FC2ブログ
--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2007
04.29

み仏は結果を問いません

 こんなできごとがありました。



 心身の調子が出ないAさんへ、それとは知らないBさんが、暖かなネットワーク作りをしているCさんを紹介しようとしました。

 まじめな性格のAさんは、対人関係でも一生懸命、失礼のないようにふるまい、身体の不調が他からは判らぬよういつもしゃっきりとしているので、Bさんは不調に気づかなかったからです。

 熟慮の末、自分にはネットワーク作りが無理だと判断したAさんは、Bさんへ「Cさんとの接触を断りたい」と回答しました。

 事情を知ってびっくりしたBさんは、Aさんへ謝りました。

 Aさんは、お詫びには及びませんと挨拶をしました。



 これだけのことですが、人の道を説くみ仏の教えはあくまでも動機を重んじるものであることを再考させられました。

 

 Bさんは、好意から紹介しようとしました。

 だから、Aさんが一時的に悩み、何ら結果は出なくとも罪はありません。

 Aさんの不調は、気づきにくいからです。

 明らかな不注意や怠慢やいいかげんさから判断を誤ったのなら別ですが、まっとうにおつき合いし〈良かれ〉と願って行う行為に、決して罰は下りません。



 そもそも、行為は必ず何らかの結果をもたらしますが、結果が出るまでいかなる因縁がからむのかを判断し尽くし責任を取るのは、み仏ならぬ私たちにとって不可能です。

 たとえば、お世話になった相手がいかにもエネルギッシュで、体格からしても「斗酒をも辞せず」の酒豪だろうと思い、喜んでもらおうと佳い酒を持参したら、意外なことに下戸だったということはいくらでもあります。

 問題は、〈良かれ〉と願ったかどうかです。

 

 人が清浄になるのは、「我がため」でなく「他のため」を願う時です。

 み仏ならぬ私たちが穢れているか清らかであるかは、あくまでも動機によります。

 み仏の教えは、厳しく結果を問う功利主義や成果主義とは無縁です。

 すべての人々へ等しく救いが用意されています。


 あまねく慈しみ、あまねく憂いや悲しみを癒し、あまねく喜びを分かち合いたいものです。




スポンサーサイト
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。