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2016
03.20

漢文『法句経』を読んでみる(その3)

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 寺院や寺子屋ではもちろん、戦前まで広く親しまれていた漢文の『法句経 (ホックキョウ)』を読んでみましょう。
 戦場へ赴く若者が懐へ忍ばせていたという話も聴いています。
 当山では、寺子屋やNHKの講座で読み通しており、学びの柱として欠かせません。
 小生の土台はこの教えによってつくられました。
 どれか一句でも、皆さんの心へピンと届くものがあればありがたいことです。
 新たになった読み下し文を意訳してみましょう。 (「新国訳大蔵経」によります)

 前回に続き【無常品(ムジョウホン)第一】 です。

〔二一〕此(コ)れを知りて能(ヨ)く自(オノズカ)ら静め、是(カク)の如(ゴト)く生(セイ)の尽くるを見て、比丘(ビク)は魔兵(マヒョウ)を厭(イト)いて、生死(ショウジ)より度するを得(う)。


(無常を知って心を静め、生じたものは必ず滅するという真実を見極めて、行者は魔ものの兵士たちを制圧し、生まれては死ぬ迷いの世界から脱することができる)

 これより【教学品(キョウガクホン)第二】へ入ります。

・教学品(キョウガクホン)とは、導くに行う所を以(モッ)てし、己(オノレ)の愚闇(グアン)を釈して道(ドウ)の明らかなるを見ることを得しむ。


(教学品においては、行動の規範を示して導き、自分が愚かで智慧の明かりがない状態であることに気づかせ、教えが智慧の明かりであると理解させるものである)

〔二二〕咄(トツ)哉(カナ)何(ナン)ぞ寐(ビ)を為(ナ)さん。螉(オウ)、螺(ラ)、蚌(ボウ)、蠹(トウ)の類(タグイ)、隠弊(インペイ)するに不浄を以(モッ)てし、迷惑して身(シン)為(タ)りと計(ケ)す。


(こら、起きよ、なぜ惰眠を貪っているのか。ジガバチ・タニシ・ドブガイ・木喰い虫のような者たちよ。不浄なものに覆われているというのに、迷い惑ってそこに我が身があると考えているとは何と愚かなことか)

〔二三〕焉(イズク)んぞ、斫創(シャクソウ)を被(コウム)り、心、疾痛(シッツウ)に嬰(カカ)るが如(ゴト)くにして、衆(モロモロ)の厄難に遘(ア)うに、反(カエ)って用(モッ)て眠るを為(ナ)すこと有(ア)らんや。


(まるで刀傷を受けたように心は病み、痛み、さまざまな災厄や難事に遭遇しているのにもかかわらず、眠りこけているなど何たることか)

〔二四〕思いて放逸(ホウイツ)ならず、仁(ジン)を為(ナ)し、仁(ジン)の迹(アト)を学べば、是(コ)れに従(ヨ)りて憂い有ること無く、常に念じて自(ミズカ)ら意を滅す。


(よく考えて気ままに走らず、他者を思いやり、慈しみ、そうした人々の行跡を学べば、憂いは無くなり、いつも正しい道へ思念を集中して自ずから波立つ心の動きを滅することができる)

〔二五〕正見(ショウケン)にして、学び務めて増やさば、是(コ)れを世間の明(ミョウ)と為(な)す。所生(ショショウ)の福千倍し、終(ツイ)に悪道(アクドウ)に堕せず。


(正しい見解を持ち、学んで増やせば、それが世間を導く灯火となる。いかなる場所に生まれようと福徳は無限に膨らみ、決して地獄・餓鬼・畜生の世界へ堕ちはしない)

〔二六〕小道(ショウドウ)を学びて、以(モッ)て邪見(ジャケン)を信ずること莫(ナ)かれ。放蕩(ホウトウ)を習いて、欲意(ヨクイ)を増さしむること莫(ナ)かれ。


(卑小で誤った道を学び、邪な見解を信じてはならない。気ままな生き方を習い性として我欲を増やしてはならない)

〔二七〕善(ヨ)く法を修し行じて、学誦(ガクジュ)して犯すこと莫(ナ)かれ。道(ドウ)を行ずるに憂い無く、世世(セセ)に常に安(ヤス)し。


(正しく真理の教えを修め実践し、学び、唱えて、決まりに反することを行ってはならない。教えの道を実践する者はいかに輪廻転生を繰り返そうと、心は平安である)

〔二八〕敏(ツト)め学)びて身を摂(セッ)し、常に思(シ)と言(ゲン)とを慎めば、是(コ)れ不死に到る。行(ギョウ)滅すれば、安らぎを得(ウ)。


(よく学んで身体の行動を慎み、常に思念と言葉を慎めば、生死の迷いを超えた境地へ達する。生じ、滅するものに惑わされなくなれば、永遠の安らぎが得られる)

〔二九〕務めに非ざれば学ぶこと勿(ナ)かれ。是(コ)れ務めなれば宜(ヨロ)しく行ずべし。已(スデ)に念ず可(ベ)きを知らば、則ち漏(ロ)は滅することを得(ウ)。


行者としての務めでないことを学んではならない。務めならばしっかり実践せよ。心へ保っておくべきことを知り尽くせば、煩悩は消滅する)

〔三〇〕法を見て身(ミズカ)らを利すれば、夫(ソ)れ善方(ゼンポウ)に到る。利を知りて健(タケ)く行ず、是(コ)れを賢明(ケンメイ)と謂(イ)う。


(真理をつかんで自分の血肉にすれば、悟りの境地へ至る。その価値を知って果敢に修行するのが、賢く、智慧の明かりを持った者である)




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
01.15

厄除祈祷について ─悪業の滅し方─

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 そもそも、悪いできごとは、悪い原因があって起こります。
 因果応報です。
 悪い原因とは、時間に対してかかわってくる〈悪い影響力〉であり、それを悪業(アクゴウ)と言います。
 この悪業は悪行(アクギョウ)によって生じます。
 では、悪行は何によって生ずるか?
 誤ったものの観方です。
 だからお釈迦様は、正しい修行道である「八正道(ハッショウドウ)」の第一番目として「正見(ショウケン…正しい見解)」を説かれました。
 
 正しい見解とは、何よりもまず、ありのままに観ることですが、この〈ありのまま〉が問題です。
 たとえば、私たちは優しい言葉をかけられて喜び、貶(ケナ)されて怒ります。
 優しい人にはまた、そうしてもらいたいと思い、酷い人の顔は二度と見たくなくなります。
 これが煩悩(ボンノウ)の「好(コウ)」と「悪(オ)」です。
 自分の都合で相手を分類しており、〈ありのまま〉から離れています。

 また、この時点で、優しい人も、酷い人も、そして自分も〈このままずっと生きている〉という前提が置かれています。
 ところが、この前提は、真理でありません。
 私たちは、身体と心を形成するさまざまな要素がたまたま、うまくまとまっているから〈ある特定の人〉として生きているだけです。
 もしも脳溢血や心筋梗塞が起これば、あるいは交通事故に遭えば、あっという間にこの世を去って何の不思議もありません。
 自分の明日のいのちすらどうなるかわからないのです。
 また、脳裏に思い浮かべる優しい人Aさんや酷い人Bさんはたった今、この世のどこかで確実に生きているとは限りません。

 こうした存在のありようを根本から考えてみれば、すべては因と縁によって仮そめに成り立っている空(クウ)なるものとして平等です。
 優しい人も酷い人も自分も。
 み仏に通じる〈平等の眼〉には、誰しもが幸福を望み、不幸を厭うという平等も観えてきます。
 ここまで来れば、ようやく正しい見解になりつつあると言えましょう。

 その結果、自分と周囲を固定したものとしてとらえ、執着心がさまざまにはたらいて「好(コウ)」や「悪(オ)」や無関心である「平(ヘイ)」となる煩悩(ボンノウ)が動きにくくなります。
 また、誤ったものの観方がなくなれば、それを原因として生じていた悪行は行われなくなります。
 そして、悪行の結果として生じた悪業が引き起こした問題へも根本的な対応ができるようにもなるのです。
 これが因縁解脱(インネンゲダツ)に至る道筋の一つです。

 ところが、〝そうか!〟とわかっても、これまでに染みついた正しくない見解とそれに馴染んだ反応の仕方は容易に消せません。 だから仏神へ祈ります。
 合掌をして。
 左手の自分が右手のご本尊様と一体になった感触が、古い見解と習慣を消す力となります。ご加護が降りるのです。
 当山が行う春祭厄除千枚護摩祈祷は、運気の流れによって正しい見解がはたらきにくくなり、〈厄〉が生じるところをご本尊様のご加護で動かし、皆さんの運が開けるよう祈るものです。
 祈り、守本尊様のお導きで正しい見解となり、悪業を滅していただきたいと願っています。




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2013
04.08

人を憎む自分に悩んでいます ─「マイベストプロ宮城」主宰春のセミナーでのお話─

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 4月10日午後2時より、河北新報社1Fホールにて、「自己中心を離れ共に幸せと安心を」と題する講演を行います。
 主宰は「マイベストプロ宮城」さんです。

 自己中心的な性向の強い人は周囲の人々にとって困り者であり、自分も気づいていながらどうしようもなかったりします。
 どうにかしようとしているうちはまだましですが、居直ってしまうと、軋轢の絶えない生涯になってしまいます。
 そもそも、わたしたちは、強度にちがいはあれど、誰でも自己中心的な志向を持っています。
 互いに肘を張り壁を作り、ともすれば周囲から奪おうとするので、誰にとってもこの世はままなりません。
 お釈迦様は、それを端的に「苦」と説かれました。
 
 この自己中心的な姿勢はどこから来るか?
 一つは、生きものとしての〈生きたい〉という欲求です。
 もう一つは、自分と世の中を観る視点のかんちがいです。

 一番目の問題は、それ自体をなくす方法はなく、人間がけだものとは違う尊さを発揮して抑えるしかありません。
 たとえば、3月3日、猛吹雪の北海道湧別町で、9才の娘を助けようとして覆い被さり、娘を守ったまま凍死した状態で発見された父親(53才)は、親子すら殺し合う時代に生きる私たちへ大きなものを突きつけました。
 太平洋戦争の激戦地を生き抜いた方々の言葉にも、ギリギリの場面で人間が人間たり得る難しさと厳しさと崇高さを感じさせられます。

 二番目の問題は、仏教が救済の根本問題とするところであり、自分を含め、この世にあるものを実体視するがゆえに生じる煩悩(ボンノウ)の数々につながります。
 だから、お釈迦様は、苦を滅する8つの方法『八正道(ハッショウドウ)』の最初に「正見(ショウケン)…正しい見解」を挙げられました。
 仏教の歴史は、この正しい見解を求め、その方法を探求し発展させてきたとも言えそうです。
 たとえば、人生相談に来られた憎しみに悩むAさんのケースです。
「なぜ、3年も前に他人の面前で軽蔑されたBさんへ対する憎しみが消えないのでしょう。
 憎しみがぶり返すのは困りますが、人を憎む自分も嫌でたまりません」
 Aさんは、自分に理があると信じておられますが、そうだとしても、Bさんが問題ある行動をとったことに、Aさんの言動がまったく無関係だったかどうか、よく考え、調べる必要があります。
 何ごとにも直接的原因である「因」と、間接的原因である「縁」があります。
 もしもBさんに他人へ対する攻撃的姿勢や、言動に常識が足りないなどの問題点があったとしても、相手となったAさんの側に、Bさんが具体的行動に出るきっかけとなる言動はなかったか?
 つまり、Aさんの側に、Bさんの行動を招いたいかなる「縁」もなかったかどうかということです。

 人望と名声を妬んだ愚か者が、お釈迦様を罵倒しました。
 お釈迦様は平然と、「あなたは贈りものを持って行った時、相手が受け取らなかったらどうしますか?」と訊ね、「もちろん、持ち帰ります」と応じた相手へ「私も同じように、貴方の言葉を受け取らず、お返しします」と言われました。
 そして、「天に唾するような愚かしいことはやめなさい」と諭されました。
 この場合、愚か者の言動を決定づけた縁の一つが、お釈迦様の人望と名声です。
 それは、お釈迦様の責任と言えるでしょうか?
 当然、お釈迦様に責任はありません。
 しかし、罵倒という愚考の縁になっていたことは確かです。
 お釈迦様はそれを熟知しておられればこそ、平然と受けとめ、決して争いの姿勢を取らず、愚か者を教化する貴重なきっかけとされました。

 さて、Aさんはどうでしょうか?
 きっと、「自分はちっとも悪くない、全部相手の責任だ」が対応の出発点になっており、それは今なお、変わらないのでしょう。
 このあたりは少し、考えなおしてみる必要があります。

 それに、その後の交流もないまま3年が経過した今、かつての「他人の面前」や「軽蔑」はどこへ行ったのでしょう。
 できごとの影響力はどこの誰にどのような形や力で残っていると想像されるでしょう。
 できごとはもはや、Aさんの記憶にしかないものと思われます。
 私たちの心は一本の細い糸のようなものであり、糸は極小の点で構成されています。
 点は横にしかつながらず、常に一つの点のみが心に浮かびます。
 もしもBさんへの憎しみが点となって心に顕れているならば、他のものは生じていません。
 逆の言い方をすれば、他のものが点となっている時、Bさんへの憎しみはないのです。
 ならば、Bさんへの憎しみよりも強い関心事を点として、心の糸を形成することです。
 つまり、自分の心を変えるのが、問題解決の方法です。

 講演では、「正しい見解」について、皆さんと共に考えてみましょう。

○何をどう信じたらよいかわからず不安だらけ
悪霊が憑いていると言われ不安でたまらない
お骨(ペットも)を抱えて途方に暮れている
○後継者がいないけれど、放置されたくはない

 こうしたテーマについても共に考えてみましょう。
 どうぞ、お気軽におでかけください。




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2011
06.19

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その66)─心と人生のリカバリー

6月18日の河北新報は、せんだんホスピタル院長浅野弘毅先生が「心のリカバリー」を掲載しました。
 
 先生は、心の立ち直りについて道筋を明快にし、回復とリカバリーのイメージの違いを指摘します。

「回復という言葉が、病になる前の何事もなかった状態に戻るニュアンスであるのに対して、リカバリーという言葉は病を体験した後に、新たな人生を生きること、すなわち再生を意味します」

 心の病気になった患者さんへの、これほど希望に満ちた言葉を知りません。
 当山を訪れる方々のほとんどは〈以前の状態に戻りたいが、戻れないのではないかと不安でたまらない〉のです。
 無理に戻ろうとするよりも、新たに生きようというのであれば過去と未来への考え方が転換し、〈これからどのようにして新たな未来を生きるか〉に集中できます。
 先生は、統合失調症の当事者の体験談を聞き、聴衆と共に「深い感銘と共感と勇気」を与えられたそうです。
 当事者たちからの専門家への希望です。

1 当事者の人生に希望を与えること。
2 当事者に有効で最適な治療と支援を提供すること。
3 当事者が苦しみの意味を見いだす営みを手助けすること。
4 対等なパートナーとして付き合うこと。
5 当事者の権利を守ること。
6 当事者を家族や地域社会につなげること。


 先生は率直に述べられました。

「心の病が治るということを、症状が取れて病気をする前の状態に戻ることだと長い間思い込んできた精神医療関係者にとっては、考え方の修正を迫られる時代になりました」

 ベテランであり指導者である方が、あくまでも患者さんの立場に立って自分に突きつけられているものを正確に判断し患者さんへ合わせて行こうとする真摯な姿勢は、心の病気に関する仕事をするあらゆる人々にとっての灯火です。

 そして、具体例を挙げておられます。

「ある人はリカバリーを、自分の態度・価値・感情・目標・生活技術と役割を変える極めて個人的な自己変革の過程であり、それは病によってもたらされた、さまざまな制限を受けながらも、希望を持ち有益な生活を送る生き方であると述べています」
「またある人は、精神に障害があることによって、権利・役割・責任・自己決定権・可能性・人々からの支援などさまざまなものが失われたり奪われたりしますが、当事者自身がそれらを乗り越えて再生・再構築していくプロセスこそがリカバリーであるといっています」

 ここまでの意識を持てるほど回復された方は、もう大丈夫です。
 明らかに、心と外界を隔てる薄膜がなくなり、風通しがよくなっているからです。
 皆さんが苦しむのは、薄壁があまりに手強いからに他なりません。

 先生はリカバリーを新たな旅とします。

「いずれにしろ、リカバリーとは心の病という恐怖体験をした人が、多くの人の援助に支えられながら、人生に新しい意味と目的を見いだす復権の旅なのです」

 その内容も具体的です。

「症状や生活機能の改善の程度にかかわらず、家族・友人たちと一緒に時間を過ごし、薬とともにストレスに対処する具体的な方法を学んで症状をコントロールし、意味があり満足できる生活を築き、喜びや悲しみなどの気持を当たり前に体験しながら暮らすことこそがリカバリーということになります。
 リカバリーは、精神に生涯のある人にとっての社会的リハビリテーションの最終ゴールともいえます」


 そして、震災へ対処する心構えも示します。

「このたびの東日本大震災は多くの人々の心に深い悲しみと傷跡を残しました。
 悲劇の様相は一人一人異なりますが、この悲惨な体験を記憶から消し去って、なかったことにすることはできません。
 再出発が図られるためには、私たちの心に刻まれた体験をありのまま自らの経験として受け止めることがスタートになります。
 起きてしまった事実を否認し続け、失ったものを数え上げ、大震災を体験する前の自分に戻りたいと考える限り、再出発は訪れないことになります。
 大震災によってもたらされた悲しみからの再生には、心の病におけるリカバリーと同様の考えが当てはまるのではないでしょうか」

 まったく同感です。
 仏法が説く人としてまっとうに生きるための第一歩は「正見(ショウケン)」です。
 ありのままに正しく見ることができなければ、レンズの歪んだ眼鏡をかけて景色を眺めるようなものです。
 私たちは、自分の見たいように見ようとし、見たくないものは見ないで過ごす、あるいは見なかったことにしてしまいたいと思います。
 しかし、そうした私たちの勝手な気持は、結局、歪んだ情報を基とする判断の誤りをもたらし、苦を増してしまいます。
 ありのままに見るために必要なのは、勝手な思いを取り除かねば人生にとって「有効で最適な」判断も行動もないと知る智慧、そして、勇気です。
 この二つのものを得るために、共に学び、共に実践する支え合いが必要なのではないでしょうか。

 医師である先生は、患者さんにとって支えですが、先生もまた、「考え方の修正を迫られる」という形で、患者さんからプロたる道を歩むための支えをもらっています。
 最近は「癒し」の流行です。
 しかし、〈癒す人〉と〈癒される人〉を分けている限り、真実から離れ、欺瞞や傲慢が顔を出す危険性があります。
 私たちは先生の姿勢に学びつつ進みたいものです。

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〈菩提樹の前に釈尊の修行像をお祀りしました。この厳しさに学びましょう〉
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2011
04.24

5月の聖語 ─自分もこの世もマンダラ─

真言者、円壇をまず自体に置け」

真言行者よ、自分自身をマンダラとせよ)
 この身このままでみ仏となる方法を説く『大日経』は、自分という心(識)を持ち空(クウ)である身体はマンダラであると説きます。
 
 修行では、座禅を組んだ足からヘソのあたりまでは「地」、そこから胸あたりまでは「水(スイ)」その上に「火(カ)」、一番上に「風(フウ)」と観想します。
 同時に、色もイメージします。
 下から黄色、白、赤、黒、そして頭のてっぺんは「空」の消長で青です。
 こうして、行者には「地・水・火・風・空」の五輪と、眼に見えない「識」との六つによるマンダラが表れています。
 五色は、東西南北と中央の方位を示すものでもあって、私もネコも、村も国もマンダラです。
 年忌供養などで塔婆を建てるのは、ただの慣習やおまじないではありません。
 私たちにもこの世にも潜んでいる「地・水・火・風・空」の徳を見える面へ書き、「空」の徳を見えない裏側へ記して魂を込め、自分とこの世のすべての徳を捧げてご供養申し上げる誠意を表すのです。
 手土産を持ってお世話になったお宅を訪ねるのと同じであり、心を形に込めるのは有効で尊い方法です。
 自分と塔婆の関係は、伝授されている図によって明確です。

 釈尊は、何よりも「正見(ショウケン)」という正しいものの見方を説かれました。
 正しく、ありのままに観て生きるのが仏陀という悟った人であることを実証されました。
 悟った人は救われており、同時に救える人でした。
 釈尊の行脚(アンギャ)は、救いの確かさを証する旅でした。
 釈尊の入滅後、悟りと救いを求める行者たちは、〈釈尊へ至る方法〉を求め、研究しました。
 仏教史は方法の深化を示しており、インドでも中国でも、それは、この身このままで本来み仏である真の姿となる「即身成仏(ソクシンジョウブツ)」に結実しました。
 長澤弘隆師は説かれます。

「仏教史というのは大づかみに言いまして、紀元前にインドの釈迦さまでスタートしまして、だいたい十世紀頃密教というスタイルでインドでは終わってしまいます。
 その間およそ1400から1500年、小乗のアビダルマ仏教から、大乗の般若経系、法華経系、浄土教系、あるいは護国経典系、また中観・唯識の二大思想、そして華厳経系、密教系の仏教と、順次中国に伝わり、中国から日本に伝わってきました」。
「空海さんはインド仏教を理解し中国仏教をわきまえ、仏教思想の本流を時間軸の上でも正しくトレースできた人で、その意味で高野山というのはお釈迦さまからの全仏教史、全仏教思想史の終着点ということなんです」。

 編集工学の第一人者である松岡正剛氏も説かれました。

「密教は全仏教史を負って登場したものですが、まさに空海は仏教史のすべてを引き取ろうとしていますね」。


 塔婆の表面には「地・水・火・風・空」を象徴するインドの文字が書かれ、裏面には「識」を象徴するインドの文字が書かれています。
 表と裏で、マンダラ全体になっています。
 自分もマンダラ塔婆もマンダラ、この世もマンダラ、み仏の世界もマンダラ、そして、その徳を届ける御霊の世界もマンダラ──。
 即身成仏の世界はまことにありがたいものです。

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