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2016
09.15

家族はあの世でもまた家族 ─連なりの意識を考える─

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 ご葬儀の際、最後の法話までが導師の法務と心得、法話が終わり会場を後にしてから、喪主様のご挨拶となる流れが多かった。
 しかし、ある時、喪主のご挨拶後に導師の席を立つよう要請され、久方ぶりに座ったまま、お話を聴いた。
 内容には圧倒された。

「母はあの世へ旅立ちましたが、これで家族がなくなったわけではありません。
 母は私たちより一歩先にこの世から離れただけのことです。
 やがて私たちも次々に行くので、またを結び、あの世で楽しく暮らしたいと思います。
 その日のために、この世で導いてもらったとおり、あの世から見ている母に恥ずかしくない生き方をしようと思っています。」

 この方が仏教徒かどうかは知らないが、ご一家はキリスト教徒でなく、生前の故人共々、当山の法務に納得して墓地を求め、仏教によるお別れをされた。
 これまで幾度か、お会いした印象からすれば、喪主様の言葉は特殊なドグマなどを信じてのお話ではなく、自然な感覚をそのまま口にされたのであろうと思う。
 要は、人は死んでも無にならず何かが残り、この世で家族となった縁は、家族の死によって消えないと感じておられるのだ。
 だからこそ、お墓を造り、お参りをする。
 親の導きや戒めは、親が亡くなれば消えるのではない。
 新たに与えられることはなくなるので、子供としてはいっそう、大切にして行かねばならないものとなる。

 人倫とはこのことの謂いではなかろうか。
 白川静著『字通』によれば、「侖は相次第して、全体が一の秩序をなす状態のもの」である。
 また、「輩(トモガラ)」であり、「道」でもある。
 だから「倫」は一字だけで人倫を意味する。
 とすれば、人倫の根本には〈連なりの意識〉がなければならない。

 さて、9月14日付の産経新聞は「特権階級が社会を牛耳る」と題して、中国の農村部で根付く読書無用論について書いた。

「『勉強する必要はない』という『読書無用論』は、農村部を中心に今も大きな支持を得ている。
 中国青年報が2014年、四川省の雲郷雍村で行った調査では、村の262世帯の約4割に当たる106世帯が子供を学校に行かせる必要はないと考えていた。
『字を知らなくても金は稼げる』『教育費が高すぎる』などの理由からだという。」


 この風潮は悪名高い毛沢東の文化大革命から広まった。

「最高指導者の毛沢東自身が読書家であるにもかかわらず知識人を嫌い、68年には小中学校を含めて『授業を中止して全身全霊で革命に尽くせ』と呼びかけた。」


 人々から、ものごとを鵜呑みにせず自分で考える力を奪い、一つの思想で染めて統治しやすくした。

「文革期の読書無用論は、党中央が推進する政策や、党幹部の特権などに異論を差し挟む知識人を打倒し、物事を考える力を奪う『愚民政策』の一環だったと指摘される。
 現代の農村部とは事情が異なるように思えるが、『本質は全く同じだ』との指摘もある。
 『文革期、中国を動かしたのは優秀な人材ではなく、特権を持った人々だった』。
 北京のある文化人はそう前置きした上で、次のように語った。
 『最近は、元高官の二世などの特権階級に社会が再び牛耳られるようになった。
 庶民は努力しても報われることが極端に少なくなった。
 特に農村部の保護者たちは、子供に勉強させること自体がバカらしくなっている』。」


 このとおりだとすれば、中国の指導部は、国民を二分しようとしていることになる。
 特権階級と、それ以外の人々だ。
 文化大革命では分断策により、家族関係や師弟関係などを問わず凄まじい密告・暴力・虐待・殺人などが起こっただけでなく、暴風がおさまった後も、被害者の自殺、加害者の罪悪感、生き残った人々のPTSD(心的外傷後ストレス障害)など、広汎な人間性の破壊が行われた。
 明らかに、〈連なりの意識〉が家庭からも、社会からも奪われたのだ。

 ひるがえって日本を眺めてみればどうか?
 確かに「」が叫ばれてはいる。
 しかし、それは主として空間的に、言わば〈横に広がるもの〉として、とらえられているように思われる。 
 手をつなぐ意識である。
 無論、それはそれで結構だ。
 しかし、私たちの文化はそもそも時間的に、言わば〈縦に連なるもの〉として紡がれてきたのではなかったか?
 お祭りなどの行事であれ、学問であれ、技術であれ、各種の芸能であれ、もちろん宗教であれ。
 そして、神棚も仏壇もお墓も、特に言挙(コトア)げするまでもなく、切れるはずのないを象徴するものだった。
 江戸時代までは、こうした空間的なと時間的なのバランスがよかったのではなかろうか?
 そこを見抜いたからこそ、故杉浦日向子はこう言ったのではなかったか?

「江戸時代は、自分と他者の境界線がものすごく曖昧で、融通し合っていた。
 その辺から、パワーなり、エネルギーなりが生まれていた。」
「250年続いた泰平の世は、言うならば、低生産、低消費、低成長の長期安定社会。」


 時間的に縦に連なるものに懸ける者同士として、空間的に横に連なるのは当然であり、そこに文化の創造性があると説いたのが故三島由紀夫だった。
 彼はたった一人で東大へ出かけ、約千人の学生を相手に2時間、討論した。
 議論の中心は時間と空間の問題だったように思われる。

 個人主義が膨れ上がり、極端な消費社会になり、緊張と不安と競争に明け暮れる私たちは、〈連なりの意識〉を忘れつつあるのではなかろうか?
 横にを求める一方で、家族や先祖などとの自ずから与えられている縦の絆を、あまりにも脇へ追いやってきたのではなかろうか?
 冒頭に挙げた喪主様の言葉には、風潮に流されない人、自然に絆を育ててきた人の明晰で強靱な自覚がある。
 救われている方に救われる思いだった。
 そうそう、今後はなるべく喪主様のご挨拶をお聴きしてから退場しようと思う。合掌




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2016
07.27

江戸時代の懺悔 ─暴力事件の温床は?─

2016-07-27-0001.jpg

 ふと、思いついて杉浦日向子の『百物語』を繙(ヒモト)いた。
 江戸時代の不思議話をあつめたマンガである。
 第十三話はこうだった。

 ある夜、男が目覚めると、囲炉裏(イロリ)を囲み、男女を相手に尼僧が懺悔話をしていた。
 尼僧は昔、独りっ子で、村の裕福な夫婦に育てられていたが、15、6才になる頃、妻の方が病気になったという。
 夫とこの娘を枕元に呼んだ妻は、自分の亡き後、夫の後添いになってくれと娘に頼んだ。
 夫も娘も、そんな気弱なことを言わずに養生して、早くよくなって欲しいと応じた。

 ある日の夕暮れ、妻は、調子がよいので近くの観音様をお詣りしたいと言い、娘は背負って千手観音様へお詣りさせた。
 帰宅したところ、背中で眠っていたはずの妻は息絶えていた。
 死んだ妻は背中から降ろそうとしてもなかなか離れず、数日かけてようやく娘から引きはがした。
 娘の肩には、妻が後からおぶさった時につかんだ指の痕が痣(アザ)となり、くっきりと残っていた。
 娘は菩提心(ボダイシン)を起こし、尼僧となった。

 この娘は気立ても器量もよかったのだろう。
 夫婦共々、手塩にかけて育てたのだろう。
 もちろん、主人との性的関係などなかったのだろう。
 だからこそ、寝付いてしまった妻は、自分の死後、夫の面倒をみて欲しいと願った。

 それでもなお、死に行く妻は、溌剌とした娘に嫉妬しないではいられなかった。
 娘の肩に残った痣は、夫を頼むという思いと、狂ってしまいそうな嫉妬と、両方を物語っていた。
 それに気づいた娘はどうしても、そのまま主人の後添えにはなれず、母親代わりだった人の菩提(ボダイ)を弔うために出家するしかなかった。
 これは『尼君ざんげの話』と題されている。
 
 あたらめて江戸の文化が持つ深みを感じ、できごとと話の全体が、まるで作者の体験であるかのような臨場感に参ってしまった。
 一番のポイントは、懺悔という点にある。
 もちろん、娘が主人の妻に対して懺悔しているのだろうが、夫婦へ懸命に尽くし、不倫などの悪行もはたらいていないのになぜ、懺悔せねばならないのだろうか?

「自分に悪いことをする意思はないし、悪いことをしてもいないのだから、そういう自分に対して誰かがいかなる気持を持とうが〈自分の責任ではない〉、〈自分には関係ない〉」
 こうした現代的な考え方とは、天と地ほどにかけ離れている。
 相手の気持は自分との関係において生じたのだから、嫉妬が起こったという現実に対する責任の一端は自分にもあるという〈感覚〉は、何とも奥ゆかしく、溜息が出る思いである。

 若い人や元気な人は、お年寄りや病人に対して〈な〉存在と成り得る。
 富や権力や名声や才能などを持っている人は、持っていない人に対して〈な〉存在と成り得る。
 そして、このようにはたらく人間の心理に無頓着であることこそ、人間が〈な〉存在である証ではないか?
 無頓着は無慈悲に限りなく近い。
 そして、人知れず膨張しているこの〈〉が、世界中に蔓延する不可解な暴力的行為の温床となりつつあるのではないか?

 ようやく、書棚から『百物語』を探し出した意味がわかった。
 幕末から明治維新以降の〈力こぶ〉に過大な理想を見出し、夜郎自大(ヤロウジダイ)的な誇りを持つよりも、懺悔忖度(ソンタク)といった高尚で繊細な精神活動が庶民にまで及んでいた江戸の空気を思い出したいものである。




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2011
10.15

狼の眉毛(その2)

 かつて、故杉浦日向子氏の傑作『狼の眉毛の話』について書きました。
 最近また、この物語がひんぱんに思い出されてなりません。

 うだつが上がらず、いつも女房から「穀潰し、能無し」と罵られている男が、いっそオオカミの餌食になってしまおうと留守中の巣に入っていたところ、戻ったオオカミから「人間臭くて食えない」と追い出されます。
 その時、「眉毛を一筋やるから、町の辻でそれをかざし、世の中をよく見て退屈しのぎをせよ」と眉毛を持たされました。
 やってみると、世の中は化けものだらけで、真人間は自分と乞食だけです。
 こんな世間じゃ自分が出世できないのは当たり前と気づいたところへ、いつものように「どこをほっつき歩いていたの!」と悪態をつきながら女房がやってきますが、これもまた鳥の化けものです。
 相手は化けものなので、うまくやれないのは当たり前と悟った男は、眉毛を乞食へ渡し、女房と連れだって家へ向かいます。

 とても含蓄の多い佳作ですが、〈狼の眉毛〉には危険性も潜在しています。
 この場合は、世間的価値判断を離れてみる、人間の我欲を観るといった能力が付与されていますが、〈自分が観たいように世の中や人間を観る〉可能性もあるということです。
 たとえば、斜に構えるタイプの方は、鋭い批判力を持っていても、人望を得にくかったりします。
 多くの人びとがとらない姿勢で世間へ対してみると、世間の様子や人間の本心が、普段とは異なった明暗の中に浮かび上がってきたりします。
 そして鋭い舌鋒で話し、妥協しない姿勢がとられる一方、自分が信じる正義を実現するために最も大切なはずの人徳を磨くことが忘れ去られたりもします。

 断食で死のうとして失敗した記録を綴った『死にたい老人』という本が売れているそうです。
 作者は自分をC級の人間と位置づけ、世間の指導者層であるA級の人間への不信を募らせていますが、これもまた、自分なりの〈狼の眉毛〉を持っているという信念なのでしょう。

 かつて、古代ペルシャのゼミール王が、即位と同時に人類の歴史を編纂しようと思い立ちました。
 学者たちが総動員され、半世紀もの長い間かかって精緻な人類史の結論が出ました。

「人は生まれ、人は苦しみ、人は死ぬ」


 釈尊は、ありとあらゆる思想哲学を研究し、ありとあらゆる難行苦行を行い、人間の根源的なありようを確信しました。

「人間もこの世もままならぬ苦にあり、苦には煩悩(ボンノウ)という原因があり、煩悩を根幹の無明(ムミョウ)から退治すれば苦はなくなり、退治するには確かな方法がある」


 愚かな男が、〈狼の眉毛〉を手放し、愚かしい妻と連れだって家へ向かうところに、『狼の眉毛の話』が持つ大切なポイントを感じます。
 いったん〈狼の眉毛〉をかざし、新たな視点でいつものとらわれから離れてみるのは一段のレベルアップ。
 そして、〈狼の眉毛〉を手放し、清々しい気持で日常生活を取り戻すことが、もう一段のレベルアップなのではないでしょうか。
 夫婦の和解をさせたもの、それは何なのか──。
 よくよく考えてみたいものです。

20111012 02022



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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
09.16

子供たちにはかなわない(その3)

 長田弘著『202人の子供たち こどもの詩2004-2009』より。

あなだらけのキャベツ 森山翔太(兵庫県高砂市・小4)

おじいさんが つくったやさいは
ピカピカで どれもおいしい
でもキャベツは あなだらけ
お母さんが「あながあるのは
おいしいしょうこ 虫もおいしい
やさいがわかるのよ」と言った
ぼくは虫はすごいなと思った

 おじいさんの野菜をピカピカと思いながら育った子どもは、成長してもお年寄りを粗末にしないはずです。
 大人は「虫はすごい」を忘れつつあります。

夜の雲 高津光希(大津市・小)

ぼくがくもをながめていると
トラがカニをおそい
せんしゃとピストルで
せんそうをしていた
きょ大な鳥にのっている
きしが
ドラゴンをたおしていた

 子どもの想像力には脱帽です。
 私たちも子どものころはこうした豊かな世界を持っていたはずなのに……。

けんか 中村風太(茨城県常陸大宮市・小5)

言葉の意味調べ十九問
ものしり国語辞典君登場
いろいろ書いてある
あ おもしろい読み方発見
おー こんな意味だったのか
脱線につぐ脱線
時点で遊べるって知った

 「脱線」のおもしろさを知った子どもは、うるさく言われなくても宿題をこなすことでしょう。

シャーペンの芯が 渋谷愛(茨城県常陸大宮市・小5)

友だちの家で宿題をしていた
急に芯がパキッと折れた
瞬間 時間が止まった
変な緊張感
何もしゃべらないで
目だけでの会話
不思議な感覚だけ残った

 心次第で、日常的に流れている時間は止まったり速さを変えたりします。
 それは自分の心がもたらす場合もあり、ふとしたできごとに〈自分〉を奪われた場合もあります。
 空間的に、世界が裂けたり凍ったりするように感じられもします。
「不思議な感覚」は、立派な詩人の感覚です。

プリン 大武日文(山形県白鷹町・小5)

母は弟が生まれない時から
3こ入りのものを二つ買ってきた
姉と私でけんかにならないように
でも3人姉弟になってから
3こ入りのものは一つしか
買ってこなくなった
母の知恵おそるべし

 「母の知恵おそるべし」には、暖かなユーモアがあります。「3」と「二」と「一」の使い分けも巧みです。

杉浦日向子百物語』より〉
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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2005
08.08

狼の眉毛

 杉浦日向子さんの『百物語』に「狼の眉毛の話」があります。

「人には騙され、女には侮られ、女房には軽んじられ、商いは損ばかり」という愚かな男が、ある日、女房に痛罵され、家を出ました。
 自分は何の役にも立たないのだから、せめて狼の餌になろうと狼の巣で寝ころび、食べられるのを待っていました。
 ところが、帰った狼は「臭い真人間など食べないから帰れ」と、とりあいません。
 そして、眉毛を一筋やるから、町の辻でそれをかざし、世の中をよく見て退屈しのぎをせよと追い返しました。
 しかたなく町へ戻った男が狼の言ったとおりにして眺めれば、どの人もこの人もみな化け物だらけです。
 そして、真人間は自分とコモを被った乞食だけであることを知りました。
「こんな世間では、出世出来なくても当たり前だ」
 そこへ、どこをほっつき歩いていたのかと悪態をつきながら女房がやってきます。
 もちろん本性は人間ではなく、鳥の化け物です。
 男は、こんなやつとはうまくやれなくても当たり前だと悟り、狼からもらった眉毛を乞食へ渡し、妻と連れだって家へ向かいました。

 作者は、他の物語と同じように「不思議ではあるけれど、あっても当たり前のできごと」といった筆致で十六コマを埋めています。しかし、その内容たるや驚嘆すべきものと言わざるをえません。

 釈尊は、ウサギであった前世に、聖者をもてなす供え物を準備できないので我が身を捧げようと火へ飛び込んだそうですが、いのちを捧げるのは布施の極みです。
 世間の役に立たない男がそれを為そうとしたことには、汲みつくせない意味合いが含まれています。

 狼が真人間は臭くて食えぬと言うのも逆説的です。
 真人間以外は、生肉を喰らい生き血をすする狼と同類なのでしょう。

 狼の眉毛が真人間と迷妄の闇に棲む人間とを見分けるという発想にも脱帽しました。
 狼は自分のいのちがかかっているし、自然の摂理に従って生きているので、いのちを養う餌とそうでないものとをきちっと見分けられますが、生きるという根源を忘れた人間や我がまま勝手な人間には、真人間とそうでない人間とを区別する能力がないということなのでしょう。

 そして、極めつきは、悟った男が黙って「穀潰し、能無し」とわめく女房の元へ帰る姿です。
 見た目は家を出た時とほとんど同じですが、心はまったく違うはずです。
 ただうなだれ自身が持てないダメ男ではなく、何を言われようと、どう罵られようと、〈真人間として生きられない〉妻や周囲の人々への〈諦めを伴った優しさを持っている真人間〉として生きて行くことででしょう。

 作者は、こう言いたかったのではないでしょうか。
「気づきにくいかも知れないけれども、こういう人って貴方のそばにもきっといるはずですよ」




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