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2010
11.07

『大日経』が説く心のありさま六十景 その16「阿修羅心(アシュラシン)」

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第16回目です。

16 阿修羅心(アシュラシン)
 これは、自分がいと感じることに突き進む性向です。

「生死(ショウジ)に処せんと楽(ネガ)う」

 たった今、迷いのさ中にある状態そのものを根本から解決しようとせず、あくまでも自分が感じる不快を基準とする〈〉を求めてやまない心です。
「天心」は小さな我(ガ)が、自分の判断を正義として猪突猛進するのに対して、阿修羅心は、正邪善悪よりも不快を優先します。
 
 そもそも阿修羅はいかなる存在であるか、修羅界が生じた物語をたどってみます。

 正義の神阿修羅は同じ天界の住人として力の神帝釈天(タイシャクテン)と仲良くやっていました。
 そして、溺愛していた一人娘の舎脂(シャシ)をやがては帝釈天のもとへ嫁入りさせ、大連合軍を率いるのが夢でした。
 ところがある日、泉にいた舎脂を見そめた帝釈天はその場から強引に拉致し、妻にしてしまいました。
 修羅は烈火のごとく怒り、舎脂を取りもどすべく幾度も戦いをしかけましたが、いつも敗戦となり、怨みは深まるばかりでした。
 そこで一計を案じた阿修羅は、貢ぎ物として殺した大きなヒツジの身体にもぐりこんで帝釈天へ肉薄しましたが、あと一歩のところで舎脂を奪い返せません。
 悪の烙印を押された阿修羅は神の地位を奪われたあげく、天界から海底へと追放されました。
 阿修羅はやがて海底の王となり、修羅界をつくります。

 一方、帝釈天と睦まじく暮らしていても父親を思う心を捨てない舎脂は、阿修羅へ初孫となる我が子を見せたい一心で、城を抜け出します。
 ところが砂嵐に遭い、子どもは無事、阿修羅のもとへ届けられますが、気を失った舎脂は乗ってきた象に連れ帰らされます。
 阿修羅は、王子の身柄と引き替えに帝釈天の居城である善見城を明け渡せと迫りますが、帝釈天は阿修羅からの使者を斬り殺します。
 そこで阿修羅も泣く泣く我が孫を殺そうとします。
 しかし、砂嵐から幼子を救った者たちが秘かに連れ出し、ついに阿修羅軍と帝釈天軍の興亡をかけた最後の戦いが始まりました。
 結果はまたしても帝釈天の勝利となり、破れた阿修羅は深く沈み込みます。
 帝釈天は「怨みは解くべきものであり、結ぶものではない」と諭しますが、聞く耳を持ちません。
 そこで舎脂は、「私はもう、親元を飛び立ったのです」と阿修羅へ別れを告げます。
 このままではもう二度と娘とも孫とも会えないと悟った帝釈天は、やっと積年の恨みを離れ、怒りが解け去りました。

 しかし、殺生と怒りの罪は重く、まだ、修羅界にいます。

 この物語は、娘が自分の願っていた相手と一緒になり幸せに暮らすという結果を喜ばず、自分の思い通りにことが運ばなかったからといって起こした怒りと怨みを抱き続けた者の愚かさを教えています。
 また、娘に対する父親の複雑で抜きがたい思いも、一旦こじれた関係の修復を難しくさせています。
 いずれにせよ、阿修羅を突き動かしていたのは、拉致を許せないという正義感のようであっても、結局は「成り行きがおもしろくない」という〈不快〉の念であり、怨みを晴らして快哉を叫びたいという〈快〉を求めてやまない煩悩です。

 国宝の阿修羅像(興福寺)には、幾度も帝釈天へ挑み破れ続けた者の荒(スサ)みはあまり感じられません。
 むしろ、解けない悲しみ、あるいは、心を乱れさせてやまないやるせなさがにじみ出ています。
不快〉に苦しみ、結して手に入らない〈快〉を求めずにはいられない者の悲哀が強く胸に迫ります。

 自らを省みて、自分の身口意と本当の正邪善悪の関係を客観的によく観ましょう。
 この生ある間中、快不快を基準として思い通りに処してゆこうとする阿修羅心をぜひ、離れたいものです。

〈阿修羅像です(http://blog.loscut.net/images/dsad.jpgをお借りして加工しました)〉
dsad.jpg




「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
10.19

『大日経』が説く心のありさま六十景 その14「無諍心(ムジョウシン)」

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第14回目です。

14 無諍心(ムジョウシン))
 これは、何も決められない優柔不断な性向です。

「是非倶(トモ)に捨つ」

 仏法は人と人がぶつかり合わないで互いのためになる生き方をする道を説きます。
 しかし、それは、正邪善悪の判断をしないということではありません。
 正しい判断力を身につけた上で、「正」や「善」の実現には心のコントロールという方法で立ち向かいます。

 釈尊の高弟として有名な舎利弗(シャリホツ)と目蓮(モクレン)は、二人ともバラモンの家に生まれ、誕生日が同じでした。
 利発な少年二人は、当時名高かった聖者サンジャヤを訪ね、教えを請いました。
 サンジャヤは典型的な懐疑論者で、自分から何かを主張せず、相手の判断を崩します。
 その典型が、「死後の世界はあるか?」との問への答です。

「私が『死後の世界は存在する』と考えれば、『死後の世界は存在する』と応えるだろう。
 しかし、私は、そうだと考えない。
 そうだろうとも考えない。
 それと違うとも考えないし、そうではないとも考えない。
 そうでないのではないとも考えない」

 二人は、誰にも負けそうにないこの論理をたちまちマスターしましたが、当然、飽き足りません。
 やがて舎利弗(シャリホツ)が釈尊と出会い、目蓮(モクレン)と一緒に弟子入りする際、それまでの師であったサンジャヤにも声をかけました。
 サンジャヤは拒否しましたが、その弟子500人のうち250人は二人と行動を共にしました。

 自分の主張をはっきりさせないのも一つの態度ではありますが、それは自分を可愛がるだけで、創造性が欠如しています。
 やがて釈尊の両腕とも称された二人が、こうしたところで満足できなかったのは当然です。
 カメのように頭を出したり引っこめたりして、いつも自分を安全なところにおいて生きようとする人は少なくありません。
 しかし、信頼される人、人望の厚い人、人徳のある人は必ず、〈自分を懸けて行う〉人です。
 西郷隆盛などはその典型と言えましょう。

 無諍心に安住していたのでは、智慧も慈悲も眠ったままになります。
 眼を覚ましましょう。

〈はっきりしています〉
221018 0032



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
03.03

善い友・悪い友

 釈尊は、人づきあいについて明確な指針を示されました。

悪い友と交わるな。
 (人格の)卑しい人と交わるな。
 善い友と交われ。
 尊い人と交われ。
 劣った(人格の)卑しい者になじむ人は堕落してしまう。
 しかし等しい者につきあう人は実に堕落することはないであろう。
 すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。
 それ故に、この世では自分よりもすぐれた人とつき合うべし」

 この場合の悪い友とは、教えに背き、教えを実践しない人です。
 善い友とは、教えを学び、教えを実践する人です。
 卑しい人とは社会的身分が低い人ではありません。
 まっとうに生きていない人、つまり八正道(ハッショウドウ…正しい見解・正しい言葉づかい・正しい生活など)を基準として、正しさから遠い人です。
 反対に、すぐれた人とは、八正道にそって生きている人です。

 このように教えは明確です。
 善悪正邪・優劣などの判断基準はすべて経典にあります。

 ところで、宗教は皆、同じように高い理想を掲げています。
 でも、やっていることを観ると、とても宗教とは思えないようなやり方や場面が少なくありません。
 なぜそうなるのかと言えば、理想を実践する方法が理想とはほど遠く、目的を達成するための手段が目的とは別の次元のものだからです。
 人類の理想を語る教団が、恩の貸し借りや現世的利益のやりとりや政治権力を用いて勢力を拡大するなどは、その典型です。
 目的が経典から導き出されたものなら、手段もまた、経典に基づくものでなければ宗教としての堕落であることを確認しておきましょう。

 宗教選び、友人選びには、よくよく注意したいものです。

〈雪の降った朝〉
220303 003



「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
02.26

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 43 ―区別─

 前回は、「穢れて生きる人」の姿を学びました。
 ならば、「清らかに生きる人」はいかなる者か。
 釈尊はという観点から答を示されました。
 もう一度、その清らかさを考えてみます。
 2月24日、NHK文化講座で共に学んだのは『法句経ダンマパダ)』の「塵垢品(ジンクホン)第二十六」です。

「廉(レンチ)は苦なりと雖(イエド)も、義は清白(ショウビャク)を取り、辱(ニク)を避けて妄ならざるを、名(ナヅ)けて潔生(ケッショウ)と曰(イ)う」


を知り、苦しくとも清廉潔白であろうと心がけ、辱められるようなことを行わず誠実に生きる者を「潔く生きる人」という)

 私たちの心の本体は霊性であり仏性です。
 それは、強い我欲で動こうとする時や動いた後に、の意識、あるいは罪の意識として警告を発します。
 目の前にあるモノが欲しくて盗みたくなった時にタブーの意識が正常にはたらけば、踏みとどまれます。
 もし、盗んでしまっても、その行為の薄汚さに耐えられなくなれば、返しに行きます。
 しかし、どの段階でもそうした意識がはたらかなければ、自分自身へ対して、そして社会へ対して「穢れた人」となります。

 釈尊は、「廉は苦なり」と説かれました。
 を知り清らかに生きるのは苦しいのです。
 なぜか。
 心の修行をしなければ、表面の意識はいつも〈自己の維持〉と〈種の保存〉が第一であり、食欲や性欲や財欲が「欲しい」「惜しい」とはたらいています。
 だから、何も考えず、そのはたらきに流されるのは気楽なのです。
 私たちは、弁護士が詐欺を行い、警察官がわいせつ行為を行った事件などに接すると、「何て奴だ」と嘲ったり怒ったりしますが、日常生活はいつもこうした危険と隣り合わせであることをきちんと認識しておく必要があります。
 私たちは「やりたい放題にやりたい存在」なのです。
 これほどの情報化社会になってなお、明らかに呑み放題に呑み、食べ放題に食べた結果として成人病にかかったと思われる方々が激減してはいません。

 では、「やりたい放題」でなく生きるにはどうすれば良いか。
 正邪善悪・虚実をきちんと区別できる心を作ることです。
 それには教えに学び、心に判断基準を保たねばなりません。
 我欲ではなく霊性・仏性が心の主人公となり、釈尊が説かれた「八正道(ハッショウドウ)」を践みつつ生きれば、いつも恥を忘れず、罪を犯さなくなることでしょう。
 8つの正しい道は以下のとおりです。

1 正見……正しいものの観方を行う。
2 正思惟…正しい考え方を行う。
3 正語……言葉を正しく用いる。
4 正業……行動を正しくする。
5 正命……正しい生活を送る。
6 正精進…正しく精進する。
7 正念……正しいものを念ずる。
8 正定……心を正しく修める。


 そもそも何が正しいのかがよく解らないし難しいと思うかも知れませんが、誰にでもすぐに実践できるのが「正命」です。
 まず、まっとうななりわいで生きること。
 たとえ収入が少なくとも、麻薬売買や振り込め詐欺などに手を染めず、こつこつと額に汗して過ごすことです。
 そして、自分なりに「やりたい放題」を抑えること。
 たとえば呑む時も食べる時も、足るを知って7~8分にとどめ、「あいつはけしからん」という議論も、言いたいことの7~8分までにしておくことです。
 こうして身を慎みながら生きていると、それが習い性となって我欲が自然に抑えられ、ものの観方や言葉づかいも変わってくるものです。
 そうすると、ものごとの区別ができるようになり、正邪善悪・虚実が見分けられるようにもなります。

 最近では、歩きながらカップラーメンを食べたり、子供が親へ、あるいは目下が目上へ「あんた」と呼びかけたりするようになりました。
 このように恥や礼儀が破壊されたのは、歴然として存在する「区別」を無視し、我欲がいつでもどこでも解放されるようになったからです。
 親と子の区別、教師と生徒の区別、上司と部下の区別、先輩と後輩の区別、男性と女性の区別、公の場と私的な場における言葉づかいや服装の区別といったものが次々と無視された結果、「区別」の意識そのものが薄れてしまい、恥の感覚がなくなりました。
 正邪善悪・虚実の区別もあいまいになり、とうとう、全国中を監視カメラで見張らねばならない日本になり果てたのは当然です。

 釈尊が説かれた「八正道」は、この危機を克服するための道しるべです。
 教えを学び、ものごとの区別がはっきりできる心を取りもどし、恥の感覚を忘れずに生きましょう。



「のうまくさんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2010
02.21

道理と劣化ウラン弾 (その2)

 人間は、今や、与えられた脳細胞を飛躍的に使うようになり、原理が探求された結果、科学が急速に発達しました。
 そして、意志を通すための道具をたくさんつくりました。
 車・電化製品・薬品などなど、そして劣化ウラン弾もその成果です。
 しかし、一方で、道具を用いるための道理はあまり探求されず、かつて聖者の説かれた道理は、人々の脳へさほど浸透していない、あるいは忘れられつつあるように見うけられます。

 いかに原理をつきつめても、そこから道理は出てきません。
 原理に道を与えるのが道理だからです。
 ちなみに、人間以外の生き物たちに道理はありません。
 食物連鎖や種の保存などの節理という原理だけで生きているからです。
 しかし、人間には精神があり、正邪善悪を峻別し、福徳を得たり罪を犯したりします。
 その判断基準が道理です。
 
 ところで、釈尊は仏陀になられました。
 仏陀とは覚った者すなわち、真理と道理を見きわめた人です。
 釈尊が示された真理の一つは「すべてのものは変化して止まない」こと、もう一つは「すべてのものは、それ自体として独立して存在しているのではなく、他との関係性の中にある」ということです。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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