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2016
05.13

中国人学生の死とネット社会の問題 

2016-05-13-0001.jpg

 産経新聞の「北京春秋」は5月12日、「ある大学性の死」を報じた。
 以下、記事を追ってみる。

「先月、21歳で死去した西安電子科技大学の学生、魏則西氏のことが最近、中国のインターネットで話題となっている。

 滑膜肉腫という難病にかかった魏氏が検索サイト最大手『百度』で、北京にある軍系病院が、米国の大学との共同研究の成果として『生物免疫療法』という画期的な治療法を行っていると知った。
 両親と共に親戚中から20万元(約340万円)をかき集め、4回の治療を受けたが効果はなく、腫瘍は肺に転移した。

 友人を通じて米国などの病院に問い合わせ、嘘の公告にだまされたことに気づいた。
 自身が受けた治療法は海外で否定されたもので、共同研究を行った事実もなかった。
 魏氏は亡くなる直前、ネット上で『あなたは人間性のなかの最大の〈〉は何だと思うか』の一文を書き残した。

 魏氏の死が大きな話題となり、虚偽の情報を流した病院は営業停止となった。
『百度』にも批判が集まった。
 病名を検索すれば、広告料をより多く払った病院が上位にランクされて出てくるシステムを導入しているため、偽情報が氾濫し、患者がだまされることが以前から多かったという。

 中国では政府批判はすぐに削除され、書き込んだ人が逮捕されることもよくあるが、いかがわしい医療公告は取り締まり対象となっていないようだ。(矢板明夫)」


 この一文はあまりにも重い。
「あなたは人間性のなかの最大の〈〉は何だと思うか」
 仏法的に、が何であるかは明確である。
 慈雲尊者は説いた。

「瓔珞経(ヨウラクキョウ)に『理に順じて心を起こすを善といい、背くをと名づく』と説く。
 仏性(ブッショウ)に順じて心を起こすを善といい、これに背くをという。」


 心の源底にある仏性という満月のような鏡に照らしてみれば、何が善で何がであるかは明確にわかる。
 そこにはたらくごまかしようのない道理に合っていれば善であり、背いていれば悪である。
 お大師様は、鏡に気づかず、鏡が塵に覆われた状態で右往左往する状態から、鏡そのものに成り切った状態までを10の段階に分けて説かれた。
 食欲と性欲に支配される生活から、み仏そのものとなる生活まで、私たちは同じ人間とは思えないほど異なる一生を送る。
 嘘の公告で大借金をし、無念の思いで死んで行った魏氏の問いかけは、中国の人々に対して「我が身を振り返る」ことを訴えたのではないだろうか?

 ネットの検索システムにも大きな問題がある。
 海辺の砂のようにたくさんある情報から本ものや、自分が本当に必要としているものを探すのは、非常に困難だ。
 どうしても、検索して上位に引っかかった対象から選ぶことになる。
 だから、情報の提供者も探索者も〈上位〉を意識するが、そこにはカラクリがあって、広告料や手数料の金額によってランクが決められるとしたなら、公正で開かれたネットではなくなる。
 お金が万能で、〈袖の下〉があまりにもあっけらかんと横行したり、環境汚染が放置されたり、食品にまでも粗悪品が流通している社会構造の罪も重い。

 いずれにしても、個人的な悪もあれば社会的な悪もあり、個人的な、あるいは社会的な悪行(アクギョウ)となれば、積まれた悪業(アクゴウ)は必ず自他へ苦しみをもたらす。
 魏則西氏の呻きと問いかけは決して〈他人ごと〉ではない。
 悪業を避けるには、心の鏡から塵芥を拭き取る不断の努力が欠かせない。
 お経を学び、読誦し、瞑想や写経を行うことは、重要な方法である。
 興教大師は説かれた。
「月の浄徹(ジョウテツ)なるを見て 心の浄性(ジョウショウ)を観ぜよ」
(穢れをまとわぬ清浄な光を放っている満月を見て、自分の心の奥底も又、清浄であることに気づくべし)
 実践したい。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
05.09

ミケ子はキジを獲り、人は人を殺す ─本来の仏が迷う姿─

2016-05-09-0001.jpg

 妻が騒いでいる。
「ミケ子がキジを獲ったみたいだよ」
 あり得ると思った。
 何しろ、小型でおっとりしているクロでさえ、かつてはスズメやモグラを獲って意気揚々と玄関へ運んで来たものだ。
 情報は、キジが歩いていたあたりでミケ子がウロウロしているという極めて曖昧なものだったので、それ以上の詮索はやめた。

 なぜか、最近、聴いた話を思い出した。
 かつてイラン・イラク戦争のおり、崩壊したイランのパーレビ王朝関係者がジャングルに亡命していて、侵攻したイラク軍兵士の暴虐ぶりを目にした。
 兵士たちはイランの女性を集めて暴行し、最後は一人づつコモにくるんで全員を爆殺した。
 飛んで来た肉片が近くへ落ち、この世の光景とは思えないものを見た彼は心のどこかが壊れ、時にはむやみと他人へ優しくするが、時には平然と冷酷な行動をとるようになったという。

 ケモノは節理に従うのみ。
 人間は真理道理に合わせるか、合わせないか、迷う。
 慈雲尊者(ジウンソンジャ)は不殺生について説いた。
 

「一切衆生(シュジョウ)は我が子なるによって、一切有命(ウミョウ)の者に対すれば不殺生となる。
 一切有命の者が眼に遮(サエギ)れば必ず慈悲心生ず。
 この菩薩(ボサツ)の心をと名づく。
 この菩薩の心、衆生に本来具有のものなれど煩悩(ボンノウ)・業障(ゴッショウ)の深厚(ジンコウ)なるによって現ぜぬまでなり。」


(いっさいの生きとし生けるものは、我が子同様に、み仏からいのちを分けいただいた者同士であり、この心で生きとし生けるもののに接すれば不殺生という律の実践者となる。
 生きとし生けるものが目に入れば必ず思いやりの心が生ずる。
 おのづからそうなった菩薩の心が、の成就である。
 この菩薩の心は、生きとし生けるものを代表する人間には本来的に具わっているものだが、自己中心的な煩悩と、悪行の悪しき影響力、そしてそれが招く障りによって表れにくくなっているのである)

「もし残忍の心をたくましくして、罪なき者をことさらに殺害して、極大(ゴクダイ)の苦悩怨恨を生ぜしむる。
 この時、業(ゴウ)の種子(シュウジ)が成就して、他時異日(イジツ)、我が身に集まる。
 無しと言われず。」


(もしも残忍の心を逞しくし、何ら罪のない者をわざと殺害して、この上ない苦悩と怨恨を生ぜしめたとしよう。
 その時は、悪しき影響力の核がはたらき、やがて悪しき結果がその者の一身に集まる。
 因果応報は避けられない)

「殺生の、人道に背き、天命に背き、正道理に違うことを知り、みだりに殺さずみだりに悩まさぬが、世間相応の持者。
 殺生の業果(ゴウカ)空(ムナ)しからぬを信じ、殺さず悩まさず、憎み恨まぬが、出世間少分相応の浄持戒者なり。」


(殺生が人道に背き、天命に背き、人間としての正しい道理に違うことを知り、他の生きとし生けるものをみだりに殺したり苦しめたりしないのが、一般世間における持戒者である。
 殺生の悪業が因果応報の理によって必ず悪しき報いを生じさせると信じ、他の生きとし生けるものを殺さず、苦しめず、憎まず、恨まないのが、出家の立場としては、最低限度、資格が保たれる持戒者と言える)

「人間に生まれしことの尊重なるを憶念するは、道に達する要津(ヨウシン)なり。
 自ら自己人身に尊重の心あれば、自暴自棄の患(ワズラ)い無し。
 更に、微細の虫蟻に至るまで本性の平等なるに達す、これを不殺生戒全きと名づく。」


(人間として生まれた事実そのものの尊さ、重さを肝に銘じて忘れないのが仏道を成就するための要点である。
 み仏から授かった我が身を尊重する心があれば、何があっても自暴自棄になるおそれはない。
 さらに小さな虫や蟻までもが尊いいのちを授かった者として皆、平等であると知って害さず、苦しめないのが、不殺生戒を完全に成就した状態である)
 

「人たる道に背き清浄妙心の中に地獄を建立す。
 大火を現ず。
 大水を現ず。
 仏と異ならぬ心を持ちつつ、自ら迷うて業相(ゴッソウ)の姿を構え、ここに死しては彼に生じ、しばらくも定かならず。
 生もなく滅もなき場所に、自(ミズカ)ら生死(ショウジ)を構えて種々に顛倒(テンドウ)す。
 自己心中に大安楽のあるを知らず迷うなり。」


(人間の人間たる道に背き、本来清浄で精妙な心の中に自分で地獄を現出させてしまう。
 無限の火炎地獄を生じさせる。
 無限の寒氷地獄を生じさせる。
 本来、み仏の子としての心を持っているにもかかわらず、自分から迷って悪業の結果として生じた姿になり、ここで死んだかと思えば、あそこに生まれ、迷いの世界を転々として彷徨うばかりである。
 本来、生死を超えた存在であることに気づかず、自分から生き死にの苦を招き、いのちを真理に反した形ではたらかせる。
 自分の心中に、無限の安楽があることを知らず、迷っている)




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「おん あらはしゃのう」
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2016
01.03

平和への第一歩 ─見捨てられない者へ─

201211250012.jpg

 1月1日、午前10時から始めた今年最初の護摩法が終わり、「~我らと衆生(シュジョウ)と皆共に仏道を成(ジョウ)ぜん」と願文を唱え終わった時、お正月の間だけご開帳している宝珠の形をしたご本尊様がぐっと迫って来た。
 思わず口から出たのが、5つの誓いである。

「いまだ苦しみを離れざる者には、願わくは苦しみを離れしめ、
 いまだ楽しみを得ざる者には、願わくは楽しみを得せしめ、
 いまだ菩提心(ボダイシン…悟りを求める心)を起こさざる者には、願わくは菩提心を起こさしめ、
 いまだ悪を断じ善を修せざる者には、願わくは悪を断じ善を修せしめ、
 いまだ成仏せざる者には、願わくは成仏せしめん」


 この文章は、大阪の法楽寺で出家した江戸時代の慈雲尊者(ジウンソンジャ)が記した十善戒に関する書物から抜粋したものである。
 密教だけでなく、顕教(ケンギョウ…密教以外の仏教)も神道も広く学んだ尊者は、一つの結論に達した。

「師曰(ノタマワ)く、人の人たる道は、この十善にあり。
 世間戒(セケンカイ)も出世間戒(シュッセケンカイ)も菩薩戒(ボサツカイ)も、すべての戒はこの十善を根本とす。
 十善と説けどもただ一仏性(ブッショウ)。
 一法性(ホッショウ)なり。
 この十善戒は、甚深(ジンシン)なること広大なり。
 瓔珞経(ヨウラクキョウ)に『理に順じて心を起こすを善といい、背くを悪と名づく』と説く。
 仏性に順じて心を起こすを善といい、これに背くを悪という。
 本性に身口意(シンクイ)相応すれば十善おのずから全(マッタ)きなり」


(お釈迦様は、人間が人間として生きるべき道は、十善戒にあると説かれた。
 世間で暮らす際の戒めとしても、出家して暮らす際の戒めとしても、菩薩にならんとする者の戒めとしても、すべての身を律する道筋はこの十善が根本である。
 十善と説いても、それは一つの仏性と言うべきである。
 それは、一つの自ずからなる真実のありようである。
 この十善戒は、途方もなく深い世界である。
 瓔珞経には「ことわりに従って心を起こすのが善であり、背くのが悪である」と説く。
 おのずから具わっているみ仏としての本性に従って心がはたらけば善であり、本性に背けば悪である。
 この本性に身体と言葉と心のはたらきが一致すれば、十善は自然と成就される)

「私意(シイ)をもって本性を増減するがいわゆる悪。
 仏性は善悪ともに妨げぬものなれども、善は常に仏性に順ず。
 悪は常に仏性に背く。
 法として是(カク)の如し。
 ただ迷う者が迷う。
 知らぬ者が知らぬばかりなり」


(自分勝手な考えでみ仏としての本性を発揮したりしなかったりするのが悪である。
 本性は不動であり、人は自分自身の因縁によって善も悪も為すが、善はいつも、本性に従って生きるところにある。
 悪は常に、本性に従わぬところに生ずる。
 真理としてこのとおりである。
 誰しもがみ仏の本性を具えているのに、それに気づかず迷う者が自分で迷う。
 こうした真理と本性を知らぬ者が知らぬだけである)

 思えば、当山が念願とする「世界平和」も「不戦日本」も達成するのは人間であり、人間が内面に平和を築けなければ、願いは永遠に達成されない。
 内面の平和は、身体と言葉と心のはたらきが自ずから十善戒に添った人間になれば達成される。
 特に、三毒(サンドク)と言われる貪り、怒り、自己中心的で愚かな考えを脱しなければ、内面の平和はあり得ない。
 しかし、足を知り、カッカせず、ものの道理を学んだだけでは、社会が平和を構築するための積極的役割は果たせない。
 自分が〈仙人〉や〈アラカン〉になっただけではならない。
 菩薩(ボサツ)にならねばならない。
 菩薩こそが、冒頭の〈願う存在〉である。
 慈悲心に発する願いを持っていれば自ずから、「苦しみを離れざる者」の「苦しみを離れしめ」ずにはいられない。
 自ずから「楽しみを得ざる者」に「楽しみを得せしめ」ずにはいられない。
 こうしてお互いが〈他者を見捨てられない存在〉になってようやく、社会の平和が訪れるのではなかろうか?


 貧困による若者の自殺者はイジメによる自殺者の約5倍、子供の7人に1人が相対的貧困、食事すら満足にできない子供たちが激増している。
 首都大学東京の阿部彩教授は指摘する。
大人になっていく途中の段階で健康の格差が生まれていることになれば、貧困の連鎖をつなぐもうひとつのメカニズムになりかねない。
 地域で(子ども食堂のような)あたたかい場所があるといったことが、少しずつ少しずつ(貧困の)連鎖の鎖を断ち切っていく」
 日々、食べて生きて行くという段階ですでに、恐ろしい格差が広がりつつある。
 あらゆる社会的〈タガ〉を外して自由競争を放任し、押し進めた結果が社会の無慈悲さを濃くしているのではないか?

 テレビで美食や楽しい旅や快適な住まいや最新ファッションの場面が流れるたびに思う。
〝これはいったい、誰のための番組なのか?〟
 大企業がはてしなく儲け、経営にあずかるごく一部の人びとが富を集める一方で、多くのはたらく人びとは、結婚や子育てや住居の確保といった人生設計が許されなくなっている。
 そうした中で、芸能人がうまそうに食べる1盃1000円のラーメンなど、ごく〈限られた人びと〉にしか関係のないキラキラしい場面は、何のために放映されているのだろう?
 賃金の上昇率が2・9から2・1パーセント、全要素生産性(TFP)の1・8から1・0パーセントなど、バブル経済時の数字などを用いて華々しく打ち上げられた「100年安心年金」などはとっくに破綻し、働き盛りの人びとも年配者も、いつ、生活の基盤が崩れ、路頭に迷うかわからない。

 もはや、無制限な弱肉強食の放置をやめ、所得の配分を変える根本的な社会変革がなければ、弱者を見捨てている日本は〈無慈悲な国〉から脱することができないのではなかろうか?
 戦争をせず真に世界の平和へ貢献する国になど、なり得ないのではなかろうか?

 今年も、平成26年9月に始めた「不戦日本」の祈りを続けたい。
 皆さんと共に平和を祈る「不戦堂」の建立に向けていっそうの努力を重ねたい。
 そのための出発点が〈他者を見捨てられない存在〉になることであるという真実をあらためて肝に銘じたい。




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2015
12.12

慈雲尊者が説いた戒めの効能(その2) ─十善戒と安心の話─

201512060004.jpg
〈古く、大きく、重い箱がやってきました〉

 江戸時代の傑僧慈雲尊者(ジウンソンジャ)は、十善戒に導かれた生き方の効能を述べています。
 その後半です。

6 不悪口(フアック)戒

「言葉に刺がなくなり、言葉の刃で他人を傷つけない。
 むやみと責め立てられたり、怒鳴られたり、恨み言を言われたりする縁が遠ざかり、自分もまたそうしたもの言いをしなくなる」

 悪口(アック)とは、いわゆる悪口(ワルクチ)ではなく、感情に任せた粗暴な言葉遣いや、無神経あるいは意地悪なもの言いです。
 お釈迦様は、「人は口の中に言葉という斧を持って生まれているから、知恵と慈悲で制御せよ」と説かれました。
 言いたい放題を口にする気ままな人や傲慢な人は、自分もいつか、そうしたものによって手酷く斬りつけられることでしょう。
 感情に流されず、相手の気持に心をくばり、適切に語りたいものです。

7 不両舌(フリョウゼツ)戒

「言葉に思いやりや気遣いが滲み出る。
 親睦や友好を破壊されたり、讒言(ザンゲン)で信頼関係にヒビを入れられたりせず、自分もまた、そうした言動を行わなくなる」

 両舌(リョウゼツ)は単なる二枚舌ではなく、他人同士の信頼関係を壊そうとして、複数の人びとへ違った情報を流すことです。
 原因は嫉妬であれ、怨みであれ、怒りであれ、我欲であれ、許されない行為です。
 和合や友愛を尊び、喜ぶ菩薩(ボサツ)の心と正反対であり、こめられた悪意は他人にトラブルを起こさせるだけでなく、やがては自分自身へブーメランのように回り来て、大切な人間関係を壊される目に遭うことでしょう。

8 不貪欲(フトンヨク)戒

「いつでも、どこでも足(タ)るを知って欲求不満がなくなる。
 さまざまな度の過ぎた欲望や、悪しきことへの没頭や、現世的な力へのやっかみや、地位名誉への自賛などに落ち込まない」

 欲が適切に制御できる人は、「夜も昼も安穏であり、家にいても、でかけても安穏であり、病気に負けず、独りでいても憂いなく、他人と交わってトラブルなく、やがては煩悩を脱し、悟りへも近づく」と説かれています。
 また、「貪欲でなくなれば、誰もが、生まれついたままで聖者として生きられる」とも説かれています。
 そして「あたりまえのことを実践し、自分の分を超えないことはいたって簡単だが、実践する時の徳は広大である」とされています。

9 不瞋恚(フシンニ)戒

「身体全体が慈悲心に合ったはたらきをする。
 眉をひそめたり、額に皺を刻んだり、目を三角にする憂いや煩悩(ボンノウ)から離れる」

 私たちに悪事を行わせるものは、貪りと怒りです。
 貪れば、いかなる志も人徳も損なわれます。
 怒りに任せた行動をとれば、必ず世を乱し、ものごとを破壊の方向へ導きます。
 貪りと怒りはあいまって生じ、貪る心が薄くなれば、つまらぬことに起こらなくなり、怒る心が薄くなれば、いつしか貪らなくなるものです。

10 不邪見(フジャケン)戒

「貴賤や男女にかかわりなく人びとを見ても、山河や大地を眺めても、すべてが因果応報によって、ありのままに存在していることがわかる。
 ありとあらゆるものが真如(シンニョ…活き活きした真実)の顕れであり、実相(ジッソウ…ありのままの姿)そのものであることがわかる。
 邪(ヨコシマ)な考えを持ち、つまらぬ分け隔てをし、聖者をないがしろにし、賢者を誹(ソシ)り、神祇(ジンギ…神々)を侮り、仏菩薩(ブツボサツ)を誹謗(ヒボウ)し破壊しようとする悪しき心と無縁になる」

 慈雲尊者は説きました。
「邪とは正に対して用いられる名である。
 邪(ヨコシマ)に僻(ヒガ)んだ心である。
 見は、見るという字だが、目で見るのではなく、心に見定める処があることを指す。
 この見処が横道に行けば邪見となる。
 邪見は恐ろしいと知って、正しい知見に従うのが不邪見である」
 すべては(クウ)であり、因果応報の糸につながっているという真理に立ち、自分も他人も生きとし生けるものは皆、広大ないのちの世界を共に生きているという真実に気づけば、何が正しいかは自ずと観えてくることでしょう。

○ 〈普段のありよう〉と〈究極のありよう〉

 前回、(その1)に書いたとおり、 この世には、〈普段のありよう〉と〈究極のありよう〉との二面があります。
 愚癡を言わず、自分の好みだけにとらわれず、自他のものを混同せず、明らかなこととそうでないことを区別し、公と私をわきまえ、恩を忘れず恩を着せず、自分を第一として権利の主張をするよりも、自他の人間としての尊厳をこそ第一すれば、〈普段のありよう〉において、まっとうに、安心に生きられることでしょう。
 これが隠形流(オンギョウリュウイアイ)居合の『七言法(シチゲンホウ)』です。
 そして、この十善戒を心に刻んでおけば、〈究極のありよう〉においても、深い安心と共に生きられることでしょう。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2015
12.11

慈雲尊者が説いた戒めの効能(その1) ─十善戒と空(クウ)の話─

2015121100012.jpg

 江戸時代の傑僧慈雲尊者(ジウンソンジャ)は、十善戒に導かれた生き方の効能を述べています。

1 不殺生(フセッショウ)戒

「たとえ敵や害虫などに遭遇しても、慈悲心をもって接することができるようになる。
 そうすると無体に攻撃してくる者との縁が薄くなり、自己中心から他を害する心も起こらなくなる」

 もちろん、敵からは身を守らねばなりませんが、その場合ですらも、単に「この野郎!」と恐怖と怒りに任せて戦うのでなく、心のどこかに哀れみを持ちつつの防御となることでしょう。
 作家曽野綾子氏はかつて、泥棒に出くわした時、こんなことをしてはいけませんと諭して帰らせました。
 敬虔なキリスト教徒としての生活がそうさせたのでしょう。
 むやみにいのちあるものを害さないという思いやりの心は、宗教の如何を問わず、根本から自他を救います。

2 不偸盗(フチュウトウ)戒

「社会的立場などを利用した賄賂などの不当な要求をしなくなる。
 そうすると、強盗や窃盗などによって自分の財産も奪われにくくなり、自分もまた、奪わなくなる」

 自分へ本来、与えられていないモノを好き勝手にしようとするのが盗みです。
 ここのところ相次いで、土木・建築関係の手抜き工事や食品・薬品関係のルール違反などが明るみに出ました。
 不当に得る悪業(アクゴウ)は必ずツケが回ってきます。
 たとえ強盗や窃盗に遭わなくとも、因果応報の報いは受けねばなりません。

3 不邪淫(フジャイン)戒

「誰かと男女関係が成立している異性に対して、勝手に接触を求め、執着しないようになる。
 非倫理的で誰かを傷つける関係を求める者は寄りつかなくなり、自分もそうしないようになる」

 恋に落ちると言うとおり、異性を好きになる恋愛感情は、ものの道理とは無関係に〈起こってしまう〉ものであり、防ぐことはできません。
 だから、問題は、その感情の扱い方に尽きます。
 きちんとコントロールすれば、自分にとっても相手にとっても人生の味わいを深める佳い体験になり得ますが、煩悩(ボンノウ)のままにふるまえば、ろくなことにならず、老いて死を間近に感じる頃には取り返しのつかない後悔の念に襲われることでしょう。

4 不妄語(フモウゴ)戒

「用いる言葉はすべて真理に従い、正しくなる。
 嘘偽りやインチキな書面で騙そうとする者が寄りつかなくなるし、自分も誰かを騙せなくなる」

 自分の言葉に注意をはらっている人は、他者の言葉にも注意深くなるものです。
 ただ疑い深ければ騙されないというわけではありません。
 他人を悪者扱いするより先に、自分自身が常々どうなのか、言葉づかいに気をつけるようにしましょう。

5 不綺語(フキゴ)戒

「言葉に虚飾がなくなる。
 駄洒落、無意味なおしゃべり、時間つぶしの稽古事などに縁がなくなる」

 人生は時間です。
 時間が創造的に用いられてこそ、人生は活き活きしたものになります。
 もちろん、仕事の成功であっても、家庭の平安であっても、趣味の探求であっても、何かの結果をつかむためには休息も準備も気分転換も必要であり、そうした時間も含めて自分はどう過ごしているか、振り返ってみたいものです。

○過ちを犯さないようになるには?

 私たちが十善戒に背く過ちを犯す理由の一つは、〈自分〉の絶対視にあります。
 よく用いられる数珠の例えはこうです。
 108個の珠が集まって一本の数珠になりますが、数珠とはその全体に対して与えられた名称であり、珠の一個一個、どれをもってしても、数珠であるとは言えません。
 私たちは、数珠の全体に対してそう思い、そう呼んでいるに過ぎません。
 私たち自身をふり返ってみても同じです。
 指や足など、どこをとっても〈自分〉そのものではなく、たとえ大好きな恋人であっても同じです。
 恋人の髪一本すらも愛しく感じますが、では髪を切ったなら、あるいは病気で失ったなら、恋人は〈減る〉のでしょうか?
 自分も恋人も、地や骨のように固いもの・水や血液のように流れるもの・火や体温のように温かいもの・風や呼吸のように通り抜けるもの・それらが互いに妨げず自在にはたらくバランスのとれた場としての(クウ)・精神という6つの構成要素によって存在しています。
 これを六大(ロクダイ)と言います。
 また、自分も恋人も、身体を含む物質・感受作用・表象作用・意志作用・認識作用が集まって存在しています。
 これを五蘊(ゴウン)と言います。
 そして、これらが全部、たまたま、因と縁によってうまい具合にまとまっていればこそ、その結果として自分も恋人も居るに過ぎません。
 また、身体を構成している数十兆もの細胞は数年ですべて入れ替わりますが、そうすると、大人になった人は子どもの頃とは別人でしょうか?
 あるいは、医者になる決心をしていた子供の頃の心と、教師になってはたらいている今の心は別ものでしょうか?
 自分とは実にファジーな存在です。

 私たちは、普段、何気なく〈居る〉と思っている〈自分〉ですが、このようによく考えてみると、諸条件の集まりによってガラス細工のように、海辺の砂山のように、危うく存在しているだけであると気づきます。
 確たる不変の実体があっての自分ではありません。
 この気づきが、(クウ)を知る入り口です。

 もちろん、自分は(クウ)だからといって、「去年の自分はどこにもいないので、今の自分には関係ありません」と去年の約束を反故にできるわけではありません。
 大切なのは、自分にも恋人にも何ものにも、〈普段のありよう〉と〈究極のありよう〉との二面があるのを忘れないことです。
 そうすると、普段のやり方で行き詰まった時、究極の観方から、思わぬ打開策が見出されたりします。
 自分の絶対視、何かの絶対視というものの本質に背いた無理な観方から生じた壁が、嘘のように消えたりもします。

 自然に、妄りな殺生、盗み、不貞、嘘、おべんちゃらなどから離れることにもなるはずです。
 十善戒を唱える修行と(クウ)を観る自覚によって、自他の苦を克服したいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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