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2016
11.10

静寂の共有 ━修行の深まり━

 今回の四国巡拝は今日で終わる。
 前回、お遍路さんとして目立ったヨーロッパ系の方々、特に、自転車で回る若い方はほとんどいない。
 多いのが僧侶に連れられた団参者だ。
 女性のリーダーもいて頼もしい。
 季節によって、これほど違うものかと驚く。

 最大の難所とされる45番札所岩屋寺で、40代の僧侶に声をかけられた。
「どちらからですか?」
「宮城です」
 即座に、震災の被害は?と返ってきた。
 あちこちで幾度か一緒になった彼は三重県からやってきたらしい。
 頭(ズ)が低く、自分より年上の20人ほどを巧みに率いている。
 まことに好ましく思えた。
 こういう人々が仏法を生かしてゆくのだろう。

 さて、「修行の道場」である高知県が終わり、「菩提(ボダイ)の道場」愛媛県に入ったところで、菩提心(ボダイシン)について少々、お話をした。
 お大師様が重要視されたこの言葉にはいくつもの意味がある。
 要は悟りを開くことに収斂するが、それではますますわかりにくいので、小生はよく「まっとうに生きたいと願い、精進する心」と表現する。
 湯川秀樹博士は、お大師様がこう願って生きた人であると指摘した。
「一日生きるとは、一歩進むことでありたい」
 ならば、私たちは今回、どう一歩進もうか?

 前回の巡拝では、「限られた時間内でしっかり思いを確立して歩くために、真言や御宝号を一区切りづつ丁寧に、ご本尊様とお大師様へ届けよう」と提案した。
 その結果、当山のグループは他のグループとかなり、リズムの異なった唱え方をしながら歩いている。
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、~」とバンバン、重ねてやらない。
「南無大師遍照金剛━━━、南無大師遍照金剛━━━、南無大師遍照金剛━━━」
 もしかすると、声をかけてきた彼は、そんなところが気になっていたのかも知れない。
 プロは他のプロが自分と違うことをやっている状態にすぐ、気づく。

 さて、今回はそのちょっと先へ進みたい。
 たとえば、最後の「南無大師遍照金剛━━━」が終わり、声が切れた先にやってくる静寂の数秒。
 この<余韻>大切にしたいのだ。
 そこは無限のスピードで思いがお大師様へと通じて行く時間であり、同時に、お大師様からも無限のスピードでご加護が返ってくる時間であると思う。
 また、日常生活ではほとんど望めないほど意識が深まる貴重な時間だ。

 運転手の滑田(ナメタ)さんにもご協力をいただいたおかげで、本堂の前でも、大師堂の前でも、唱え終わってから次の動作へ移る直前の静寂を共有できるようになった。
 静寂と言っても、周囲で物音一つしないわけではない。
 大きな声でお唱えする声が周囲に満ちていようとも、息を吐ききり、無呼吸の状態となった自分の心に必ず静寂がやってくるし、それは、心を合わせて修行しているメンバーには<気配>としてわかるのだ。

 今回も貴重で、生きた修行ができた。
 もしかすると、息が止まったままになり、この静寂に入りきってしまえば、安寧な成仏となるのかも知れない。
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2016
08.03

お不動様のご加護をいただこう

2016-08-03-0001.jpg

 当山のお不動様は、小さいお像だがハイパワーである。
 当病平癒にも、供養成仏にも、祈りを受ける主尊として、行者と一体になり、施主や願主の誠心を受けとめてくださる。
 猛火はあらゆる邪心や邪業(ジャゴウ)や邪鬼をうち祓ってくださるので、堂内は空気が違う。

 お不動様のおられるところ、どこにでも火炎がある。
 滝行では細胞の生命力を励まし、護摩法ではありありとお姿を現し、斎場では迷いや未練を解き放つ炉内の浄火となる。
 火の元は至極の智慧であり、お不動様の悟りである。

 悟りへ至る分別(フンベツ)を七覚支(シチカクシ)と言う。
 だから、お不動様の髪は浜菅(ハマスゲ)という草で7つの莎髻(シャケイ)に結ばれている。
 では7つのポイントとは何か?

1 結ぶ法の真偽を判別する。
 み仏の教えにかなう正しい法でなければ、動かさない。
 お不動様が、自己中心的で、他者を害する願いに対して、それを実現させる法力をくださるはずはない。

2 正しい法のために精進する
 お不動様が私たちを救う不退転のお慈悲は、仏法に則り、途切れることはない。
 願う私たちの善心を励まし、あきらめぬ力をくださる。

3 真理・真実を喜ぶ
 不変の真理、世界の真実を喜び、それが不断の力となっておられる。
 私たちも又、真理、真実に魂が震える時、お不動様の喜びとお力をお分けいただいているのだ。

4 清浄で、軽快、安穏な心身を保つ
 悟ったお不動様に穢れはなく、あらゆる者を救うために、本体は不動であり揺らぎなく安穏でも、お心は、どこにある善心をもただちにキャッチし、分身である童子様たちをどこへでも遣わす。
 お釈迦様はどこへでも足を向けられ、お大師様も広く衆生を救われ、ダライ・ラマ法王も又、世界中で平和と思いやりを説かれている。

5 眼前の現象をそのままにとらえ、救いを求める衆生から離れない
 大日如来の使者として、智慧と慈悲を具体的な手段で顕すお不動様は常に私たちを見守ってくださる。
 いったん真の慈悲心を動かした人も又、同じであり、見捨てることはできず、心中にある仏心が発した悟りの光は永遠である。

6 心身が定まりぶれない
 悟りにぶれはなく、常にはたらくべき智慧がはたらき、動くべき慈悲心が動いている。
 ペルシャワールの中村哲氏は大洪水に見舞われた現場でも「他に方法がなければやる、それで失敗すれば神の思し召し」との姿勢を貫き、打開してきた。

7 いかなる現象や行為にもとらわれない
 すべては空(クウ)なる世界でのできごとゆえ、その時、その場での手段は、救済実現の瞬間に尽くされたことになる。
 お釈迦様が、「迷いの川を渡らせてくれた筏(イカダ)は、向こう岸へ着いたならば置いて先へ進もう」と言われたとおりである。

 こうしたポイントが実現されているお不動様のお力は、矮小(ワイショウ)な人間にとって〈無限〉としか言いようがない。
 お不動様のありようを知れば、その威神力はよりいっそう感得できる。
 お力の一端に浴することができるかどうかは、私たちの誠心にかかっている。
 願い事を心に刻んだならば、合掌し、真言を唱え、お姿を心に念じたい。
「のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かん まん」
 こうして身口意(シンクイ)を不動明王と一体化しよう。
 あるいは護摩法に参加しよう。
 あるいは願い事を書いた護摩木でご供養しよう。
 実践がすべてである。




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2016
07.21

『終わった人』を読んで ─終〈括〉のすすめ─

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 内舘牧子著『終わった人』を読んだ。
 第一行目がなかなか手厳しい。

定年って生前葬だな」

「元気でしっかりしているうちに、人生が終わった人間として華やかに送られ、別れを告げる。」


 唱和24年生まれの主人公は63才で定年退職する。
 信念を持ち、潔い。

「人間の価値は散り際で決まる」


 良寛の句にも納得している。

「散る桜残る桜も散る桜」


 しかし、見事な決心と進退の割には、なかなか〈成仏〉できない。

「人にとって、何が不幸かと言って、やることがない日々だ。」

定年という生前葬を終えた今、何もかもが後悔だったように思う。」


 これでは辛い。
 しかも、同年の人間で、いまだに夢を持っているヤツもいるのだ。

「肯定できない自分のどこに、誇りを持てるというのだ。」

「所属する場のない不安は、自分の存在を危うくするほど怖いものだった。」

「『終わった人』でも、誇りを持てる場はきっとある。」


 妻には厳しく言われる。

「年齢ばかり考えてることが、人を年とらせるのよ。」


 昔、通ったクラブのママは、「スーツって息をしているのよ」と言われる。

「仕事を離れて、スーツにふさわしい息をしてない男には、スーツは似合わなくなるのよ。」


 自覚する。

成仏していないのだ。
 だからいつまでも、迷える魂がさまよっている。」


 妻はそこを衝く。

「年齢や能力の衰えを泰然と受けいれることこそ、人間の品格よ。」


 そして、いろいろやり、案の定、失敗する。
 ただし、若い時とは違って、動じない。

「今後、どれほどひどい暮らしになるか、それはわかっていた。
 しかし、もはやそれを引き受けるしかないのだ。。
 仕事であれ、病気であれ、最大限の努力をした後で、『しかない』という状態に入ったなら、それを引き受ける方が安寧だ。
 俺はそう思っている。
 そう、散り際なのだ。」


 本人は動じないが、妻は無論、「そうですか」では終わらず、悶着となる。

「男にとって会社勤めと結婚は同じだ。
 会社では結果を出さない人間は意味がないとされ、追いやられる。
 家庭では年を取ると邪魔にされ、追いやられる。
 同じだ。
 結婚が男にとっていいものかどうか、俺にはわからない。
 いや、女にとってもだ。
 俺は次に生まれたら、結婚はしないかもしれない。」


 しかし、生き生きとやっている仲間と接し、気づく。

「ああ、俺は定年以降、思い出とばかり戦ってきたのではないか。」


 戦っても仕方がない幻のような相手と取っ組み合いをしてきたのだ。
 勝てるわけがない。
 しかし、人生に〈余りの生〉つまり余生などというものは本来、ない。
 最後の目的を見つけた主人公は、「籍を抜かずに、お互い自分の人生を生きるために、同居の形を解消する」卒婚(ソツコン)に踏み切る。

 もうすぐ70才になる作者は、20年以上も前から、「こういう男を主人公として書きたい」と思っていた。
 還暦、定年という同年代の流れの中で、クラス会などに参加しているうちに「ふと気づいた」。

「若い頃に秀才であろうとなかろうと、美人であろうとなかろうと、一流企業に勤務しようとしまいと、人間の着地点って大差ないのね……」


 読んでみて思った。
 確かに「余生」などというものはなかろう。
 そして、生身の人間として生き続けている限り、「終わった人」でもない。
 だから、〈生前葬〉的な区切はあっても、人生に意欲を失うという意味での成仏はできない。

 思えば、主人公は定年退職しても、それまでの人生を引きずり、過去に取り憑かれたままの人だった。
 大失敗をやらかし、家庭生活もそのまま続けられない状況に陥ってようやく、真の意味で過去の総括ができた。
 あとは、生まれ変わったつもりで、持てる意欲を生かしつつ生きるしかない。

 当山が提唱している終括の本当の意味と狙いもここにある。
 仏教はそもそも、「意欲をなくせ」などとは説かない。
 意欲をいかにまっとうに生かすか、そのために必要な智慧と慈悲を探す。
 しかも、それは決して自分だけのためではなく、自他共に活き活きと生きる世界を目ざす。
 これが仏教の目的だ。
 
 年をとったら、どこかでしっかり終〈括〉をしたい。
 そして、意欲をまっとうに生かしつつ生きたい。
 人によっては、仏教がヒントになり、役立つかも知れない。
 この好著は、きっと、多くの人に読まれ、映画化もされることだろう。




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2016
04.23

目覚めの訪れ ―『チベットの生と死の書』を読む(15)―

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 チベット密教ソギャル・リンポチェ師は生と死について説く。

第4章 心の本質

 師は説く。

「みずから作りあげた暗くせまい牢獄に閉じ込もって、それが全宇宙だと思い込んで、ほとんどの人は現実の異なった次元を想像してみることすらできないでいる。」


 そして、パトゥル・リンポチェが行った蛙の話をする。
 大海からやってきた一匹の蛙が、生後ずっと井戸の底で暮らしてきた年老いた蛙を訪ねる。

「おまえさんはどこからやってきたのかね」と、井戸で暮らしてきた蛙。
「でっかい海からだよ」と、大海からやってきた蛙。
「その海とやらはどのくらいでっかいのかね」
「すんごく、でっかいね」
「このわしの井戸の四半分くらいかな」
「もっとだね」
「もっと?じゃあ、半分くらいか」
「いんや、もっとでっかい」
「じゃあ……この井戸くらいでっかいか」
「くらべもんになんねえな」
「そんなことがあってたまるか!わしが行って、この目で確かめてやる」
 二匹の蛙は旅立った。
 井戸からやってきた蛙が大海を見たそのとき、驚きのあまり、その頭はパァンと破裂し、千々に飛び散った。


 まさに〈想像を絶する〉という状況である。
 井戸にいた蛙の脳は対応できなかったが、対応できた時に得られるものは凄まじい。
 たとえば、9才のおりに起こった師の体験である。

 ジャムヤン・キェンツェから石窟の中に呼ばれ、こう言われた。

「今からおまえを、おまえの本源たる〈心の本源〉に導く。」


 そして、金剛鈴と小さな太鼓を手に祈った後で、突然問われた。

「心とは何か!?」


 師は驚く。

「心は砕け散った。
 言葉も、名前も、思考も吹き飛んだ。
 まさにまったくの無心だった。」

「あの驚きの瞬間に何が起こったのだろう。
 過去の思考はかき消え、未来はまだ起こっていなかった。
 思考の流れは断ち切られた。
 あのひたすらな衝撃の中でひとつの裂け目が生じ、その裂け目のなかから、すべての執着を離れた、透明で直感的な、〈今〉への目覚めが姿を現したのだ。
 それは単純で、裸で、本質的なものだった。
 その裸の単純さははかり知れない慈悲の温もりを放っていた。」


 これは、当山が求めに応じて行う引導(インドウ)の修法に似ている。
 生前によほどの覚悟をしておかなければ、死は、つかまる生が逃げて行くという状態でやってくることだろう。
 手放す思いしかなければ、心は死を迎えた時に行き場を失う。
 夏目漱石は短編集「夢十夜」の第七夜にそれを書いた。
 人生の意味も目的も見つけられない男がある夜ついに、海へ飛び込む。

「自分はますますつまらなくなった。
 とうとう死ぬ事に決心した。
 それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。
 ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、
 急に命が惜しくなった。
 心の底からよせばよかったと思った。
 けれども、もう遅い。
 自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。
 ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、
 足は容易に水に着かない。
 しかし捕かまえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。
 いくら足を縮めても近づいて来る。水の色は黒かった。」

「そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。
 自分はどこへ行くんだか判らない船でも、
 やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、
 しかもその悟りを利用する事ができずに、
 無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。」


 恐ろしい話ではないか。
 夏目漱石自身が「この作品が理解されるには長い年月がかかるだろう」と言ったとおり、十の短篇はいずれも深刻で、とりわけ、この男の話はきつい。
 引導は、こうした不安と恐怖が最も高まった場面で行われる決定的な修法行為である。
 去ろうとしている御霊へ法をかけ、瞬時に〈渡す〉。
 御霊はそこでようやく「はかり知れない慈悲の温もり」を感じられることだろう。
 夏目漱石は、我がこととして「無限の後悔と恐怖」を把握していたはずだ。
 さすが、と言うしかないが、〈その先〉を受け持つ宗教が日本でこれほど疎んじられる時代が来ると想像していたかどうかはわからない。

 冒頭の寓話が示すとおり、私たちは、自分の心が作った〈井戸〉で暮らす。
 日々、飲むもの、食うもの、着るものを他人様へ迷惑をかけることなく手に入れ、自分の寝床で寝て、ときおりセックスを行い、子供ができれば育て、親が老いれば面倒をみる。
 そうした日常だけであれば、最後は「夢十夜」の男のように望もうと、あるいは望むまいと、ある日、場合によっては突然、戸惑いの中で無の闇に引き込まれ、生を終える。
 死後に引導を受ければまだしも、生きている間中、もっとも確かな〈私〉だったはずの肉体を焼かれただけの状態であれば、彷徨う御霊はどうなるか……。
 だから、日々、修法の最後に唱える願文において慈雲尊者の言葉を口にする。
「いまだ成仏せざるものには、願わくは、成仏せしめん」
 祈らずにいられない。

 さて、ソギャル・リンポチェ師の体験だが、それは生前に引導を受けるようなものではなかったか?
 瞬間の導きである。
 そうして「はかり知れない慈悲の温もり」を感じたことのある者にとっては、幻の〈井戸〉がそもそもなかったと気づくことがそれほど困難ではない。
 師はそのことをこう言う。

「弟子自身のなかに息づく悟りの存在に、弟子を目覚めさせるに過ぎないのである。」


 生と死におけるいかなる瞬間が〈目覚めの瞬間〉なのかは、さまざまである。
 仏縁としか言いようがないと思う。
 その願いを込めて当山ではよく「仏縁の皆様へ」と呼びかける。
 師弟の目覚めが感応するとは、弟子の目覚めが師をさらに目覚めさせることも含む。
 だから、師弟は「おかげさま」であり「お互いさま」の関係であると思っている。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2016
01.29

イラク戦争と靖国神社への祈り(その15) ─死への同行を頼まれたら……─

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 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

 一旦、戻ると法務が相次ぐ。

不安の解消(2月23日)

 思わぬ大金を得た男性がそれを目当てに群がる人々へ気前よく分け与えた結果、もらった人々はそれぞれ事業に失敗するなどの憂き目に遭い、結果的に誰も寄りつかなくなったという。
 男性は孤独と失意の裡に死を迎え、ある女性Aさんへ「一緒に逝ってくれ」と頼んで亡くなった。
 懇請されたAさんは困惑のあまり体調を崩し、そのうちに、周囲から祟り障り憑依の話を聞かされて不安を増した。
 眠られなくなり、当山を訪ねられた。

 Aさんの状態は、はたして御霊のせいなのか?
 不安はどこから来るのか?
 御霊か、それとも無責任に不安をあおり立てる人々か。

 答は、自分の心と言うしかない。
 人を憎んだり好きになったりするのは自分の心であって、憎しみも好感も相手から〈来た〉のではない。
 Aさんの不安は、他人の言葉をきっかけとして自分の心中に〈生まれた〉のだ。

 対処法は4つ。

 一つは、ごく特殊な例外はあっても、ものの道理として「一緒に逝ってくれ」には実効力がなく、「動物が憑いた」には実体がないことを自分の頭で確認すること。
 自分の身体も言葉も心も、いかに動かすかは自分次第である。
 もちろん、言霊にも情念にも訴えかける影響力はあるが、それらこそ〈やって来る〉ものであって、それらがAさんに成り代わって身口意を動かすことは不可能だ。
 ましてや、男性が飼っていた動物の霊にAさんを操る力などありようがない。

 もう一つは、心のレベルを変えること。
 真言を唱え、経典を読誦し、瞑想を行ない、心中におわすみ仏にはたらいていただこう。
 眼・耳・鼻・舌・身・意識のはたらきが変われば、見え方・聞こえ方・嗅ぎ方・味わい方・触感・思い浮かべ方が変わる。
 死者であれ、生者であれ、相手の言葉に潜む怖れや悪意や嘲笑や不安や混乱や無知が客観的に眺められれば、憐れみの気持は生まれても、言葉に左右されることはなくなる。
 暗い道で眼にしたニョロッとしたものが縄であると正確に認識できる人は、「蛇だっ!」と驚き、怖れ、逃げ出さずに済む。
 縄をどうしたらよいか、適切な判断ができる。

 もう一つは、心身のクリーニングを行うこと。
 ご加持(カジ)がその代表的方法である。
 自分に生じたものによって自分が縛られているような状況は、この秘法が役立つ場面である。
 法を受けてリラックスした心身は、不要、あるいは不自然なものを削ぎ落とす。

 そしてもう一つは、亡き男性の供養を行うこと。
 きっと、Aさんご自身では、とても心からそうした気持になれないだろう。
 その時こそ、僧侶の出番である。
 行った方がよいと思えるのに自分でできないのなら、プロへ頼むしかない。
 自分が同席しようとしまいと、僧侶が行う供養の修法を信じられるならば、男性が成仏するための、言い換えればあの世で確かな安心を得ていただくための何かを行ったという実感は持てる。
 この「よかれ」と思うことが大切である。
 怖れがもたらす忌避の心は、忌避という一種の執着を生む。
 一方、よかれと思うのは一時的には相手との距離を縮める行為だが、それは必ず、ある種の解放をもたらす。
 成仏を願えば、相手が成仏に近づくだけでなく、自分にもいつしか、み仏の心がはたらいており、苦の原因となる執着から共に遠ざかることができる。 
 
 亡くなられた男性はきっと〈いい人〉だったのだろう。
 行為や善意が周囲から喜ばれている間は幸せ感でいっぱいだったのかも知れないし、あるいは他人に知られたくない不安やコンプレックスなどを解消したくて、いい人を演じていたのかも知れないが、いずれにしても、人を引き寄せていた。
 そして、少なくとも、財をばらまくことそのものは誰かを傷つける悪行ではない。
 ただ、子供が欲しがるあめ玉を欲求に応じて与え、虫歯や肥満にさせてしまう親に似た不注意はあったのだろう。
 結果的に、裏切られたといった気持になり、怨みや寂しさのあまりAさんに同行を頼んだことは残念と言うしかない。
 心から成仏を祈りたい。

 夜に白河市へ向かう予定だったが、信徒さんのお宅でご不幸があり、あと2~3日は出発できない。
 すべてみ仏へお任せして進むのみ。

(ご縁の方々のプラ-バシーに配慮した記述を行っています)




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