遺族の祈り───。
修法が終わっても去りがたい様子の皆さんに安堵し、帰山しました。
「おん あみりたていせい からうん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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最近、お葬式を終えてから当山に縁を結ばれるというケースが多く、仏教界の混乱を感じます。
それは、お葬式を行った寺院に納骨や回忌の供養を依頼するのが当然だからです。
今や、お寺を変え、墓地を変えることは決して珍しくありません。
むしろ、寺院もようやく「選択」される時代に入ったのかと、納得しています。
こういった場合、こちらからは「なぜこうなったのか」「どういうお考えなのか」など一切お訊ねしないことにしています。
事情や考え方や疑問について話す気持があれば話されるでしょうし、話したくないなら何も言わないのがあたりまえで、問いただす筋合いのものではありません。
しかし、ご参列された皆さんの様子で何となく解る部分もあります。
納骨前に戒名を求め、喜びの涙を流されたご遺族もあれば、年忌法要でみ仏のご加護を実感し、ようやく安心した方もおられます。
皆さんがこれまで得られなかったものが解るのです。
こうした体験はすべて自らへの戒めとなります。
今日は好天に恵まれました。
静かな墓苑に読経と鐘の音、そしてお線香の煙と香り、ご遺族の祈り───。
修法が終わっても去りがたい様子の皆さんに安堵し、帰山しました。
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