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2016
10.19

この世の行状の落とし前 ─閻魔様とお地蔵様─

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〈ダンダ幢を持った閻魔様〉

 私たちはこの世でそれぞれなりに生き、死んで行きます。
 因果応報が真理である以上、そして、この世でのすべての行為にすべての結果が伴ないきれない以上、その分は未来のいつの日か、どこかで、結果としての報いを受けねばなりません。
 ──善行への嬉しい報いも、悪行への苦しい報いも。

 そうした成り行きがいかなるものかを想像させるのがお地蔵様のお経です。
 そこには、閻魔(エンマ)様に調べられる様子と、お地蔵様の救いが説かれています。

 さて、調べはどのように進むかと言えば、以下のとおりです。
 
○その1 双童子(ソウドウジ)

 双童子は誕生の瞬間から人に寄り添そい善行悪行を記録する同生神(ドウショウジン)であり、善行を記録する者は吉祥天のように優しく、悪行を記録する者は羅刹のように恐ろしい。

「善を証明する童子は
 影のごとく相手から一瞬も離れず
 耳を低くして
 小さな善行も必ず記録する

 悪を証明する童子は
 響きが音を出す本体に応ずるように
 目を留めて
 小さな悪行も必ず記録する」

○その2 人頭杖(ニントウジョウ)

 閻魔王国へ入る鉄門の左右には、人頭杖(ニントウジョウ)がある。
 別名ダンダ幢(ドウ)という頭のような飾りを持つ幢幡(ドウバン…み仏の世界を表す旗)が立っており、この世での善行悪行も飾りに現れる。 
 ダンダは棒、杖だが、それが刑罰の道具にも用いられることから、刑罰という意味もある。
 黒闇天女(コクアンテンニョ)と、太山府君(タイザンブクン)がそれを持って閻魔王へ報告する。

○その3 浄頗梨(ジョウハリ)の鏡

 閻魔王の国には光明王院(コウミョウオウイン)があり、その中殿に懸けられている光明王鏡を浄頗梨(ジョウハリ)の鏡という。
 王の指示でそれに対面させられた死者は、自分の顔を鏡へ映すように、自分の歴史を見る。
 ここまでで、死者は、自分の過去がすべて明らかにされ、善悪の報いを受けねばならないことを知る。

 さあ、大変です。
 思い当たるフシがいろいろある人々は、震え上がることでしょう。
 悪行と無縁な人はいないので、全員が地獄へ行くかと言えばそうではなく、この国にはもう一つ、善名称院(ゼンミョウショウイン)もあります。
 そこは常に春であって花が咲き、同時に秋でもあって果実がたわわになっています。
 この浄土は、地蔵菩薩が入定(ニュウジョウ…瞑想に入ったまま悟りの世界へ行く)する宝処(ホウショ…尊い場所)であり、中央に座す地蔵菩薩は毎朝、瞑想から起つと無数の身を現じて、生きとし生けるもののそばへでかけます。
 信心して念ずる者には笑顔で智慧ある姿となり、不浄の行いをしている者がいれば自分の胸を指で刺して悲しみ、智慧の潤いをもって悪の報いによる苦を除こうとされます。
 地獄界や修羅界などの六道(ロクドウ)を輪廻(リンネ)する運命にある私たちのために、以下の様な願いを持っておられます。
 何とありがたいことでしょうか。

「私が真理を悟ったならば
 地獄の世界において、身代わりとなって苦を引き受けよう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 餓鬼の世界において、食べものを施そう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 畜生の世界において、飲み食いをさせよう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 修羅の世界において、争いを和ませよう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 人間の世界において、心の平安を与えよう
 それができなければ、決して成仏はしない
 
 私が真理を悟ったならば
 短命を恐れて我を念ずる者に長命を与えよう
 それができなければ、決して成仏はしない」

 こうした教えをどう受けとめるかは、私たち次第です。
 報われぬ善行を嘆いたり、知らん顔でいたい悪行に内心怖れていたりするだけでは、どうにもなりません。
 善行はきっと童子が記録しており、ダンダ棒の人頭と浄頗梨(ジョウハリ)の鏡に映るので、愚癡を言う必要はありません。
 悪行の報いからは決して逃れられないので、すみやかに懺悔(サンゲ)して対応すると共に、善行によって悪行の影響を総体的に小さくしましょう。
 そして、思いがさらに進むならば、お地蔵様など身近に感じられる仏神へ祈るだけでなく、自分もいくらかはお地蔵様のような願いを持って生きましょう。
 ポイントは〈自分だけ〉にあります。
 決して自分だけ良い思いができるわけではなく、自分だけが辛い目に遭っているのでもありません。
 お地蔵様のように、〈共に〉生き仏となるイメージを持ちながら、この世を生き抜きたいものです。




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2014
12.14

過去にとらわれてしまう自分を何とかしたい ―ダライ・ラマ法王への質問について―

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 小雪の舞う12月13日午後1時30分より、今年最後の寺子屋を行いました。
 般若心経についてダライ・ラマ法王猊下が講演されたDVDを観ましたが、かなり高度な内容で、あとで文章にしてみなければ理解は困難といった感じでした。
 いずれそうしますが、質疑応答に興味深いものがあったので、書きだしてみました。
 聴衆の一人が「過去に思い悩む自分を何とかしたい」とお訊ねしたのです。
 以下が法王の答です。

過去は単なる記憶に過ぎず、もはや効果を及ぼすこともありません。
 しかし、過去の経験から私たちは何かを学ぶことができます。
 より重要なのはこれからの未来です。
 私たちはもっと未来について考えるべきなのです。
 そして、未来現在に属しています。
 そこで毎日の暮らしを幸せに意義ある生活をすることが大切です。
 意義ある生活とは、できれば他の人たちを助け、奉仕することです。
 たとえそれができなくても、少なくとも他人に害を与えないようにすることです。
 それが意義ある人生を過ごすということなのです。
 お金を儲け楽しんだり、有名になったりすることは、単なる一時的な目的に過ぎず、狭いものの考え方でしかありません。
 正直で、真実を語って人生を過ごしていくなら、あなたの人生は意義あるものとなります。
 そのように過ごしていけば、何十年にわたる貴方の人生は、意味のあるすばらしいものになるのです。
 そう思いませんか?」


 法王はまず、日常生活上の心構えについて説かれました。
 今の生活を真に意義あるものとすること。
 そのためには、何よりも、他のためになることです。
 自分の利益を求めているばかりでは、人生の意義はなかなか見いだすことができないかも知れません。
 しかし、他のためになれば、いかに小さな行動でも意義あるものとなり、心には揺るがぬ達成感と満足感と清々しさが生じます。
 その上、真実は何かと考え、真実を相手にし、真実を語っていれば、真実と共に生きていることになり、「人生は、意味のあるすばらしいもの」となります。
 教えの下地になっているのは、菩薩道(ボサツドウ)を歩む者の戒律である三聚浄戒(サンジュジョウカイ)です。
 1 摂律儀戒(ショウリツギカイ)………戒めを守り一切の悪行を行わない
 2 摂善法戒(ショウゼンポウカイ)……進んで善行を行う
 3 摂衆生戒(ショウシュジョウカイ)…一切の衆生を教化(キョウケ)し、利益を与える

「一方で、現在とはいつのことか分析してみると、現在を見つけることはできません。
 私たちの人生の中で、今日という一日は24時間から成り立っていて、日中の時間は約15時間あり、今は午後4時40分ですから、5時まであと20分の時を刻んでいます。
 そして現在の1分も60秒に分割することができます。
 さらにその1秒も前後の部分から成り立っているので、たった1秒の間にも過去現在未来があるのです。
 現在を見つけることはできません。

 現在はどこにあるのでしょう?
 現在がなければ、時を過去未来に分割することもできません。
 どうすればいいのでしょうね?」


 法王は次に、(クウ)を説かれました。
 過去を考えている自分がいるという認識は事実であっても、考えの対象となっている過去そのものは一体、何なのか?
 仏道修行に欠かせない〈分析〉という作業をしてみると、過去だけでなく、未来も現在も、「これがそうだ」と見つけ出すことはできません。
 幻を手でつかもうとしてもつかめないのと同じく、確かでないものを相手に格闘する虚しい作業のみで毎日を過ごしても仕方がないのです。
 ただし、この「仕方がない」という真実が腑に落ちるためには、自分自身で〈分析〉をしてみる必要があります。

 その経過をたどらずに、過去にも現在にも未来にに無関心なのと、分析の結果、そうしたこだわりを持たず今を力強く生きるのとでは、天地の違いが出るからです。

 法王は、現実的心構えと、自分で分析してみるという仏教的態度と、二つの面から答えられました。
 きっと、お釈迦様もお大師様もそうだったのだろうと思えました。
 こうして、今年最後となる第58回目の寺子屋を無事、終えました。
 ご縁の方々へ深く感謝申しあげます。




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2014
06.02

過去も、未来もつかめない、現在すらも…… ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(36)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第6章 宇宙の法則 ―大宇宙の真実が語りかけるもの―

1 時間の概念

○独立した時間などない

「すべては変転し、常に一所に止まることがない。
 静止したものなど存在しない。
 それは自分自身の心の中に何かを思い描けばよくわかる。
 具体的に想起できるものはすべて、動いている現在という概念に乗っている。
 継続的に動いているから現在である。
 過去とは思い出、記憶でしかなく、未来とは想でしかない。
 両者はともに静止しているが、それらは感覚の世界に属している。」


 ありとあらゆるものは、変化の相にある。
 この世全体が無常であり、(クウ)である。
 私たちは山を眺めて、武田信玄の軍旗「動かざること山の如(ゴト)く」だなあ、などと思うが、実際は、山の表面で育ち、朽ちる植物や、生き死にする動物はもちろん、山を形成する大きな岩や土砂であっても必ずどこかが変化している。
 有名な鴨長明の『方丈記』を思い出すまでもない。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」

 私たちは「~川」として一本の川を表現するが、川に流れている水は一瞬たりとも、とどまりはせず、目の前を流れる水は一瞬前にあった水ではない。
 淀んだ部分に浮かぶ水の泡もまた、浮かんでは消え、また浮かんでは消えし、そこにあり続けはしない。
 世の中の人も家もまた、生まれては死に、死んでは生まれ、建てられては壊れ、また新しく建てられ、ずっと生きている人がいなければ、ずっと建ち続けている家もない。

 外を眺めるだけでなく、心の中を観ても同じである。
 目覚めて「朝がきた」と思う。
 それは、〈現在〉、そう思っているということである。
 お昼になれば、「ああ、お昼だ」と思う。
 それもまた、その〈現在〉に、そう思っているということである。
 朝も〈現在〉だったが、お昼になったも〈現在〉である。
 歯を磨き、顔を洗い、トイレへ行き、朝飯を食い、服装を整えて電車に乗り、職場へでかけ、仕事をしてきて12時を迎えるまで、そのように、その時点その時点の〈現在〉をずっと重ねてきて、の〈現在〉がある。
 つまり、〈現在〉は「継続的に動いている」のだ。
 現在、朝は「パンをかじっただけだった」と思い出すところにしか過去はなく、現在、「今夜はおちついて飯を食おう」と想するところにしか未来はない。
 つまり、過去といい、未来といっても、今現在、そう思われるだけであり、そうした時間をつかまえることもできないので、法王は「両者はともに静止しているが、それらは感覚の世界に属している」と説かれた。
  

「さらに、現在もまた感覚である。
 そのため、ここには乗り超えがたい矛盾が存在することになる。
 外的な基準によれば現在はなく、内的な基準によっても矛盾が生じる。
 不必要に話を混乱させることは避けよう。
 ただここでは、独立した時間などないということを知ればいい。」


 お昼になったので「今から昼飯を食おう」と考える間にも、今としてあるはずの〈現在〉は消えてゆき、食堂へゆこうとイスから立ち上がった時にはもう、はっきりと〈現在〉は別ものになっている。
 私たちは今という〈現在〉を生きていると思っているが、その今すらも、瞬間瞬間に、意識という見えない世界で生まれては消える感覚でしかない。
 このことを「現在もまた感覚である」と説かれた。

 外界のありとあらゆるものが変化し続け、固定した〈現在〉はどこにも見出せない。
 前段では、今朝や今夜といっても、〈現在〉に生ずる記憶や想であり、過去未来もつかまえどころがないことを知った。
 今度は、今という意識上の〈現在〉そのものも、どこにあるとも確定できないことを知った。
 つまり過去未来も、そして現在までもが、一瞬に一瞬に生まれては消える〈感覚〉なのである。
 こうした生と心の現実にあっては「独立した時間などない」と言うしかない。
 



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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2014
05.29

現在はあるのか?そして過去も、未来も…… ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(35)─

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〈『法楽の会』会員の方々など善男善女の願いをこめた護摩法を月も行いました〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第6章 宇宙の法則 ―大宇宙の真実が語りかけるもの―

1 時間の概念

○「現在」は、無限のかなたへ遠ざかる

「地球そのものの始まりについて述べる人たちがいる。
 何億年、何十億年という時間について。
 一切が空ならば、いったい時間とは何か。
 それそのものが自立した、独立した概念の時間など、そもそも存在しない。」


 それそのものとして単独で存在する時間はないという。
 常識からすればなかなか理解し難いが、順を追って読めば真意がわかる。。
 

「さわれわは往々にして、自然現象と時間の本質的な関係について語ったりする。
 それは、時間の概念などないということを無視しているからである。
 時間そのもの、独立した時間という概念を、他の概念から切り離して捉える方法など、存在するわけがないのである。」


 時間は、〈何ものか〉の〈経過〉としてしか、現実には現れ得ない。
 独立し、勝手に動く時間はどこにもない。

「すくなくとも何らかの基盤の設定なしには時間というものは成り立たない。
 時間とは、過去であり、現在であり、未来だと言う。
 だが、我々は現在という架空の時間を設定し、そこから便宜的に未来へ進み、あるいは過去へと遡行して、数えはじめることによって時間を使いうるにすぎない。」


 時間は、があり、過去があったはずであり、未来はやってくるだろうという形の中でのみ立ち現れる。
 たとえば、お年寄りが、たった、お昼ご飯を食べ終わり、薬を飲もうとする。
 あれ、朝は飲んだかな、と不安になって開けた薬袋から確かに一個、錠剤が減っているし、よく思い出してみると、確かに、味噌汁と一緒に飲んだような気がする。
 また、薬は二日分しか残っていないから、明日にでもお医者さんへ行こうと考える。
 過去そのものはもう、どこにもないが、過去があったはずだと、考えられるだけである。
 もちろん、まだ来ていない未来はどこにもないし、そもそも、自分が明日、生きていられるかどうかすら誰も約束してはくれないので、未来も又、来るはずだと、考えられるのみである。

「われわれが過去というとき、ある特定の限定された現在という瞬間に立って、すでに過ぎ去った時間を意味する。
 また、同じく特定の限定された現在に立って、未だ訪れていない時間を未来と呼ぶ。
 このことからわかるように、現在を固定しないかぎり、未来も過去もありえない。
 この特定の限定された現在こそが、時間の中心軸になる。」


 お昼の食事が終わり薬を飲もうとしている〈現在〉という瞬間に立ってこそ、薬を飲んだ記憶の中に〈過去〉を感じ、夕食後にまた薬を飲もうと予定するところに〈未来〉の到来が期待される。
 あくまでも〈現在〉があればこそ、現在、過去も未来も考えられる。
 1600年ほど前、アウグスティヌスは『告白』に記した。

「過去と未来は精神的構造物なので、〝現在の窓〟を通してしか見ることができない」

「では、現象論的に検討しよう。
 私がここで今『現在』と言ったとしても、その現在は、すでに私が『現在』と言い終わった瞬間には、過去になっているわけである。」


 過去と未来がたち現れるための基盤である「現在」そのものを考えてみると、基盤と言えないほどあやふやである。
 たとえば、こんな電話はどうだろう。
「ありがとう。
 せっかく誘ってもらったけど、私、今、遅い朝ご飯食べ終わったところだから、ごめんね」
 今と言っているが、お昼ご飯を誘う電話に出ている時点ではすでに、食べ終わった瞬間が属しているのは過去である。
 もちろん、食べ終わった状態は今も継続しているが、ここでは明らかに「さっき」と過去形で示すべき内容を「今」と言っている。
 私たちは無意識のうちに、「今」と言いつつ現在を過去へと流し、流れて行ったばかりの過去をまだ「今」と表現する。
 そして、文字どおりの「たった今」という瞬間は本当に「今」と言えるのだろうか?

「また、細部に立ち入れば、より明確になってくる。
 われわれは現在二十世紀にいる、と言うことができる。
 より限定すれば、1993年である。
 もっと限定しよう。
 現在は7月29日である。
 では、もっと詳しく述べれば、午後2時ごろだ。
 それも、インド時間の午後2時ごろである。
 午後2時ごろを正確に言い表すことができるはずだ。
 1時間は60分あるから、分の単位を使えばいい。
 まだまだ厳密に言えるはずだ。」


 これは、大谷幸三氏のインタビューを受けている時点のことである。
 法王は「今=現在」を厳密に限定しようとしている。

「秒もある。
 秒といえども細かく割ることができる。
 無限に限定の区分を小さくできるなら、では『現在』とは無限のかなたへと遠ざかる。
 捉えることができないのである。」


 こうして考えてみると「現在」はつかみようがない。
 時計の秒針を見つめながら、今と口早に言ってみたところで、秒針の動きが1秒に1目盛りなら、1秒の〈長さ〉を持つ時間は、今という〈瞬間〉であると言えるだろうか?

「すでにわかったはずだ。
 すべての時間は過去と未来に賊していることが。
 それら過去と未来は現在があってこそ存在しうるなら、いったい時間とは何か。
 要するに、時間によって存在する基準そのものが確たるものではありえない、ということだ。」


 どうしても「現在」はつかめず、私たちにとって〈長さ〉を持つ時間は、過去と未来の間にしかない。
 しかし一方で、過去も、未来も、現在という基盤からしかたち現れようがない。
 だから、法王は冒頭に言われた。
「それそのものが自立した、独立した概念の時間など、そもそも存在しない。」

 余談だが、私は子供の頃、遠足が待ち遠しかった。
 たった2日なのに、てるてる坊主を下げたりしながらも、実に長かった。
 一方で、テストの日はすぐにやってきた。
 遊びの間に詰め込みをやる2日はあっという間に過ぎ、慌ただしくテストに臨んだ。
 また、好きな人と会う約束の日はなかなかこなかった。
 カレンダーも時計も、意地悪くゆっくりと進んだ。
 それなのに、会っている時間は無情なまでに速かった。
 あの日々、あの時間は、本当に同じ長さだったのだろうか……。




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2013
09.29

稲刈りの続き

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 おかげさまにて絶好の日和となり、大枝邦良先生と藁科さんにリーダーとなっていただき、『法楽農園』の稲刈りは順調に進みました。
 はせ掛けした稲には、さっそく、鳥除けのヒモが回され、マネキンの首もかけられました。
 こうしておかないと、スズメなどのエサ場と化して収穫は半分になってしまうそうですから、鳥の数と旺盛な食欲は大したものです。

 男性5人、女性2人でやりましたが、まだ、3割ほど残っています。
 29日の予定は男性3人だけです。
 ご関心のある方は、たとえ1時間だけでも、お手伝いをお願いします。

 ハーベスタについては、いろいろなご意見やお励ましをいただき、感謝しています。
 きっと、解決できることでしょう。

 私たちは、一瞬、一瞬、「過去を背負い、未来を孕む」人生を歩んでいます。
 今をどう生きるかによって、いかなる過去をつくり、いかなる未来になるかが決まります。
 皆様のご多幸を祈っています。




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