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2009
07.23

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 33 ―人生を棄てるなかれ─

 7月22日は『法句経』の「安寧品(アンネイボン)」第二十三についてお話しました。

寿命は鮮少(センショウ)なるに、而(シカ)も、世の多くは棄つ。
 学してまさに要を取るべく、老に至って安からしめよ」


寿命はわずかばかりなのに、多くの人々は空しく過ごしてしまう。
 仏法を学んで人生の真実を会得し、老いては心安らかでありたい)

「棄つ」は非常に激しい表現です。
「限られた貴重ないのちをまるでドブへ棄てるように空しく浪費していて、悔いはないか!」という叱責であり、問いかけでもあります。
 そして、老いて心安らかに過ごしたいと願うならば、元気なうちに仏法を学び、人生の要諦をしっかりつかんでおかねばならないと説きます。
〈人生50年〉の時代が、今はどんどん〈人生100年〉の時代へと向かっています。
 夢中ではたらく時期はあっという間に過ぎ去り、24時間の過ごし方を毎日考えねばならない人生があと半分残ります。
 老後はたちまちやってくるのです。
 そこで老苦と病苦、そして孤独のみを相手にせねばならぬようでは、いかにも寂しいではありませんか。
 老苦と病苦と死苦は宿命であり、人生の終盤になれば避けるべくもなく必ず襲ってくる魔ものです。
 それまでに怨憎会苦(オンゾウエク…憎い者とめぐり会う苦しみ)や愛別離苦(アイベツリク…愛する者と別れる苦しみ)や求不得苦(グフトクク…求めるものが得られない苦しき)や五蘊盛苦(ゴウンジョウク…身体があるがゆえの苦しみ)などの魔ものに翻弄されたままの生き方をしていれば、残りの魔ものに勝てようはずはありません。

 み仏の教えは真理に拠り、真実を観る眼を開かせ、「要を取る」生き方を可能にさせます。
 釈尊の問いかけへ応えるかどうかは、心一つです。
「棄つ」ことなく、充実の人生を生きようではありませんか。



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2005
07.12

憎しみを離れた人

 釈尊は、善悪を厳しく分けて悪の生む地獄をくり返し説かれ、何としても人々を善行へ導こうとしてされましたが、その教えに、悪行をなした人を憎む表現はまったくありません。
 いつも、憐れんでおられます。
 それはきっと、ご自身が自分以外の人を悲しませ、辛い思いをさせ、傷つけずにはいられない人間だったという「俗世の時代」をしっかりと見つめておられたからでしょう。
 たとえば、立場を捨てて修行者となった時、何としても部族長の後を継がせたかった父親や周囲の人々がどんなに悲しんだかは、容易に想像がつきます。
 後継者を失うのは、いかなる道にある人にとっても最大の悲嘆・落胆を招くはずです。
 それは、お大師様も同じでした。
 まさに神童で「とうと(貴)もの」とまで呼ばれ、立身出世して一族を率いて欲しいという人々の願いを振り切って一行者となりました。
 釈尊と同じ道を通られたのです。

 お二人が常人と違うのは、究極まで研鑽し結果的に聖者となって人々を喜ばせ、納得させたことですが、その過程で「愛別離苦(アイベツリク…愛する者と別れる苦しみ)」に泣いた人たちが確かにいたはずです。

 苦を与え、与えられ、心で涙した体験をしっかりふまえ、人は誰であれ他へ苦しみを与えずにはいられない存在であるという宿命を見つめておられたからこそ、憎しみを離れ慈悲のみの存在となられたのでしょう。
 宿命を克服されたのです。

 経典は「最も大切なのは、自分自身の心の底を知ることである」と説いています。
 誰の「心の底」にも必ず「み仏の心」があるのですが、そこへ到達するには、自分自身がいかなる行動をしているか、いかなることを口にしているか、いかなることを思っているかを直視せねばなりません。
 そうして、いわば「表面に現れている自分」をちゃんと知ることができれば、自ずから「どう生きれば良いか?」と道を求める心が起こります。苦を与え与えられる世界を脱する入り口に立てるのです。

 なかなかその入り口に立てない時は、お寺の門をたたいてください。
 皆さんより一足先に門をくぐり少し先を歩いている人が、蛍の明かりのように見えることでしょう。




2005
06.18

五力 13 ―定力 1 学ぶべきこと―

 五力の4番目は定力(ジョウリキ)です。
 これは、仏教徒にとって必須とされている「三学(サンガク)」の2番目「定学」による力です。

 じっと心身を静寂にしていると、波立つ心が穏やかになり、意識は透明になってみ仏の心へ近づきます。
 そこで観えて来るものは定めです。
 いのちに宿る宿命です。
 宿命は「いのちと共にあるもの」とも言えます。
「四苦八苦」がその正体です。
 人は生まれる時に、生きるか死ぬかの苦を体験します。
 科学が発達して無事出産できるのが当然といった雰囲気のある現代でも、安産祈願は絶えません。
 母も子もいのちをかけた大仕事です。
 人は必ず老います。
 病気にもなります。
 死なない人は一人もいません。ここまでの「生・老・病・死」が四苦です。

 必ず死を迎えるのは自分だけではなく、生きとし生けるものすべてが死を免れず、どんなに愛するものとも別離の時を迎えないわけには行きません。
 これを「愛別離苦(アイベツリク)」といいます。
 めぐり会う人がすべて気に入るなどということはなく、誰しもが、人を嫌な奴と思い、怨み、憎んだ経験をしているはずです。
 これを「怨憎会苦(オンゾウエク)」といいます。
 求めるものをすべて得ることは誰にもできません。
 情愛でつながって当然の家族の間ですら心の絆が危うくなり、悩む場合があります。
 形あるものもないものも、不足と感じ求め続けるのが人間です。
 意欲があればこそ輝く人生ですが、意欲は心のあり方一つで苦となります。
 これを「求不得苦(グフトクク)」といいます。
 人は、感覚がはたらき、感受作用があり、想い、意思を持ち、いつも自分というものがあって生きており、この生命要素を五蘊(ゴウン)といいます。
 しかし、「放っておく」とそれらは勝手に肥大化し「大変なことに」なるものです。
 たとえば、何かをしようとするのは当然であっても、自他の状況を省みず善悪を忘れればたやすく悪行になります。
 殺人・盗み・邪淫すべて意思の暴走です。
 しかも、きっかけは内側にあるだけではありません。
 多様で膨大な情報の氾濫も、私たちを混乱させて感受作用を濁し、想いを狂わせ、意思を誤った方向へ向かわせます。
 これを「五蘊盛苦(ゴウンジョウク)」といいます。
 以上の四つを合わせて四苦八苦です。
 
 釈尊は、よく「生死を超える」という表現をされました。
 それは生まれず死なないのではなく、四苦八苦をもたらす生や死は厳然としてあっても、それに翻弄されない境地に入られたということなのでしょう。
 気に入らない人とめぐり会うのは避けられませんが、それによって苦しむことはないのでしょう。
 得られたものへの感謝と安心に満たされているということなのでしょう。
 定によって観られた宿命は有限な肉体へ訪れるものであって、さらに定を深めて不変の魂の次元へ入れば、四苦八苦は幻であるに違いありません。
 正しく正統な方法によって「定」を学び実践し、定力で運命を創りましょう。




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