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2016
11.04

漢文『法句経』を読んでみる(その10) ─戒めに生きる真の安心とは?─

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〈仙北の町で赤信号の数十秒〉

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〈護摩堂・修行道場〉

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〈完璧なプロの仕事ぶり〉

 今回は『法句経(ホックキョウ)』の「戒慎品(カイシンボン)第五」を意訳してみましょう。
 実際に唱えることができるよう、すべてルビをふりました。
 幾度も唱えているうちに、お釈迦様の思いが身近なものになることでしょう。

○戒慎品(カイシンボン)とは、善道(ゼンドウ)を授与(ジュヨ)し、邪非(ジャヒ)を禁制(キンセイ)し、後(ノチ)に悔(ク)ゆる所(トコロ)無(ナ)きなり。


戒め慎みの一章では、善き道を与え、邪で非道な道へ行かせず、後から悔いるところのない生き方へと導く)

〔八八〕人(ヒト)にして常(ツネ)に清(キヨ)く、律(リツ)を奉(ホウ)じて終(オ)わりに至(イタ)り、善行(ゼンギョウ)を浄修(ジョウシュウ)せば、是(カク)の如(ゴト)くして戒(カイ)成(ジョウ)ず。


(常に身口意を清め、教団の決めごとを徹底的に守り、善き行いを清らかに修めるならば、人としての戒めが自然に成就する生き方になる)

〔八九〕慧(エ)ある人(ヒト)は戒(カイ)を護(マモ)り、福(フク)を三(ミッ)つの宝(タカラ)に致(イタ)す。名聞(メイブン)と、利(リ)を得(エ)ること、後(ノチ)に天(テン)に上(ノボ)りて楽(タノ)しむことなり。


智慧ある人は戒めを守り、幸福を三つの宝ものとして得る。名声と、財物と、死後に天界へ上っての楽しみである)

〔九〇〕常(ツネ)に法処(ホッショ)を見(ミ)、戒(カイ)を護(マモ)るを明(アキ)らかと為(ナ)す。真(シン)の見(ケン)を成(ジョウ)ずることを得(エ)ば、輩中(ハイチュウ)の吉祥(キッショウ)たらん。
(常に、因果応報の成り行きで幸福が得られる道筋を見分け、戒めを守るのが智慧ある賢者である。賢者がこの理を理解すれば、この世の人々の中にあって吉祥の生活となる)

〔九一〕持戒者(ジカイシャ)は安(ヤス)く、身(シン)をして悩(ナヤ)み無(ナ)からしむ。夜(ヨル)臥(フ)せては恬淡(テンタン)にして、寤(サ)めては則(スナワ)ち常(ツネ)に歓(ヨロコ)ぶ。


戒めを保つ者の心は安寧で、身体のはたらきに悩まされもしない。寝所では、心に引っかかりがなく眠りへ入り、朝に目覚めては嬉しい気持になる)

〔九二〕戒(カイ)と布施(フセ)を修(シュウ)し、福(フク)を作(ナ)せば福(フク)と為(ナ)る。是(コ)こより彼(カシ)こに適(ユ)きて、常(ツネ)に安処(アンショ)に到(イタ)る。


戒めを守り、布施に勤み、功徳が積まれれば、福徳に恵まれる。この世でも、あの世でも、安寧がもたらされる。

〔九三〕何(ナン)ぞ終(オ)わりに善(ヨ)しと為(ナ)し、何(ナン)ぞ善(ヨ)く安(ヤス)らかに止(トド)まり、何(ナン)ぞ人(ヒト)の宝(タカラ)と為(ナ)し、何(ナン)ぞ盗(ヌス)びとも取(ト)らざる。


(どうすれば、人生の終わりに善き日々であったと満足でき、そこへ至る人生安寧に過ごせようか。何が人々の宝ものであり、いかなる盗人にも奪われずに済むものなのか)

〔九四〕戒(カイ)は老(オ)いに終(オ)わるも安(ヤス)く、戒(カイ)は善(ヨ)く安(ヤス)らかに止(トド)まらん。慧(エ)を人(ヒト)の宝(タカラ)と為(ナ)し、福(フク)は盗(ヌス)びとにも取(ト)られず。


(戒めを保てば老いても安寧であり、戒めを説くものが信じられれば常に安寧である。智慧は人々の宝ものであり、福徳はいかなる盗人にも奪われない)

 ここには、戒めを守ろうと自分を縛るのではなく、戒めに添った生き方が自然にできるようになった状態が説かれています。
 そもそも、苦を滅する方法の根本として示された十善戒は、反すれば罰が当たるという性質の決まりではなく、そこを目ざし、そのように生きられてようやく、苦から脱することができるという道筋に他なりません。
 しかも仏教は、盲目的に信じれば救われるノウハウを示す宗教ではなく、あくまでも、一人一人が〈道理である〉と納得して実践することを求めます。
 だから、マインドコントロールとは無縁である点を押さえておきましょう。

 智慧ある人は、本ものの宝ものを知り、偽ものを求めないので、心が乱され苦しむという迷いから離れられます。
 こうした智慧は、至心に学び、納得して実践する過程を経てこそ得られます。
 それは、み仏の子である私たち全員に与えられた可能性であると言えましょう。

 私たちの仏心が花開いて実現する福徳は、誰にも奪われません。
 苦しみ、悩み、怒り、怨み、嘆いたままで過ごし、モノ金や人やいのちなど執着していたすべてから引き離され、大いなる安らぎを得ないままであの世へ旅立つのか、それとも、学び、生き方を変えるか、一人一人の姿勢が問われています。




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2016
10.23

蓮華と法具になったお大師様

2016-10-23-0001.jpg

 お大師様が旅立った後、高野山が没落した時期のできごとである。
 天台宗の円仁が、弟子と荒廃ぶりを語り合ったところ、その世のにお大師様が現れた。
 次いで、真言宗の康修も現れて、「和尚に会おうと、お大師様が来ておられます」と告げた。
 円仁は驚いて起き上がり、衣装を整えて玄関に出る。
 ところが、お大師様はおられない。
 周囲を見回すと、庭に一本の蓮華が立っており、五鈷金剛杵(ゴココンゴウショ)が乗っていた。
 康修は再び、円仁の想念に現れてそれを指し示す。
「あの金剛杵は我が師である」

 お大師様は、右手に五鈷金剛杵、左手に数珠を持って入定(ニュウジョウ…瞑想のままこの世を去ること)された。
 金剛杵は不退転の智慧を、数珠は一人も見捨てない慈悲を表す。
 それは不動明王が右手に剣、左手に索(サク…縄)を持つのと同じである。

 お大師様は御遺告(ユイゴウ)で説かれた。

「吾れ閉眼の後には必ず方(マサ)に兜卒他天(トソツテン…弥勒菩薩の浄土)に往生して弥勒慈尊(ミロクジソン)の御前に侍(ハベ)るべし。
 五十六億余の後には必ず慈尊と共に下生(ゲショウ)し祇候(シコウ)して吾が先跡を問うべし。
 亦(マタ)、未だ下らざる間は微雲管(ミウンカン)より見て信否を察すべし。」


(私が亡き後には、必ず兜卒天に往生して弥勒菩薩のもとにつかえるであろう。
 仏滅後五十六億七千万年経ち、弥勒菩薩が天上からこの世へ降るおりには、必ず弥勒菩薩とともに人間界へ降り、かつて私が歩んだ跡を訪ねるであろう。
 また、この世へ降りるまでの間は、兜卒天の微かな雲間から望み見て、人々の信心・不信心を観察するであろう)

「努力努力(ユメユメ)後に疎(オロソ)かにすることなかれ」


(私が去った後も、決して、精進せず仏法を疎かにするようなことがあってはならない)

 お大師様は、弥勒菩薩のおそばから、不動明王のような智慧慈悲により私たちを見守っておられる。
 一時の流行や廃れに一喜一憂してはならない。
 信じ、精進する者は必ずお大師様と感応できる。
 お大師様とお会いできるかできないかは私たち自身の心がけ次第だ。
 ちなみに、蓮華に乗った金剛杵は、当山のお焚きあげの場にも高く掲げられている。
 この形は、あらゆる迷妄を断ち、生きとし生けるものを救う智慧慈悲を目ざす仏法の根幹であるに違いない。
「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」




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2016
10.15

定めた道を歩むには ─死ぬまで未熟─

2016-10-13-0006.jpg

 日々、自分の〈足りなさ〉〈至らなさ〉を痛感している。
 へ、「生前にそこを埋めておきたい」と話した。
 埋める方法を相談したつもりだったが、意外な答が返ってきた。
「もう、外からとり入れる必要はない。
 今、あなたが持っているもので救われている人々がいるのだから、後は、身につけた方法をさらに錬磨し、次代へ確かに受け渡すだけでよいのではないか」

 より勝れたものをもって、より多くの人々の苦を抜き、より多くの人々へ楽を与えたいという勝義心(ショウギシン)のイメージに偏りがあった。
 自分に力が足りないのは事実だが、そこを埋める方法についての思量が足りなかった。
 中年になってから出家したこともあり、たとえば堤防工事なら、より高度な工法を会得するためにには、若くしてプロとなった人々の何倍もの努力が必要だであると覚悟し、やってきた。
 は、残された時間の少ない中で、自分にできる工法そのものの限りない高度化をはかるよりも、自分で使える工法の精度を高め、それをバトンタッチすることに優先順位をつけてはどうかと諭されたのだ。

 目が覚める思いだった。
 そう言えば、遠方に住み、遠隔加持(エンカクカジ)を受けている信徒さんから、自分で出来る祈り方を求められ、伝えた時の達成感は大きかった。
 それは、いわば自分の血肉を分け与えるに等しいが、法の血肉は分け与えても決して減らない。
 分け与える行為そのものが、法をより確かなものへと昇華させる。

 行者は何をすべきか?
 一歩、踏み出した者にとって離れようのない大問題への答は、行者自身の年齢によって変わるのだ。
 懺悔(サンゲ…自らを省みて悔い、他者と社会へ恥じる)して慈悲心を清め、精進して智慧を深めるという一本道でも、菩提心(ボダイシン…まっとうに生きる心)と勝義心(ショウギシン…無限の向上心)のはたらかせ方は違う。

 中年になってから出家し、ご加持(カジ)の法を体得してすぐに一山を開基したA氏を思い出す。
 氏は、宗派が定めた修行の段階をすべて終えたわけではない。
 しかし、実際に救われた人々の求めに応じて場を造り、身につけた修法を駆使して訪れる人々を救っている。
 一個の身体を持って生まれる人間には、手を伸ばす範囲にも、この世にいられる時間にも限りがある。
 お大様はほとんど無限とも思える修法を確立されたが、一凡人に縁となり、駆使できるものはごくごく限られている。
 それをやるしかない。

 医など科学の世界に住む方々と接していると、方法の日進月歩が実感される。
 日々、より進んだ〈救い方〉があみ出され続けている。
 しかし、宗教の世界では、応用法に工夫の余地はあっても、お大様ほどの行者が確立した手法そのものにはまったく手のつけようがないし、すべての手法を、実際に駆使できるレベルまで会得することは不可能だ。
 行者は身につけた範囲のものを磨き、必要とする方のために役立てればそれでよい。
 それが本ものであるかどうかは、自分ではわからない。
 しかし、結果は、ご本尊様と、ゆかりを求める人々が教えてくれる。

 お大様は説かれた。
「自分で功徳の力をつけ、如来様のご加持力をいただき、社会や自然や宇宙の限りないお力を受け、普く供養する心で生きるのが行者のつとめである」
 これは何も行者に限った真実ではない。
 よき願いを持つ人は誰でも、自力や他力といった固定観念を離れ、こうした気持で精進の日々を過ごせば、必ず、その目的とその人に見合った最上の結果が得られることだろう。
 結果にモノサシを当て、50点、100点と点数をつけることは無意味だ。
 その人にとってそうして過ごす以上の方法はなく、得られた結果がその人にとってそれ以上にあり得なければ、何とどう比べられようか。

 若いころはたくさん詰め込もう。
 年をとったら錬磨を深めよう。
 実に、人は死ぬまで未熟、死ぬまで勉強だ。




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2016
09.08

信心が連れて行く先は? ─漢文『法句経』を読んでみる(その8)─

 前回にひき続き、今回も『法句経(ホックキョウ)』の「篤信品(トクシンボン)第四」を意訳します。

〔七五〕士に信と行(ギョウ)有れば、聖の誉(ホ)むる所と為(ナ)る、無為(ムイ)を楽しめば、一切(イッサイ)の縛(バク)解(と)かる。


比丘が信じ、実践すれば、聖者に称賛される。因果を離れた絶対の安心の世界に憩う時、迷いの生存をもたらすすべての束縛から解き放たれる)

〔七六〕信と戒と、慧意(エイ)もて能(ヨ)く行(ゴウ)ずれば、健夫(ケンプ)は恚(イカ)りを度(ド)し、是(コ)れに従(ヨ)りて淵を脱(ノガ)る。


(信じ、戒めを守り、智慧の心でしっかりと修行すれば、強壮な人は怒りに左右されなくなり。迷いの淵から脱する)

〔七七〕信は戒を誠ならしめ、亦(ま)た智慧を受(ウ)く。在在(ザイザイ)に能(ヨ)く行き、処処(ショショ)に養わる。


(信じれば戒めはよく守られ、智慧も授かる。あちこちにでかけると、どこででも供養を受ける)

〔七八〕方(マサ)に世利(セリ)に比すれば、慧(エ)と信とは明らか為(タ)り。是(コ)れ財の上宝(ジョウホウ)、家産(カサン)は非常なり。


(世間的な利益に比べれば、智慧信心とは明らかに財物中最高の宝ものである。世間的な財宝は無常でしかない)

〔七九〕諸(モロモロ)の真を見んと欲し、法を聴講(チョウコウ)するを楽しみ、能(ヨ)く慳垢(ケンク)を捨(シャ)す、此(コ)れを信と為(ナ)す。


(さまざまな賢者たちと会い、教えを聴き学ぶことを楽しみ、我がものを手放したくないと執着する心の汚れを捨て去る。これが真に信心ある人と言える)

〔八〇〕信は能(ヨ)く河を度(ワタ)り、其(ソ)の福奪い難(ガタ)し。能(ヨ)く禁じて盗みを止(ヤ)めよ。野は沙門(シャモン)の楽しみなり。


信心ある人は、迷いの岸から悟りの岸へ渡り、その福徳はなんぴとも奪えない。喧騒を離れた閑静な場所には行者の楽しみがある)

〔八一〕信無(ナ)きに習(シュウ)せざれ。好んで正言(ショウゴン)を剥(ハ)ぐこと、拙(ツタナ)く水を取るが如し。泉を掘るに泥を揚ぐ。


信心のない人に慣れ親しんではならない。そうした者は正しい言葉が身から離れ、うまく水を得られないのと同じである。泉を掘り当てようとして泥しか挙げられないようなものである)




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2016
09.01

正義感だけでいつも勝てはしない ─9月の運勢─

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〈金森選手と加藤コーチ。東京スポーツ新聞様よりお借りして加工しました〉

 今月は、素朴な正義感や高邁な理想だけではなかなか太刀打ちできない場面があるかも知れません。
 そこで依怙地になれば、墓穴を掘ってしまう場合すらあり得ます。
 こうした時期には冷静で適切な戦略がことの成否を分けます。
 戦術に長けているだけでは成就へたどりつきにくい場面がありそうです。
 何よりも武将智慧が必要であり、腕に覚えのある武術者といえども、武将を選んで時を待つべきでしょう。

 戦国武将馬場美濃守信春(ババミノノカミノブハル)は、戦略戦術両方の達人でした。
 武田信虎、信玄、勝頼と三代にわたって仕え、上杉、今川、徳川、北條との七十数回にわたる戦いを指揮してかすり傷一つ負わず、不死身と称されていました。
 その信春は、織田との「長篠の戦い」において、利あらずと見破り、勝頼に帰城を具申しましたが聞き入れられません。
 案の定、織田の鉄砲隊に翻弄され、たちまち敗勢に陥りました。
 ついに決心してしんがりを務め、主君を逃がした後、追いすがろうとする織田軍へ反転突撃し、見事な最期を遂げました。
 武将として実にあっぱれなはたらきぶりであり、進退もまた、この上ないものだったと言うしかありません。

 オリンピック女子200㍍平泳ぎにおいて金メダルを獲得した金藤理絵選手(27才)は、9年前に日本代表となって以来、自分より若い日本人選手に負け、代表の座を失い、加藤健志コーチとぶつかり、いくたびもの挫折を繰り返してきました。
 それでも加藤コーチへの信頼を保ち「お前は世界一持久力があるから、最初の50メートルさえ出遅れなければ、絶好調でなくとも絶対に負けない。あとはそれをお前が信じろ」という指示どおりに泳ぎ切りました。
 二人は戦略を定め、戦術を磨いてきたと言えましょう。
「ラスト50メートルは、このためにいろいろときつい練習をやってきたんだと思って泳ぎました。
 絶対に出し切って最後タッチするんだと。
 もし昨年の世界選手権でへたにメダルを取っていたら、今の自分は絶対になかったと言えます。」
 コーチの談話です。
「人ってこんなにも変われるんだなと。
 あいつはスーパースターじゃないし、器用でもない。
 でも努力をすることで五輪の金を取れるということをあいつが証明してくれた。」
 信春や金藤選手に学び、困難にぶつかっても、戦略戦術を考えてやりぬきましょう。

 ところで、9月20日からは動物愛護週間が始まります。
 動物と人間の関係を考え、共生のありがたさを思い、感じる時期にしたいものです。
 ただし、「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。
 第5代将軍徳川綱吉は、犬公方(イヌクボウ)と呼ばれるほどの犬好きで、「生類憐れみの令」を発し、8831人もの入牢者を出しました。
 この頃、有名なことわざができたそうです。
 「犬も歩けば棒に当たる」
 うかうかしていると、いつなんどき、酷い目に遭うかわからない、というものです。
 「くわばら、くわばら」と厄除けを願う庶民の声が聞こえてきそうです。
 皆さん、棒に当たりませんよう。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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