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2016
11.20

思いやりからお墓の未来まで ─ご質問にお答えします─

2016-11-20-0001.jpg
〈四国の霊場では、鳥居のある寺院が珍しくありません。写真はネットからお借りして加工しました〉

 このたび、皆さんからたくさんのご質問をいただいたので、大まかにお答えしておきます。
 ただし、これは一行者としての信念と、一寺院での実践を基にしたものであることを申し添えます。

Q:位牌の院の文字はついている方が良いのでしょうか?

A:位牌に書いているのは戒名です。
 戒名は3つの熟語から成っています。
 一番上にあるのは院号(インゴウ)で、魂の色合いが表れます。
 真ん中にあるのは道号(ドウゴウ)で、故人がこの世で歩んだ道が表れます。
 最後にあるのは法名(ホウミョウ)で、み仏の子として成仏への道を歩む名前です。
 だから法名は、生きながらにして、み仏の子として生き直しを行う僧侶の僧名(ソウミョウ)と同じです。

 こういうわけなので、当山では、お布施の金額にかかわりなく、3つの熟語をもってお戒名としています。
 男性なら「~居士」。女性なら「~大姉」となります。
 当山ではご本尊様へ祈り、降りるものなので、差別のしようがありません。

Q:「人の身になって思うこと」家族間では薄れて行く世の中になっています。
 友への思いやりはどこへ、何でも見て見ぬふりは悲しいです。
 なぜ、こうなってしまったのでしょうか?


A:そうですね、思いやりとは、誰かへ思いをやることで、それは、他人の苦しみや悲しみを〈他人(ヒト)ごと〉として放って人間らしい心の現れです。
 本当は、それが濃密にはたらくはずの家族や友人に対してすら薄れてしまい、暴力事件や殺人事件は後を絶ちません。
 とても残念なことです。
 原因は2つあります。

 1つは「自己中心的姿勢」です。
 戦後の日本においては誰もが賢明にはたらき、奇跡の復興を成し遂げたのはよいのですが、自由競争の影の面として、個人を絶対視する感覚が強まり過ぎたのではないでしょうか?
 それは、各国が発展を競う過程で資源をむやみと消費し、自然破壊・環境破壊を進め、このままでは地球がもたなくなるところまで来たことに似ています。
 大問題に気づいた私たちは立ち止まり、身近な人間関係においても、国際的にも、あるいは学問や研究や開発など多様な分野においても、「共生」という唯一のあるべき姿を目ざすべきだと思います。

 もう1つは「物質中心主義」です。
 これもまた、何もかもが不足していた時代を乗り越え、豊かさを求める過程で、モノ金を求め過ぎた弊害ではないでしょうか?
 しかも、自己中心とあいまってそれがあまりにも進んだために、わずかな〈持てる者〉はモノ金や地位や権力をひけらかして恥じず、勝者として謙虚さや奉仕の心を失い、多くの〈持たざる者〉は敗者として抑圧されるという、品性なく無慈悲な社会になりつつあります。
 私たちが公正な社会で、共に幸せを感じつつ生きるためには、限られたモノ金が、智慧と思いやりによって適切に分配されねばなりません。
 このまま自由競争の原理だけで突き進むめば、ケダモノの世界と同じになってしまいます。

 私たちは、自己中心の心を恥じ、モノ金にとらわれず、「共生」の尊さやありがたさを忘れぬよう、修養に心がけたいものです。

Q:お等の相場は?

A:おは石屋さんの仕事なので、当山は直接タッチしていませんが、当山では、地の永代使用料込みで約60万円~80万円、100万円~120万円、150万円~200万円といった予算で建てる方が多いように思われます。
 共同墓ならば、年間管理料込みで10万円からいろいろあります。
 地に建っている現物をあれこれとご覧になりながら、信頼できる石屋さんへ相談されてはいかがでしょうか。

Q:檀家をやめる、やめさせないで困っていますが?

A:そもそも檀家とはダーナという布施を意味するインドの言葉であり、布施をする人や家のことです。
 だから本来は、自発的に寺院を支え、その寺院に自分も家族もご先祖様も守ってもらうという、生きた関係をつくり、守る言葉でした。
 しかし、時代の変遷と共に内容が変化し、ご葬儀とご供養しかしない寺院は、檀家さんへ自分の都合でお布施を依頼し、檀家さんは必ずしも意にそぐわない出費を迫られて困惑するといった面が顕わになりました。
 托鉢の途中でそうしたご意見をたくさんお聴きした小生は、平成22年、「脱檀家宣言」を行い、河北新報にも掲載されました。
 真意は、檀家をなくそうというのではなく、一旦、〈縛り〉でしかなくなっていた関係を、寺院も檀家さんも見直し、本来の〈自発性〉に立つ、奉仕と感謝の生きた関係を再構築しようと提案したのです。
 そして、当山では、自由参加自由脱退のサポーター制度にし、そうした〈ゆかりびと〉の方々は自発的に「ゆかりびとの会」を作り、当山をお支えくださっています。

 こうした本来の「檀家」の意義からすれば、そして、日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」からしても、「檀家をやめる」のは自由です。
 むろん、寺院が「やめさせない」などの強制はできず、離檀料の請求に応じる必要もありません。
 布施という自発的な奉仕の思想に立つなら、生産活動を行わずこの世とあの世のご縁の方々を日々、お守りする寺院は、今までお支えくださった方が離れて行く時、これまでのご恩に感謝して送り出すべきではないでしょうか?
 一方、これまでお守りいただいた感謝の心をお布施に表してご本尊様へ差し出すのも、檀家さんの貴い姿勢です。
 いかがでしょうか?

Q:後継ぎ無しのおの祀り方は?

A:後継ぎはいないけれども自分が、あるいは夫婦で生きた証として、せめて一定期間だけでもお墓で眠りたいというご相談は多々、あります。
 当山では2つのやり方でお応えしています。
 1つは、「一代墓(イチダイボ)」です。
 普通にお墓を造り、ご希望の期間が過ぎたなら、お墓を撤去して共同墓で永代にご供養するという方法です。
 ペットも一緒のお墓を建て、とても安心される方々のお顔を見ると、小生も嬉しくなります。
 もう1つは、賃貸墓(チンタイボ)です。
 これは、転勤族の方々からもお問い合わせがあります。

 また、墓じまいをする際には、共同墓に永代供養されれば問題はありません。
 おりおりの年忌供養については、その都度、信頼できる寺院へ依頼して納得できる形のご供養をされればよいのではないでしょうか。

 いずれにせよ、み仏のご加護は相手を選びません。
 み仏の前で、ご一緒に考えれば必ず道は開けます。
 どうぞ、ご相談をお申し込みください。

Q:これからお墓はどうなっていくのか?

A:埋骨の形は時代と共に変わって来たし、これからも変わって行くことでしょう。
 ただし、スペインの思想家が「人間は、死者守(モリ)動物である」と言ったとおり、私たちは亡くなった人を決して放置できません。
 まっとうな人ならば、必ず人間としての尊厳にふさわしい方法で祈り、納め、悼み、供養して行くはずです。
 それは、非日常的な宗教的感覚であり、心を込めて行うことごとは、聖なる宗教的行為です。
 問題はお墓の形よりも、宗教的感覚がどうなるかというところにあるのではないでしょうか?
 
 人間の歴史が始まって以来、死は厳粛なものとしてとらえられ、死者は畏れられ、死の世界が表現されてきました。
 およそ人間の住むところにおいては、塚を造り、絵を画き、塔を建て、祈ってきました。
 そうして死と向き合うところに、日常生活を超えた感覚がはたらき、〈欲に追われ他者とぶつかる自分〉を超えた霊性が回復される体験を繰り返してきました。
 死を契機としてはたらく霊性の光は個人の心を深め、文化を練り上げてきました。
 その地点から戦争を否定する思想も行動も起こり、人類は全体として破滅せず歴史を刻んできたのだと思います。

 私たちがお墓と死者のありようを真剣に考えるのは、霊性をはたらかせることに他なりません。
 固定したお墓を守りにくいからといって、かけがえのない宗教的感覚までも忘れてしまうならば、それは人間が人間でなくなる過程になりかねません。
 日本人の宗教的感覚は、聖地で、仏神や聖職者と共に、清浄で温かな空気を吸い、日常生活の汚れや穢れや疲れを落とし、いのちと心のはたらきをリフレッシュするという感じであると考えています。
 ここを大切にし、宗教宗派でいがみ合わず、他の宗教を邪教として排除せず、独善的な主張でぶつかり合わないのが、明治までは神社と仏閣が並んでいた日本本来のありようではないでしょうか?
 その方、その方なりの死生観を磨き、子々孫々のためを思い、最善の行動を目ざしたいものです。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2016
07.19

「傾蓋(ケイカイ)の遇(グウ)」をご存じですか?

2016-07-19-0001.jpg

 お大師様が唐から帰国し、京の都へ入ってから5年経った頃、下野国(シモツケノクニ…栃木県)にいた伊博士公(イハクシコウ)から文章を書いてくれと頼まれました。
 日光山を拓いた勝道上人(ショウドウショウニン)の業績を称えて欲しいと言うのです。
 勝道上人は当時、人跡未踏だった日光山へ入って中禅寺を開基し、大旱魃(カンバツ)の年には降雨法(コウウホウ…雨を降らす祈祷)を修して人々を救っていました。

 お大師様は会ったこともない上人のために「勝道碑文」を書きました。
 そこには印象的な言葉があります。

「人の相知ること、必ずしも対面して、久しく語るのみにしも在らず。
 意通すれば、則ち傾蓋(ケイカイ)の遇(グウ)なり」


(人と人とが互いを知るのは、必ずしも、直接会って長い会話をすることによるのではない。
 心が通じ合いさえすればよいのであって、それは、たまたま出会った同士が、頭にかぶっている笠を傾け、外し、語り合うだけでも可能なのである)

 昔の日本の道路はオープン、対面者はぶつからないように気をつけながら歩いていました。
 文字どおり「袖振り合うも多生の縁」、すれ違う人々は皆、前世からの因縁で袖を触れ合うと感じていたので、現代人の感覚とはずいぶん違っていたはずです。
 そうした精神風土から、この「傾蓋(ケイカイ)の遇(グウ)」という言葉が生まれたものと思われます。

 何かのきっかけで、ちょっとした挨拶を交わした同士がピンと来る状況は、現代人なら男女の出会いくらいしか思い浮かばないかも知れません。
 もちろん、お大師様の頃も、それは変わらずあったでしょうが、この言葉は何よりも相手の〈人物〉を知る、あるいは〈人品〉を認め合うという意味合いが強いように思われます。
 恐らく、お大師様は上人の行状を聴き、若かりし頃に山野で修行した自分の体験をよみがえらせつつ、碑文を書かれたのでしょう。

 一度も会ったことがなくてすら、思いをこらせば「意通」が生じるのです。
 思えば、亡くなられた方へお授けする戒名をご本尊様からいただく時も、「意通」が決め手です。
 僧侶の祈りがご本尊様へ届き、あの世へ通じてこそ、お戒名が降りて来ます。

 「意通」は、きっと霊性のはたらきなのでしょう。
 霊性が活き活きとはたらいていればきっと 「傾蓋(ケイカイ)の遇(グウ)」に恵まれるのでしょう。




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2016
05.15

お戒名に救われた話 ─お見通しのご本尊様─

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〈ペット供養墓『一心』〉

 寒い日のご葬儀が終わってしばらくたち、境内地がすっかり緑色の輝きに包まれたある日、ご遺族のお一人Aさんがひょっこり訪ねて来られました。
 人生相談のお申し込みでしたが、お礼に参上したと言われます。
 お話には驚きました。
 お戒名が故人の人格的な問題をすっかり補っていたと言うのです。

 突然、申し込まれたご葬儀で、亡くなられた方ももちろん存じ上げず、とにかくご本尊様へ祈って降りたお戒名によって果たしたお務めでした。
 ご遺族皆さんに感謝されましたが、そこにはいつもの光景を離れた気配があったわけではありません。
 しかし、Aさんは涙ながらに言われました。

「私たちは、他人様からわかられにくい故人の心の問題にずっと苦しんで来ました。
 あれが病気であったかどうか、今となっては調べようもありませんが、少なくとも私にはそう考えるしかない状態でした。
 病気と考え、心から同情しつつ過ごした年月でした。
 次は、どうかそこを埋めた円満な人格で生まれ変わって欲しいと幾度、神仏へ祈ったかわかりません。
 お通夜の席で住職は、『院号は魂の色合いを表す』と言われましたね。
 あの院号にこそ、補われた人格が示されていたのです。
 そしてまた、『最後の熟語は僧名と同じ法名で、生まれ変わる姿を表す』とも言われましたね。
 あそこにこそ、私がこうあって欲しいと願っていた姿が示されていました。
 故人は、住職が言われたとおり、他の人と同じく、み仏の子として生まれていながら、何かの因縁で仏性が強く覆われた人として生まれ、仏性を充分に発揮できずぬまま、この世を去りました。
 しかし、それは、素晴らしいものがなかったのではなく、きちんと持っていたことを院号が示してくれました。
 私が拝んでいたとおり、来世ではきっと法名通りの生き方をして、この世で発揮できなかった徳にあふれた人生を送ることでしょう。
 私の永年の苦しみが救われ、故人も救われました。
 お通夜の夜、救いの道筋を確認した私は今までにないほどの安心感をもって眠れました。
 本当にありがとうございました。」

 お戒名を届けて皆さんに感謝されるのは、亡くなられた方の持っていた徳が表れているからです。
 しかし、今回は初めて、欠けていたものが補われるという形になっていました。
 もちろん、小生は何ら気づかず、降りたお戒名をお届けしたに過ぎません。
 ご本尊様のおはらかいに絶句するしかありませんでした。

 ところで、ある講演会でご質問を受けました。
戒名は江戸時代の名残ではありませんか?
 どうお考えかお聞かせください。」
 暗に、本来不要だったはずの戒名をつけて大金を請求するのはおかしいと批判しておられます。
 お答えしました。
「私たちは今の世に生き、文化的な伝統を承けて生活しています。
 仏教は、お釈迦様が初めて真理を明確に説かれ、その悟った方法と内容が2500年に渡って探求され、追体験を望まれて来たものです。
 誰かのお告げでなく、道理の宗教である仏教は、時代や地域や風俗などに溶け込みながら、祈る形などを多種多様に変化させつつ、変わらぬ真理を示して来ました。
 魂にかかわる戒名も当然、その時代なりに用いられてきた道具の一つであり、そこに宗教的真実が宿っている限りは存在し続け、真実の表現でなくなれば、消えてゆくことでしょう。
 宗教者として今を生きる小生は、承け継いだ宗教的伝統に則った方法でご本尊様から戒名をいただき、それを手にした方々はそこに何らかの真実を感じてくださっています。
 それだけのことです。
 ただし、戒名が何であり、どのように授かるかは必要に応じてご説明しますが、決して強制はしません。
 自分は戒名なしで逝きたい、あるいは名前も一切、形に残したくない、とご自身の信念を述べつつ、当山へ万が一の場合を託す方々もたくさんおられます。
 戒名料を含めたご葬儀一式のお布施をくださり、「これで安心です」と清々した表情で帰る方々もおられます。
 当山は、ご依頼に応じて求められる役割を果たすのみであり、相手様の信仰信条、あるいはお布施の金額によって分け隔てすることは一切ありません。」

 お戒名は決して売り買いするものでなければ、強制的に付けさせられるものでもなく、この世で親から名前を授かるのと同じく、あの世に旅立つ時、もしくはこの世で生き直しをして仏法にそった生き方をしたいと決心する時に、縁のご本尊様からいただくものです。
 真摯な宗教行為として尊べば、そこにさまざまな救いがあるのは当然だと考えています。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2016
05.07

信頼という宝もの ─死後の安心とは─

2016-05-07-0001.jpg
〈人の目のないところで〉

 ある秋の午後、Aさんは「墓地のことについてお訊きしたい」と人生相談にやってこられた。 
 ごく普通の安定した職業に長いこと従事してきたAさんの質問は、いずれも勘所を外さぬものだった。
「私が亡くなったら、ご住職はどんなふうに戒名をつけてくださるのですか?」
「私が死後年忌供養を受けるのにはどういう意味があり、ご就職は何をしてくださるのですか?」
「ご住職は新聞などでご自身のご意見を明確にしておられますが、多少、意見の食い違う者もきちんと送っていただけるのですか?」
 舌を巻いた。
 短いやりとりの後、Aさんはその場で墓地の契約を申込み、つぶやかれた。
「ようやく見つかりました」
 かたわらの奥さんへ言う。
「おい、もう大丈夫だ」

 Aさんは「ゆかりびとの会」へ入会したが、それきりとんと顔を見せず、どうしておられるかなあと思い出すようになった頃、突然、訃報が届いた。
 メガネを外し、仰向けになったAさんの顔は、あの時と変わらず、穏やかだった。
 そして、口元は緩んでいない。
 違うのは神々しさをまとっておられることだけだ。
 無口で表情は動かないのに、周囲の空気が一種の明るさを漂わせている。
 自然に手が合わさった。

 Bさんは、居合の見学を申し込まれ、友人と二人でやってきた。
 まだ少女のような無邪気さを振りまきながら、熱心に質問された。
 み仏のご加護をいただく剣法というものに心底、驚いた様子だった。
 深い関心を持つ一方、二人とも、自分にはやれないという結論に達した旨を正直に言われた。
 そんなBさんは、お身内のご不幸に際してご主人と共に当山を選び、久方ぶりの再会となった。

 留守電で聞いたBさんの訃報は信じられなかった。
 明るくふるまっていたBさんは、人知れず闘病生活をしていたという。
 当山が発行する機関誌や新聞記事に欠かさず目を通し、ご主人や友人たちとあれこれ議論することが楽しみだった。
 お柩の中でBさんは微笑んでおられる。
 信じていますと語りかけてくるようで涙があふれそうになった。
 
 当山を信頼する方が逝かれたならば、信頼は永遠に託されたことになる。
 不動の信頼へ当山はどうお応えしてゆけばいいのか?
 どうお応えせねばならないのか?
 寺院の存在理由と価値が問われている。

 死を託す相手を選び、信頼して託すことは真の宗教行為である。
 託された死と死後に対して、信頼に恥じぬよう誠意を尽くすこともまた、真の宗教行為である。
 一行者、宗教者として、信頼を宝ものとして守り、死にたいと願う。
 あの世で、AさんやBさんと一緒に、信頼という宝ものが発する光に浴したい。




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2016
03.29

Q&A(その22)お戒名はどうやって決まるか? ─テレビでは語られない〈宗教行為〉─

2016-03-27-0002.jpg

 帰山したところ、たまたま「ぶっちゃけ寺」なるテレビ番組が目に入った。
 ある住職はお戒名を二つ作り、ご尊家様に気に入った方を選んでもらったり、二つから気に入った文字をご尊家様と一緒に組み合わせて完成させたりするという。
 司会者やコメンテーターのペースで、おもしろおかしく語られているのは〈経済行為〉でしかなく、死の絶対性に正面から向き合う〈宗教行為〉は語られていないと思われた。

 当山のやり方をもう一度、書いておきたい。
 当山では、故人の誕生日や命日などの情報を頭へインプットし、ご本尊様と一体になった状態で、ご本尊様から降りてきた文字を並べる。
 こうする理由は、一介の行者が、あの世という親元へ旅立つ〈みの子〉である御霊を特定するためのお戒名を求める場合、こうするしかないからである。

 この世へ生まれた私たちは、この世の親が〝──幸せな人生を歩めるように……〟と懸命に考え尽くした果てに現れた名前を授かって一生を過ごす。
 真であれ、華であれ、一生、自分の名前によって少なからぬ影響を受ける。
 だから名前は必ず、イメージのよい文字で構成される。

 親から授かった肉体の耐用年数が過ぎれば、今度は、の故郷であるあの世へ還って行く。
 肉体を離れ、霊性だけになった存在へ、今度はあの世の親であるみが名前を授けてくださる。
 それが、〝安心して欲しい〟〝迷わないで欲しい〟など、ご尊家様の希望に叶ったものであるよう、行者は至心に祈り、みからの応答を感得する。

 これが〈宗教行為〉というものであり、小生のような未熟者にとっては、こうするしかお戒名をお渡しする方法はない。
 ちなみに、お身内のお戒名をお送りしたAさんからいただいたお返事である。
「一文字一文字にとても感動し前向きに頑張りたいと思います」(Aさん、ありがとうございました。小生も頑張る力をいただきました)

 一文字一文字は、みの世界に連なっている。
 それを感じる時、私たちの心も、いのちも、清められ、本来の力を取り戻す。
 これが宗教の世界であり、お戒名をいただくという〈宗教行為〉の真実である。(宗教行為に値段のつけようがなく、まごころからのお布施によるしかない理由がいくらかはおわかりいただけただろうか……)




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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