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2015
04.22

お母さんは何でしょう? ―教育について―

201504220001.jpg

 作家柳田邦男氏は、評論『言葉が立ち上がる時』に「関係性喪失の病」を書いている。
 ある知的発達に遅れのある少女が医師のテストを受けた。
「お父さんは男です。
 では、お母さんは何でしょう」
 少女は答えた。
「お母さんは大好きです!」

 このエピソードを思い出すたびに、さまざまな光景がよみがえってくる。
 最近では、仙台市の霊園で両脇を抱えられた障害者に会った。
 両腕を左右から若い女性スタッフに支えられた50前後の女性が大きな造花を手で振り回しながら、歌を唄っているかのように口を開けて歩いてくる。
 誰か身内のお墓参りをしたのか、それとも、五月晴れと言いたくなる陽気なので、スタッフが散歩に連れ出したのか。
 車を運転してすれ違う一瞬では無表情としか見えなかったが、決して大きくない身ぶり手ぶりは、クルクル回る白い菊花とあいまって、心中の踊りを感じさせた。

 驚いたのは、左右の二人にも同じような印象を受けたことである。
 女性は黄色のジャンパーに白いスカート、二人は、ほとんど印象に残らない地味な色合いのジーパン姿。
 しかし、三人は明らかに心中の踊りを共有しつつ、霊園を出ようとしていた。
 おまりできてよかった、なのか、いいお天気だね、なのか、中身はわからない。
 ただ、三つのいのちが一つのメロディを奏でていたことだけは確かに思えた。

 さて、冒頭のできごとである。
 少女の答は、○か×かのテストでは当然、×とされる。
 知的問題があることの証拠ともなろう。
 しかし、少女の心のありようとしてはどうか。
 母親に守られているという大きな安心感の中で暮らしているものと想像できる。
 もちろん、母親の心中はとうてい偲びきれないが、少なくとも少女にとっての母親は観音様そのものではないか。
 ならば、テストでは×であっても、少女の暮らしそのものは花丸がつけられるべきだろう。
 柳田邦男氏はこう評した。
「女の子は知識より大事な真実を答えたのである。」
 そして、○か×かと分ける知識にばかり傾きがちな学校教育を、「生活やいのちの本質にかかわる関係性の大切さ」を教える方向へ向けて欲しいと指摘する。

 今、少子化や、大卒者の一年以内の離職率が3割超という状況にあって人手不足に悩む企業は、社員教育に乗り出している。
 企業への帰属意識を高め、やる気を出させるために皆で山登りをするなどの方策がとられている。
 一方では、社員一人一人の〈状態〉をしっかり把握し、複数の部署でその〈情報〉を共有し合い、一人一人に適した教育を行いつつある。

 日本は、いわば〈教育力〉によってここまで来た。
 物理的には小国であっても、侮られない国家としての歩みを続けてきた。
 これからも、繊細さを失わない教育によって、一人一人のいのちが生かされる国でありたい。
 ゆめゆめ、〈不要者〉を切り捨て、人間を便利な〈道具〉扱いすることのない国でありたい。

○今日から3日間、出張となります。
 次回のブログは2、3日後となるかも知れません。
 また、お会いしましょう。




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2015
03.23

樹木からの呼びかけ ―「まだいるからね」―

20150323000122.jpg

 作家柳田邦男氏の次男洋二郎氏は、自死する一年ほど前、日記にこう書いていた。

「ぼくは行きの電車で、孤独な自分を励ますかのように、『樹木』が人為的な創造物の間から『まだいるからね』と声を発するかのように、その緑の光を世界に向け発しているのを感じた。」


 邦男氏はこの件について後日、書いた。

「重い病気を背負っている人や死を間近に察知している人は、他者の内面を鋭く読み取ってしまうばかりか、自然界の山や森や木々の語りかけまでも、霊感的に聴き取ってしまう。」

洋二郎は最後には、死への旋回をしてしまった。
 心の病は本当に難しい。
 それでも私は、今なお洋二郎の心に『まだいるからね』という言葉を感じさせた『樹木の緑の光の力』を信じている。
 あれは忘れられない福院の時間だった。
 あの言葉を語った洋二郎は、今では再生した姿で私の心の中で生きている。
 そして、そういう時間があったことは、私を絶望のクレバスに転落させない歯止めの一つになっている。」


 決して忘れられないフレーズである。
「まだいるからね」
「まだ」「いる」とは、避けられない死へ向かっているが、今はまだ、〈猶与〉の時間内で生きているという意味である。
 そして「ね」はたった一文字なのに、発信、語りかけ、思いやり、つながり、など決定的な意味を含んでいる。
 この「ね」を感得した洋二郎氏の心に、同士の発見、悲嘆と勇気の共有、奇跡的救済、など、生きる方向へと向かわせる力が生じたことは想像に難くない。

 それにしても「いる」とは何と悲痛な言葉だろう。
 ビルなど無機質で「人為的な創造物」たちに占領された空間で、ようやく息をついている。
 それも〈滅び行く抵抗者〉として。
 はかなく、勝利のあり得ない抵抗……。
 あまりにも切なく、哀しい悲嘆を帯びていっそう鮮烈に輝く「緑の光」は、洋二郎氏の心から、深い共感、共鳴を呼び起こした。
 共感、共鳴が邦男氏の言う「福音」だろう。
 逝った子供にとって、だけでなく悼む親にとっても。

 惨状と悲嘆に満ちているかのようなこの世界が発している慈光と福音を見聞きする心こそ、仏教徒の目ざすものである。
 惨状と悲嘆が〈見捨てられぬ〉という慈悲の思いを起こさせる。
 思いを抱いて離さぬ者は智慧が動き、実現する方法すなわち方便を必ず見つけ、実践する。
 この慈悲智慧による救済者こそ菩薩(ボサツ)である。

 洋二郎氏はまぎれもなく、菩薩道の入り口に立っていた。
 あと少し自力の回復があれば、〈方便〉へと進めたことだろう。
 邦男氏が「絶望のクレバスに転落」せずに済んでいるのは、洋二郎氏の「再生した姿」が菩薩の光を帯びているからに違いない。

 ちなみに『大日如来讃歎経』は説く。

「宇宙の真理象徴(シメ)すなる○大日如来の働きは○人や獣をはじめとし○山川草木一切が○生命(イノチ)を燃やし活動す○その姿にぞ証(アカ)される」

「われら衆生(シュジョウ)が自らの○心の実相(スガタ)知るならば○この世のすべての存在が○共に一つの生命(セイメイ)を○生きていること悟られて○宇宙の生命(イノチ)を自らの○生命(イノチ)としてぞ生きること○そこにこの世の一切が○大日如来の現象(アラワレ)と○捉える曼陀羅(マンダラ)精神の○教えの根本(モト)を見出さん」

大日如来の真言を○至心に念誦(ネンジュ)するならば○大宇宙との一体の○神秘な境地が現れて○自我の意識(ココロ)が消滅し○宇宙の中に生を得し○われらの実相(スガタ)気づかされ○一切衆生(シュジョウ)に平等の○生命(イノチ)と価値を授けらる○大日如来の深秘(ジンピ)なる○慈悲の心の存在と○その加持力(カジリキ)を感得す」


 常に「緑の光」を感じつつ生きることができれば、もう、大日如来の世界の住人であると言えよう。
 洋二郎氏の御霊があの世でそうなっておられるよう祈りたい。




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2010
03.23

哀しみは人をつくる

 柳田邦男氏は、とても大切な指摘をしています。

「根元的な意味での『悲嘆癒し』とは、哀しみを消すのではなく、むしろ哀しみを土壌にして、新しい『生きていく自分』、あるいは新しい『自己イメージ』をつくる仕事であってみれば、どこかで自分が、受け身にでなく主体的に、何かに向かって一歩を踏み出さなければならない時期がやって来る」


 こうして瞳の光が深くなり、笑顔に柔らかさが増し、心に納まりがついて家族・肉親・友人などのから立ち直る方々を幾人となく目にしてきた身としては、まったく同感と言うしかありません。

 母親を亡くした方が、親から受けた恩をようやく実感し、懺悔し、供養をします。
 妻を亡くした方が、よろける身を立て直し立て直ししているうちに、静かにまっすぐ生きてゆくようになります。
 子供を亡くした方が、悲嘆の涙を流し流した末に、笑顔で無常を話すようになります。

 悲嘆が霊性を深め、高め、清め、磨いたのでしょう。
 こうしたプロセスに立ち会っていると、「成功よりも失敗が人間をつくる」といわれている意味が解ります。

 しかし、中には、を簡単に放り出す方もおられます。
 あるいはへ歪んだイメージを持ち、忌避し、いわれのないタブーに怯えるあまり恩も愛も忘れ、自己保身のつもりが自己溶解や自己破壊になってしまう方もおられます。
 こうした無視や逃げや曲解は決して人をつくりません。
 生きものとしての人間にとって、誕生と並んで最も厳粛なできごとであるは、いつしか「何かに向かって一歩を踏み出さ」せ、やがて〈深いふるまい〉をもたらします。
 きっとその時、私たちは、たとえ無意識にではあっても無常を悟り、(クウ)を悟り、そうした真実をふまえて生きるようになっているのでしょう。

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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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