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2010
05.07

四つの難

法句経』に四難が説かれています。

「人として生を受けることは難しく、長寿を保つことは難しく、仏に遇うことは難しく、仏法を聞くことは難しい」


 地球上には3000万種とも言われる多様な生きものがいます。
 猫であれ犬であれ蟻であれ鳩であれ、コスモスであれ稲であれ松であれ大根であれ、メダカであれ鯉であれサンマであれ鯨であれ、自分が何であっても不思議ではないのに、自分は今、人間として、ここにいます。
 自分が人間として生まれて来たことの不思議さに驚嘆せずにはいられません。

 教えに説く長寿は、いわゆる長生きと限定したものではないでしょう。
 むしろ、誰でもが〈今、生きている〉というその存在のありがたさではないでしょうか。
 昨日死んでいればもうそれっきりであり、明日も生きていられるとは限りません。
 たった今この瞬間の〈生の現実〉の重さは何ものにも比べられません。
 
 今は情報化社会なので宗教や思想を調べることは簡単ですが、まっとうな宗教や思想を自分の血肉として生きている人と出会い、「なるほど、そうか!」と眼を瞠らされ、「この人のように生きたい」と決心させられるのは、釈尊の時代と同じように「難しい」と言えましょう。
 人間として生まれ、まっとう生きていれば、いつの日か、み仏のような人と出会って教えを耳にする機会を得られることもありましょう。
 そうして仏法を学べるのは奇跡とも思えるほど「有り難い」ことです。

 また、「仏に遇う」とは、お地蔵様や観音様、あるいはそのような人にお会いすることばかりを意味するのではありません。
 朝日を浴びた稲の輝き、人の言葉や眼の色、聞く虫の音、漂うお香の香り、おはぎの味、深山の気配、どこにでもみ仏はおられます。
 六根清浄であれば、いつ、どこででもみ仏にお会いできるのです。
 み仏を感得できるように心のアンテナを浄めることこそが難しいのではないでしょうか。

 教えもまた同じです。
 今は教えに接しがたいのではなく、むしろ情報過多の時代であるために、本ものの教えにが揺すぶられ正しくみ仏の世界へ導かれるのは難しくなっています。
 不安や脅しや刺激や癒しという道具を巧みに操り、我がために他人を利用しようとする偽ものの宗教たちが、巨大で無数の網を張って獲ものを待ちかまえています。
 自分の心をしっかりさせ、明知を保っていなければ、救いと反対の方向へ連れて行く縁をつかまえてしまわないとも限りません。
 いつの時代でも、本ものと出会うにはその時代、その人なりの困難があったのでしょう。

 こうして考えてみれば、「四難」は、この世に厳然としてあります。
 まずそれに本当に気づき驚くことが大切です。
 字面を読んで〝ああ、そうか〟と頭で考えるだけでは何ごとも始まりません。
 教えを感得できるかどうか、それもまた「仏法を聞くこと」の難しさなのかも知れません。

〈境内地には遅咲きの桜などが咲いています。大きな池も完成間近となりました〉
220507 0022



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2008
03.04

現代の偉人伝第五十五話 ―監督と選手―

(古い原稿を整理していてこの文章を見つけま、偉人伝の欄に残そうと思い、再度掲載しました)

 昨夜、NHKテレビで、快進撃を続けるプロ野球ロッテマリーンズの監督バレンタイン氏の特集をやっていました。
 その選手掌握術は、みごとと言うしかない智慧と慈悲の結晶ですが、とりわけ、ベテラン小宮山選手の件は圧巻でした。

 彼は、かつてチームを率いたエースでアメリカへ渡ったほどの選手です。
 監督は今季を迎えるに際して、1対1で腹を割った話し合いをしました。
 その席で、彼は「チームのためなら何でもやります」と誓いました。
 監督はその言葉を信じて彼を試合に起用しています。
 
 今、彼の出番の多くは「敗戦処理」です。
 点差が開き、誰が考えてももう勝てないような試合であっても、プロ野球は9回までやらないと試合終了にはなりません。
 たとえ10対0でも、誰かがピッチャーをやって最後の回を終えねばならないのですが、そんな時、自分がやりたいと思う選手はいないはずです。
 ただ体力を使うのみで、勝利に貢献し賞賛されるチャンスはほどんどないのだから当然です。
 観客の応援にもあまり力が入らないことでしょう。
 黙々とその役割をこなしている彼は、こう言いました。

「自分の仕事を若い選手がやるようではだめです。
(敗戦処理をやるよりは)彼らはむしろ2軍の試合で投げた方が成長するでしょう」


 監督には、高い狙いがあります。

「『小宮山ほどの投手が自分たちのために投げてくれている』と、これからの選手たちに気づいて欲しいのです。
 彼の姿は若い選手を奮起させることでしょう」

 輝かしい球歴を持ちあり余るほどの賞賛を受け、誇り高いはずの大投手が、

「ここはまかせておけ。
 勝ち負けはどうであれ真剣に投げるから、お前たちは俺の投球から何かを学べ。
 技術を盗め、体力を温存しろ。
 そして、修羅場で勝て」

と投げるのです。
 監督と小宮山投手の思いは、きっと選手たちの励みになっているはずです。
 今の好成績はその証拠ではないでしょうか。

 監督には、「最高の選手を集めなくとも、皆が最高の力を発揮すれば勝てる」という信念があり、それを支えているのは、選手たちへの揺るがぬ信頼です。

「選手は誇りと目的があれば迷わないものです」


 子供の頃から密かに「すごいな」と思っていたのは、駅で切符を切っている人たちでした。
 親に手を引かれて駅へ行くと、お正月であれ、お盆であれ、皆が休んでいる時にもちゃんと役割を果たしておられます。
 その後、警察官や消防士や自衛官や郵便配達人が「すごい人」へ加わり、托鉢をするようになってからは、交通整理をしておられる警備員なども加わり、葬祭業や火葬場の方々にもいろいろ教えていただくようになりました。
 マンダラの教えに接し、対象は無限に広がりました。
 蟻一匹、ウグイス一羽、露草一本、すべてが「すごい」のです。
 昨日も、気づかないでいた「すごい」世界を知りました。
 ───正にこの世はマンダラ。ありとあらゆるもの、生きとし生けるものが、み仏の教えを説いています。




2005
07.16

仏像にはパワーがある

「素朴な質問で恐縮ですが、仏像ってどうしてできたんでしょうか?あまりたくさんあってよく解らないんですが」
 Tさんは熱心にお寺まわりをしておられるので、特にこうしたお気持が強くなられたのでしょう。

 学者の説はいろいろあるようですが、一行者としては、釈尊の説かれた真実世界を求める天才的行者たちが感得した〈イメージの表現〉が、お地蔵様やお不動様や観音様などの経典であり、経典に基づいて造られた仏像だろうと考えています。
 それは、仏像を前にして経典を読み、印を結び、み仏の世界をイメージできれば聖なる次元へ入られるからです。信じ、行なえば、必ず結果が出るからです。
「信じて、正確にくり返しなぞる」行者の務めはこれがすべてです。

 いかなる宗教も開祖の説く内容への感動や共感から始まり、それは開祖そのものへの信と重なり、やがては開祖崇拝がさまざまな聖なるイメージを生み、その表現されたものが「真理世界への入り口」となったのではないでしょうか。
 偶像崇拝と称し形あるものの崇拝を禁じている宗教でも、そこで言うところの偶像に代わる何ものかはあります。
 開祖や聖者に憧れ崇めない宗教はありません。
 現に、イスラム世界では聖者の一言で人々がどんどん命を捨てています。
「絶対」を含む一言を発する人は、生きた偶像なのでしょう。

 宗教における「聖なるもの」とは、意識するとしないとにかかわらず「人格としてのイメージ」です。
 親しみやすいお地蔵様、頼りになるお不動様、お優しい観音様、気高いお大日様、安心させてくださる阿弥陀様、どなたも必ず何がしかの人格を感じさせればこそ、手が合わさります。

 悟りを得るとは「実のごとく自らの心を知る」ことであると説かれているのは、迷いの雲や幻の我を払い、魂の核となっている最高の人格を求めよという教えです。
 そうか!と一時は思っても、頑固な雲や我はそう簡単に避けてくれません。
 だからこそ、仏像や経典が心を清め深める導き手となってくださるのです。
 お地蔵様や観音様として活きている聖なる世界が、私たちの魂へイメージとしてはたらきかけ、力となります。そして、お地蔵様と自分、あるいは観音様と自分という意識が消えれば、お大師様の説かれた「即身成仏(ソクシンジョウブツ)」です。

 仏像となっているみ仏の本体は人格であり、み仏は、どなたも私たちの心にお住まいです。




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