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2016
08.23

お釈迦様の教団を乗っ取る? ─タブーにとらわれる危険性─

2016-08-23-0001.jpg
〈緑深い自然墓『法楽の郷』〉

 お釈迦様の晩年、弟子の提婆(ダイバ)が阿闍世(アジャセ)という王の帰依(キエ)によって勢力を持ち、教団の乗っ取りにかかった。
 お釈迦様は弟子たちへ注意された。
 以下、武者小路実篤著『釈迦』から抜粋する。(現代風に漢字と仮名を変えた)

「愚かなものには、あまりに布施(フセ)が多いのは、悪をます原因になる。
 愚癡(グチ)なものは、清浄な行をしないで、弟子をつくることを考え、人の上に立つことを考える。
 人がもし一方で多くの供養を求め、他方で涅槃(ネハン)を求めようとしても、それは無理である。
 涅槃を求める心はいつのまにか、貪欲(ドンヨク)な心となる。
 あまりに寄進を貪るものは自らを傷(ソコ)ね、他人を傷つける。
 だからお前達は提婆が多くの供養を受けるのを羨んではいけない。」

「芭蕉(バショウ)や竹や葦(アシ)は実がなるとそのために死ぬ。
 驢馬(ロバ)も懐妊(カイニン)するとその身を喪う。
 提婆供養を多くもらいすぎると同じ結果になる。」


 お釈迦様は弟子たちから提婆の追放を求められても放置した。

提婆を去らせる必要はない。
 勝手にさしておくがいい。
 しかし阿難(アナン)よ。
 愚かなものには逢ってはいけない。
 一緒に仕事をしてはいけない。
 無用な論議もしてはならない。
 提婆は今、邪念が益ゝ(マスマス)高まっている。
 悪狗(アクク…獰猛な犬)を打てば、ますます凶暴になるようなものだ。
 さわらないがいゝ。」


 提婆は取りまきたちと策謀をめぐらす。

「仏陀の弱点は何処にあるかと云うことを第一に知ることが必要だ。
 そして私の教えの法が仏陀の教えよりも正しいことを人に知らすことが必要だ。」


 彼らは、お釈迦様が供養で出された魚を食べること、供養で受けた上等な着物を身にまとうことを攻撃しようと決めた。

「一 衲衣(ノウエ…糞掃衣〈フンゾウエ─汚物を掃除したようなボロボロの着物〉のこと)を着ける事。
 二 一食(イチジキ)の事。
 三 魚の肉は食わない事、それを食えば善法は生じない事。
 四 食(ジキ)は乞う事、他の招待は受けない事。
 五 春夏の八ヶ月は露座し、冬の四ヶ月は草案に住する事。人の屋舎(オクシャ)を受ければ善法は生じない。」


 大勢の弟子たちが集まった講堂で、ついに提婆はお釈迦様へ面と向かって難詰した。

「世尊(セソン)、私は、この頃つらつら考えてみましたが、沙門(シャモン…出家修行者)は矢張り、一生糞掃衣を着けて過ごすべきだと思います。
 又食事も一日一食にし、乞食法(コツジキホウ)で得たものだけを食べ、他人の家へ食事に呼ばれても御馳走になるのは堕落の始めだと思います。
 それから夏は露地に住み、冬は草庵に住むべきで、立派な家に泊まるのはよくないと思います。
 殊(コト)に魚を食うなぞは殺生戒を重く見る我々には見逃すことのできない悪事ですから、魚の肉は食わないようにすべきだと思います。
 この五つの法を守れば、少欲知足(ショウヨクチソク)の善法を守ることが出来、精進、持戒、清浄の諸徳を自ずから具え、涅槃(ネハン)に早く入れるようになると思います。
 この五法は皆に守らせるようにしなければならないと思いますが、世尊はどうお考えになりますか。」


 お釈迦様は貧しい者から王様まで広く帰依(キエ)を受け、法を説いておられたので、高貴な人からは手厚くもてなされた。
 相手に応じて受ける供養を、提婆は堕落であると指摘した。
 お釈迦様は答えられた。

お前はなぜ五法がいいと思うなら、自分一人で行わないのか。
 私はそれを決して禁じてはいない。
 むしろ私はそれをほめている。
 だが、それは誰にでも強制すべきではない。
 身体の弱いものもあるし、人の親切を無にしてはならない時もある。
 自分が行うならいいが、それを誰にでも行えと云うのは、事を好むものである。
 思うに、お前は、諸々の比丘(ビク)の和合しているのを、方便(ホウベン)をもって破ろうとして、わざとことを大げさにいい、非常行法(ヒジョウギョウホウ…特殊な決まりごと)を、常行法(ジョウホウギョウ…常に行うべき決まりごと)として説くのであろう。」

「過去の諸仏は糞掃衣をおほめになり、それを着るのをお許しになっている。
 私もそれをほめ、それを着ることを許している。
 私は同時に、居士(コジ…在家で徳の高い人)の供養する衣も着ることを許している。
 過去の諸仏は乞食をおほめになり、お許しになっている。
 私もそれをほめ、それを許している。
 過去の諸仏は一食をほめ、それを許している。
 私もそれをほめ、それを許すが、二食するものを許す。
 過去の諸仏は露地に住むことを賞め、それを許している。
 私もそれをほめ、それを許しているが、又家に住むことも許している。
 私は殺すところを観たり、聞いたり、又私のために殺した疑いのある肉を食うことは許さないが、私の知らない所で、既に殺されてしまった、三つの浄肉は許しているのだ。
 それ等はお前達が思っている程、涅槃(ネハン)に入るさまたげにはならないのだ。
 こうしなければならないとあまりにはっきりときめる方が反(カエ)ってさまたげになる。

 そのことを私は知っているのだ。」


 こう説き、個室での瞑想に入られたという。
 この世で生きることは、あくまでも、他者との〈関係性〉の中にある。
 だから、お釈迦様は、里にいる牛の声が聞こえる範囲に住んで修行するよう説かれた。
 仏道修行は、仙人になるのが目的ではない。

 ちなみに密教の行者は、十善戒などの戒律はふまえた上で、「四重禁戒」も守らねばならない。

正法(ショウボウ)を捨てる心を起こさない。
 悟りを求める心を捨てない。
 正法を他者へ与えることを惜しまない。
 衆生に不利益となることは一切、行わない。」

 自分が救われることと、他者を救うことは同じだからである。
 自分だけが何かをすれば救われる、何かをしなければ救われないというあまりにこまごましたことごとにとらわれると、自分の生活に対して依怙地(イコジ)になり、他者へ対して邪慳になり、つまらぬ軋轢(アツレキ)や深刻な対立や無用の軽蔑、あるいは幻の優越感などを生みやすい。
 また、自分や自分たちに対して、より厳格であることを見せびらかし、何かの手段にしようとする人々は宗教の世界だけでなく、どこにでもいる。

 何かにとらわれることの恐ろしさ、愚かさに気づき、見せかけの厳格さに隠された自己中心的な意図を見破りたいものだと思い、長々と引用しました。
 仏教はあくまでも智慧を大切にする道理の宗教なのです。




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2016
01.10

漢文『法句経』を読んでみる(その1)

20160109000522.jpg

 寺院や寺子屋ではもちろん、戦前までよく読まれていた漢文の『法句経(ホックキョウ)』を読んでみたい。
 戦場へ赴く若者が懐へ忍ばせていたという話も聴いている。
 当山でも学びの柱として欠かせない。

無常品(ムジョウホン)第一】

無常品とは、寤欲(ゴヨク)昏乱(コンラン)し、栄命(エイミョウ)保ち難く、唯(タダ)道のみ是(コ)れ真なり。

 無常品は説く。悟りへの強い希望を持っていても智慧は暗く、思い乱れているうちに輝く生命力は衰えてしまう。ただ、仏道のみが真理なのに。

〔一〕睡眠(スイメン)解寤(ゲゴ)すれば、宜(ヨロ)しく思いを歓喜すべし、我が説く所を聴き、仏言を撰記(センキ))せよ。

 心を塞ぎ眠気を催させるものから離れて悟りを求め、心を喜ばせ、仏の説法を聴いて言葉を選び取り記憶せよ。

〔二〕所行(ショギョウ)は非常なり、謂(イ)わく興衰(コウスイ)の法なり、夫(ソ)れ生ずれば輒(スナワ)ち死す、此の滅を楽と為(ナ)す。

 現象世界にある変化して止まないものたちは無常であり、起こっては衰える性質を持っている。生じたものは必ず死ぬ。生死から脱すれば真の安楽である。

〔三〕譬(タト)えば陶家(トウケ)の、埴(ウツワ)を埏(コ)ね器を作るも、一切は必ず壊るるが如(ゴト)し。人命(ニンミョウ)も亦(マ)た然(シカ)なり。

 例えば陶工が粘土をこねて器を作っても、すべてはいつか必ず壊れるようなものである。人の命も同様に無常である。

〔四〕河の駛(ハヤ)く流れて、往きて返らざるが如(ゴト)く、人命(ニンミョウ)も是(カク)の如(ゴト)し。逝きし者は還らず。

 川の水が早く流れ去って元の流れが戻らないように、人のいのちもまた、たちまちに去ってしまう。逝った者は二度と還ってこない。

〔五〕譬(タト)えば、人、杖を操(ト)りて、行牧(ギョウボク)して牛を食せしむるがごとく、老と死も猶(ナ)お然(シカ)り。亦(マ)た命を養うも去る。

 例えば牛飼いが杖を使って牛を牧場へ追い立て、草を食べさせるように、老いと死も私たちを追い立て、いかにいのちを大切にしていたとて、必ずあの世へ至らしめさせられる。

〔六〕千、百にして一に非ざる、族姓(ゾクセイ)の男女(ナンニョ)、財産を貯聚(チョジュウ)するも、衰喪(スイソウ)せざること無し。

 同族も異なる姓の男女も、いかに財物を蓄えようと必ず死によって失うことは、千に一つの例外もない。

〔七〕生ある者は日夜(ニチヤ)に、命を自ら攻め削り、寿(イノチ)の消尽(ショウジン)すること、煢穽水(ケイセイスイ)の如(ゴト)し。

 いのちのある者は日夜に自分でいのちをくしけずり、いのちが必ず消え尽きるのは、わずかな水がたちまち干上がるようなものだ。

〔八〕常なる者も皆な尽き、高き者も亦(マ)た堕(オ)つ。合会(ゴウカイ)に離(リ)有り、生者(ショウジャ)には死有り。

 いつも集まっていようと最後にはすべて死に絶え、高い地位にある者も最後には地へ還る。会う者には必ず別れがあり、生きている者には必ず死が待っている。

〔九〕衆生(シュジョウ)相剋(ソウコク)して、以(モッ)て其(ソ)の命を喪(ウシナ)う。行いに随いて堕する所、自(ミ)ずから殃福(オウフク)を受く。

 人びとは争いながら、限られたいのちを喪いつつある。善悪の行いに応じて災いの世界、あるいは福多き世界へと転生する。

〔一〇〕老いては痛を見、死しては則ち意(ココロ)去る。家を楽しみて獄に縛せられ、世を貪りて断ぜず。

 老いればを増し、死ねば心はどこかへ行ってしまう。それなのに日常生活の迷いに縛りつけられたままで、世間的楽しみを追い求め、の根源を断とうとしない。

 無常品はご葬儀などでも用いる。
 川の水が流れ去る教えは、『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」などに通じているのではなかろうか。
 わずかな水しかないところに棲む魚の教えは凄まじい。
 酷暑のインドにあっては、いかなる恐怖をもって聴かれたのか。 




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「おん あらはしゃのう」
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2015
12.02

悟りの心へ入る ─師走の聖語─

2015112100015.jpg

〈ジャズスポット・エルヴィン(宮城県登米市迫町佐沼)様にて〉

 今月も、お大師様の聖語に学びましょう。

「もしも、心中にある悟りの心へ入ることができれば、そこがそのまま、み仏の極楽浄土である。
 悟ったままの姿で、あらゆるみ仏のご加護を実現できる」

 私たちは、最高の安心が得られる世界と言えばすぐに極楽浄土を思い描くのではないでしょうか。
 太陽の沈む西方にある阿弥陀如来の浄土という考え方もありますが、そもそも、み仏のおわす場所は、私たちの心の中です。
 私たちの心を離れては、どこにもみ仏の世界はありません。

 お大師様は、み仏のおわす場所を「心中(シンジュウ)にして即ち近し」と説かれました。
 だから、身体も言葉も心もみ仏と一つになれば、それは、み仏の姿になったということであり、〈そこ〉こそが、極楽浄土です。
 そして、み仏になった人は誰でも、救いを求める人々のため、相手に必要な救いの手をさしのべることが出来るのです。
 以下は、原文です。

「もし本(モト)に帰すれば即ち是れ蜜厳(ミツゴン)国土なり。
 座を立たずしてよく一切の仏事を成(ジョウ)ず」


 人は死ねば灰になり、それっきり何もなくなってしまうわけではありません。
 私たちは合掌しますが、それは相手があってのことです。
 手を合わせる心のある方は、無意識のうちに、目に見えない何ものかがどこかに存在することを感じとっておられます。

 小生がご本尊様と一体になり、お戒名を授かる時も、目に見えない世界と不思議な通じ合いをします。
 たとえば、こんなことがありました。
 一番上の二文字である院号に魂の色合いを示す文字が現れ、真ん中の熟語である道号(ドウゴウ)にこの世での生きざまが現れ、なかなか最後の法名(ホウミョウ)が現れないで祈っているうちに、ポンと花の一文字が出ました。
 唐突な感じで、理由はわかりません。
 降りたお戒名を持ってお通夜へかけつけると、その一文字は。故人が最後まで気にかけていたお孫さんの名前だったのです。
 また、院号と法名の得も言われぬ響き合いが生じ、それは、故人のご友人が涙ながらに読み上げた故人のご生涯そのものだったりもします。
 
 こうした体験を重ねていると、ユングが重要視したシンクロニシティ(共時性)の真実性を実感します。
 故河合隼雄博士はこう述べておられます。

「何か同時的に不思議なことがぱっと起こるが、それは因果的に説明できない」
「因果的に説明不能であるが、共時的に起こる現象というのがどうしてもあると思わざるを得ない、とユングは言っているわけです。
 そしてそこに非常に大きい意味がある、とユングは言っているわけですね。」(京都大学での最終講義より)


 上述の戒名に接した方々の多くが、「非常に大きい意味」を感じとられ、お送りする葬儀の場が何であるか、その真の意味を実感されたりします。

 私たちは、何よりも、至心に合掌することで、お大師様が説かれた「本に帰する」姿になっています。
 そして心を静め、澄ませれば、その方なりの「蜜厳国土」へ入れます。
 また、現れたお戒名に心が揺すぶられた時は、その感動の中で故人へ思いを向けましょう。
 きっと、何かの通じ合いが実感できるはずです。
 今月は「本に帰する」を心に留めつつ生きてみませんか。




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2015
08.20

春雷を秘することなかれ ―さあ、起きよ!―

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 お大師様が24才で書かれた日本初の比較思想論である『三教指帰(サンゴウシイキ)』に印象的な言葉がある。

春雷を秘することなかれ」


 厳しい冬が去り、春が訪れたことを知らせる春の雷は「虫出しの雷」とも呼ばれる。
 安穏と冬眠していた虫たちは皆、驚き、眼をこすりながらノロノロと動き出す。
 目覚めの時が来たのだ。

 お釈迦様は、たらふく喰い、惰眠を貪り、楽しく暮らすことしか考えない行者へ、厳しく説かれた。

「さあ、起きよ!
 何がゆえに眠りこけているのか。
 虫たちや貝類が、暗く不浄の場所で安楽を貪っているのと同じではないか!」


 肉体的な目覚めよりも、発心(ホッシン…覚悟を決めること)を求めている。
 そして、恐懼して礼拝する行者へ説かれた。

「昔、ビパシン仏がおられた頃、汝は出家したものの、やはり我が身をかわいがるばかりで教えを保とうと努力せず、たらふく食べては眠りこけ、無常を観る修行を怠っていた。
 死後、ジガバチとなり、5万年の後、今度はどぶ貝となり、やがて樹を喰う虫となった。
 その間、暗い場所を好んで我が身を守り、のんびりと隠れ住む暗い場所を我が家として楽しむばかりで、光明を嫌っていた。
 ある時、百年の眠りから目覚めたが、過去の罪科にからめとられたままで、輪廻(リンネ)から脱しようとはしなかった。
 今、やっと罪科の報いが尽きて出家修行者となれたのだ。
 それなのに、惰眠を貪るばかりで真の安寧を求めようとしないとは、何たることか」


 連綿と続くいのちの流れの中で、虫や貝などとしてこの世へ生まれた時期もあったはずだ。
 ようやく悟り得る人間に生まれたのに、〈これまで同様〉の暮らしをしているとは何たることか。
 喰って、寝て、楽をするだけならなぜ〈人間〉と言えるのか。

 小生はこの教えが含まれる『法句経(ホックキョウ)』に接した時、身震いすると同時に、猛然と意欲が湧き、全文を書写したものである。
「やらねば!」
 やがて、地域のNHK講座で数年、この経典に関する講座を開きもした。
 お大師様が『法句経』を念頭に置かれたかどうかは不明だが、自分の発心を確かめつつ冒頭の文を書かれたのではないか。
 お釈迦様の教えと共に、決して忘れられない教えである。
 



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2015
01.14

イスラム教徒も菩薩(ボサツ)になれる? ―『安心章』について―

201501140001.jpg
〈ユダヤ人をテロリストから救ったイスラム教徒ラッサナ・バシリー氏〉

 1月10日に開催した寺子屋のテキスト『安心章』の第八章「女人(ニョニン)成仏(ジョウブツ)」について、簡単に記しておきます。

 今回は、一部の経典によって女性が往生しにくいとされていた問題がテーマです。
 あまりにも当然ながら、お釈迦様にも女性の弟子がおり、お大師様も又、男女の分け隔てなく、ご縁に応じてお救いになられました。
 お釈迦様については、我が子を失って半狂乱になった母親キーサゴータミーが悟りを開いた話が有名であり、お大師様については、修行しても悟られずに苦しむ真井御前(マナイゴゼン)を救われた話が広く知られています。
 かつて、ブログ「仏法と男女の区別について」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4087.html)に書いたとおりです。
 み仏は、生きとし生けるものを「一子のごとく」区別なく救われ、仏法は男女の別なく救う教えです。
 
 そもそも論としては、一切のものは根本的に平等な存在であることが挙げられます。
 経典は説きます。

「一切衆生の色身(シキシン…物質的な身体)は常に此れ毘盧遮那(ビルシャナ…大日如来)の智身(チシン…精神的な心)と判し、男女(ナンニョ)等しく菩提(ボダイ)の益(ヤク)を被(コウム)る」


(一切の人々の身体と心は常に、大日如来のすべてを平等に観る智慧の顕れであり、男性であると女性であるとを問わず、平等に悟りを得られるという救いの中にある)

 地・水・火・風・空・識の六大(ロクダイ)によって成立している根本のありようをみ仏の目から見れば、人は等しく仏性(ブッショウ)を有する存在であって、転迷開悟(テンメイカイゴ…迷いを転じて悟りを開く)する資格や資質において何ら差別はありません。

 お大師様は説かれました。

「もし、信修するあれば、男女を論ぜず皆其人なり」


(もしも、信じ修行する者があれば、男であろうと女であろうと、等しくみ仏の子である本姿が顕れる)

 興教大師様は説かれました。

「破戒の僧尼も必ず往生を得、造悪(ゾウオ)の男女(ナンニョ)も定めて極楽に生ず」


(戒律を破った僧侶や尼僧も心がけと努力次第では、必ず苦を脱し、悪行を犯した男女にもまた、極楽へ行ける可能性が必ずある)

 なぜ、「根本的に平等な存在」であるのかは、在るものを在りのままに観ればわかります。
 お大師様は、在りようを3つの面から明らかにされました。
 一つは、存在するものの〈構成要素〉です。
 もう一つは、存在するものの〈姿〉です。
 もう一つは、存在するものの〈はたらき〉です。

 構成要素は、前述のとおり、地・水・火・風・空・識の六大(ロクダイ)です。
 このうち、「地・水・火・風・空」は目に見える現象世界を構成し、「識」は精神世界を表しています。
 現象世界を徳という宗教眼で観たのが胎蔵界マンダラであり、精神世界を観たのが金剛界マンダラです。
 また、両方の徳、すなわち、考えられる限りのあらゆる徳を集めて供養するために作るのがお塔婆です。
 だから、お塔婆の表面には必ず「地・水・火・風・空」を示す梵字(ボンジ)の「ア・バ・ラ・カ・キャ」が書かれており、裏面には「識」を示す「バン」が書かれています。
 こうした世界へ通じる真言が大日如来の「オン ア ビ ラ ウン ケン バザラ ダト バン」なのです。

 姿は、4種類のマンダラで表されます。
 まず、全体は「大マンダラ」です。
 すべてが普遍的なものとして、あますところなく網羅されています。
 もう一つは、それぞれの特殊性を表した「三摩耶(サマヤ)マンダラ」です。
 私たちの個別的な願いや理想が、み仏の持ちものに象徴されています。
 もう一つは、価値や意味を表した「法マンダラ」です。
 それらは文字に象徴されています。
 もう一つは、活動や作用を表した「羯磨(カツマ)マンダラ」です。
 それらはポーズや手に結ぶ印などで象徴されています。

 はたらきは、身体の面と、言葉の面と、心の面に表れています。
 宇宙万物をお身体とするみ仏の三つは、私たち凡夫にとってうかがい知ることが困難です。
 お身体も秘密、お言葉も秘密、ご意志も秘密なので、それを三密(サンミツ)と言います。
 一方、私たちの三つは、それぞれに善悪こもごもの内容で、善き結果をもたらす影響力も、悪しき結果をもたらす影響力を秘めています。
 だから三業(サンゴウ)と言います。
 仏道修行は何のために行うかと言えば、凡夫の三業をみ仏の三密に合致させるために他なりません
 その境地が入我我入(ニュウガガニュウ)と言われるもので、正しい修行をしていると、ご本尊様が行者へ入りこみ、行者も又、ご本尊様へ入りこみます。
 これが即身成仏(ソクシンジョウブツ)です。
 それはすなわち、〈構成要素〉と〈姿〉と〈はたらき〉において、み仏の世界が凡夫の世界となり、凡夫の世界がそのままみ仏の世界となることを意味します。

 こうした真理からすれば、男女の別や、国籍や人種の別、あるいは信仰や思想の別によって成仏できる人、できない人などと区別のできようはずがありません。
 迷いを転じて悟りを開く転迷開悟(テンメイカイゴ)は万人に可能なのです。
 1月7日にフランスで発生したイスラム過激派によるテロ事件は9日のユダヤ人向けスーパーに拡大しました。
 テロリストが侵入したことを知った店員イスラム教徒ラッサナ・バシリー氏(24才)は勇敢にも、客たちを地下の冷蔵庫へと誘導して救いました。
 氏はその時、まぎれもなく、身体と言葉と心のすべてが他のためにならんとする菩薩(ボサツ)であり、即身成仏しておられたに違いありません。
 この世の〈構成要素〉と〈姿〉と〈はたらき〉、そして、ともすると悪業(アクゴウ)をつくりがちな私たちはどう生きれば良いのか、よく考えてみたいものです。




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