〈四国の霊場で出会ったツワブキ〉
11月7日から12月6日までの運気の流れと私たちの心づもりについて少々、書いておきます。
○自分の視点を失わないよう
今月は、仰ぎ見るべきものをまちがわないようにしましょう。
ポイントは、多数者が仰ぐものだからといって惑わされず、自分なりの価値観で見分けることです。
無定見のまま、烏合(ウゴウ)の衆に混じっては危険です。
私たち一人一人の意思は、集まれば多数者の意思となりますが、情報化社会では、氾濫する情報の中にいかなる意思が含まれているか、もっと言えば、いかなる意思が多数者を動かそうとして情報を操作しているか、なかなかわかりません。
たとえば、アメリカ大統領選挙の最終盤で、FBIのコミー長官がヒラリー・クリントン氏のメール問題を再びとりあげ、わずか数日で訴追なしと発表しました。
なぜ、ああしたことが行われたのか、誰がどう絡まったのか、選挙の結果とはどういう因果関係が認められるか、ベールに包まれたことだらけです。
謎のつむじ風に煽られながらアメリカ国民は投票し、結果が出ました。
何がどうだったかは、歴史が教えてくれることでしょう。
○情報の客観性を疑ってみたい
情報公開、ネットの時代となり、さまざまな統計が発表されます。
しかし、その客観性は、必ずしも保証されていません。
誰しもが〈良い成績〉を見てもらいたい以上、そこに作意がはたらくのは当然だからです。
たとえば、手術の成功率を取りあげてみましょう。
A医院は80パーセント、B医院は70パーセントと出れば、多くの人々はほぼ無条件に、A医院を信頼するでしょう。
しかし、もしも、A医院では患者に早くから手術を勧め、B医院ではなるべく患者の心身と財布に負担をかけぬよう、慎重に手術の時期を見極めているとしたならば、私たちはどう考え、どう選ぶべきでしょうか?
統計というもののあやふやさや、私たち自身のものの考え方を振り返ってみる必要があるのではないでしょうか?
また、情報の流通量を競うネットの業者は、クリックされる機会が多く見込まれる情報を優先して流します。
そこにも必ず作意があります。
だから、私たちは、〈鵜呑みにしない〉〈納得するまで調べる〉といったことを心がけねば、作意の掌で転がされかねません。
○肝腎なものを守ろう
神社仏閣のお詣りはブームの域に達しているそうですが、皆さんは、どういう意識で出かけられるでしょうか。
観光なら、美しいものや、凄いものを観て満足することでしょう。
やむにやまれぬ思いで祈らずにいられなくなって出かけるなら、きっと何か、非日常的な得難い体験をすることでしょう。
どちらの目的であっても、訪れる人々の心が聖地を支えていることは確かです。
四国の霊場を巡拝し、それぞれの寺院が持つ雰囲気の違いを強く感じさせられました。
訪れる人の心の波に同調する形で願いを引き受けてしまうような寺院がある一方で、波をすっぽりと吸収してしまうような寺院もありました。
いずれにしても、僧侶がきちんと祈っている寺院では、お詣りする方々の祈りも又、深まることでしょう。
○嫉妬やへつらいはやめよう
今月は、他者への嫉妬や、権力者へのへつらいなどにも要注意です。
勝れている人や精進している人を素直に認められなければ、幻の高慢心を持ち、結果的に自分を貶め、運勢を傾け、和合を損なうだけで、百害あって一利もありません。
他者の力に過度に頼れば、いつまでも繰られるままでしかありません。
有徳の人を尊敬することは、他者と和する優雅でゆとりある心をつくるための第一条です。
ゲーテはこんなことを言っています。
「生命ある自然の中では、全体というものと結びついていないようなことは、何一つ起こらない。」
私たちのありようも、他者との関係性の中で揺れ動きます。
よきものを認め、よきものに共鳴し、よき心を伸ばし、地力をつけたいものです。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M
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人生相談です。
「水子になってしまった我が子への罪悪感が消えません。
ご供養の方法も周囲からあれこれ言われるし、子供に関する話題を耳にすると、いったまれない気持になります。」
お答えしました。
「水子供養やペット供養などでよくお唱えし、『すごいですね』『とてもわかりやすい』『目から鱗が落ちる感じでした』と言われているのが『地蔵菩薩讃歎(サンタン)経』です。
その一部です。
『この世に過ごす父母たちよ○真にわが子の救済を○涙の中で願うなら○この世において恵まれぬ○子供や病気の人々に○わが子に代わって善根(ゼンコン)を積むことこそが供養なり○ここに地蔵の大悲心○在るを悟って自らも○地蔵となって励むべし』
(この世の父であり母である人々よ、早世した我が子の救済を心から願うならば、いつまでも悔いたり悲しんだりばかりしていないで、周囲の恵まれぬ子供や病気の人などのために、我が子に成り代わって手を差し伸べ、我が子がこの世で積めなかった功徳を積んであげる真の供養を行いなさい。
あの世で、子供の苦を身代わりとなって取り除き、この世の親達へも身代わりの姿を示すのが地蔵菩薩の大いなる慈悲心であることを悟り、自分も身代わり地蔵菩薩の姿となって励みなさい)
『過去の罪障拭(ヌグ)わんと○念(ネガ)わば地蔵に心から○深く帰依(キエ)して身代わりを○たのみ参らすことなるぞ。○地蔵菩薩に帰依するは○その真言を一心に○誦持(ジュジ)することに他ならず○されば地蔵の真言は○呵々大笑(カカタイショウ)の訶(カ)字にして○至心に念誦(ネンジュ)するならば○必ずこの身に喜びの○地蔵の笑い聞くならん。』
(自分が過去に犯した罪科をぬぐい去ろうと願うならば、地蔵菩薩に心から深く帰依し、身代わりとなって自分の罪科も消滅させてくださるようにおすがりしなさい。
帰依するとは、その真言を一心にお唱えすることです。
そうすれば、地蔵菩薩の真言に含まれる呵々大笑のカという字の不思議な力で、きっと、地蔵菩薩がカカカと笑うような喜びの声を聞くことができます)
貴方様が苦しんでおられるように、この世には、そして貴方様の周囲には、苦しんでいる子供も、親も、たくさんおられるはずです。
お地蔵様へ合掌し、思いやりの心を広げれば、そうした人々の思いが感じられ、貴方様の心に優しい気持が起こったり、口から優しい言葉が生まれたり、優しい行動が実践されたりすることでしょう。
それは、貴方様が貴方様のいのちと心と身体そのままで、お地蔵様になっていることを意味します。
私たちは等しく、み仏の子であり、思いやりの心がはたらけばいつでも、み仏の子そのものになれるのです。
そこに私たち自身へ与えられる救いがあり、救われた者はいつしか必ず周囲の誰かの何かの救いになってもいるはずです。
お釈迦様は言われました。
『たとえ私の言葉でも、必ず自分で考えてみて、納得したなら行動し、信じるようにもなりなさい』
神ならぬ私たちは誰一人として〈お告げ〉などできはしません。
経典にどう書いてあっても、誰から何と言われても、決して鵜呑みにせず、ものの道理と個人的感性によってすなおに受けとめられ、納得でき、信じられるかな……と思ったことを実践してみましょう。
誰がどう言おうと、それは、周囲にある情報の一つに過ぎません。
それらのうち、どの情報に自分なりの意義や意味を認めるかは、貴方様の価値観一つにかかっています。
貴方様が、周囲の何に対して目や耳を向けるかも同じです。
もしも、つまらぬ揶揄や、噂話や、皮肉などが向こうから否応なく迫ってきて気になる時は、自分へこう言い聞かせましょう。
『――これは情報の一つだから……』
もしも、誰かの出産で損な役回りなどが回ってきた時は、自分へこう言い聞かせましょう。
『――これは徳積み、徳積み、さあ、いらっしゃい……』
大切なのは、情報を、好き嫌いや、楽ができるかどうか、あるいは損か得かといった物差しで観てしまわないことです。
まず、生の情報そのものを観察するのです。
そして、ありのままに観てしまえば、そのこと自体が不思議な自信となり、感情などが簡単には乱されず、揺るがぬようになります。
そうすると、『情報の一つ』と冷静に考え、『徳積み』と前向きに受け容れられるようにもなることでしょう。
どうしようもない気持になった時は、どうぞ、水子地蔵様をお詣りしてください。
一日も早く、苦から脱することができますよう、陰ながら祈っています。」
※こうした文章は、プライバシーを重んじながら事実そのままではなく書かれていますので、ご安心ください。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2011
06.07
東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その57)─「よけいな言葉」の善意と欺瞞
「シンポジウムが終わりました ─トリアージ・応召─」
「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その56)─言葉と心を振り返る」
二つの稿で、神部廣一先生の指摘する「よけいな言葉」について考えました。
ところで、こんな詩があります。
「私たちの建築に供給するために
時の中には
材料がいっぱいになっている。
私たちのもつ今日や明日は
私たちの建築の有力なる材料である」。
マンダラであるこの世に、「つまらぬもの」として決定的に排除されるべきものはありません。
では、よけいな言葉の存在価値は何か?
それは三つあります。
一つは、被災地から遠く離れた東京の何不自由ない条件下でメッセージの場面を撮影される有名人たちの思いも、あるいは本気かも知れないという面です。
無駄かもしれない、邪魔かも知れない、批判されるかも知れない、誤解されるかも知れない、本心なのにわかってもらえないかも知れない。
こうした思いを抱きつつ、それでも、「日本はきっと大丈夫だから、どうか、あまり落ち込まないでください」と言わざるを得ない善意も想定したいものです。
もう一つは、〈悲惨な情報群〉と対照的な〈励まし情報群〉があるために、心のバランスがとれたり、立ち直られる人もあるという面です。
もちろん、プラス的に受け取るのは避難所におられる方々よりは圧倒的に、津波に遭わず自宅で心が沈みかけておられる方々ではありましょう。
当山にも、ご主人を亡くされた上にこの震災で心が弱ったご婦人から「若い人たちが大丈夫と言って一生懸命励まそうとしているのだから、私もしっかりしなきゃと思っています」とのメッセージが寄せられました。
そしてもう一つは、厳しい現場へ足を運べなくて悔しい方々や罪悪感すら感じている方々にとって、深く同情し、言葉で励ますのなら自分にもできると思えば、救いになるという面です。
厳しい現場で苦しむ方々が災厄の直接的被害者であるとするならば、悔しい方々や罪悪感に苛まれる方々は間接的被害者です。
そうした方々にとって救いになるのは大切なことです。
さて、数年前、不登校の児童を指導する方法に関し、あるテーマが議論になりました。
「学校へ行くのも、行かないのも、決定権は子供にある」。
この主張には賛否両論あり、自分で決めるのは子供の権利であって、親や教師が登校を強制するのは人権問題であると息巻く弁護士もおられました。
私は思いました。
「健康な子供と風を引いた子供では指導法が違わねばならないのに、絶対的な方法を主張して白黒つけようとするのには無理がある」。
十分、余力があるのに怠け心が出ている子供なら、叱って登校させねばならないでしょう。
「人間社会で生きている以上、子供もきまりに従わなければならないのだから、しっかりしなさい!」。
しかし、すっかり参ってしまった子供なら、自分に任せるのも一法でしょう。
「行くのも行かないのも、君の人生なのだから自分でよく考えて決めること。無理をしなくても良いんだよ」。
今回の議論についても同じではないでしょうか。
確固たる精神を保持している場合は、よけいな言葉に軽薄さを感じたり、実際に汗を流さず言葉と気分で〈事たれり〉と終わらせかねない欺瞞を見つけたりします。
一方、信じて、あるいは種々の事情でよけいな言葉を口にする場合もあれば、それが小さな救いになる場合もあります。
そして、私たちの精神は一生の間にあちらこちらと揺れ動き、年月をかけて錬磨されます。
「あくまでも個人的な見解をちょっと述べます」と断った上での神部廣一先生による貴重な問題提起は、いろいろなことを考えるきっかけになりました。
シンポジウムに参加して、目を見開かされた方々もおられたのではないでしょうか。
※以下のページもご参照ください。
「シンポジウムが終わりました ─トリアージ・応召─」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2735.html)
「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その56)─言葉と心を振り返る」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2736.html)
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その56)─言葉と心を振り返る」
二つの稿で、神部廣一先生の指摘する「よけいな言葉」について考えました。
ところで、こんな詩があります。
「私たちの建築に供給するために
時の中には
材料がいっぱいになっている。
私たちのもつ今日や明日は
私たちの建築の有力なる材料である」。
マンダラであるこの世に、「つまらぬもの」として決定的に排除されるべきものはありません。
では、よけいな言葉の存在価値は何か?
それは三つあります。
一つは、被災地から遠く離れた東京の何不自由ない条件下でメッセージの場面を撮影される有名人たちの思いも、あるいは本気かも知れないという面です。
無駄かもしれない、邪魔かも知れない、批判されるかも知れない、誤解されるかも知れない、本心なのにわかってもらえないかも知れない。
こうした思いを抱きつつ、それでも、「日本はきっと大丈夫だから、どうか、あまり落ち込まないでください」と言わざるを得ない善意も想定したいものです。
もう一つは、〈悲惨な情報群〉と対照的な〈励まし情報群〉があるために、心のバランスがとれたり、立ち直られる人もあるという面です。
もちろん、プラス的に受け取るのは避難所におられる方々よりは圧倒的に、津波に遭わず自宅で心が沈みかけておられる方々ではありましょう。
当山にも、ご主人を亡くされた上にこの震災で心が弱ったご婦人から「若い人たちが大丈夫と言って一生懸命励まそうとしているのだから、私もしっかりしなきゃと思っています」とのメッセージが寄せられました。
そしてもう一つは、厳しい現場へ足を運べなくて悔しい方々や罪悪感すら感じている方々にとって、深く同情し、言葉で励ますのなら自分にもできると思えば、救いになるという面です。
厳しい現場で苦しむ方々が災厄の直接的被害者であるとするならば、悔しい方々や罪悪感に苛まれる方々は間接的被害者です。
そうした方々にとって救いになるのは大切なことです。
さて、数年前、不登校の児童を指導する方法に関し、あるテーマが議論になりました。
「学校へ行くのも、行かないのも、決定権は子供にある」。
この主張には賛否両論あり、自分で決めるのは子供の権利であって、親や教師が登校を強制するのは人権問題であると息巻く弁護士もおられました。
私は思いました。
「健康な子供と風を引いた子供では指導法が違わねばならないのに、絶対的な方法を主張して白黒つけようとするのには無理がある」。
十分、余力があるのに怠け心が出ている子供なら、叱って登校させねばならないでしょう。
「人間社会で生きている以上、子供もきまりに従わなければならないのだから、しっかりしなさい!」。
しかし、すっかり参ってしまった子供なら、自分に任せるのも一法でしょう。
「行くのも行かないのも、君の人生なのだから自分でよく考えて決めること。無理をしなくても良いんだよ」。
今回の議論についても同じではないでしょうか。
確固たる精神を保持している場合は、よけいな言葉に軽薄さを感じたり、実際に汗を流さず言葉と気分で〈事たれり〉と終わらせかねない欺瞞を見つけたりします。
一方、信じて、あるいは種々の事情でよけいな言葉を口にする場合もあれば、それが小さな救いになる場合もあります。
そして、私たちの精神は一生の間にあちらこちらと揺れ動き、年月をかけて錬磨されます。
「あくまでも個人的な見解をちょっと述べます」と断った上での神部廣一先生による貴重な問題提起は、いろいろなことを考えるきっかけになりました。
シンポジウムに参加して、目を見開かされた方々もおられたのではないでしょうか。
※以下のページもご参照ください。
「シンポジウムが終わりました ─トリアージ・応召─」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2735.html)
「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その56)─言葉と心を振り返る」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2736.html)
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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ホームページが新しくなりました。
これまでは役員Sさんの献身的なご努力と老練なアイディアに「おんぶにだっこ」でおりましたが、これからは、Sさんのご指導をいただきながらも、宮城大学に根を持つ『デュナミス』さんのセンスにかけて情報を発信して行きます。
さて、情報の発信は社会的行為です。
自由な発信は権利として認められている時代であり、日本はそれを認める国ですが、権利の行使には必ず責任が伴います。
しかも、相手は特定できません。
誇張して言えば、世界中の人々が責任をとらねばならない相手になりうるということになります。
考えるだに恐ろしいことではありますが、それを承知の上で、み仏の教えを広める「弘法」に欠かせぬものと判断し、また一歩強く踏み出しました。
『平家物語』にこんな一節があります。
何度口にしてみても、流れ、ゆらめき、それでいて芯の揺るがない文章には陶然とさせられます。
また、露をつくるほど冷たい秋風が鎧を身にまとった武者の袖をひらひらさせ、夕刻の空を一瞬明るく照らす稲妻が、頭を丸く覆っている兜に打ち付けてあるたくさんの鋲を光らせるという光景は、もう私たちが現実として目にすることはなくなった夢のような場面で、ダイナミックなドラマのイメージをかきたてられます。
しかし、これは、権力側と宗教側が対立し、双方が武力で我が意を通そうとしたために一触即発という危機がせまった状況です。
治安を司る国家機構が確立されていない時代にあっては、すぐに正面切った殺し合いが行なわれていました。
事実、この場面の前後も殺し合いと憤激と悲嘆に埋められています。
文章のもたらす心地よさと膨らむ鮮烈なイメージは、恨み・憎しみ・裏切り・横暴・暴力・血・呻き・涕泣といったものをみごとに覆い隠しています。
このことを私たちは忘れてはなりません。
読んだものによって触発された想像力はここまで達しなければならないはずです。
「他人の家の火事は、派手であればあるほど眺める者の胸を躍らせる」と言いますが、人の心は、放っておけばそのようにはたらくものです。
テレビで惨たらしい事件や事故の場面を見れば、まず驚き、「凄い」と感じ、多くの人は続いて「酷い」と思うはずですが、どれだけその酷六煩悩さを想像するでしょうか。できるでしょうか。
刺激に対して私たちの心は「好む・嫌う・無反応・楽と思う・苦と思う・苦楽を感じない」といった6種の反応を起こします。
これが六煩悩(ボンノウ)です。
見て・聞いてといった6種類のきっかけによって起こり、それが過去・現在・未来と続くので、6×6×3で108となり、除夜の鐘などを108回打って煩悩を清めようとするのはこの理によります。
つまり、何かを見て、聞いて「好いな」「嫌だな」と思っても、ただそれだけでは、自他を苦しめる迷いの人生を送るしかないということです。
テレビやインターネットを見ても、同じです。
大切なのは、「好いな」が真の感動となり、自分もあのように生きたいという導きのきっかけとなることです。
「嫌だな」が人間の悪をしっかりと感じとり、自分は決してあのようなことはすまいという導きのきっかけとなることです。
そうして初めて文明が人間にとって意義のあるものになるはずです。
たとえば火薬の作り方や自殺の方法を発信する人は、それに責任を持たねばなりません。
法的にどうこうという以前の、真っ当な人間たり得る条件です。
同時に、情報を受けた人は、それにどう反応するかどう活かすか自分の人間性が問われ、結果は自分に降りかかることを忘れてはなりません。
これが、この時代を生きる私たちの煩悩に負けない基本的な心構えではないでしょうか。
これまでは役員Sさんの献身的なご努力と老練なアイディアに「おんぶにだっこ」でおりましたが、これからは、Sさんのご指導をいただきながらも、宮城大学に根を持つ『デュナミス』さんのセンスにかけて情報を発信して行きます。
さて、情報の発信は社会的行為です。
自由な発信は権利として認められている時代であり、日本はそれを認める国ですが、権利の行使には必ず責任が伴います。
しかも、相手は特定できません。
誇張して言えば、世界中の人々が責任をとらねばならない相手になりうるということになります。
考えるだに恐ろしいことではありますが、それを承知の上で、み仏の教えを広める「弘法」に欠かせぬものと判断し、また一歩強く踏み出しました。
『平家物語』にこんな一節があります。
「露ふきすさぶ秋風は、射向(イムケ…鎧の左袖)の袖を翻し、雲井(クモイ)を照らすいなづまは、甲(カブト)の星をかかやかす」
何度口にしてみても、流れ、ゆらめき、それでいて芯の揺るがない文章には陶然とさせられます。
また、露をつくるほど冷たい秋風が鎧を身にまとった武者の袖をひらひらさせ、夕刻の空を一瞬明るく照らす稲妻が、頭を丸く覆っている兜に打ち付けてあるたくさんの鋲を光らせるという光景は、もう私たちが現実として目にすることはなくなった夢のような場面で、ダイナミックなドラマのイメージをかきたてられます。
しかし、これは、権力側と宗教側が対立し、双方が武力で我が意を通そうとしたために一触即発という危機がせまった状況です。
治安を司る国家機構が確立されていない時代にあっては、すぐに正面切った殺し合いが行なわれていました。
事実、この場面の前後も殺し合いと憤激と悲嘆に埋められています。
文章のもたらす心地よさと膨らむ鮮烈なイメージは、恨み・憎しみ・裏切り・横暴・暴力・血・呻き・涕泣といったものをみごとに覆い隠しています。
このことを私たちは忘れてはなりません。
読んだものによって触発された想像力はここまで達しなければならないはずです。
「他人の家の火事は、派手であればあるほど眺める者の胸を躍らせる」と言いますが、人の心は、放っておけばそのようにはたらくものです。
テレビで惨たらしい事件や事故の場面を見れば、まず驚き、「凄い」と感じ、多くの人は続いて「酷い」と思うはずですが、どれだけその酷六煩悩さを想像するでしょうか。できるでしょうか。
刺激に対して私たちの心は「好む・嫌う・無反応・楽と思う・苦と思う・苦楽を感じない」といった6種の反応を起こします。
これが六煩悩(ボンノウ)です。
見て・聞いてといった6種類のきっかけによって起こり、それが過去・現在・未来と続くので、6×6×3で108となり、除夜の鐘などを108回打って煩悩を清めようとするのはこの理によります。
つまり、何かを見て、聞いて「好いな」「嫌だな」と思っても、ただそれだけでは、自他を苦しめる迷いの人生を送るしかないということです。
テレビやインターネットを見ても、同じです。
大切なのは、「好いな」が真の感動となり、自分もあのように生きたいという導きのきっかけとなることです。
「嫌だな」が人間の悪をしっかりと感じとり、自分は決してあのようなことはすまいという導きのきっかけとなることです。
そうして初めて文明が人間にとって意義のあるものになるはずです。
たとえば火薬の作り方や自殺の方法を発信する人は、それに責任を持たねばなりません。
法的にどうこうという以前の、真っ当な人間たり得る条件です。
同時に、情報を受けた人は、それにどう反応するかどう活かすか自分の人間性が問われ、結果は自分に降りかかることを忘れてはなりません。
これが、この時代を生きる私たちの煩悩に負けない基本的な心構えではないでしょうか。