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2015
01.09

第五十九回寺子屋『法楽館』 ─安心はどこから来るか(2)─

201501040005.jpg

 次に、第二章について、簡単に記しておきます。

2 深信(ジンシン)決定(ケツジョウ)

 私たちは、生き死にを繰り返して来た無限の過去からずっと、貪り、怒り、真理に反する考え方から離れられず、悪しき業(ゴウ)を積んできましたが、いつもみ仏がご加護くださり、内なる仏心もあるので、まっとうに生きることを心の底から願うならば、おのづから苦を脱する時がやってきます。
 また、生き直すという不退転の覚悟を固めれば、すでに、み仏の救いの中にあると言えます。
 本当に自分がみ仏の子であると信じられれば、もう、極楽にいるようなものである反面、その心境がなければ、死を迎えて極楽往生を願っても難しいと言えましょう。
 大切なのは、普段の生き方をみ仏のお心に合わせることなのです。

「外には如来の加被(カヒ)あり、家には仏性(ブッショウ)の浄薫(ジョウクン)あり。
 この内外両薫の不思議力により、一旦、翻然(ホンゼン)覚悟して菩提心(ボダイシン)を諦信(タイシン)すれば、涅槃(ネハン)の安楽おのづから至るものにて、これを一念の往生(オウジョウ)と唱え、また、初発心(ショホッシン)の時に正覚(ショウガク)を成(ジョウ)ずとも言う」


 私たちはいつも、み仏の光明に照らされており、心の内には清浄な霊性のはたらきがあります。
 そうした力が動き、悟りに憧れ、悟りを求め、信じて精進すれば、心身爽快で、角張らず揺るがない円満な心になります。
 苦から離れ、他のためになりたいと心を定めれば、それは則ち、み仏の心になり、み仏の世界へ入ることでもあります。
 往生の内容は、「至心発願心(シシンホツガンシン…揺るぎない決心をする)」、「深信決定心(ジンシンケツジョウシン…深く信じ揺るがない)」「回向心(エコウシン…得た功徳を他のために回し向ける)」とされています。
 そもそも往生とは、死んでから極楽へ行くことではなく、この世で安心世界へ向かう決心をすることであり、決心が不動であれば、すでにその時点で極楽の住人になっていると言えます。
 こうした「平生往生(ヘイゼイオウジョウ)の人」になれれば、あの世へ行く際にいかなる不安がありましょうか?




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2008
05.29

蜘蛛の糸

 5月26日、お祖母ちゃんに連れられてご奉仕へ来山したKちゃん(園児)からとても良い質問がありました。
「どうして、『蜘蛛の糸』のカンダタにもう一回、糸が降りてこないんですか?可愛そうです」
 答えました。
 
 まず、なぜ糸が切れたかは知っているでしょうが、お釈迦様がせっかく救ってくださろうとしたのに糸が切れたことが何を意味しているかを考えてみましょう。

 人は善いことも悪いことも行います。
 悪いことをした場合、すぐに悪かったと気づいて謝ったり償ったりすることが最も大切ですが、の重さはそれぞれ異なっており、すぐに許してもらえる場合もあれば、なかなか許してもらえない場合もあります。
 たとえば、ボール遊びをしていてうっかりガラスを割ってしまった時などは、きちんと謝ればたいていその場で許してもらえるけれども、万引きをした場合などは警察へ連れて行かれて調べられます。
 ちょっとしたケンカで相手を傷つけた場合は牢屋へ入れられても割合早く出てこられるけれども、もしも相手が死んでしまったりしたらなかなか出てこられないどころか、死刑になるかも知れません。
 そのようにには重さがあり、も違います。
 カンダタは、殺人や放火や強盗を行った大泥棒です。
 そのがあまりに重く、蜘蛛を一匹助けたからといって、として落ちている地獄から簡単に抜け出せるわけではありません。
 いくらお釈迦様が救ってあげようと思われてもだめでした。
 善いことも悪いことも、自分で行ったことは、必ず自分へ報いがもたらすのです。

 もう少し考えてみましょう。
 芥川龍之介カンダタがまっさかさまに落ちてしまい、蓮池のある極楽は何ごともなかったかのような光景であるところまでしか書かなかったけれども、カンダタのいのちがすっかり終わってしまったわけではありません。
 また、お釈迦様を初め、み仏方は、たとえどんな悪人であれ決して見捨てません。
 カンダタはどうなるのでしょうか。

 今回はお釈迦様のお慈悲によって貴重なチャンスをいただきましたが、過去の悪行があまりにひどく、カンダタの心もまた地獄の責め苦で反省させられたにもかかわらず「自分本位」のままだったので、せっかくのチャンスを生かせませんでした。
 しかし、きっといつか又、蜘蛛の糸が降ろされるに違いありません。
 それは、地獄にいるカンダタが今回のできごとについてよく考え、自分だけが助かろうとしたことを深く反省し、地獄にいても誰かのために何かできることを行い、過去の大を償なった時です。
 カンダタの極楽往生を願う人びとの供養もまた、償いの手助けになることでしょう。
 
 善いことも悪いことも、自分の行いの結果は必ず自分へやってくることを学びましょう。
 善いことをたくさん行えば、いつかはを償えることを学びましょう。
 そして、み仏は必ず観ておられ、必ずお救いくださることを学びましょう。
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