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2014
12.04

なお翔ぶは凍てぬため愛告げんため ―折笠美秋の凍てつかぬ愛―

201412040001.jpg

 俳人折笠美秋(オロガサビシュウ)は昭和57年、48才で筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、8年の闘病後、世を去った。
 現在のように機器が発達していない頃、微かに動かせる目と口のみを伝達手段とし、最期まで俳句を詠み続けた。
 そして残りの力を振りしぼり、書き取り続けたへこの句を贈った。

「なお翔ぶは凍てぬため告げんため」


 たとえ身体は動かずとも、心はなお、活動し続けている。
 凍てついてはいない。

のうち吹雪いているのかもしれぬ」
「いちにちの橋がゆつくり墜ちてゆく」
「目覚めがちなる碑あり我れに眠れという」


 死はすでに実感されつつある。

「微笑がの慟哭雪しんしん」


 がつくる笑顔に隠された嘆きも手に取るようにわかる。

 それでもなお、新聞記者を務めた強靱な精神はへこたれない。
 いのちがあるとは、魂が常に飛翔していることである。
 その力をもたらしているのはであり、飛翔は、そのへ応えるで終わっている。

「七生七たび君を娶らん吹雪くとも」


 幾度、生まれ変わろうと、いかに過酷な境遇であろうと、自分のは君しかいないと詠む。

「逢わざれば逢いおるごとし冬の雨」


 が目の前にいなくても、心身を凍らせるような冬の雨が降りしきっていようと、一緒にいるという安心感はびくともしない。

「ひかり野へ君ならに乗れるだろう」


 自分はすでにあの世に真冬を観ているが、これほどのを持った君ならきっと、自由なとなり、ヒラヒラと光明の世界へ入って行けるだろう。

「覚悟とは甘えのことぞ冬残照


 この句については、すでに、ブログ「覚悟とは甘えのことぞ冬残照 ─死を正面に観た俳人折笠美秋─」へ以下のように書いた。
 冬の残照は有無を言わせない。
 非現実的なほど圧倒的な赤紫。
 人の世が燃やされる火事を映すかのような葡萄色に染まった空は徐々に黒く塗りつぶされ、西の山のあたりに余韻を残しながら、残照は去る。
 そして、のっぺらぼうな闇がやってくる。
 血潮の流れる五体をかけて誓う覚悟という気負いなぞ、何の苦もなく塗りつぶされる。
 あまりに確かな死によって。

俳句思う以外は死者かわれすでに」


 折笠美秋には最期まで俳句があった。
 最期まで俳句にかけた。
 俳句をもたらす想念は、もはや、一個の生きものと化し、折笠美秋そのものになっていたのだろう。
 仏法が説く「五力(ゴリキ)」の一つである念力の真骨頂である。合掌




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2011
11.29

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その35)─正しい信じ方─

 江戸時代の寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 日本人の宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校で大人にも子供にも学ばれるよう願ってやみません。

信力(シンリキ)堅固の門(カド)には  
災禍(サイカ)の雲起ること無し
念力強盛(ゴウセイ)の家には  
福祐(フクユウ)の月(ツキ)光を増す」


(信じるべきものを信じて揺るがない人びとの家には
 災いの暗雲が起こらない
 念ずべきものを念じる力が強い人びとの家には
 幸福が月光の増すようにどんどんやってくる)
 この教えは、よく学び、信ずべき価値あるものを自分できちんと見つけられるような人になること、また、友情など、見つけた宝ものはしっかり守り抜くことの大切さを教えています。
 それは、同時に、付和雷同(フワライドウ…自己の確立がなく、他人に引きずられること)を戒めてもいます。
 ただし、よく考えないで信じ込み、視野を狭くしてしまう盲信(モウシン)ではなりません。

 かつて、ブログ「五力」へ書きました。

「信じるとは、疑いが無く、魂をポーンと投げ入れてしまい喜びや充実感や安心が深まる状態です。
 それは、決して判断をしないという意味ではありません」


 そして、み仏の教えが本当に〈信じられる〉ためには、いて、考えて、修めるという過程が必要であることも書きました。

「『(モン)』は、くことであり、学ぶことです。
 それが本ものなら必ず対象を仰ぐ姿勢になるはずです。
 相手の人格にうたれた時は、無意識に相手を仰いでいます。
 それを『仰信(ギョウシン)』と称します。

(シ)』は学んだことをよく考え、自分でやってみて肝心なところをきちんと理解することです。
 それを『解信(ゲシン)』と称します。

『修(シュウ)』は習い修めることです。
 もちろん、仰ぐ人はどこまで行っても自分より高く、どこまで行っても背中に追いつけはしませんが、少なくとも、歩かれた道を自分もたどっているという確信は持てます。
 いつのまにか、出会と相手の高みの真実性を自分で証明しているのです。
 それを『證信(ショウシン)』と称します。

 信じるとはこういうことです。肝心なものが自分の血肉になることです。
 み仏のご用意くださった出会があり、精進があり、確信にたどりつきます。
 その過程を貫くものが信という心棒であり、過程によって信は強まります。
 心を澄ませていれば、きっと聖なる出会が生じ、信じるありがたさに深い感謝の持てる時がくることでしょう」

 
 何を信じるにもこうした過程があれば安心であり、信じる力も強くなって人生の牽引車になります。
 ただし、合理性や安全性を無視した信力念力の強制は極めて危険です。
 戦争を経験したAさんは、勉強会でしみじみ言われました。

「軍隊では、40キロを1日で進む行軍の訓練がありました。
 もちろん完全装備の状態で、小走りを続けるのです。
 過酷なあまり当然、動けなくなる者が出ます。
 完遂しないとグループ全体の責任になるので、引きずったり、担いだりしながらでも、何とか仲間全員で目的地へたどり着こうとします。
 私が参加させられた訓練では2名の死者が出たこともあります。
 肝っ玉が据われば何でもできる、出来ない奴はたるんでいるという歪んだ精神主義は実に怖ろしいものです。
 二度とあって欲しくありません」


 狂信を強いる教団に取り込まれたご家族を、一緒になって取り戻した体験もあります。

 良いとされることは、よくき、自分で考え、納得したならとことん修め信じて生きる糧や柱にする。
 こうしたプロセスの大切さこそ、この教えに学び、指導するポイントではないでしょうか。

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2010
10.21

子猫の導き ─超能力研究の先駆者福来友吉博士─

 おかげさまにて、ミケ子が生んだ子猫5匹は、無事、育ての親が決まりました。
 ところで、最後のキジトラの雌猫は、意外な縁を結んでくれました。

 仙南在住のご老人Aさん(87歳)から、出かけられないけれどもどうしても猫を欲しいというお申し出があったので、猫係の妻と二人で、法務を終えてからでかけました。
 Aさんはとても喜ばれ、「今夜から抱いて寝る」と言われました。
 さて、ごていねいにも「猫の子授受の記念として」と書かれた紙袋をいただいて帰山し、開けてびっくりでした。
 そこには、昭和52年4月1日発行の『文藝春秋デラックス』が入っており、同書97ページから9ページにわたって博士の生涯が特集されていました。

221021 002

 Aさんは東京の古書即売会の案内状でこの本を見つけ、大事に保管しておられました。
「死・生の難問に苦しんだ」Aさんは、医者のインターンだった頃、最後には「一週間に1日だけ、来訪を許します」と言われるほど熱心に毎日、福来友吉博士を訪ねた時期があったからです。

 福来友吉博士は明治2年、飛騨の高山で生まれました。
 東京帝国大学哲学科を卒業後、同大学院で変態心理学(催眠心理学)を研究し、明治39年に「催眠術の心理学的研究」で文学博士号を授与され、その2年後には東京帝国大学助教授になりました。
 明治43年、月の裏側を写真の乾板へ念写し、世界百科事典に「念写」という言葉を登場させた三田光一氏や透視力を持った御船千鶴子といった超能力者を探し出して公開実験などを行いましたが、学会から白眼視され、大学を追放されました。
 太平洋戦争の敗戦後は仙台二高出身の縁で仙台市へ疎開し、そのまま83年の生涯を閉じました。

 さて、真言密教を学び始めた私にとって最大の関心事は「法力」でした。
 宗教による救いが可能なのは、教えによる納得と、修法によるご加護の実感だからです。
 この二つは別ものでありながら、不可分です。
 なぜなら、「人は必ず死ぬ」という真理が迷っている人の目を覚まさせるのは、法を結んで語る人の力が事実を納得させるからです。
『法句譬喩経』が説くとおり、子供を失って半狂乱になった母親がこの真理に気づいて救われたのは、〈釈尊が説かれた〉からであって、同じことを周囲の人からいくら言われても耳に入らなかったことを考えればすぐにわかります。
 また、ご加護が本当に救いとなるためには、教えの理解が支えとなります。
 当山が『法楽の会』と『ゆかりびとの会』に力を入れているのは、修法によるご加護と、教えの理解による日常的な生活態度の向上があいまってこそ、み仏の救いの掌で生きられるからです。
 こうした救いの源泉はもちろん、ご本尊様としてのみ仏にあります。
 そして、源泉から流れ出ている目に見えない聖水が必用とする方へ確かにもたらされるための流れをつくるのがご加持法であり、つくる力が法力です。
 行者としての僧侶は、教えの理解と法力の習熟にすべてをかける存在であり、プロであるかどうかは、この二つが血肉となり求めに応じて役立てるかどうかにかかっています。

 行者である私は、一時、福来友吉博士が研究した超能力に興味を持ち、主著はすべて読みました。
 お大師様に深く傾倒していた三田光一氏が数枚重ねた乾板の一枚へ念写したというお大師様の像も持っています。
 しかし、師から諭されました。
念力法力は別であり、ただただ、定められた法を結ぶこと」
 念力は個人的な能力であり、法力は修法によってみ仏の世界へ入れば知らぬ間にみ仏からもたらされているものであると理解しています。
 それにしても、当時の学会では誰も見向きしなかった分野を切り拓こうとした福来友吉博士の真摯な研究ぶりには頭が下がります。
 科学的実験をくり返し苦労した結果、超能力についてこうした言葉を残されました。
 ご加持の修法を行う者にはよく理解できます。
「一本のピンの上の板のバランスのように微妙なものだ」

 ところで、この本には、驚くべき「猫の超能力」が紹介されています。

 1949年、北米フロリダ州のチャールズ・B・スミス夫妻は、家をロバート・ハンソンへ売り、飼い猫トムもハンソンに託してカリフォルニアへ引っ越しました。
 ところが半月後、トムは行方不明になります。
 それから2年と49日後、スミス夫人は庭で猫の声を聞きます。
 出て行った夫人の足元へやせこけた猫が駆け寄り、「体をすりつけ、ごろごろとはげしく咽喉をならし」ました。
 夫妻は体の特徴や食べものの好みからトムであると確信し、「倒れそうにおどろいた」そうです。
 何しろ、「大河、山岳、砂漠地帯、大都会、森林」などを行く2500マイル(約4000キロ)の旅でした。

 当山を真言宗の寺院とも知らず、大切にしていた本を用意して待っておられたAさん。
 世代は離れていても福来友吉博士への共通する強い関心と共感。
 福来友吉博士は仙台二高の大先輩。
 不思議なご縁でした。
 5匹の子猫たちは、きっと、育ての親のそばで元気に生活することでしょう。
 よもや、トムのようなことには……。

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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2008
07.21

行者の心得 その4

10 結界を張ること。

 結界において一番気をつけねばならないのは、自分が仏神であると思いこんで死んだ人がそのまま妄者となって現れて来る場合があるので、それを決して入れないことです。
日本霊異記』などを読めば、意志を通したいと我を張ったまま妄者となった怨霊のすさまじさが解ります。
 正統な修法結界を結ばないと、念の力が妄者を呼び寄せてしまうことも珍しくありません。
 テレビで怪しい占い師や霊能者が、何かにとりかかるとすぐに気持が悪くなったり、不安げな表情になったりするのは、自分でそうした流れを作るからであり、護身法の力を甲冑としてまとう正統な行者は何ものを相手にしても淡々としており、何ものにも怯えません。
 気持が悪くなったり怯えたりしたら勝負は負けに決まっています。
 だから、第三者の目から見れば、特殊な場合を除けば、何ら〈それらしい〉ところがないままに、修法は終わります。
 護身法は、自分自身へ結界を張るものであり、隠形流行者は迷わず、惑わされず、ただただ素直に伝授を信じ、励みましょう。
 まず、きちんと自分の身を護られればこそ、いかなる亡者をも安心の世界へ導くことができます。
 泳げない人は、溺れている人を救うことはできないのです。

11 念力ではなく法力でことを行うのが仏法を信ずる行者の務めである。

 念ずることにおいて制限はなく、その内容は、善であったり悪であったりします。
 なぜなら、誰でも勝手にできるからです。
 しかし、法を結ぶことは、決して勝手にできはしません。
 なぜなら、法力を動かせる行者からしか法力は受け継がれないからです。
 だから、お大師様は、法の伝授は「器から器へ移すようなものである」と説かれ、弟子が密教を伝授されるべき器であるかどうかを見極めるのが、師となる者の大事な仕事です。
 そして、受け継がれたものは、正しい修行方法によって正しく行者の血肉にならなければ決して生きません。「知った」だけになってしまい、宝は持ち腐れとなります。
 
 法力によって事態が動いたからといって驚く必要はありません。
 法力は加持力となっていのち全体へはたらきかけており、たとえ目立たないとしても心が変化していることは、何よりも大きなできごとなのです。
 修法の場を体験された方が、「霧が晴れました」「心が軽くなりました」「前へ進めそうな気持になりました」などと述懐されるとおりです。

 なお、仏法において「念ずる」とは、心へしまい込むべきものをきちんとしまい、努々(ユメユメ)疎かにせず、決して離さないことを意味します。
 釈尊は、それを「正念(ショウネン)」と説かれました。
2008
01.14

ご加持法としての隠形流居合

 密教における秘法であるご加持は、修法が終わってもあまり疲れません。
 それは、行者の身・口・意がアンテナとなって、み仏からいただくご加護の力が、救いを求めておられる方へ届くからです。
 行者は念力超能力を出そうと力む必要はありません。
 ご加持の世界は、スピリチュアル何とかという方々のやっている前世当てや、心優しい方々が研鑽している手かざしとはまったく別の原理に立つものであり、行者と受者が正統な方法で正しく行えば、無意識の裡にみ仏との感応が起こり、余分なものや邪魔ものが消え、身心が本来の力を取りもどせます。
 かつて、手かざしで有名になったまじめな男性が、世のため人のためと懸命に術を行っているうちに疲れ切ってしまい、廃業宣言をしてマンションへ隠ってしまったたことがありましたが、新聞記事を読み、彼のような真摯で感応力の鋭い人にこそ密教の門を叩いてほしいものだと痛切に感じたものです。

 密教の修行である隠形流居合においても、身体で剣を振り、口から気合真言を発し、心に観想を持つ身・口・意のバランスが大切です。
 一刀ごとに声をしぼり、動かす剣の先で魔を祓う信念を持つことです。
 黙っていては、エネルギーを出すだけになってしまい、早く疲れます。
 たとえ日中の仕事などでエネルギーが怪しくなっていても、丹田から声を出しましょう。
 力や早さを競う必要はありません。
 正確に、真剣に、手抜きをせず、今の自分のできる範囲できちんと行うことがすべてです。
 そのまごころとまじめさと清らかさを、み仏は必ず観ておられます。
 だから、きちんとできないなら、むしろ休んで体調を整え、また立ち上がるべきです。
 そもそも、たくましい武芸者を目ざすのではなく、他へ優しく、自分に厳しく、自他のためにまっとうに生きられる人間になるのが当流の目的であり、無理な稽古をする必要はありません。
 しかし、いかに仕事や家事や勉強などで疲れていても、身・口・意のバランスがとれた稽古なら、それなりにやれるものです。
 日中は托鉢や人生相談などを行い、夜中に自分の修行をした〈夜学行者〉の体験上、断言できます。
 だから、女性でも年配の方でも続けられ、やがて見違えるように活き活きし始めるのです。
 誠心をこめた修行によってまず自分へご加持ができるようになり、やがては誰かのためにもなれる菩薩を目ざして、今年もやりましょう。






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