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2016
12.04

12月の守本尊は千手観音菩薩様です ─救われる時─

2016-12-04-0001.jpg
〈改装中の守本尊道場に、ようやく仏像が建ち始めました〉

 12月は、大雪(ダイセツ)と冬至(トウジ)の師走(シワス…12月7日より1月4日まで)です。
 12月は子(ネ)の月なので、守本尊千手観音(センジュカンノン)様です。

 千手観音〈センジュカンノン)様は天眼無礙智力(テンゲンムゲチリキ)をもって、人々の過去までも見通し、どのような因縁で、何に苦しみ何を求めているかを、無限の(仏教における「千」は無限を意味します)智慧の眼をもってご覧になり、無限の慈悲の手を差しのべ、お救いくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、1年の締めくくりとなる月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

 千手観音〈センジュカンノン)様は、子年(ネドシ)生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 身体においては、特に腹腰をお守りくださるので、お腹が不調の時などは真言を唱え、ご加護をいただきましょう。

「尊く聖(キヨ)き観世音(カンゼオン)○菩薩(ボサツ)の行を果たさんと○人間界に降り立って○衆生(シュジョウ)の苦しみ同じくし○衆生と共に喜びを○分かち合わんと哀愍(アイミン)し○衆生済度(サイド)に勤(ツト)め往(ユ)く。」


(尊く清らかで聖なる観音様は、菩薩としての務めを果たそうとして人間界に降り立ち、生きとし生けるものの苦しみを自分の苦しみと感じ、生きとし生けるものと喜びも分かち合いたいものだと切に願い、その救済に励む)

 観音様のお救いは、「そうしてはなりません、こうしなさい」と教えるのではありません。
 もしも病気で苦しむ人がいたなら、自分も病人に姿を変えて一緒に苦しみ、それにじっと耐えたり、花に憩いを感じてホッとする姿を見せるなどして、救われる様子を教えてくださるのです。

「善(ヨ)き人々よたとえ百○千万億の衆生(シュジョウ)あり○この世の中の諸々の○苦しみ受けて悩めども○観音菩薩の在(ア)るを聞き○その名至心に称(トナ)うれば○観音菩薩はその音声(コエ)を○即時に観じ応現(オウゲン)し○皆の解脱(ゲダツ)を得せしめん。」


(善男善女よ、無数の生きとし生けるものの世界にあっていかなる苦しみに悩もうと、観音様がおられると知り、その御宝号を一心に唱えておすがりするならば、観音様はその声をただちに聞いて願いを知り、そばに現れて皆をこの上ない安心の世界へお導きくださる)

 私たちは、何かを渇望する時、それを持っており分かち与えてくれるような相手にすがらないではいられなくなります。
 病気になれば、治す術を知っている医師のもとへ走り、お金が必要になれば、銀行へ走ります。
 そのようにして、お互いさま、おかげさま、と生きますが、いよいよどうにもならなくなった時には、「これが欲しい」ということではなく、〈救い〉そのものを求める気持になります。
 これが、おすがりするという状態です。

 だから、具体的な手段を失い尽くし、困り果てた人でなければ、すがらずにはいられないという状態はなかなか理解できません。
 そうしておすがりする者に対して、観音様はすぐさま追いつめられた状態から解放してくださるというのですから、まことにありがたいというしかありません。 
 それが信じられるかどうかは、そこに立ち至り、「南無観世音菩薩」あるいは「おん あろりきゃそわか」、あるいは千手観音様へ「おん ばざらたらま きりく」とおすがりした体験者にとってのみ、意味のある問いとなることでしょう。
 ちなみに小生は、幾度も〝もはやこれまで〟を乗り越えて今、生きており、信じている人の部類に入ります。

21080819 007

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた千手観音様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 12月守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、必ずご本尊様へ思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「おん ばざら たらま きりく」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2016
10.20

不寛容の問題 ─救いを奪う者─

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 小雨の日、東京駅のタクシー乗り場は、カサをさす人もいて長蛇の列だった。
 ようやく乗り込み、「今日はすいぶん混んでいましたね」と中年男性の運転手に声をかけたら、苛立った声で思いも寄らぬ答が返ってきた。
「朝鮮人のやつらですよ。
 日本の税金で喰っていながら、好き勝手にやり放題、言い放題、嫌になると電車へ飛び込む。
 おかげで、日本人が酷い迷惑を受ける。
 左翼に占領されているマスコミは報道しないけど、連中の自殺はしょっちゅうですよ!」
 どこかで飛び込み自殺があり、そのせいで電車の運行が狂ったらしい。
 そうですか、と静かに相づちを打った途端、話は自衛隊へ飛躍した。
「日本の自衛官は、いざという時に備えて、カエルなども喰うような厳しい訓練をしているんです。
 この間、ドイツの将校が来て、こんな過酷なのは見たことがない、ってびっくりしていたらしいですよ。
 日本の潜水艦もレーダーでつかまえられないほど凄くて、アメリカと合同訓練をしていた時、アメリカの軍艦に察知されないで近づき、すぐそばで急浮上してびっくりさせたらしいですよ」
 それにしても、客の気持や考え方を一顧だにしない勝手な言いよう、落ちつきのない運転、酒か麻薬の影響すら感じられるほどの荒(スサ)み方だ。
 聞くに耐えず、「ちょっと失礼」と小さく声をかけて携帯電話にとりつき、避難した。
 それでも、ぶつぶつと何か呟き続け、電話が切れるのを待つように言葉の速射砲は再び唸りを上げ、降車するまで車内に乱射され続けた。

 ようやく深呼吸をし、いつもより弱々しく歩き出しながら、つくづく思った。
 アメリカのトランプ候補も、フィリピンのドゥテルテ大統領も、あまりに問題のある品性人権無視の意識を持っていながら、一定の指示を集めているのはこうした人々がいるせいだろう。
 もしもさっきの運転手がアメリカへ行けば何を叫び、フィリピンへ行けば何を行うか、容易に想像がつく。
 その性向は、ISに勧誘されればテロリストになる可能性にも通じている。

 要は〈不寛容〉なのだ。
 自分も含めて、この世が多様な人々の多様な思いや行動によって成り立っている事実を認識し、自分を尊重するのと同じようにお互い、尊重し合いながら生きるという感覚が薄いのだろう。

 なぜ、不寛容が問題なのか?
 それは、自分からも、他者からも救いを奪うからだ。
 神ならぬ人間が「救われる」とは畢竟(ヒッキョウ)、「赦される」ことに他ならない。
 それは「解放される」と言い換えることもできよう。

 時代劇で、侍に斬られそうになった町民が「堪忍してください」「勘弁してください」と土下座するシーンがある。
 自分が正しいと言い張ったり、あなたを非難したりはしませんから、どうぞお怒りをお鎮めください、いくらかは私のいのちも考えてください、と頼む。
 白黒をつけるのではなく、いのちを奪おうとする者に赦しを請い、危機から脱しようとしている。
 これが人間同士における救いの究極的姿ではないか?
 この時、相手に何が求められているのか?
 それは心の寛(ヒロ)さ、容(イ)れる度量、つまり寛容さなのだ。

 私たちの心から寛容さが薄れるとどうなるか?
 自分に都合のよいところで思考停止になり、聞く耳を持たなくなる。
 高圧的で真の対話が成り立たなくなる。
 私たち一人一人がこうなれば、社会を動かす立場の人々も必ず、同じ傾向になり、権力者の独善的な動きを認めたりもする。
 それは社会から思慮深さや、穏やかさや、円滑さなどを奪い、さまざまな問題で私たちを袋小路へ追い込み、対立と不安とをもたらす。
 嵩(コウ)じれば暴力や戦争にもつながりかねない。

 「人の振り見て我が振り直せ」である。
 ときおり、自分が不寛容になってはいないか、指導者が不寛容ではないか、不寛容な人物を権力者に選んではいないか、振り返って見たい。
 自他が救われつつ生きるため、省み、誡(イマシ)めたいものである。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2015
05.26

開かれた仏教と市場経済の話

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 お釈迦様は説かれました。
宗教市場経済と同じであり、市場における自由売買にたとえられる」

 市場で野菜を売り買いする際に、社会的地位は問題になりません。
 売り手は買い手の身分を訊ねてから売りはしないのです。
 買い手もまた、売り手の人物とは無関係にモノを買います。
 お釈迦様は、宗教も同じであるとして、相手が王であろうと売春婦であろうと、等しく相手に必要な法を説かれました。

 バラモン教は師拳(シケン)と称し、社会的階級に合わせた宗教行為を行います。
 師の拳に隠された秘儀は階級によって選ばれた特定の人にしか明かされませんが、お釈迦様は相手を選ばず、最善を尽くされました。
 最善の手立ては、後に「方便」という仏教語となり、方便は万人に明かされ、与えられています。

 一方、お釈迦様は、宗教を医療行為にもたとえられました。
 熱冷ましや咳止めが与えられ、それを自分でまじめに飲み、指示に従って安静にしていれば風邪を治せます。
 しかし、外科手術が必要なら、技術のある執刀医に任せるしかありません。
 患者の理解と努力が関われる範囲は、病気の内容によって大きく異なります。
 それと同じように、求め、救われる道筋は万人に開かれていますが、どのように救われ得るかは千差万別です。

 教えは自由に選べるし、与えられるべきですが、求める人により、与えられる内容にはおのづから違いも限度もあります。
 5才の子供へ10才用のオモチャが与えられれば、使えず、壊すだけでなく、ケガをするかも知れないのと同じです。
 だから、それを見極める側の役割と責任は小さくありません。
 僧侶は必要な内容を説かなければ救えず、あえて説かなければ罪とされる一方で、相手の能力を超えたものを与えるのもまた、罪となります。

 こうした理由により、当山の人生相談は袈裟衣をまとい、三礼(サンライ)に始まる修法に入ってから行います。
 ちなみに、三礼とは、み仏と、教えと、み仏と教えを学び守り伝える人々、すなわち三宝を尊び、帰依(キエ)する礼拝です。

 仏教は、誰でもが求め、手に入れられる教えであり、救いです。
 しかし、教えも修法もお金に換算できず、いかにやりとりされるかは、み仏のご判断を仰ぐ行者に委ねられます。
 一方、三宝へ対する誠意として差し出されるお布施は、求める側の価値判断と経済事情に委ねられます。

 だから、お釈迦様が市場に例えてその開放性を説かれた仏教は、現実の市場経済に乗って売り買いされるべきものではありません。
 そもそも宗教は、一人一人が自分で心へ問い、人間へ問い、自然へ問い、世界へ問い、仏神へ問い、死者へ深く深く問うところからしか入れない世界ではないでしょうか。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2015
01.10

第五十九回寺子屋『法楽館』 ─普段の救いと死ぬ時の救い─

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〈絶滅の危機を脱しつつあるシジュウカラガン(河北新報様よりお借りして加工しました)〉

 平成26年8月9日の「第五十四回寺子屋法楽館』」において「懺悔と救い」と題し、短いテキスト『安心章』についてお話ししましたが、今回は、12章に分かれた詳しいテキストについて、わかりやすいお話と自由な質疑応答などを行います。

・日   時:平成27年1月10日(土)午後1時30分より3時30分まで
・場   所:法楽寺講堂
・ご志納金:千円(中学生以下は五百円)
・送   迎:午後1時に地下鉄泉中央駅そばの「イズミティ21」前から送迎車が出ます。乗車希望の方は、必ず前日午後5時までに電話などにてお申し込みください。

 今回は『安心章』の第六章と第七章について、簡単に記しておきます。

6 加持(カジ)感応(カンノウ)

 前回まで、大日如来と阿弥陀如来のお救いについて述べましたが、次に、その道筋、道理について書かれている章を読んでみます。
 

「仏と同等に住することを得るは、これ偏(ヒトエ)に大日如来の加持力(カジリキ)による」


 私たちが、み仏の子である本来的な存在になって救われるのは、根本仏である大日如来が加持(カジ)してくださるからです。
 加持の「加」は「往来摂入(オウライショウニュウ)」と言い、み仏の光明が凡夫へと入りこんでくださることです。
 また「持」は「摂持不散(ショウジフサン)」と言い、信心する私たちがそれを受け取り、しっかりと保つことです。

 こうした一連の流れは三力(サンリキ)として説かれます。

「我が功徳力(クドクリキ)をもってのゆえに、如来の加持力(カジリキ)をもってのゆえに、及び法界力(ホウカイリキ)をもってのゆえに、速やかに不思議の業用(ゴウヨウ)を成就すべし」


 み仏に対する純粋な信心という自分の徳がなければ何も始まりません。
 そうした徳ある者は、み仏から発せられている加持のお力を感得できます。
 こうした因縁に加わってよき願いを成就させる決め手となるのが「法界力」です。
 それは地・水・火・風・空・識の6つが互いにつながり溶け合って醸し出す宇宙的エネルギーとも言うべき力です。
 つまり、精進すれば、み仏は見捨てず、周囲の不思議な縁も力となり、大願成就へと進めるのです。

 そうした状態になれば、「心」すなわち真実世界を目ざすまごころと、「虚空」すなわちあらゆるものを妨げず汚さない無限の場と、み仏の無限の智慧が一つになります。

「心と虚空(コクウ)と菩提(ボダイ)と無二なり」


 そして、ありありとみ仏のご加護を感じとる瞬間が来るのです。

 私たちが至心に真言を唱えれば、知らず知らずのうちに、み仏の慈悲心と感応し合い、ご守護を得て、無限の過去から積み重ねてきた罪業や悪行の汚れも自然に消滅します。
 無限の慈悲心に満ちたみ仏の世界が、本来の仏心を活性化させた自分の心へ、あたかも満月が澄んだ湖水へ映るように顕れます。
 これが、影から現れてくださるようなみ仏のご来臨(ライリン)です。

 また、死ぬ間際に真実世界を目ざすまごころそのものになれば、無明(ムミョウ)や煩悩(ボンノウ)から解放され切ったみ仏の広大でお慈悲に満ちた世界を感得し、お迎えに来てくださるみ仏のお姿を見ることさえあり得ます。
 これが来迎(ライゴウ)のみ仏とされるもので、昔は阿弥陀様がお迎えに来られる様子を書いた掛け軸などを枕元へ掛け、時には掛け軸や仏像から伸びた紐を握って臨終を迎えました。

「我等が念唱(ネンショウ)する一返の真言も知らず識(シ)らず諸仏の大悲(ダイヒ)と相応し、護持せられて、永劫(エイゴウ)の罪垢(ザイク)もおのづから消滅し、大悲(ダイヒ)法身(ホッシン)の影、自心本覚(ホンガク)の心水(シンスイ)に浮かぶを影向(ヨウゴウ)の仏と言い、臨終(リンジュウ)一念の浄心(ジョウシン)に無尽(ムジン)の境界(キョウガイ)を感見(カンケン)するを来迎(ライゴウ)の仏と言う」


 仏教経典に書かれている話から、古来、とても稀なできごとは「盲亀(モウキ)の浮木(フボク)」と言われてきました。
 大海の底に住んで百年に一度だけ海面へ姿を見せる亀が、たまたま、浮かんでいた木片に開いていた穴へ頭を突っこむというできごとは、想像を絶するほどゼロに等しい確率でしか生じません。
 私たちが万物の霊長としてこの世へ生を承け、こうした教えに巡り会うのは、盲亀の浮木に等しいほど稀なできごとであるのかも知れません。
 だから、この機会を逸することなく、学び、考え、精進したいものです。

7 最後用心

 私たちは必ず死を迎えます。
 のほほんと暮らし、いざ、〈その時〉が来てから慌てても、何もかもが間に合いません。
 自分の過去を常に省み、善悪もろもろの業(ゴウ…行いにふさわしい結果を必ず生じる影響力)がいかなる未来をこの世で、そしてあの世で、あるいは来世でもたらされるか、よく考えてみる時間を持ちたいものです。
 因果応報(インガオウホウ)の道理は、この世とあの世とを問いません。
 因果応報のはたらきからは誰も、何一つ、逃れられず、この世でやったことが、あの世へ影響を及ぼさないはずはなく、私たちが特定の存在としてこの世に生まれた原因は過去世にしかないのです。

 私たちは因と果の糸をすべて見通す能力を持っていないがゆえに、平気で悪行(アクギョウ)に走ります。
 この愚かさや未熟さや限界をよく見つめる人は必ず、謙虚で、精進する人になります。
 1月8日付の朝日新聞は、京大iPS細胞研究所長山中伸弥氏の「開発止まった薬を『』させたい」を掲載しました。
 目の難病でiPS細胞を用いた治療を成功させ、再生医療元年とまで称された技術について、氏は慎重です。
 

「体内の細胞でも、遺伝子の配列は徐々に変わっていくことがわかってきている。
 その中で(安全かどうか)判断を求められる。
 どこまでが許され、どこからがダメか、まだ誰も答を知らない。」

「ゲノム(全遺伝情報)のデータから腫瘍(シュヨウ)の危険性を予測するのは、まだ誰も答を知らない現在進行形の科学。」


 そして、全く違う病気の薬が難病に効く可能性をiPS細胞で見出していることについても舞い上がりません。

「薬はゼロから出発すると莫大な費用と時間がかかる。
 これを契機に。既存の薬に加え、安全性に問題はなかったが効果があまりなくて開発が止まった薬を試していきたい。」


 小保方晴子氏の問題についても、まったくぶれません。

「科学に対する信頼が、かなり失われているかもしれない。
 そういうものを払拭していくには、ちゃんといい成果を出すことしかない
 時間はかかるが、着実にがんばりたい。」


 自分の愚かさや未熟さや限界を見つめれば、〈その時のこと〉や〈後のこと〉を考えないではいられません。

「生者必滅(ショウジャヒツメツ…生まれた者には必ず死が訪れる)は娑婆の理、会者定離(エシャジョウリ…会った者とは必ず別れる時が来る)は人生の常なれば、明日をも知れぬこの命ゆえ、深く後生(ゴショウ)の大事を心にかけざるべからず」


 さて、死を迎えた自分がどのような状態になるかは、誰にもわかりません。
 常に何も考えないで暮らしている人はもちろん、自分は心構えができていると思っている人でも、いざ、〈その場〉になれば惑乱の暴風に翻弄されるかも知れません。

「最後臨終(リンジュウ)の時分は断末魔(ダンマツマ)の苦あれば、心身共に乱れて念誦(ネンジュ)相続意(イ)のごとくならざるものなり。」


 乱れの中で、光明真言も、大日如来の真言も唱えられないかも知れません。
 ではどうすればよいか?
 答は密教瞑想の阿字観(アジカン)にあります。

「阿字(アジ)の如来は法爾(ホウニ)これを摂取(ショウジュ)して洩らすことなければ、我等はただ、この阿字を観すべきなり。」


 阿字で表される大日如来は、常にこの世のあるがままで真実世界を表しておられ、一人ももらさずお救いくださるので、私たちはとにもかくにも「阿」を心に思い浮かべれば、必ず安心世界へ入られます。
 そもそも、私たちが生きているのは呼吸をしているからであり、吐く息にも吸う息にも、大日如来たる宇宙生命のいのち、無限の過去から未来へとつながるいのちが宿っています。
 無始無終の真実世界を表す阿の文字を思い浮かべ、最後に吐き出す息へも阿の文字を託せば、その息は真実世界へ溶け込み、大空にかかる満月のように光り輝きます。
 だから、私たちは平生(ヘイゼイ)から呼吸に阿字が伴っていることを感得しておきたいものです。
 その稽古、修行が「阿息観(アソクカン)」であり、「阿字観」です。
 こうして、阿字観の瞑想は、普段の心に安心とおさまりをもたらすだけでなく、臨終の時にも又、大いなる救いをもたらすことでしょう

 なお、ダライ・ラマ法王は、輪廻転生(リンネテンショウ)の原因として、より大きな影響力を持つのは、より死に近い瞬間における心の状態であると説かれており、その意味でも最後に自分の呼吸を阿字と一体にすることは重大な意味を持つものと想われます
 興教大師もまた、説かれました。

「一切の生きとし生けるものを救うため、至心に発願し、功徳(クドク)による救いを深く信じて回向(エコウ…回し向ける)せよ。
 臨終の者へは、何としても極楽往生を遂げさせるため、あらゆる善根(ゼンコン…善き結果をもたらす影響力)をもって回向せよ」


 引導(インドウ)を渡し善根を回向するご葬儀の意義は、実に大なるものがあります
 臨終に間に合わなかったご家族がようやく駆けつけた枕元で光明真言の法を結んだ瞬間、死者が大きく息を吐く音が聞こえ、一同、驚き、ありがたさに涙したことがあります。
 自らいのちを断った方のために阿字をお授けした瞬間、お骨の周辺から射した後光に、皆さん思わず合掌されたこともあります。
 ご葬儀は決して単なる儀式でなく、当然、行っても行わなくても同じであるはずはありません。
 福祉葬、骨葬、家族葬、密葬など、いずれの形であろうと、戒名を受けようと受けまいと、当山では必ず、等しく引導を渡します
 まごころを込めて逝く人を送る宗教行為とはいかなるものか、よく考えてみたいものです。




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2014
08.14

どうして般若心経には「無」がたくさん出てくるのでしょうか? ―二重の真理―

201408140001.jpg
寺子屋『法楽舘』において「懺悔救い」のお話をしました〉

201407140005.jpg
〈「懺悔救い」のテキストをA5版の小冊子にしtました。ご希望の方へお送りしています〉

 寺子屋でご質問がありました。
「般若心経には、『』という文字が『い』という意味で、17回も使われています。
 一方、『』は7回で『不』の8回よりも少ないんです。
 しかも『苦』に至っては、たったの2回。
 それなのに、苦を克服できるの経典とされているのはなぜですか?」
 確かにそうです。
 まるで「」を説いているかのようです。
 では、ここで説く「い」とはどういう意味でしょうか?

 最初に出てくるのは「色(ムシキ)」です。
 仏教語としての色は、形あるモノを意味します。
 自分の身体も、パソコンも、ネコも、家も皆、色です。
 つねれば痛いし、お腹がすくし、目や耳もあって生きているのに、自分の身体という〈色〉が〈〉いと言われてもとうてい信じられません。
 ではなぜ、み仏は「無い」と説かれたのか?

 それは、「非日常的で究極的なレベルから観れば無い」ということです。
 逆に言えば「日常的で一般的なレベルから観れば有る」ので、つねって痛いから身体は有ると考えてまったく問題はなく、般若心経はそのことを否定しているのではありません。
 私たち凡夫の目に映るこの世と、み仏の目に映るこの世とは、違って観えているのです。

 そして、凡夫の目で生きている私たちは、み仏の目から観て究極的には〈無い〉ものにすがり、頼っているので、結局は、ここでも、あそこでも、〈ままならない〉状況が生まれてしまいます。
 それが〈苦〉です。
 だから、せめて、苦に押し潰されそうになった時は、み仏の目でこの世を観察しなおしたいものです。
 では、どうすれば〈み仏の目〉になれるか?
 般若心経の教えに触れるのも、考えるのも、写経するのも、経典や真言を読誦(ドクジュ)するのも、瞑想するのも、お詣りするのも、すべては、〈み仏体験〉につながります。
 実践がなければ、体験はできません。
 ご先祖様を想うお盆は貴重なチャンスです!
 
 こうした真理の二重性を説いたのが、大乗仏教の中観派(チュウガンハ)と呼ばれる聖者の方々です。
 昨日も今日も同じ身体があり、同じ自分がいるのは事実なのだから、昨日行った約束を今日はきちんと守りましょうというのが、「世俗真理」に立った考え方であり、ここをきちんとしてこそ、まっとうな日常生活が送られます。
 昨日も今日も同じ身体があり、同じ自分がいて、家もお金もあると思っても、それは諸条件がたまたま調っている〈仮そめの〉状態に過ぎないのだから、いつ、何がどうなっても大丈夫なように、悪行には早く始末をつけ、モノ金にすがらず善行にいそしみましょうというのが、「究極の真理」に立った考え方であり、そうして生きていれば、不安や迷いの少ない人生を送られます。

 お釈迦様は、相手に応じて「世俗真理」によっても救い、「究極の真理」によっても救われました。
 お釈迦様が入滅してから約700年後に真理の二重性が整理され、中観派(チュウガンハ)が成立しました。
 そこで、「あらゆるものは何かとの関係性の中で仮そめに有り、その何かも、つきつめて行けばそれ自体で有るのではなく、それ自体で単独に有るものは何もない」という(クウ)の思想が確立しました。
 それから約1800年かけて二重性はさらに整理され、究極の真理も深められつつあります。
 ダライ・ラマ法王が説かれるように、仏教という宗教は、科学の方法とよく似たやり方をもって進んで来たのです。

 こんな視点も持ちながら、至心に般若心経を読んでみましょう。
 きっと、これまでよりもスッと心へ入ることでしょう。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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