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2016
05.09

ミケ子はキジを獲り、人は人を殺す ─本来の仏が迷う姿─

2016-05-09-0001.jpg

 妻が騒いでいる。
「ミケ子がキジを獲ったみたいだよ」
 あり得ると思った。
 何しろ、小型でおっとりしているクロでさえ、かつてはスズメやモグラを獲って意気揚々と玄関へ運んで来たものだ。
 情報は、キジが歩いていたあたりでミケ子がウロウロしているという極めて曖昧なものだったので、それ以上の詮索はやめた。

 なぜか、最近、聴いた話を思い出した。
 かつてイラン・イラク戦争のおり、崩壊したイランのパーレビ王朝関係者がジャングルに亡命していて、侵攻したイラク軍兵士の暴虐ぶりを目にした。
 兵士たちはイランの女性を集めて暴行し、最後は一人づつコモにくるんで全員を爆殺した。
 飛んで来た肉片が近くへ落ち、この世の光景とは思えないものを見た彼は心のどこかが壊れ、時にはむやみと他人へ優しくするが、時には平然と冷酷な行動をとるようになったという。

 ケモノは節理に従うのみ。
 人間は真理道理に合わせるか、合わせないか、迷う。
 慈雲尊者(ジウンソンジャ)は不殺生について説いた。
 

「一切衆生(シュジョウ)は我が子なるによって、一切有命(ウミョウ)の者に対すれば不殺生となる。
 一切有命の者が眼に遮(サエギ)れば必ず慈悲心生ず。
 この菩薩(ボサツ)の心をと名づく。
 この菩薩の心、衆生に本来具有のものなれど煩悩(ボンノウ)・業障(ゴッショウ)の深厚(ジンコウ)なるによって現ぜぬまでなり。」


(いっさいの生きとし生けるものは、我が子同様に、み仏からいのちを分けいただいた者同士であり、この心で生きとし生けるもののに接すれば不殺生という律の実践者となる。
 生きとし生けるものが目に入れば必ず思いやりの心が生ずる。
 おのづからそうなった菩薩の心が、の成就である。
 この菩薩の心は、生きとし生けるものを代表する人間には本来的に具わっているものだが、自己中心的な煩悩と、悪行の悪しき影響力、そしてそれが招く障りによって表れにくくなっているのである)

「もし残忍の心をたくましくして、罪なき者をことさらに殺害して、極大(ゴクダイ)の苦悩怨恨を生ぜしむる。
 この時、業(ゴウ)の種子(シュウジ)が成就して、他時異日(イジツ)、我が身に集まる。
 無しと言われず。」


(もしも残忍の心を逞しくし、何ら罪のない者をわざと殺害して、この上ない苦悩と怨恨を生ぜしめたとしよう。
 その時は、悪しき影響力の核がはたらき、やがて悪しき結果がその者の一身に集まる。
 因果応報は避けられない)

「殺生の、人道に背き、天命に背き、正道理に違うことを知り、みだりに殺さずみだりに悩まさぬが、世間相応の持者。
 殺生の業果(ゴウカ)空(ムナ)しからぬを信じ、殺さず悩まさず、憎み恨まぬが、出世間少分相応の浄持戒者なり。」


(殺生が人道に背き、天命に背き、人間としての正しい道理に違うことを知り、他の生きとし生けるものをみだりに殺したり苦しめたりしないのが、一般世間における持戒者である。
 殺生の悪業が因果応報の理によって必ず悪しき報いを生じさせると信じ、他の生きとし生けるものを殺さず、苦しめず、憎まず、恨まないのが、出家の立場としては、最低限度、資格が保たれる持戒者と言える)

「人間に生まれしことの尊重なるを憶念するは、道に達する要津(ヨウシン)なり。
 自ら自己人身に尊重の心あれば、自暴自棄の患(ワズラ)い無し。
 更に、微細の虫蟻に至るまで本性の平等なるに達す、これを不殺生戒全きと名づく。」


(人間として生まれた事実そのものの尊さ、重さを肝に銘じて忘れないのが仏道を成就するための要点である。
 み仏から授かった我が身を尊重する心があれば、何があっても自暴自棄になるおそれはない。
 さらに小さな虫や蟻までもが尊いいのちを授かった者として皆、平等であると知って害さず、苦しめないのが、不殺生戒を完全に成就した状態である)
 

「人たる道に背き清浄妙心の中に地獄を建立す。
 大火を現ず。
 大水を現ず。
 仏と異ならぬ心を持ちつつ、自ら迷うて業相(ゴッソウ)の姿を構え、ここに死しては彼に生じ、しばらくも定かならず。
 生もなく滅もなき場所に、自(ミズカ)ら生死(ショウジ)を構えて種々に顛倒(テンドウ)す。
 自己心中に大安楽のあるを知らず迷うなり。」


(人間の人間たる道に背き、本来清浄で精妙な心の中に自分で地獄を現出させてしまう。
 無限の火炎地獄を生じさせる。
 無限の寒氷地獄を生じさせる。
 本来、み仏の子としての心を持っているにもかかわらず、自分から迷って悪業の結果として生じた姿になり、ここで死んだかと思えば、あそこに生まれ、迷いの世界を転々として彷徨うばかりである。
 本来、生死を超えた存在であることに気づかず、自分から生き死にの苦を招き、いのちを真理に反した形ではたらかせる。
 自分の心中に、無限の安楽があることを知らず、迷っている)




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
04.29

漢文『法句経』を読んでみる(その4)

2016-04-29-0001.jpg
〈陽の薄い曇り日に〉

 寺院や寺子屋 ではもちろん、戦前まで広く親しまれていた漢文の『法句経 (ホックキョウ)』を読んでみましょう。
 戦場へ赴く若者が懐へ忍ばせていたという話も聴いています。
 当山では、寺子屋やNHKの講座で読み通しており、学びの柱として欠かせません。
 小生の土台はこの教えによってつくられました。
 どれか一句でも、皆さんの心へピンと届くものがあればありがたいことです。
 新たになった読み下し文を意訳してみましょう。 (「新国訳大蔵経」によります)

 前回に続き【教学品(キョウガクホン)第二】です。

〔三一〕起(タ)ちて義を覚(サト)らんとする者は、学びて滅すること以(モッ)て固し。着(ジャク)滅(メッ)して自(ミズカ)ら恣(ホシイママ)なること、損(ソン)じて興(オコ)らず。


(一念発起して教えを理解しようとする者は、学び、煩悩が滅して再び迷わない。執着心が滅し、煩悩のままに翻弄されることはなくなる)

〔三二〕是(コ)れ向かうに強さを以(モッ)てし、是(コ)れ学ぶに中(マゴコロ)を得(エ)、是(コ)れに従(ヨ)りて義を解(ゲ)し、宜(ヨロ)しく行(ギョウ)を憶念(オクネン)すべし。


修行は強い志をもって行い、学ぶには苦行と怠惰を離れた瞑想によって精進し、学んで教えを理解し、なすべき修行を離れるなかれ)

〔三三〕学ぶには先(マ)ず母(モト)を断じ、君(キミ)と二臣(ニシン)を率(ヒキ)い、諸(モロモロ)の営従(エイジュウ)を廃す。是(コ)れ上道(ジョウドウ)の人なり。


(学ぶにはまず、自分可愛さを断ち、思い上がりを離れ、外道の見解や律に影響されず、それらの世界から毅然と離れて進む。これが腰の定まった行者である)

〔三四〕学ぶに朋類(ホウルイ)無く、友(ゼンユウ)を得(エ)ざれば、寧(ムシ)ろ独(ヒト)りを守りて、愚と偕(トモ)ならざれ。


(学ぶのに、自分にふさわしい同志がなく、き同輩を得られなければ、いたずらに仲間を探すことなくたった一人で行に邁進し、愚かしい人間と縁を結ぶなかれ)

〔三五〕を楽しみ行を学ぶに、奚(ナン)ぞ伴(トモ)を用いることを為(ナ)さん。独(ヒト)り(ヨ)く憂い無きは、空野(クウヤ)の象の如(ゴト)し。


めに沿った生活を楽しみ、修行を学ぶのにどうして同伴者が必要であろうか。一人で行を実践し憂いなく生きる行者は、広大な野を悠然と歩む象のように悠然たる者である)

〔三六〕と聞(モン)は倶(トモ)に善(ヨ)く、二者(ニシャ)孰(イズ)れか賢(マサ)らん。方(マサ)には聞(モン)に称(カナ)う、宜(ヨロ)しく諦(アキ)らかに学行すべし。


めを守ることと、教えを聞くことは両方ともに善きことであり、いずれが勝るということはない。戒めを守ってはじめて教えを聞く資格がある。しっかり明確に学び実践せよ)

〔三七〕学ぶに先(マ)ず戒を護り、開閉(カイヘイ)に必ず固くして、施して受くること無く、仂行(リョクギョウ)して臥(フ)すこと勿(ナ)かれ。


(学ぶにはまず戒めを守り、心を放恣にせず、他のためになっても我がものを得ようとせず、精進して怠けるなかれ)

〔三八〕若(モ)し人(ヒト)寿(イノチ)百歳ならんも、邪(ヨコシマ)に学びて不善を志(ココロザ)さば、生(セイ)一日にして、精進して正法(ショウボウ)を受くるに如(シ)かず。


(もし百才まで生きたとしても、邪道を学んで善からぬ生き方をするならば、たった一日であろうと、精進して正しい道理を学ぶ価値とは比べようもない)

〔三九〕若(モ)し人(ヒト)寿(イノチ)百歳ならんも、火を奉じ異術(イジュツ)を修さば、須臾(シュユ)の頃(アイダ)に、戒に事(ツカ)うる者の、福の称(タタ)うるに如(シ)かず。


(もし百才まで生きたとしても、林の中で火の神に仕える術を修するならば、たとえひとときでも、戒めを守る行者の福徳をたたえて供養することに及ばない)

〔四〇〕能(ヨ)く行ずるは之(コレ)を可と説くも、能(アタ)わずして空語(クウゴ)する勿(ナ)かれ。虚偽(キョギ)にして誠信(セイシン)無きは、智者の屏棄(ヘイキ)する所なり。


(懸命に修行するのは善きことだが、悟りを得てもいないのにそれらしい言葉をはくなど空虚なことを行ってはならない。偽って不誠実、教えを心から信じていないのは智者が排する態度である)




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2015
11.25

生きるための時間と無常を観る時間 ―『チベットの生と死の書』を読む(7)―

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〈寒風の中で頑張っている木守柿。たった一人で、もう一週間が経ちました 〉

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベット生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

 一昔前は、「(人が死んでもいないのに)お墓の話をするなんて縁起でもない」と言われた。
 現在は、生前に建てる寿陵墓(ジュリョウボ)が主流となりつつある。
 そもそも、聖徳太子や秦の始皇帝など多くの指導者は寿陵を造ったが、生前に建墓を行うという感覚が庶民に及ぶまで膨大な年月がかかった。
 もっとも、皇帝の場合は権勢や権威を後世へ伝えるなどの目的があり、庶民は後の世代に負担をかけず、自分の気に入ったお墓を造っておくなどが主たる目的ではある。

1 生を生き、死に備える

 さて、輪廻転生と因果応報を説く仏教は、当然、生と死、両方を観る視点、観点を持っている。
 生きているのは死んでいないことであり、死んでいるのは生きていないことなのだ。
 だから、こう説かれる。

「わたしたちはときに自分を揺さぶり起こして、心底から自問してみる必要があるのだ。
『今晩死ぬとしたらどうだろう。そのあとどうなるのだろう』と。
 明日目を覚ますかどうかも、どこで目を覚ますかも、わたしたちにはわからないのだ。
 あなたは今息を吐いて、次の息を吸うことは二度とないかも知れない。
 死んでいるかもしれない。
 それくらい簡単なことなのだ。」


 普段の私たちは、死を〈ないこと〉にしているが、それは事実を直視していない。
 ここに書かれているとおり、私たちは、もしも次の瞬間に倒れたり交通事故に遭ったりすれば、3日後に病院のベッドで目を覚ますかも知れず、永遠に目を覚まさないかも知れない。
 それらは、予想もしなかった状況ではあっても、〈あって当然〉なのだ。
 だから「簡単なこと」としている。
 死が簡単にあり得るにもかかわらず、〈ないこと〉にしたまま、生のみを見て暮らすのは智慧に欠けると言えるのではなかろうか。

2 バランスをとる

 さて、チベットには有名な「鳩の教訓」がある。
 ある鳩は、一晩中大騒ぎをして寝床を調えていたが、そのまま朝を迎え、寝床は役に立たなかったという。
 元気な人は、死をリアルにイメージし死後に備えるなど、ほとんど誰もやらない。
 目の前のことごとにかまけているが、突然〈その時〉が来ると、何の準備もないままに、それまでやってきたことすべてに終止符が打たれ、何の準備もないままに、たった一人で次のステップへ進まねばならない。
 生へのウェイトがかかりすぎ、死へのウェイトが足りなすぎる。
 バランスがとれていないために、生に対する危険も死に対する危険も生じている。

「現代社会にあって、わたしたちは働いて生活の糧を得なければならない。
 だが、9時から5時の生活にからめとられてしまうべきではないのだ。
 それは生のより深い意味への洞察などとは無縁の生活だ。
 わたしたちの課題はバランスをとること、中庸の道を歩むことにある。」


 9時から5時に全力をかける姿勢について、日本人は胸を張れる。
 しかし、仏教の観点からすれば、真の意味で人生をまっとうするには、それだけで充分とは言えない。
 生きる糧を得る、家族を養う、社会的役割を果たす、いずれもすばらしい生の営みではあるが、それらには必ず「何のために?」という疑問がつきまとう。
 無我夢中でやっている時はそれを忘れていても、病気になったり、挫折したりして毎日のリズムに急ブレーキがかかったならば、必ず顔を出す。
 人生のステージを一段ステップアップする機会がようやく、やってきたのだ。
 気づかないでいたカーテンを開けてみるようなイメージでもある。
 昭和53年、評論家伊藤肇は『左遷の哲学』に、人間を成長させる大きなきっかけとして、闘病・浪人・投獄・左遷を挙げた。
「渇いたことのない人間には、水のありがたみはわからぬだろう。
 何事も当然だと思う心に感謝の念などあるわけがない。
 しかし、当然なことを当然でない、と考えるには、それ相応の苦難をつぶさに味わって、その考えを転倒しなければならない。」

 では生きる努力をする一方で問うべき問いを問い、「中庸の道」を生きるにはどうしたらよいか?
 

「非本質的な活動や興味に手を広げることをやめ、人生をより単純化することを学ぶことである。
 現代の生にほどよいバランスをもたらす鍵は単純さにあるのだ。
 これこそが仏教における行(律を守って修行すること)の真の意味である。
 チベット語で行に相当する言葉は〈ツル・ティム〉という。
 〈ツル〉は『ほどよい、ちょうどよい』ことを意味し、〈ティム〉は『規則』あるいは『道』を意味する。
 つまり行とは、ほどよくちょうどよいことを実践することなのである。
 角に複雑化した現代にあっては、それは生活を単純化することに他ならない。
 そこから心の安らぎがもたらされる。
 精神的なものを求める時間が、精神的な真理のみがもたらしうる知識を求める時間ができる。
 それが死を直視する助けとなるのである。」


 めを守るほどよい生活、精神的な真理を求める単純な生活とはどのようなものか?
 それは、自己中心的な我欲(ガヨク)が主役である9時から5時の生活に対して、それらを離れた時間を持つということではなかろうか。
 我欲を離れ、情操や教養を豊かにする時間を持つ。
 そうすると、その人なりに「精神的な真理のみがもたらしうる知識」が得られる。
 ダライ・ラマ法王の師であるディンゴ・キェンツェ・リンポチェは言った。

「深く見つめてみれば、恒久不変のものなど何もないことがわかる。
 何もだ。
 あなたの身のうぶ毛の一本も。
 しかもこれは理屈ではない。
 あなたがたが本当に知り、理解し、その目で見ることのできるものなのだ。」


 お釈迦様である。

「われわれのこの存在は、秋の雲のようにはかない
 生命の誕生と死を見ることは、舞の動きを見るようなもの
 一生は、空を走る稲妻のように、急峻な山をほとばしる奔流のように
 駆け抜けてゆく」


 ここが観えてくる。
 しかし、すぐに、誰にでもというわけには行かない。
 以下の説明は実に的確だ。

「わたしたちの頭のなかでは、変化はつねに喪失と苦悩に等しいのだ。
 変化がやって来ると、わたしたちは可能なかぎり自分を麻痺させようとする。
 恒久不変は安全をもたらすが、無常はそうではないと、頑固に、疑いもせず決めつけている。
 だが実際は、無常とは、初めて会ったときは気難しげで、落ちつかない気分にさせられても、深くつきあうようになると思いがけず親しみやすく気安いという、そんな人のようなものなのだ。」


 私たちは変化を怖れる。
 根本的に〈しがみつきたい〉からだ。
 自分の身体、財産、恋人、仕事、趣味、何でもしがみつきたい。
 だから無常を排除したい心理がはたらく。
 しかし、真理である以上、排除しきれないし、よく馴染めば「親しみやすく気安い」人のようになる。

無常を知ることが、逆説的だが、わたしたちが頼りにできる唯一のもの、唯一不変の財産なのである。
 このことをよく考えてもらいたい。
 無常は空(ソラ)のようなもの、大地のようなものだ。
 身の回りのあらゆるものが変化し崩れ去っていっても、空と大地はつづいてゆく。
 たとえばあなたが自己崩壊しそうな精神の危機にあるとする。
 ……人生全体がばらばらになってしまいそうだ。
 ……夫が、妻が、何の前触れもなくあなたから去っていってしまった。
 だが大地はそこにある。
 空はそこにある。
 もちろん大地も時には震えることがある。
 何事も当たり前とは思えないのだということをわたしたちに思い出させるために……。」


 無常は空のように、大地のように、自然に、そこにある。
 人も、ネコも、花も、山も教えてくれる。

「ブッダすら死んだのだ。
 彼の死はひとつの教えだった。
 未熟な者、怠惰な者、独りよがりな者に衝撃を与えるための教え。
 万物は無常であり、死は避けられない生の現実であるという真理にわたしたちを目覚めさせるための教え。
 死が近づいてきたとき、ブッダは言った。
『あらゆる足跡のなかで
 象の足跡が最大であるように
 あらゆる重要な瞑想のなかで
 死が最大の瞑想である』」


 物理学者ゲーリー・ズーカフの見解が紹介されている。

「原子内の素粒子同士の相互作用において、もとの粒子が消滅し、新しい粒子が生まれる。
 素粒子の世界は生成と消滅のダンスの世界、質量からエネルギーへの転化と、エネルギーから質量への転化というダンスの世界なのである。
 さまざまな素粒子が束の間のきらめきとして現れては消えてゆき、終わりのない、永遠に新しい世界をつねに創造しているのである。」


 そして「無常」の章は締めくくられる。
 ソギャル・リンポチェ師はよくこうした質問を受けるという。

「こういったことは皆わかりきったことです。
 十分承知しています。
 何か新しいことを話してください」
 師は答える。
「あなたは本当に無常を理解し、実感していますか?
 それをすべての思考・呼吸・行動に取り込んでいますか?
 あなたの人生が変容するほどに。
 次のような質問をあなた自身にしてみてください。
 自分は死につつあるのだということを、他の誰もが、何もかもが、死につつあるのだということをつねに思い出しているか?
 そうであれば、すべての存在に対してつねにあわれみの気持をもって接しているか?
 そして、死と無常に対する理解が痛切で切迫しているあまり、あらゆる時間を悟りを求めることに捧げているか?
 これらの質問に『イエス』と答えることができるのなら、あなたは本当に無常を理解しているといえるでしょう。」


 私たちは、気分として感じただけであっても、無常を知ったつもりになる。
 もちろん、すぐに忘れる。
 また、気づいた無常を〈そこに〉あるいは〈そちら側に〉置きたくなる。
 そうした自己欺瞞のままではならないと説く。
 自己中心的で日常的な努力をするのと同じように、自己中心を離れた世界においても繰り返し、努力したい。
 無常を忘れた時間ばかりでなく、無常を「思考・呼吸・行動に取り込む」時間も持ち、「中庸の道」を歩みたい。




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2014
08.16

不戦日本と不殺生 ―お盆の法話―

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〈低い位置で合掌したみ仏が、右手前(導師のいる方向)へ一歩、踏み出しておられるように見えます〉

 今年のお盆において、当山は新たな目標へ一歩踏み出しました。
 「一心祈願不戦日本」として「不戦日本」の語を祈りの中へ入れたからです。

 お釈迦様は、自他の苦を除くための方法としてまず、十のめ『十善(ジュウゼンカイ)』を示しました。
 仏教における「」はインドの言葉で「シーラ」であり、意味は「(よい)習慣」です。
 だから、神様の命令ではなく、罰が当たるからやめなさいということでもありません。
 たとえば、第一番目にある「不殺生」というは、殺生が、人と人との間で生きる人間として自他へ苦をもたらす最も大きな要素であることをきちんと認識し、殺生できない人になってこの世から苦を無くしましょうというお導きです。

 さて、私たちはなぜ、他に対して害意を持ち殺意をも持つのでしょうか?
 そしてなぜ、戦争まで行って他のいのちを奪うのでしょうか?

 原因の一つは、〈自分のいのちは自分だけのもの〉という勘違いにあります。
 たとえば、食べものがなければ生きられないのは、他のいのちを分け与えてもらえねば生きられないということです。
 米のいのちも、野菜のいのちも、肉のいのちも、ありがたくいただいてこそ、今の自分がいます。
 では、夕べ食べたトマトと、今朝食べたキュウリのいのちと、自分のいのちとの関係はどうなっているのでしょう?
 そもそも、自分をこの世に誕生させた父母のいのちと自分のいのちはどういう関係になっているのでしょう?
 また、間接的には、家の中で買われているネコのいのちと飼い主のいのちとはどういう関係になっているのでしょう?
 よく考えてみると、私たちはいのちという大海の水を分けいただき、たまたた、諸条件が調っているために生きているという真実がわかります。
 いのちの大海で生かされているのです。
 こうした観点に立てば、〈自分のいのち〉だけが大切で、他のいのちはどうでもよいということにはならないことがわかるはずです。
 だから、殺人とは、明確に自分を殺すことでもあり、それを知っているはずの人間として行い難く、耐え難いのです。
 たとえ意識しなくとも、行為は取り返しのつかない勘違いに気づかせるので、戦場から帰還した戦士の心は傷つき、狂い、破壊されるのです。

 もう一つの原因は、怒りや憎しみという攻撃的感情にあります。
 憎しみに取り憑かれた自分を冷静に振り返って見ると、憎んでいることそのものが辛いと感じますが、それだけではありません。
 攻撃的行為に走ると、その瞬間は、溜まっていたモヤモヤを吐き出すという爽快感めいた感覚をもたらす場合もあるので厄介です。
 だから、小さな子供が仲間を殴って泣かせた時、親や教師は、自分の身に置き換えさせて「いけません!」と叱ります。
 相手が痛い、悲しい、悔しい、辛いと感じることを想像する心が育てば、歪んだ爽快感に走らない習慣が形成されます。
 まさに、思いやりがシーラすなわち「(よい)習慣」を獲得させるのです。
 大人になれば、自己中心という煩悩(ボンノウ)が周囲のきっかけによって怒りや憎しみを引き起こすことがわかります。
 しかし、真の敵である煩悩は、たやすく克服できません。
 思いやりの心を育て、悪しき意欲を善き意欲へと徐々に転換させてゆく努力をつづけるしかありません。

 こうして考えてみると、人と人との対立も国対国の対立も、共に生きているという真実を忘れ、考え方や国境によって不要なまでに強い分け隔てをするところに発生することがわかります。
 また、人と人との対立も国対国の対立も、自己中心的な怒りや憎しみによって増幅されることがわかります。

 最近、駐仙台大韓民国領事館の李凡淵(イ ボム ヨン)総領事と話をし、韓国の実態を知りました。
 日本では、韓国に対して攻撃的な姿勢で書かれた本がどこの書店にも山積みされ、ベストセラーの常連に名を連ねていますが、韓国ではそれほど激しい反日的現象はなく、村上春樹の小説はベスト10に入るほどです。
 また、反日デモと称されるものは、ほとんどが大使館などの前で行われ、日本の政府や政治に対する反発はあっても、日本人そのものに対する憎しみは韓国人の間で共有されていません。
 一方、日本語と韓国語が世界でも希な〈尊敬語〉を持っているということは文化的に重要な共通点ですが、日本でも韓国でもあまり意識されていません。

 私たちが〈戦争をしない日本〉を保ち続けるために、一人の人間としてどう生きればよいか、社会人としてどうあらねばならないか、よく考えたいものです。
 もう20年も昔になりますが、毎日、托鉢行を行っていた頃、自分は歩くタンポポだと感じたものです。
 一軒一軒と訪ね歩くうちに、いつしか、風に舞うタンポポの種と同じく、仏法がご縁となる方々の心へ届くイメージを持つようになりました。
 8月15日も、本堂いっぱいに集まられた方々のお心へいくつかの種が舞い降りたと信じています。
 不戦日本を目ざしましょう。 




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2014
08.02

危険ドラッグ・大リーグの不文律・戒と律 

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〈自然界にある者の尊厳〉

 危険ドラッグの蔓延は、本質的に、法律の問題ではなく、モラルの問題である。
 取り締まる法律と、取り締まられる悪行とでは、常に、悪行が先行している。
 法律が変えられるきっかけは、一つには社会の変化であり、もう一つには、新たな悪行の出現である。
 危険ドラッグは、人を危険な状態に陥れる悪行であるとわかっていながら、処罰されないことを楯にして行うタイプの悪行である。
 法律の抜け穴を逆手に取る、あるいは取ろうとする悪行はこっそりと行われたものだったが、最近は、堀江貴文のように堂々と行い、逮捕されても「僕だけ実刑というのは不公平」と主張するタイプが現れている。

 社会的風潮としては、橋下徹大阪市長に見られるとおり、「合法的行為は、批判されるいわれがない」として恣意的に権力を用いる権力者も現れ、「法律」に関するテレビ番組が賑わっている。
 こうした流れの淵源は、小泉純一郎元首相が行った「改革」の手法にあると思われる。
 慣例をふまえたこれまでの方法では自分の主張が通せないと見るや、強引に選挙を行い、これまで自分を育て、総裁として盛り立ててくれた自民党議員も堂々と〈敵〉と決めつけ、〈刺客〉を立てた。
 師も、先輩も、一切の人間関係が無視され、若者や著名人などが、実績も実力も人徳もある現職へ刃を突きつけた。
 息子が父親を晒し者にし、学生が教師を引きずり回し、ご近所さんが密告者となった中国の文化大革命さながらのできごとだった。
 この選挙において、現職亀井静香(68才)にいきなりぶつけられた刺客は堀江貴文(32才)であり、得票差はわずか10ポイントしかなかったことを私たちは銘記しておきたい。
 もしも、参政権が18才以上だったなら堀江貴文が当選したはずである。
 あのヒットラーが〈合法的〉に政権を奪い、ドイツを一色に染め上げ、国民の誇りをかき立てて戦争へと突っ走ったことも決して忘れてはならないと思う。
 文化大革命でも、ナチスの運動でも、第一線にいたのは若者たちだったのである。

 さて、8月1日付の河北新報は、元大リーガー松井秀喜氏の「選手らしさ表す『不文律』」を掲載した。

「大リーグには野球規則にないルールがある。
 大差の試合で送りバントや盗塁をしない。
 派手なガッツポーズを見せない。
 ノーヒットノーランをバント安打で破らないなど、対戦相手との関係から生まれたものが多い。」
「大リーグの不文律は、分かりやすく言えば米国人が考える『野球選手らしさ』なのだろう。
 敗者への情けや記録に挑む相手への尊敬、戦う者としての態度など、規則の条文だけではコントロールできない野球に対する姿勢を表していると思う。」
「同じ競技でもルールの盲点を突いて勝利を追求するか、不文律でルール以上に自分たちを縛るかで大きな差が出ると思う。
 もちろんプロだから勝つことが大事だ。
 ただ大リーガーなら誰にも文句を言わせない勝ち方を目指せということ。
 不文律は戦い方を評価する物差しになっている。」


 大リーグに所属する選手たちも、ファンも、社会も、「大リーグ」の名に値するプレーを望み、試合を望んでいる。
 ここで言う「値する」とは、ルールを破らないというレベルの話ではない。
 ルールを超えた、尊厳とでも言うべき世界での価値ある振る舞い方が求められている。

 松井秀喜氏は最後にこう述べている。

「僕がこだわった『野球選手らしさ』を一つ挙げるなら、グラウンドで敵と親しげにしないことだ。
 互いに交流はある。
 だからこそグラウンドではそれを断ち切らないと真の緊張は保てないし、なれ合った雰囲気がファンにも伝わると思った。」


 将棋の対局も、大相撲の取り組みも同じである。
 プロが行う磨き抜いた頭脳や肉体の真剣勝負は、観る者を魅了する。
 それは、人間が行い得る人間たる行為の極限に近づく場面だからである。
 野球も、将棋も、大相撲も、その肝はルールにあるのではなく、相手と競技へ対して畏れを抱きつつ戦う戦士たちの文化的洗練度にあるのではなかろうか。

 ところで、仏教徒は、お釈迦様の昔から律を守ってきたが、と律とは違う。
 は悪行を行わないという内面的めであり、覚悟であり、誓いでもある。
 律は教団という社会における外面的振る舞い方であり、ルールであり、罰則もあった。
 ただし、お釈迦様の時代には、真の悔悛が行われ、それが認められた時点で犯罪者の罰は終了となり、社会復帰できた。
 死刑というルールについて、社会的要請があれば存在にやむを得ない面があっても、犯罪者が真の悔悛を行って生まれ変わり、被害者も許すならば罪一等を減ずるといった救済の方法も必要ではないかと当山が主張する根拠はここにある。
 生まれ変わった人間は社会的に許されるべきであり、人間的に別人となった人を殺すのは、はたして正義と言えるだろうか?
 お釈迦様は繰り替えし説かれた。

「罪人も悔悛し尽くせば、やがては社会を照らす灯火ともなる」


 灯火となった人は、すでに、律に反しないだけではなく、にも反することのできない人間性ができている。
 ここが重要である。

 法的な悪行を行わないだけでなく、倫理的にも悪行の行えない人間になることこそが最も大切であり、そこを目指さないと人間は霊性に導かれて生きられず、社会は荒れ、新たな悪行を生み出し続ける。
 危険ドラッグは、私たちの社会がもたらした毒であることをよく考えてみたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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