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2012
07.05

私たちが心から求めるものとは?(その4) ─息災延命と善魔─

2012070500111.jpg
〈故遠藤周作

 私たちは、「困った時の神頼み」をします。
 困った時とは、何かが無くなったり、無くなりそうになったりして追いつめられた時です。
 お金がなかったり、恋人を失ったり、いのちがなくなりそうになったり……。
 では、困っていない時とはどういう時でしょうか?

 お大師様の徳を讃える『弘法大師和讃』は、常々の祈りがもたらすご利益、つまり、私たちが困らない人生の姿を説いています。
 常々、信じて祈るのは「転ばぬ先の杖を持つ」こと、とも言えそうです。

 では、お大師様への祈りがもたらす「8つの救済」とは?

7 息災延命(ソクサイエンメイ)

息災」とは、災いを息(ヤ)むこと、すなわち災いが起こらぬことです。
 災いを望む人はいません。
 しかし、災いに遭わない人はいません。
 私たちの煩悩(ボンノウ)が呼び込むからです。
 また、天変地異も災いをもたらします。
 天地自然は、生み育てる恵みの郷である一方、襲い滅ぼす無常の鬼でもあります。

延命」とは、いのちが延びること、すなわち長生きです。
 よほどのことがない限り、早く死にたいとは思いません。
 生きものは、生まれた時から死へ向かうプログラムのスイッチがオンになっている一方、生きる方向で努力するようにセットされているからです。
 死へのプログラムは意識されませんが、老・病・死がそれを教えます。
 生への努力は衝動となり、希望となって意識されます。
 人間も生きものである以上、まぎれもなく天地自然の一部です。
 だから私たちは〈死が孕(ハラ)まれている生〉を生き抜く宿命から逃れられません。

 さて、私たちは息災延命を願い、良かれ、善かれと念じつつ、心ならずも、魔ものになってしまう場合があります。
 故遠藤周作はそれを「善魔(ゼンマ)」と名づけました。

善魔の特徴は二つある。
 ひとつは自分以外の世界を認めないことである。
 自分以外の人間の哀しみや辛さがわからないことである。」


 自分の主義や主張や宗教だけが優れているという優越感を持っているのに、善意の陰に隠れて本人にはあまり意識されない場合があります。
 優越感は大義名分という旗に支えられ、周囲の迷惑が理解できなくなります。
 何しろ、自分に同意・同調しない者は悪とみなすので、手に負えません。
 一つの尺度でしか人間を見ないので、人間そのものが見えず、当然、「自分以外の人間の哀しみや辛さ」はわかりようがありません。
 氏は「一人よがりの正義感や独善主義のもつ暗さと不幸」を私たちの周囲に見いだせると指摘しました。

善魔のもうひとつの特徴は他人を裁くことである。
 裁くという行為には自分を正しいとし、相手を悪とみなす心理が働いている。
 この心理の不潔さは自分にもまた弱さやあやまちがあることに一向に気づかぬ点であろう。」


 感情や損得や好悪、あるいは自己保全や言い訳などにたやすく流されてしまう弱い私たち──。
 知っていることの少なさ、知っていないことの膨大さを忘れてたやすく思考停止し、つい、頑なな主張をしてしまう愚かな私たち──。
 氏はそれを「不潔」と言いました。

「自分以外の世界をみとめぬこと、自分の主義にあわぬ者を軽蔑し、裁くというのが現代の善魔たちなのだ。
 彼らはそのために、自分たちの目ざす『善』から少しづつはずれていく。
 自分自身でも意識しないうちに、彼らは他人から支持される善き人でなく、他人を傷つけ、時には不幸にさえする善魔になっていくのである。」


 クリスチャンの氏は生前「もしも権力によって踏み絵を求められたなら、自分は踏む」と明言していました。
 氏がいかなる思いを善魔の一語に込めたか、よく考えてみたいものです。

 私たちが息災延命を願うのは当然ですが、周囲の人々もまた自分と同じように息災延命を願っていることを忘れず、自分が祈る時は自他の息災延命を祈る心になりたいものです。
 そうすれば、自分の世界だけが正しいという頑なな人、すなわち善魔にはなりません。
 自分のものさしだけで誰かを悪として裁く高慢な人、すなわち善魔にはなりません。
 善魔になっていないかどうか自分をチェックしつつ、自他の息災延命を祈りましょう。
 そうすれば、お大師様はきっと叶えてくださることでしょう。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
05.17

共に………

「我當(マサ)に六道(ロクドウ…地獄などの迷いの世界)の衆生を抜濟(バッサイ)すべし。若(モ)し重苦(ジュウク)あらば我代わって苦を受けむ」


(私はしっかり六道の者たちを救います。もし重い苦を背負った者があるならば、私が代わってその苦を受けもしましょう)

 お地蔵様のお経を読んでいて、行が輝き、浮き出るかのように強く心へ響いてくるのはこの部分です。
身代わりになりましょう」
 こうまではっきりおっしゃっておられるお地蔵様を信じられるとは何という果報者でしょうか。
 お地蔵様の法で実際に救われる方々の喜びに接することができるのは、さらにさらに幸せなことです。

延命菩薩(エンメイボサツ)は有情の親友なり衆生(シュジョウ)生する時は其の身命となり滅すれば導師となる」


 苦から救い命分のある限りを生き抜かせてくださるお地蔵様は、生きとし生けるものの親友です。
 生まれる時は自分の命を私たちに分け与え、死ぬ時は良き所へと導いてくださいます。
「共に合掌しましょう。共に救済の道へ入りましょう」
 あまりはっきりは申し上げませんが、ご来山の方々へいつも心で、こう呼びかけています。 




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2005
07.05

組織と正見

 40年にもわたって続いてきた同期会の総会を欠席しました。
 この歳になると、もはや幽明境を異にした会員が何人もおられ、一期一会の雰囲気が強まってきます。
 会長としてそうした場へ出席できぬことに責任を感じて会員のお一人へ辞表を託したことを思い出しながら床に就いた深夜、ご縁の方から切迫した電話が入りました。
 長期間無事を祈ってきたお子さんが事故を起こしたのです。
 処置法をお話しし、ただちに不動尊延命法へ入りました。
 幸いにして、ことは大事に至らず小事で済みましたが、ご縁の方にとっては文字通り命の縮む思いだったことでしょう。察して余りあります。

 あらためて僧侶の責務と日々の過ごし方についてみ仏からお教えいただいたできごとでしたが、この一夜は、立場というものについての確信を深めもしました。
 長の仕事は畢竟二つ、会へ参加し会員全員と心を一つにすること、結果に責任をとることです。
 参加できず心を一つにできなければ資格はありません。
 ことがうまく行ったならば、それは担当してくださった方々の努力のたまものです。
 しかし、問題が発生した場合は自らが具体的に責任を負うことができなければ資格はありません。
 資格がないと判断したならば速やかに辞任すべきです。もちろん、それが会のためだからです。

 人の組織というものは、何であれ、本来そうしたものでなければならないという気もします。
 立場なりの役割があり、それぞれがお互いの立場を尊びながらまっとうに役割を果たしてこそ組織は生きたものになるはずです。
 また、例のライブドア事件が思い出されます。
 あの時、学者も政治家も評論家も「会社は株主のもの」と主張していましたが、何度考えても首肯できません。
 労働者・経営者・株主の三者が協力して役割を果たし、利用者がその努力を認めてこそ会社は存続できるのであり、いずれかの一者のみが「所有者」として強者の立場を主張するのが正しいなどということがあり得ましょうか。
「法律がそうなっている」という事実の指摘なら解ります。
 法が人間社会の理想とずれていれば法を変えれば良いだけです。
 しかし、多くの論者は「会社は株主のもの」であるのが資本主義社会にあっては当然だと主張していたのです。
 こうした思想が本当に人々を幸せにできるでしょうか。
 
 かつて極端な平等を主張する共産主義が蔓延していた頃、労働者は資本家を打ち倒せという叫びが日本中を覆っていました。若者たちはデモに走りました。
 イデオロギーにより、不毛の対立がつくられていました。
 しかし、日本人は智慧をもってそれを克服し、人々は豊かになり、国は安定しました。
 今は極端な自由を主張する資本主義が一部の富裕層を潤し、所得格差をどんどん広げています。
 人生相談を受け、社会の様子を観ていると、人々の多くは老いも若きも、明らかに「使い捨て」にされつつあります。
 そうでなくとも技術文明の進展で人が労働力として不要になりつつある時、人をモノであるかのように金で自由にあやつる思想が日本を理想社会へ導けるとはとても考えられません。
 自由競争に名を借りた極端な能力主義がはたらく人々の人格を破壊し、組織の土台を崩すということも明らかになりつつあります。

 釈尊は苦を脱する八つの道を示されました。その第一番目は「正見(ショウケン)」です。
 正しい見解にはいくつかの面がありますが、一つは「極端へ走らない」ことです。
 しかし、人は極端へ走りたがります。
 理由は、ある意味で「楽だから」です。
 一番端にいれば、もう論議は不要になります。
 端へ来ない人々を中間的だと否定するだけで自分の正義を主張していられます。
 平等という何人も否定できないと思われる旗へ身をゆだねれば楽なものです。
 自由という何人も否定できないと思われる旗へ身をゆだねれば楽なものです。
 ジェンダーフリーも同様です。
 極端はさらに極端へと向かい、戦闘的な態度はますます鋭くなります。
 指導を無視した先生が、生徒たちを男女同室で着替えさせるなどの暴走を見ても、常識・良識・見識の破壊されているすさまじさが判ります。
 こうして人は極端へ走りたがるものだからこそ、釈尊は正見の大切さを説かれたのでしょう。
 
 一方、釈尊は因果応報の真理も説かれました。
 かつて、共産主義を煽っていた某大学教授は、革命思想に忠実であろうとした教え子たちが行なった暴力行為のために自分の研究室を無惨なまでに破壊され、ぼうぜんと立ちつくすしかありませんでした。
 今の資本主義やジェンダーフリーの暴走もまた、必ずや結果をもたらします。
 それは、熱に浮かされている人々の夢見ているようなパラダイスではあり得ないことでしょう。なぜなら「正見」ではないからです。
 幸いにして私たち日本人には、社会を家族ととらえる感覚や、礼を重んずる感覚や、仏神で争わない感覚など、「正見」を取り戻す智慧の泉があります。
 智慧を発揮するには忍耐が必要であり楽ではありませんが、先人は汗を流して日本をここまで導いて来られました。
 私たちも、目先の楽へと逃げ込まず真摯にやりたいものです。




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