FC2ブログ
--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2014
04.26

慈愛への道を拓くものは何か ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(25)─

20140426004.jpg
〈当山の『自然墓(シゼンボ)』では梅が咲いています〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第四章 慈愛、そして性

1 真実の

宗教哲学慈愛への道を拓く

「修養を積み、瞑想を行えば、誰でもこのような真実の慈愛)をわがものとすることができるようになる。
 信心深いか否かは問題ではない。
 宗教哲学は、常に人をこうした真実の愛へと導いてくれるものなのだ。」

「核兵器の照準を互いに相手に合わせて対峙していた冷戦のさなかでさえ、公式に相手を敵と呼び合っていたときでさえ、核戦争は双方の破滅でしかないという現実が、両者をして対話へと導いたではないか。
 彼らはそれを共存と呼んだ。
 したがって、人間社会の条件を考え合わせて、個々の人間のより重要な条件、より遠大な視野に立った条件を考慮すればいいのだ。」

「もし、われわれがネガティブな感情を、ポジティブな感情より優位に置き、その赴くままにさせるとしたら、われわれ人類に未来はない。」


 簡単に憎悪へと裏返るような愛ではなく、相手も自分も、安心に暮らしたい、幸せでありたいと願う同じ人間同士であるという実感に促され、相手を選ばずに深い思いやりをかける「真実の愛(慈愛)」は、誰か特定の仏神や自然など、何ものかに対して「信心深い」から生ずるのではない。
 歴史の時間を背景とした幾多の考察によって〈道理である〉と認められ、膨大な行者・聖者の体験と探求によって〈真実である〉と保証され、伝えられた宗教は、「常に人をこうした真実の愛へと導いてくれる」のである。
 そこには当然、哲学もはたらいている。
 哲の字には、そもそも、斧で木を切って神梯(シンテイ…神が用いるハシゴ)をつくるという意味があり、白川静は「神に誓約したり、神事に従うているときの清明な心を哲というのであろう」と説いている。
 私たちがどうにもならぬところへ追い込まれて苦しみ、これはいったいどういうことなのか?、と、普段、損得や好き嫌いや気分などによってはたらかせている思考ではない叡智が動く時、私たちは、自分では気づかぬうちに「哲」の世界へ入っている。
 ダライ・ラマ法王がここで説かれている「哲学」は、必ずしも学問としてではなく、苦しみの中から発せられる根元的問いに対する誠実な姿勢を意味するものだろう。

 私たちが、愛の切なさに身悶えし、憎悪の黒い炎と忿怒の赤い炎に心を焼き、狂喜や狂気に翻弄され、どうにもならなくなった時こそ、宗教哲学の世界が静かに開いている門戸に気づく。
 こうした〈どうにもならぬ状況〉は人間対人間としても、組織対組織としても、国対国としても起こり得る。
 そこで「個々の人間のより重要な条件、より遠大な視野に立った条件」に立たせるものこそ、自他を平等に観る宗教的視点であり、状況を根元的にとらえる哲学的視点である。
 こうした視点は仏神の眼に通じており、必ず〈解〉がもたらされる。
 そこに発する力をダライ・ラマ法王は、「ポジティブな感情」と説かれたのではないか。
 どこまでも我(ガ)から離れられず、〈解〉が得られないままに暴発するものを「ネガティブな感情」と説かれたのではないか。

 ちなみに修行と実践の一つとして『三十七の菩薩(ボサツ)の実践』がある。
 同名のブログに紹介した。

「わが子のように大切に育てた者が
 私を敵のように見なしたとしても、
 病気のわが子に接する母のようによりいっそうの愛情を注ぐ
 それが菩薩の実践である」


 我が子同様に育成した相手が、自分をあたかも敵と見なすかのような態度をとった時も、病気になった我が子のために一生懸命看病する母親と同じような心で、よりいっそう慈愛を注がねばならないという。
 これが、菩薩としてこの世に生きる者へ課された実践項目である。
 ダライ・ラマ法王は説かれる。

「一般的に『仕返し』や『復讐』というのは、自分自身の心を満足させるための行為です。
 そうすることでしか、自分の心を満足させられませんね。
 しかし、瞑想することで心が満たされるとしたらどうでしょう。
 満足するという点では同じです。
 ですから、瞑想することで、目的は達成されたことになるのです」
「とにかく、心が安らかになるためには、満足を得られる必要があり、満足するためには、自分の眼の前に嫌な相手を観想し、ひざまずくことができたなら、心は安らかになっていきます」


 失恋の後遺症に七転八倒し苦しみぬいたAさんは、み仏の学び、実践し、こうした心境にたどりついた。
「思い出をくれた彼女に感謝して、痛みさえを糧に」して、しっかり生きて行きたいという。
 実に、仏法は性愛に発する苦しみをも克服させ、「慈愛への道を拓く」のである。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



スポンサーサイト
2014
04.18

ねじれた愛とまっすぐな愛 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(22)─

201404180032.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第四章 慈愛、そして性

1 真実の

○ねじれたと、まっすぐながある

「現代、人々は愛についてかまびすしく語る。
 愛にはさまざまなものがある。
 人を愛する、あるいは、金銭を愛する。
 あるいは、神の愛と言ったりもする。
 では、愛とは何か。
 それぞれの愛は異なるものなのか。
 異なるとすれば、どのように異なるのか。」


 今、若者たちへ「何に最も関心がありますか?」と訊ねたならば、「愛です」という答が多いのではないだろうか。
 それは、流行歌に愛という言葉が氾濫していることによっても容易に想像できる。
 端的に言えば「君が欲しい」であり、具体的には「君の身体が欲しい」、「君の心が欲しい」となろう。
 また、「最も大切なものは何ですか?」との問いにも、「愛です」と答える若者が多いのではないか。
 東日本大震災において、善意の人々は心に愛を抱きながら、自分にできることで援助活動をしてきたはずだ。
 愛こそが人類にとっての宝ものであると考えている向きもたくさんおられることだろう。
 こうした〈愛〉とはいかなるものか?

「一般的な考え方によれば、愛とは愛する対象への親近の情を意味している。
 それを敷衍(フエン)してわれわれは日常、名声を愛するとか、財産を愛するとか、性欲をその感情の底にひそませて人を愛すると言ったりする。
 だが、こうした愛はねじれていると言わねばならない。
 無知の上に現れる愛の形態だと言わねばならない。」


 法王は、私たちが一般的に考えている「愛する対象への親近の情」は「ねじれている」と説く。
 それは「無知の上に現れる」姿だと言う。

「本物の愛、真実の愛、種々の宗教的伝統に根ざした、特に大乗仏教に根ざした愛(慈愛)とは、こうした個々の人間の感覚や情感の発露としての愛とは、まるで異なったものである。」


 法王は、仏教に根ざした愛は「慈愛」であり、「個々の人間の感覚や情感の発露としての愛」とはまったく別ものであると指摘する。
 み仏が持つ二つの力の一つは智慧であり、もう一つは慈悲、ここで言う慈愛である。
 それは私たちの心の中心にあり、ともすれば自己中心的あるいは自分勝手な思考によって隠されがちな霊性の核でもある。
 法王はまず、そうしたものではなく、私たちの感覚や情感に現れる愛の正体を観る。

所有欲に根ざす愛は、憎しみへと変容する

「よく言われる愛とは、往々にして自分自身を愛するための愛でしかない。
 それは自己の愛する対象を所有したいという感情に、ほぼ完全に依拠した感覚である。」

「この人、この物は私のもの、あるいは私のものであるはず、と言うような。
 こうした愛は、自分の欲望をより大きくしようとする、あるいは、自分の欲望を充足させようとする感情から起こっている。
 ひじょうにしばしば、これらの感情は、その愛の対象になったものへの顧慮、思いやりを欠いている。」


 冒頭に書いた「君の身体が欲しい」、「君の心が欲しい」にある心は何か?
 それは所有欲である。
 欲しいという言葉に明確ではないか。
 手に入れれば嬉しいし、入れられなければ悔しい。
 そこにあるのは、対象が自分の思う通りになるかならないか、である。
 法王はその点を「愛の対象になったものへの顧慮、思いやりを欠いている」と指摘する。
 自分と相手との人間関係において、主役はあくまでも自分でしかない。
 愛しているつもりなので、相手を思いやっているように錯覚するが、真の思いやりとは相手を主役にする姿勢であり、欲しがっている自分が主役である限り、思いやりは表面的なものでしかない。

「したがって、このような愛は、愛というより欲望そのものだが、自分の期待する結果が得られた場合にのみ、自分の努力に対する成果が得られた場合にのみ、成就することになる。」

「だが、もし、自分をも愛してくれていると考えていた愛する対象が、その態度を変えたり、振る舞いに愛の終わりを匂わせたりしたなら、あるいは、求愛を撥ね付けたり、

自分の期待に背くような行為に出たりしたなら、このときにはいったいどうなるか。
 自己の欲望を満足させようとする期待が裏切られたならどうなるか。
 こうした愛は、いともすみやかに憎しみへと変容する。」


 愛が憎しみへと変容する可能性があるのは当然である。
 自分の意志を動かしている「欲望」は、満たされていれば愛として現れ、満たされなければ憎しみとなるだけのことだ。
 私が高校生の頃、愛について話し合う授業があった。
 私は「思いやり」が核であると主張して愛が実践された例をいくつも挙げたが、A君は「性欲さ」と言って笑った。
 自分の浅はかさが情けなかった。
 自分にも思慕する相手がおり、A君の指摘は図星だったからである。
 慈悲の例を外に眺めつつ、関心はあっても自分にはまだそうした心が薄く、自分を突き動かしている内なる主人公は性欲だった。
 以来、A君は生涯、私にとっての北極星となった。
 私は北極星の光に照らされつつ、悩み、乱れ、のたうち回りながら半世紀を生きてきた。

「なぜこうした愛は憎しみへと変化するのか。
 それはこの種類の愛が〈我(ガ)〉の上に打ちたてられているからだ。
『私』が愛するからだ。
 それが理由のすべてである。
『私』はどうすれば彼女、あるいは彼の肉体を、心を所有できるか。
『私』の欲望はどうすれば満たされるか。
〈我〉があってそこには〈他〉がない。
 他者は『私』の、いわゆる愛のために存在するにすぎない。」


 法王は、〈他人〉を〈自分〉のための存在でしかなくしてしまう我欲に気づけと説かれる。
 愛という言葉をオブラートにしつつはたらく醜い我欲を直視せよと説かれる。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2012
12.15

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第三十四回) ─言葉の刃と言葉の救い─

20121213003.jpg
〈薬師如来の霊峰笹倉山を仰ぎつつ〉

 菩薩(ボサツ)になる方法の34回目です。

「汚い言葉が他者を動揺させ
 菩薩(ボサツ)行の在り方を弱めることになる
 それゆえ、他者の心を害するような汚い言葉を捨てること
 それが菩薩の実践である」


 不悪口(フアック)すなわち、粗暴な言葉を用いないようになろうという戒めがあります。
 私たちが粗暴な言葉を用いろ時は、必ず、粗暴な心が生じています。
 怒り、憎しみ、恨み、妬み、蔑み、侮り。
 そこには破戒欲、支配欲などが伴い、何一つ、相手のためになる救いもなければ創造性もありません。
 霊性に蓋(フタ)をかぶせている状態です。

 心で「この野郎!」と思った瞬間、実際に「この野郎!」と口に出し、つまらぬ行動へ走らないための教えがあります。

○怒りが生じたなら、過去の悪業(アクゴウ)を清めるチャンスである

 原因は必ず結果を招きます。
 自分が不利益を与えられたり、不当な扱いを受けたり、バカにされたりしたなら、そういう結果をもたらす何かが自分の過去にあったはずです。
 自分の悪業です。
 いつかは必ず悪しき結果をもたらす原因が過去にあり、今まさに、その結果が出ているのです。
 ならば、「これでチャラ」になるよう、一瞬カッとなっても平静な心を取り戻し、心で相手に「ありがとう」と言ってみましょう。
 ここで忍耐すれば、確実に悪業を一つ、消しているのです。

○悪しき言葉も行為も、相手だけでなく自分をも傷つけ、愚かしく無益でしかない

 相手を「この野郎!」と怒鳴りつけて辱め、怖がらせ、萎縮させたとしても、相手が「すみません」と誤ったとしても、それでことが済むわけではありません。
 相手に何らかの打撃を与えれば、それは悪業を一つ、積んだことであり、いつか必ず、自分自身へその報いがやっってきます。
 自分を傷つけずに相手だけを傷つけられる方法はありません。

 老婆を騙し、威嚇して去った3人の商人が老婆の呪いによって非業の死を遂げた時、お釈迦様は説かれました。

「悪しき言葉でののしり、驕り高ぶって人を蔑む。
 こうした行為は妬み怨みを生じさせる。
 謙遜し、道理に従った言葉を用い、人を尊敬し、煩悩を捨てて悪心を抑えれば、妬みや怨みはひとりでに消滅する。
 人は生まれながらにして、口の中に斧を持っているようなものである。
 自他を切るのは、その悪しき言葉による」


○悪口をグッと呑み込み、真言や経典を心中で唱え、悪心を瞬時に善心へ切り替えよう

 お釈迦様は説かれました。

「空へ舞い上がろうと、海中深く沈もうと、深山の奧へ隠れようと、愚か者は苦をまとい死に追われ、逃れられる先はない」


 私たちに死から逃れる先はなく、前文の商人たちに悪業の報いから逃げる先がなかったように、悪業は自分で報いを受けるか、善業(ゼンゴウ)によってそのはたらきを相対的に小さくするか、対処法は二つに一つです。
 懺悔し、生き直すなどは後者に含まれます。
 ただただ、ご利益があるとされる神様や仏様にすがるだけではどうにもなりません。
 合掌するなら拝むだけでなく、仏神へ自分の愚かさや悪業などのすべてをさらけ出し、教えを学んで実践することです。
 当山の例祭で行われる護摩法へ参加される方々の多くは、一緒に経典を読み、護摩の火のそばへ来で懺悔し、よき願いをかけられます。
 そうしてよき行動の一つでも実践すればこそ、悪業による災いを最小限度に抑え、善業(ゼンゴウ)の大きな果実を招来できます。

 不悪口の戒律と、愛語(アイゴ)すなわち、慈愛のこもった言葉を使おうという勧めを胸に刻み、菩薩行に励みたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2012
12.14

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第三十三回) ─モノにも義理にも縛られず平等に接する─

20121213022.jpg
〈駐車場で隣り合わせた主を待つ忠犬。主が去った方向へ視線が固定された目の表情はまるで人間です〉

 菩薩(ボサツ)をめざす心の実践法、第三十三回目です。

名声にかられ争いとなり
 聞(モン…学ぶ))・思(シ…考える)・修(シュ…身につける)の行が疎(オロソ)かになる
 それゆえ、親友やご支援くださる人々に対しての甘えを捨てること
 それが菩薩の実践である」


 世間的な義理が発生し、からまれれば、行者としての道をまっすぐには歩めません。
 たとえば、大金をご寄進してくださった方の現世的利益のために修法の予定を変えるとか、お世話になった方の面目を保つために修法を疎(オロソ)かにして現世的事業に参加するといったことになれば、修行の道はまっとうできません。
 実際に寺院を運営していると、ここのところは大問題です。
 それは、たとえ善意でご協力くださる方でも、寺院や行者が〈義理〉の現世的感覚からまったく独立していることをご理解されにくいからです。
 寺院側としても、これだけ協力していただいているという意識が感謝にとどまらず、していただいているのに、あるいは、していただいているから、という義理にまで行ってしまいがちなことは否めません。
 そこが大きな落とし穴になりがちであり、落ちたかどうかは周囲から気づかれなくても、落ちた行者にははっきりとわかり、必ず、聞・思・修に影響が生じるのです。
 また、特定の人に対して身びいき的な心が生じれば、ご縁の方々を区別、差別しないという行者として、寺院としての基礎的ありように反してしまいます。
 お不動様の経典には「平等に見ること一子のごとし」とあります。
 寺院は、相手が誰であろうと、我が子へのまなざしと同じ視線で平等に見て、平等慈愛を発し、平等に手を差し伸べねばなりません。

 一方、理想としては、寺院へお布施をする方々においては布施の心を学ばれ、見返りを求めない清浄な心でお支えいただきたいと願っています。
 結局は、それが布施を行う方の徳積みになり、霊性を発揮し、心のレベルを高め、運勢をよき方向へと導き、自他へ幸せと安心を与える道だからです。
 決して「自分のため」とは思わない清浄な心が、相手のためになるだけでなく、結果として自分のためにもなるのです。

 経典が説くとおりできるかどうか、行者も寺院も、そして間接的にはご支援くださる方々も試されています。
 高額のご志納金を持参すると上座に座らされ、住職から平身低頭でお礼を言われるというお話も聞きますが、当山では、基本的に、ご来山の方を上座へお通しします。
 僧侶は不動明王と同じく衆生のしもべだからです。
 ただし、袈裟衣をつけ、み仏と一体になる法を結んでの人生相談になれば、上座でお話をお聴きします。
 この場合は、僧侶だから上座に座るのではなく、み仏になっているからです。

「どんなに尽くしてくれる人も、特別な人としてではなく、すべての衆生の中の一人として、等しく最大の慈愛をもって接すること」


 出家者も、在家の方も、菩薩様をめざすならば、いかに難しかろうと貫かねばなりません。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2012
12.12

「あなたが欲しい」は愛なのか?

20121212001.jpg
〈負傷した足を救ってくれた故人用のイス〉

 の文字が氾濫している。
 若者にとって、至上の価値はにありそうだ。
 では、とは何か?
 普通、AさんがBさんをしているという場合、Bさんは、あくまでも〈AさんにとってのBさん〉だ。
 そこには必ず、Bさんは自分のものという所有欲がはたらいている。
 BさんはAさんのものだからこそ、(イト)しいし、愛(メ)でようとする。

 ところが、何かのはずみでBさんとの間に隙間ができれば、Aさんの愛はたやすく憎しみに変わる。
 Bさんを恨み、その行動に嫉妬し、あげくの果てはストーカーになり、殺人事件まで引き起こしたりする。
 こうなったのは、自分のものでなくなったからだ。
 Aさんの所有欲が満足させられている間は愛し、所有欲が充たされなくなれば憎む。
 何と自己中心的であることか。

 自己中心はBさんも同様だ。
 自分を大切にしてくれるAさんだからこそ近づきたい気持を受け入れ、愛したりもする。
 しかし、期待していたほどでなければ、愛が醒めたりする。
 これは自分の都合ではないか?
 やはり、関心があったのは〈BさんのとってのAさん〉でしかない。

 いかに小説やマンガで推奨されようと、こうした自己中心的な愛に人生をかけようとするなど、若気の至りと早く気づいた方がよい。

 み仏の慈悲慈愛はまったく違う。
 自己中心ではないからである。
 み仏にとっては〈私にとってのあなた〉という構図はないし、み仏は「まず自分ありき」を離れなければ自他共に救われないと説く。
 慈悲は、自分もあなたも同じという意識のあるところにしか生まれない。
 私もあなたも、あの人もこの人も、同じく苦を厭(イト)い楽を求め、同じく喜怒哀楽し、同じく衣装をまとい、同じく語り、同じく飯を喰い、同じく大小便を出し、同じく寝る。
 私への関心とあなたへの関心に違いはなく、あなたが虫歯の痛みをうったえれば、自分の虫歯が痛い時と同じく耐えられない気持になる。
 この時、あなたは、〈私にとってのあなた〉ではなく、〈あなた自身〉として私の関心の対象であり、さらに言えば、〈あなた〉と〈私〉と二つに分ける意識すらなくなっている。

 私は妻にそのことを教えられた。
 娑婆にいたおりも、出家してからも、妻はずっと私の戦友だった。
 妻が不機嫌になったり、不調になったりすれば、私は、勝手に退却しようとしている部下を抱えて突撃せねばならない将校だった。
 傷ついた部下をいたわる衛生兵でありながら、最前線で砲火を交える歩兵でもあり、かつ、戦況を考える隊長も兼務していた。
 自分の戦いから切り離せないという意味では一心同体だったが、妻は数年に一度、まるで思い出したように「お父さんが言うように、一心同体ではないよ」と口にした。
 別にケンカしたわけでもないのにこう言われると、私はおもしろくないというよりも、「何で?」と不思議だった。
 時折、抵抗はしても、決して裏切らずについてきてくれていたからだ。

 妻が一度目に倒れた時、私は、妻が背負っていた役割を補うのに無我夢中だった。
 妻は病魔によって〈役割を解かれた人〉として、ただ、そこにいた。
 私は、それを相手に、自分の新たな任務をまっとうすべく、睡眠時間を減らして戦った。
 戦いは劇的な勝利の瞬間を迎え、また、二人して新たな戦いを始めた。
 妻が二度目に倒れた時、妻は〈役割を解かれた人〉としてではなく、私と同じ人間として、そこにいた。
 温かい味噌汁を与えれば喜ぶ──。
 今まで、私が温かい味噌汁を与えられるのは、笹倉山に黒っぽい雲がかかればやがて風が吹き、次いで雨や雪がやってくるのと同じく、当然であり、一人の人間が一人の人間へ食事を与えることの重さに気づかなかった。
 ここまで生かしてくださった仏神への感謝があらためて起こった。

 こうして妻は負傷した戦友でありながら、同時に、私と同じ人間として、私の関心の対象となっている。
 私にとって、妻への関心は、私への関心と等しい。
 思えば、当病平癒を祈る時、願主の治りたいという思いを自分の思いとして祈ってきた。
 火葬場で最後の別れを行う時、ご遺族の身を斬られる思いを共有する気持で修法してきた。
 願主への関心も、ご遺族への関心も、私への関心と変わりはなかった。
 しかし、妻だけは戦う自分と一体であると思い込んでいたために、戦友としての関心しか持てなかったのかも知れない。
 今さらながらに、無口な妻の「一心同体ではないよ」へ込めていた思いが胸に迫ってきて切なく、情けなくなる。

 愚かな私は自分の棺桶を側へ置くような毎日を送るところまで来てようやく、勘違いに気づきました。

 定年を間近にしている方々よ、伴侶はあなたの戦友だけなのではありません。
 戦闘終結を向かえる前にできるだけ早く気づき、伴侶に対して、ご自身への関心と同じレベルの関心を持ってください。
 あなたが作った味噌汁を口にして微笑む伴侶の笑顔に、あなたが伴侶から与えられていたものの大きさを知ってください。
 そうすれば、熟年離婚の危機はかなり回避できることでしょう。
 もちろん、このあたりは、共稼ぎの方々にはとうの昔にわかっておられたことでしょうが……。

 若い方々よ、あなたが異性を欲しいと思う時、その気持をたやすく愛という名のこれ以上ない価値であると考えないでください。
 愛しいと思う気持に所有という我欲がベッタリと貼りついていれば、それは、自他を幸せにするみ仏の慈愛ではなく、性欲の発露です。
 そのレベルにとどまっている限り、性欲に伴う執着心が絶えずはたらき、自分を傷つけ、相手を傷つけ、共にズタズタになる危険性と隣り合わせで日々を送らねばなりません。
 性欲の対象は無数にあり、感情は常に変化し、執着心に染められた愛は憎悪嫉妬を裏面としたコインの表側でしかないからです。
 そこを入り口として、〈私にとってのあなた〉を超えた〈あなた自身〉という人間そのものへ深い思いやりをかけられるようになれば、本当の愛すなわち慈愛へ近づくことでしょう。

 私たちは、死ねば閻魔(エンマ)様のテストを受けねばなりません、
 洞窟へ追いやられ、仏性の輝いている人は洞窟を照らし出して安楽な道へと進めますが、輝いていない人は暗黒の世界へ行くしかありません。
 慈愛こそ仏性の発露です。
「あなたが欲しい」を超え「あなたのために」と真の愛を発揮しつつ生きたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。