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2015
02.24

真智の開発をめざして(その17) ─素直な心とは─

201502240001.jpg
〈塩釜市在住の隠形流居合行者藁科昇氏が被災地を撮影しました。3月1日の供養会で会場に流れます〉

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、み仏の光が発し、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事をがためとするよこしまな心)も消え失せます。
 さて、今回は「優雅さ」について考えてみましょう。

1 有の人を尊敬する

 人の間にある人間である私たちが安心や喜びを得、同時に周囲の人々へ安心や喜びをもたらすためには、心にゆったりと穏やかな部分がなければなりません。
 ギスギス、ピリピリ、カリカリしたままでは自分が成長できないだけでなく、周囲へもよからぬ気配を漂わせ、安心や喜びの縁を自他から遠ざけます。
 こうした人は、もちろん、グループの指導者を務める資格もありません。
 打算でなく自然に人垣ができるタイプの人には必ず、太陽のような穏やかさがあるものです。
 こうした穏やかさを持った人が人を高め、深め、その人がまた優雅で大らかな心をつくるというよき循環をもたらすもの、それが素直さです。

 糸の束を染める際に、元のところで強く結ぶので、全体が染まっても結ばれた部分の内側は白いままで残ります。
 それが「素」です。
 目という文字は、目の縁と眼球を線書にしたものが縦に置かれています。
 それに飾りが付くと「直」になり、「正しく見る」というのが元々の意味です。
 直の上部にある十文字は呪力を表す飾りなので、正しく見て悪や邪を祓うという深意も含んでいます。
 だから、「素直」とは、何ものにも染められていないまっさらな目でものごとをありのままに見ることであり、そこではおのづから霊性がはたらきます。
 古人は霊性のはたらきが悪や邪を祓うことを知っており、〈直(ナオ)い人〉こそが神に仕え、神の意を問い、祓う力を持つと考えました。

 素直な人は必ず、周囲にいる有者を見つけます。
 周囲とは、向こう三軒両隣、あるいは学校の先生や先輩などとは限りません。
 魂がブルブルッと震えれば、書物の中にも、新聞やテレビの情報からでも発見できます。
 発見し、尊敬が生まれれば少しでも近づきたいという願いが起こり、学び、同化をイメージしているうちにいつしか自分のも高まります。

 よき同化の反対が悪しき感化によるカルトへの、のめり込みや、犯罪への傾斜です。
 同化のイメージが狂った方向へと向かわないようにするためには、〈ものごとをありのままに見る〉真の素直さが必要です。
 そこにこそ科学や芸術や宗教の出発点があります。
 素直でない余分なものが科学を歪め、芸術を堕落させ、宗教を思考停止の狂信や盲信へ追いやります。

 さて、自分は大切な素直さを失ってはいないか、素直さが錆び付いてはいないか、時折、調べてみたいものです。
 方法は簡単で、「自分は誰を有の人として尊敬しているだろうか?」と問うだけです。
 もしも、「徳のあるやつなんていない。友人も先輩も先生も親も尊敬できないし、本当に徳がある人になんか会ったことがない」と思うならば危険です。
 それは周囲の誰にも霊性の光を発見できないということであり、「素」の部分に〈(ガ)〉という余分な色が濃くついているか、「直」の目に〈好き嫌い〉という煩悩(ボンノウ)のフィルターがあまりにも強くかけられている可能性が高いからです。
 バカな友人は、本当にバカなだけなのか?
 意地悪な先輩は、本当に意地悪なだけなのか?
 居丈高な先生は、本当に居丈高なだけなのか?
 口うるさい親は、本当にう口うるさいだけなのか?
 実は、それらの人々が持っているまごころや徳に、自分が気づいていないだけではないのか……。

 ここで言う有徳の人とは絵に描いたような聖人君子だけではありません。
 有徳の人を尊敬するとは、言い換えれば、「他人様に徳を発見し、それを尊敬できる」という意味なのです。
 小説であり映画化もされた『悼む人』の主人公坂築静人は、亡くなったいかなる人にも愛し愛された人生の一幕があり、誰かに喜びを与えた一瞬があることを信じ、そうして生き、死んだ人を忘れないと誓うことによって死者を悼みます。
 悼みつつ、いつしか自分が救われ、周囲の人々も自然に救われます。
 これも又、〈徳の発見〉と言えるのではないでしょうか?

 素直な心を取り戻しましょう。
 誰かの徳に感応する心が穏やかになり、安心と喜びを得られますよう。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
08.26

【現代の偉人伝 第195話】 ―徳は魔除けと活性化の力―

 午前3時、天地の主人公は秋の虫たちです。
 今朝は、目覚ましのために、貴重な2分21秒を使い、オリヴィエ・メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』第一楽章「水晶の礼拝」を聴きました。
 メシアンは解説しています。
「朝の3時と4時の間に、鳥たちは目覚める。
 光り輝く響きと木々のこずえ高く消えてゆくトリルの光輝のただ中で、ツグミ、あるいはナイチンゲールが即興的なソロをうたう。
 これを宗教的次元に移し換えよう。
 あなたは調和に満ちた静寂を得るだろう。」
 鳥たちはまだ寝ているし、ツグミはまだ、飛来していません。
 自然の音をバックにして、ほんのひととき流れた現代音楽が終わってみると、虫の声と静寂が不思議な共存をしていると感じます。

2014082600012.jpg
〈産経新聞様よりお借りして加工しました〉

1 亡き戦友へ詣でる人

 目に焼き付いた写真と記事を思い出しました。
 8月16日付の産経新聞が掲載した元陸軍兵士杉浦彦示氏(92才)です。
 初めて靖国神社を訪れた氏は、記者へ語りました。

「私が所属していた陸軍は行軍があって勝手に休めないから……。
 つらくて自決する人も少なくなかったんですよ」
「軍隊は『運隊』だとよく言っていた。
 弾が当たれば運が悪かったと思うしかない」


 記者は書きました。

「セミの鳴き声だけが響き渡る中、腰の曲がった杉浦さんは、少しでも姿勢を正そうと、必至につえで体を支えていた。
 少しでも鎮魂の思いが届くように、と。」


 今の自衛隊ですら、心が不調になる人々は後を絶ちません。
 勝手に休めない行軍ではいかなる気持だったのか……。 
 運に任せて撃ち合いの場にでかける若者は、いかなる気持で日々を生きていたのか……。
 学徒兵の遺稿集『きけ わだつみのこえ』などは涙なしに読めませんが、衆目を集める遺書とならなかった無数の方々の思いは、忖度しきれるものではありません。
 15才から志願して海軍にいた氏が、腰の曲がった今も戦友たちの前で姿勢を正そうとする強い目の光に、私たちの持つ根源的な〈の力〉を感じました。

2014082600022.jpg
〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

2 土砂災害で救済に当たった住民の方々

 8月25日付の朝日新聞は、広島市安佐北区の可部地区で、20日朝、土砂崩れが起こった直後に救助作業を行った住民たちについて報じました。
 午前5時過ぎ、元自治会役員の中村光政氏(68才)は、被害がでていると聞いてただちに役員へ招集をかけ、一人で現場へ行きました。
 押し潰された家にいる老夫婦の救助作業に駆けつけていた4人の消防隊員に言われました。

「命の保証はできんけど、手を貸してくれたら助かる」


 いつの間にか20人もの男性住民が集まり、茶碗で泥をかき出すなど必至の活動が始まり、午前8時頃にはかけつけた孫が「おじいちゃん、来たよ!」などと呼びかけました。
 近くの集会所に集まった女性たちは「おにぎりや味噌汁を作り、救出に当たる男性たちを支え」ました。
 正午過ぎに妻、午後2時過ぎには夫が意識のある状態で救出され、「住民たちは拍手して喜んだ」そうです。
 9月24日には、全国からボランティアの人々が駆けつけました。
 大事な仕事を休んだ方も、あるいは、あまり世間の光が当たらないところでひっそりと暮らしている方々もおられることでしょう。
 命の保証がないところに踏みとどまっても仲間を救おうとする人々、見ず知らずの相手へ身施(シンセ…身体を用いる布施)を実践する人々。
 こうした姿こそ、私たちが世界へ誇ることが許される〈ある文化〉を表していると言えるのではないでしょうか。

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3 福島第一原発の所長だった故吉田昌郎

 事故調査・検証委員会が故吉田昌郎元所長から聞き取った400頁に及ぶ調書がようやく公開されることになりました。
 すでにいろいろと報道されていますが、昨夜のNHKテレビでニュースの最後に紹介された氏の言葉は耳に残りました。

「口幅ったいようだが、ここの発電所の発電員、補修員は優秀だ。
 今までトラブルも経験し、肌身で作業してきた経験があるから、これだけのことができたと思う。
 私が指揮官として合格だったかどうか、私は全然できませんけども、部下たちはそういう意味では、日本で有数の手が動く技術屋だった。」


 ここに、〈現場の人々〉の矜恃も名誉も尽くされているのではないかと感じました。
 氏は、別の場で、爆発後の建屋へ向かう部下たちの背中を見て「菩薩(ボサツ)を感じた」とまで述べています。
 私たちは、経験したことのない危機的状況で右往左往する関係者たちへ狭い視野から批判を重ねるよりも、死の恐怖に耐えながら毅然と行動した現場の方々に想いを致し、自らの姿勢を正す気持になりたいものです。
 ここには、線路に落ちた人を救おうと線路へ飛び降りる人の思いと共通するものがあります。
「そうしないではいられなかったから、降りたのです」
 私たちが魂を揺すぶられるのは、彼らの〈の光〉に、眠っているが共鳴するからではないでしょうか。

4 は魔除けの力

 の文字はそもそも、呪力を孕む目が持つ魔除けの威力を指すものでした。
 白川静の『字統』は教えています。

「そのような威力が、呪飾による一時的なものでなく、その人に固有の内在的なものであることが自覚されるに及んで、それは徳となる」


 私たちの霊性が具体的な行動という形をとる時、それは徳の力、徳ある文化、徳の光として輝き、悪しきものや魔ものたちを自然に教化し、浄化し、人間として大切なものを守ることができます。
 兵士の鎮魂も、住民の救助活動も、事故現場のプロたる仕事も、ともすれば眠りかけている私たちの徳を活性化させてくれます。
 自分の得に走らず、自他の徳に感応し、霊性を持つ者として生き生きと歩もうではありませんか。




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2014
01.27

平成26年2月の運勢 ─本田圭佑選手や田中将大選手に観る修身の姿─

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〈グラウンドへ礼を捧げる田中将大投手です。産経新聞様からお借りして加工しました〉

 2月の運勢としては、儒教の説く「修身(シュウシン)斉家(セイカ)治国(チコク)平天下(ヘイテンカ)」をよく考えてみたい時期になります。

『大学』という書物にはこう書かれています。

「物に本末(ホンマツ)あり、事に終始あり。
 先後(センコウ)するところを知ればすなわち道に近し」


(樹木に根があり枝葉もあるように、モノには本と末がある。
 ものごとにも、終わりと始まりがある。
 先になるものと後になるものとを知れば、人の道へ入る者と言える)

 ものごとが成って行く順番をきちんと把握しなさいと説かれています。
 それに続いて、冒頭の教えがきます。

「古(イニシエ)の明を天下に明らかにせんと欲する者は、まずその国を治む。
 その国を治めんと欲する者は、まずその家を斉(トトノ)う。
 その家を斉(トトノ)えんと欲する者は、まずその身を修む。」


(古人の叡智を天下へ明らかにしようとするならば、まず、天下を動かそうとするより先に、国を治めなければならない。
 国を治めようとするならば、まず自分の家庭がバランスよく営まれるようにせねばならない。
 自分の家がそうあって欲しいならば、まず、自分の身を修めねばならない)

 ここで、因果によって先と後を整理しなおせば、冒頭の順番になります。
修身→斉家→治国→平天下」
 これは、自分の身を修められなければ、家も国も混乱し、ひいては天下が狂ってしまうことを意味しています。
 だから、「修身」は、家のためにも、国のためにも、この世のためにもまず最初に、やらねばなりません。

 さて、修めるとはいかなることでしょうか?
 そもそも「修」の文字は、祭事へ臨む前に背中から水をかけてもらい、清めることを意味しています。
 だから、修身を実行するとは、何よりもまず穢れを去り、神仏の前へ出て恥ずかしくない心身になることです。
 清らかな者になれば、家にあっては、その言葉や行動が家族間へ家族らしい親和をもたらし、国へ関わってはによる政治が可能になり、ひいては天下に叡智の光があふれるようになるのです。
 こうした観点から考えると、テレビでは他人をいぎたなく罵るような場面が喜ばれ、政界では攻撃的な人物が目立ち、私たちの脳が〈見る〉ことによる刺激を最も強く受けやすいことに乗じた不の風潮があるのは問題です。

 サッカーの本田圭佑選手がイタリアで行ったミラン入団に関する記者会見では、おそらく、地元の記者たちが、言葉少ない選手の周辺に漂う不動心のようなものを感じていたことでしょう。
 また、野球の田中将大選手は、地元仙台市でヤンキースとの契約を発表した後、しばし、グラウンドへ一礼を捧げました。
 両氏の〈静寂〉こそ、会見での言葉に勝るとも劣らぬほど饒舌にのありようを表していたように思えてなりません。
 聞いた言葉はやがて忘れても、が感応した印象はなかなか消えません。
 そして印象は、心中で何かを熟成させ、人生の宝ものになったりすらします。
 両氏がどのように身を修めてきたかは知りません。
 しかし、血肉となったはおのづと、確かに、無言の空間へ拡がっていました。
 それと感応する無数のへ、確かに、届いていたことでしょう。

 冒頭の教えはそもそも政治に携わる者へ説かれましたが、「先後するところ」を知り、「まずその身を修む」姿勢の価値は、どの世界にあっても変わりません。
 身を修めることは、すべての出発点となり、修めつつ進めば確実に成就へ近づけもしましょう。
 周囲にいる〈修めた人〉や〈修めつつある人〉に見倣いたいものです。

 皆さんが修身に留意し、運勢を生かし、開運されるよう祈っています。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2013
12.16

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その66)─恩と徳とに囲まれて─

2013121600001.jpg

 江戸時代まで寺子屋などでで用いられていた『実語教童子教』を読んでいます。

を戴(イタダ)いてを知らざるは
 樹の鳥の枝を枯らすが如し  
 を蒙(コウム)つてを思わざるは
 野の鹿の草を損ずるが如(ゴト)し」


(せっかくを受けて育ち、生きているのに、というものを知らなければ
 樹をより所とする鳥が、止まらせてもらう枝を自分で枯らしてしまうようなものである
 せっかくを受けて育ち、生きているのに、というものを思わなければ
 野にある鹿が、食べさせてもらう草を自分で絶やしてしまうようなものである)

 私たちは、受胎した瞬間から、この世での無限のをいただき始めています。
 まず、受胎という肉体的な縁がなければ、意識がこの世で新たな活動をする拠点が得られません。
 意識はんでもなくならず、どこかで、次のチャンスに備えています。

 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「この肉体、この特定の生命に属するこの具体的な肉体にとって、とは変化の時を告げるのみである。
 古い着物を投げ捨て、新しい着物を身にまとうように、普遍的存在が古い肉体を捨て去り、新しい肉体に宿る節目である。
 であるならば、《》に対する人間の対応は、恐怖とはまるで異なるものとなるはずだ。
 に臨むとき、自分の心から恐怖を取り払うことができるはずだ。
 精神的な修養を積んだ者なら、が現実に迫れば迫るほど、心は豊かに穏やかに、それでいて喜びに満たされるものなのだ。
『時は来たり。
 若々しく、新鮮で、より可能性を秘めた肉体を、そして、新しい人生を己(オノ)が手にする時が来たり』
と。」


 このように、前世でのを通過して、〈新しい人生〉を生きるチャンスが生じたのです。
 受胎とは何とありがたいことでしょうか。
 そして、生まれる時も、生まれてから生きて行く上でも、無数の人々や、いのちあるものたちから受ける恵は、無限というしかありません。
 それを知らないままでは、せっかくの縁を次々と枯らし、自分で自分の人生を破壊するようなものです。
 恩については、以下をご参照ください。

http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3973.html(11月21日)
http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3931.html(10月17日)
http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3929.html(10月16日)
http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3931.html(10月14日)

 また、私たちは、周囲の環境に無限のがあればこそ、まっとうな人間として生きて行けます。
 心は環境に染められ、黒い心に囲まれていればどうしても黒っぽくなり、白い心に囲まれていれば、いつの間にか白っぽくなります。
 古人は「朱に交われば赤くなる」と言いました。
 の高い親や先輩や指導者などに恵まれれば、いつしかその感化を受けて徳が高くなり、反対の場合はどうしても徳が伸びないものです。
 事件を起こした被告人が情状酌量を受ける際に、育った家庭環境などが勘案されるのは、そのためです。
 自分の意志だけでは抗えないほど強く悪へ向かわしめる力によってつくられた精神のありようを、すべて被告人のせいにしてしまうのは酷ではないかという共通認識が、私たちの社会にはあるのです。
 だから、私たちが罰せられるほどの悪行へ走らず、どうにか社会人として生きて行けるのは、徳を持った人々に囲まれて生きているからです。
 もしも、右に住む隣人はいつも窃盗を行い、左に住む隣人はいつも暴力を揮い、前に住む隣人はいつも生きものたちを虐待し、後に住む隣人はいつも道路へゴミを投げ捨てていたなら、私たちは落ちついた精神状態を保ちながら生活することができません。
 そして、いかなる〈功成り名遂げた人々〉も、決して自分だけの力で結果を出したわけではありません。
 周囲の徳が自分の徳を育て、自分の徳もまた周囲へ徳の輪を広げればこそ、ことは成ります。
 小関智弘著『どっこい大田の工匠たち』を読むと、世界に通用するほど卓越した個人的技術力や発想力を持つ「~師」と呼ばれる人々ですら、徳の縁によって力が生かされているという真実がよくわかります。
 こうした徳のありがたさに思いをいたすことができなければ、自分のいのちと心を養うありがたい縁を自分で絶やしてしまうのです。

 恩と徳をよく考えてみましょう。




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2011
12.07

なぜ結婚披露宴を行うのか?

 ある結婚式の最後に「お台場デザイナーズオフィス」の代表平嶋敬義氏が言いました。
「こうしてお招きいただいた私たちには、お二人に今後しっかりやって行かせる責任があると思っています。
 よかったねで終わりではありません。
 そして、堂々と披露宴を行った以上、二人は、私たちに対してしっかりやって行く義務を負うのです」
 結婚によって発生する新たな社会性をこれほど簡単明瞭に指摘する話を聞いたことがありません。
 新郎は最高レベルの国家試験を突破した俊英であり、周囲がなかなか口に出せる言葉ではなく、先輩の先輩たるゆえんを明らかにしたという意味でも値千金のスピーチでした。

 思い出したのは『書経』の一節です。

「人を玩(モテアソ)べばを喪(ウシナ)い、物を玩(モテアソ)べばを喪(ウシナ)う」


 周の武王が新たな王朝を開くと、各地から次々と貢ぎ物が届きました。
 その中に人の心を知るという大きな犬があり、武王は非常に気に入りました。
 様子を見た部下の召公は、王をいさめようと語りかけました。
「気に入ったものに囲まれ、人も、物も、思いのままになると考えてはなりません。
 人を弄べば、いつしか人を失いましょう。
 物を弄べば、いつしかを失いましょう」
 召公は最後にとどめを刺しました。

「山を為(ツク)ること九仞(ジン)、功を一簣(キ)に虧(カ)く」


 どんどん土を盛られた高い山ができあがる寸前まで行っても、最後の一盛りがおろそかにされれば完成しないという譬えです。
「王朝の構築も持続もこれからではありませんか。
 ゆめゆめ、気を抜くようなことがあってはなりません」

 平嶋敬義氏は新郎の部下ではないけれども、誰しもが言いにくく、誰かが新郎新婦へ伝えておくべき言葉を述べました。
 これだけの智慧と胆力がある氏は、きっと〈ことを為す〉に違いありません。
 もちろん、新郎新婦は言葉を肝に銘じたことでしょう。
 招待客たちも。
 文字通り意義の深い披露宴でした。

〈鈴木清:「流れの歌」より〉
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