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2015
10.10

不殺生の心がけ ―与楽、抜苦、ほどを知る―

2015101000012.jpg
不殺生の心を育むもの〉

 不殺生戒には三つのレベルがあるとされています。
 そもそも、仏教では、上品(ジョウボン…上級者)、中品(チュウボン…中級者)、下品(ゲボン…初心者)といった形で説く場合がたくさんあります。
 
 さて三つはどうなっているでしょうか?

1 上品

 とにかく、思いやる心で生きることです。
 それには感謝が出発点になります。
 ありがたいと思う心によって、自分も、誰かがありがたいと思うような行動ができるようになります。
 感謝は清浄な鏡のようなものであり、思いやりは、その鏡が発する光のようなものであると言えるかも知れません。
 そこで、人の子に生まれたならばまず、生み、育ててくれた父母の恩を思い、忘れずに生きましょう。
 また、先生や先輩や上司など、人生の各場面でお導きくださる方々の恩も忘れてはなりません。
 ありがたいと思う心で眺めれば、ネコもカラスも皆、安楽に生きたいと願い、殺されることを怖れ、親は子を養っていることに気づきます。
 慈しみがあるのです。
 だから、生きとし生けるものを悩まさず、傷つけず、殺さず、守り育てないではいられません。

 こうして感謝に導かれれば、誰かのためにならないではいられなくなります。

2 中品

 苦しむ者や死に行く者の悲しみやうたれ、哀れと思わないではいられません。
 また、殺される生きものの声を聞き、姿を見ては、哀れを催します。
 自分の子供を育ててようやく、自分の骨身を削って育ててくれた父母のありがたみが身に沁みます。
 子供や部下を育てる中で、大自然や天地万物が垂れる恵みのありがたさに気づきます。
 私たちは哀れで愛おしい存在です。

 こうした感応する心を大切にし、あらゆるものの本質的な哀れさを知れば、苦を除かずにはいられなくなります。

3 下品

 魚を獲る仕事に就いている人は、むやみに獣を殺さぬようにしましょう。
 獣を捕る人は、水に住む魚などをむやみに殺さぬようにしましょう。
 鳥を捕る人は、虫などをむやみに殺さぬようにしましょう。
 釣りをする人は、網での一網打尽を避けましょう。
 むやみと銃や火器などで生きものを殺さぬようにしましょう。
 山を焼かず、池を涸らさぬようにしましょう。
 昼に生きものを殺さねばならないならば夜はやめ、夜に生きものを殺さねばならないならば昼はやめましょう。

 生きものたちのいのちをいただかねば生きられない私たちは、せめて〈一分の〉を心がけ、恩に報いるようにしましょう。

 これが不殺生戒における三つのレベルです。




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2012
09.12

親の思いを知る手がかり ─有島武郎作『小さき者へ』を読む(その2)─

20120912026.jpg

 有島武郎による子供が生まれる場面の描写は、迫真としか言いようがない。
 それは、将来起こるかも知れない親子葛藤を解くカギともなる重要な文章である。

「昼過ぎになると戸外の吹雪は段々鎮まっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまった雪に来てそっと戯(タワム)れるまでになった。
 然(シカ)し産室の中の人々にはますます重い不安の雲が蔽(オオ)い被(カブ)さった。
 医師は医師で、産婆は産婆で、私は私で、銘々の不安に捕われてしまった。
 その中で何等の危害をも感ぜぬらしく見えるのは、一番恐ろしい運命の淵に臨んでいる産婦と胎児だけだった。
 二つの生命は昏々(コンコン)として死の方へ眠って行った。

 丁度(チョウド)三時と思わしい時に――産気がついてから十二時間目に――夕を催す光の中で、最後と思わしい激しい陣痛が起った。
 肉の眼で恐ろしい夢でも見るように、産婦はかっと瞼を開いて、あてどもなく一所(ヒトトコロ)を睨(ニラ)みながら、苦しげというより、恐ろしげに顔をゆがめた。
 そして私の上体を自分の胸の上にたくし込んで、背中を羽がいに抱きすくめた。
 若(モ)し私が産婦と同じ程度にいきんでいなかったら、産婦の腕は私の胸を押しつぶすだろうと思う程だった。
 そこにいる人々の心は思わず総立ちになった。
 医師と産婆は場所を忘れたように大きな声で産婦を励ました。

 ふと産婦の握力がゆるんだのを感じて私は顔を挙げて見た。
 産婆の膝許(ヒザモト)には血の気のない嬰児が仰向けに横たえられていた。
 産婆は毬(マリ)でもつくようにその胸をはげしく敲(タタ)きながら、葡萄酒(ブドウシュ)葡萄酒(ブドウシュ)といっていた。
 看護婦がそれを持って来た。
 産婆は顔と言葉とでその酒を盥(タライ)の中にあけろと命じた。
 激しい芳芬(ホウフン)と同時に盥(タライ)の湯は血のような色に変った。
 嬰児はその中に浸された。
 暫(シバラ)くしてかすかな産声(ウブゴエ)が息気(イキ)もつけない緊張の沈黙を破って細く響いた。

 大きな天と地との間に一人の母と一人の子とがその刹那に忽如(コツジョ)として現われ出たのだ。

 その時新たな母は私を見て弱々しくほほえんだ。
 私はそれを見ると何という事なしに涙が眼がしらに滲(ニジ)み出て来た。
 それを私はお前たちに何といっていい現わすべきかを知らない。
 私の生命全体が涙を私の眼から搾り出したとでもいえばいいのか知らん。
 その時から生活の諸相が総て眼の前で変ってしまった。

 お前たちの中(ウチ)最初にこの世の光を見たものは、このようにして世の光を見た。
 二番目も三番目も、生れように難易の差こそあれ、父と母とに与えた不思議な印象に変りはない。

 こうして若い夫婦はつぎつぎにお前たち三人の親となった。」


 生む、生まれるという真実はこのようなものである。
 途中で母子が「死の方へ眠って行」く場合もある。
 生まれた者とは「この世の光を見た」者である。
 大役を果たした妻は「弱々しくほほえ」み、妻と共に「いきんでい」た夫は「涙が眼がしらに滲(ニジ)み出て」、人間としての母親となり、父親となる。

 育てた親と大きくなった子との間で何かが起こり、行き詰まりそうになった時は、この時点へ帰るべきではなかろうか。
 親なくして、子は世の光を見られなかった。
 子なくして、女と男は自分の人生を他の存在へ捧げつつ生きる尊い親の道を歩めなかった。
 親あっての子、子あっての親であり、人の子として今を生きている者のいのちも人生も〈親あったればこそ〉であり、人の親として今を生きている者のいのちと人生も〈子あったればこそ〉である。
 相手をするのは、自分のいのちと人生をすることであり、相手を憎むのは、自分のいのちと人生を憎むことである。
 自分のいのちと人生を真にする者は、相手をもするはずであり、自分のいのちと人生を憎む者は、相手を真にはせないはずである。

 真の慈しみとして顕れ、優しさとなって相手を包む。
 優しさとは、〈信じる〉〈認める〉〈教える〉〈与える〉〈守る〉という五つの行為が円満にはたらいてもたらされる〈人間がみ仏の子である証明〉である。
 育てた親と大きくなった子との間で何かが起こり、行き詰まりそうになった時は、誕生の時点へ帰り、「自分はみ仏の子として生きているだろうか」と自らへ問いたい。
 そうすれば壁を突破できるのではないだろうか。




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2007
02.04

自他を幸せにする『四無量心』 6 ―心の豊かな人 心の貧しい人―

 心の豊かな人は、思いやりのある人です。
 誰かに〈やれる〉温かな〈思い〉のある人です。


 心の貧しい人は、思いやりのない人です。
 誰かにやれる温かな心のない人です。


 モノがなくとも、やれる心がどんどんあふれ出る人がいる一方、モノを求めて忙しいばかりに、やれる心の枯れる人もいます。
 心が豊かであるか、貧しいかは、財や地位や名誉や年齢や健康などとは関係ありません。
 財があって心も豊かな人がいれば、財はふんだんにあるのに心の貧しい人もいます。
 財はなくとも心が豊かな人がいれば、財がなく心まで貧しい人もいます。

 どちらの人になるかは、もちろんその人次第ですが、必ずしも心がけが悪いから心の貧しい人になるとは限りません。
 過酷な環境や重い病気や突然の事故などに負けて心が貧しくなってしまった人を責めてはなりません。
 もちろん、負けたことは誰のせいにもできませんが、私たちは誰でも、いつ、何に負けてしまうか判らない存在であることを謙虚に見つめねばなりません。
 辛い状況になった時、“どうして自分だけがこんな目に遭わねばならないのか………”という思いを簡単に払拭できる人ばかりではないのです。
 私たちは、一瞬後に環境が激変するかも知れないし、発病するかも知れません。あるいは事故に遭ったとしても、何の不思議もないではありませんか。

 心の豊かな人に救われる場合があり、心の貧しい人に鍛えられる場合もあります。
 心の豊かな人のそばで憩える場合があり、心の貧しい人の仕打ちに心が萎える場合もあります。
 そもそも、自分自身が、時には心豊かになり、時には心貧しくなってはいないでしょうか。
 この世は、心の豊かな人と心の貧しい人とが万華鏡のように変化し、つながり、離れながら創っている一瞬、一瞬の連続です。

 こうして生き、死ぬ人々は何と愛おしい存在でしょうか。
 慈しみ合えば、この世は優しさであふれます。
 人は何と哀しい存在でしょうか。
 誰かの哀しみを分かち合えば、哀しみはそれだけ薄れます。哀しみは霊性が減らすのす。
 人は一時の喜びに救われてこそ、哀しみの海を泳ぎ続けられます。
 誰かの喜びを我がことと思えれば、喜びは何倍にもなります。喜びは霊性が増やすのす。
 人は同じ時、同じ地球上に薄く漂う空気を吸う仲間によって支えられています。
 生きとし生けるものは、皆、仲間です。

 慈しみを抱き、悲しみを分かち合い、喜びを共にし、気まま勝手な選り好みを捨てましょう。
 この「四無量心(シムリョウシン)」こそが、心を豊かにする打ち出の小槌です。

 誰でも持てる小さな宝ものを、持ってみませんか。



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