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2014
09.12

ダライ・ラマ法王の「『転生』廃止宣言」

201409110008.jpg
〈「ダライ・ラマ死の謎』を説く」よりお借りして加工しました〉

 9月11日、新聞各紙は、ダライ・ラマ法王の「『転生廃止宣言」を報道した。
 これは、現在のダライ・ラマ法王が〈最後のダライ・ラマ〉となることを意味する。
 以下は産経新聞による。

「チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世(79)が、ドイツ紙ウェルトとの会見で、自身の後継問題をふまえて『チベット仏教の転生制度を廃止すべきだ』と述べたことが、波紋を非広げている。
 中国外務省の華春瑩報道官は10日の記者会見で『発言はチベット仏教の正常な秩序を大きく損なうもので、中央政府と信者は絶対に認めない』と反発し、転生制度の維持を求めた。」
「中国政府は、無神論を信奉する共産党の一党独裁ながら、チベットでの転生制度を容認。
 高位の活仏だったパンチェン・ラマ10世が1989年に死去した後は、ダライ・ラマ側と競う形で光景の霊童探しが展開され、中国政府『公認』の候補が『パンチェン・ラマ11世』となる一方、ダライ・ラマ側が選んだ別の少年は行方不明となった。」


 チベット仏教の精華を権力維持とチベット弾圧のために利用しようとするなど、あってはならない蛮行である。
 聖なるものを破壊し、俗化させ、消滅させようとする政策に耐えられないチベットの人たちは、焼身自殺をもって抗議し続けている。
 そもそも、ダライ・ラマ法王は、平成6年に出版された「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」の最終章で、こう述べている。

「最後のダライ・ラマになる覚悟はある

 私自身、ダライ・ラマ個人として、私自身の未来には何ら関心はない。
 ダライ・ラマという制度にも関心はない。
 ダライ・ラマという制度は人が創り出したものでしかない。
 長い年月、人々はダライ・ラマという制度になんらかの有効性を認めてきたというだけのことである。
 だからこそ、この制度は生き残ってきた。
 もし、人々がダライ・ラマの制度が過去の遺物となり、時代にそぐわないと判断すれば、それはそれでいい。
 自動的にこの制度は消滅するだろう。
 私はその存続にいかなる努力もする意志を持たない。
 もし、私のこの生命があと数十年ばかり続き、もし、人々がダライ・ラマの制度を不必要と感じるようになったなら、それはそれまでのことである。
 私は最後のダライ・ラマとなることに、いかほどの痛痒も覚えないだろう。
 私は一個の仏教徒であるのみだ。
 人間は本来すばらしい知性と情感を有している。
 このふたつが相携えて働くなら、正しい方向に向かって進むなら、人類愛や慈悲心がそこには湧き出てくるはずである。
 本当に大切なことはそれだけだ。」


 この件に関しては、以下のブログへ書いた。

 本当に大切なものは何か? ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(45)─
 http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4267.html

 ダライ・ラマ制度がいかなるものであったか、ダライ・ラマ14世はいかなる活仏(カツブツ…生き仏)であったか、中国政府はいかに非人道的な政治を行ったか。
 こうしたことごとはいずれ、後世において明確になることだろう。
 法王が説かれた知性とは、道理をもって考える力であり、情感とは、天地万物と感応する力である。
 二つがきちんとはたらく環境世界であって欲しいし、そうした環境世界をつくりたい。
 私たち一人一人がそう願って精進する以外、仏教と人道における現代最高の叡智が世界中へ与えた宝ものに対する報恩の道はない。
 その先に、チベットの解放がもたらされますよう。




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2014
08.06

人はその人なりの必然性をもって生きている ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(43)─

20140803104.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

2 最後のダライ・ラマ

○個々の立場の違いを尊重した仏陀

「仏教は布教に熱心であるとは言い難い。
 もちろん活発な布教活動を行っている宗派もあることはあるが、仏教全体で見るかぎり、他の大宗教ほどの布教を行っているようには見えない。
 歴史的には大がかりな布教活動がなかったわけではない。
 たとえば、古代インドのアショカ王は布教のための使節を王国の外にまで派遣したことがある。
 だが、この布教の問題に関しては、仏陀の教えそのものの影響が大きいように思われる。」


 仏教は一般的に、誰かを言い負かして屈服させ、信者にするという行動をとらない。
 それは、過去の因縁や生活環境や資質などによって千差万別な人々がそれぞれが、違ったままで救われることを目ざしているからである。
 唯一絶対の正義である万能の剣をふるうという高慢な姿勢とは、まったく異なっている。

「仏教はその内部に相矛盾し、相対立する哲学や伝統を有するいくつもの宗派が存在する。
 たとえば、シッタ・マントラ派(唯心派)と中道派である。
 これらの二派は同じ教え、仏陀自身の教えから生まれてきた。
 仏陀自身は、これら相対立する双方の教えを自ら説かれたのだが、その理解の仕方、解釈において双方は根本的に異なる立場に立っている。
 このことは仏陀が、対立し矛盾する教え、哲学を、その立場を異にする人々ごとに、あえて説かれたことを示している。」


 お釈迦様が説かれたことを類推し、悟りの境地を目ざす時、思惟の土台へ迫れば迫るほど、たった一つの哲学的土台は見出しにくくなる。
 たとえば、仏教哲学がたどりついた二つの代表的立場である唯識(ユイシキ)派と中観(チュウガン)派はまったく違う。
 唯識派は、潜在意識や深層意識など、心が幾重にもなっていることを、西洋心理学に何百年も先がけて把握し、研究してきた。
 中観派は、すべては空(クウ)であるという視点を突き詰めてきた。
 現代の仏教宗派で、この一見、相矛盾する見方の双方をふまえないものはない。
 それは、お釈迦様が、唯一、独自の存在として生きている〈その人〉そのものを、その人が苦から脱するための〈その人〉にふさわしい方法をもって救われたことに起因している。
 たとえば、苛められ、泣いている子供を救う方法と、苦闘しながら生き、人生の不可解さに突き当たって悩む大人を救う方法が同じであるはずはない。

「これは、仏陀が個々の人々の立場の違い、それぞれの必然性をいかに尊重されたか、ということを意味している。
 私自身はこの仏陀の教えにどれほど助けられたかわからない。
 異教、異宗派に私自身が開かれた心で接することができるのは、この教えがあったればこそである。」


 ここで説かれている「それぞれの必然性」は重大な言葉である。
 ある人が、他の誰でもなく〈その人〉として存在していることは、「必然性」と言うしかない。
 このことを深く認識し、まっさらな心で〈その人〉に向かい合う時、ようやく感じとれるのが人間の尊厳らしきものである。
 それに打たれたことのある人は、それを尊重しないではいられない。

 お釈迦様は、全存在をかけて自分を突き詰め、この世を突き詰めた結果、いつでも、誰に対しても、尊厳を感じとれる方になられたのではないだろうか?
 誰と会っても、常に、心で合掌を欠かさなかったのではなかろうか?

 8月5日、マスコミ各社は、貧しいタイ人の女性がオーストラリア人夫婦になり代わって代理出産をし、受け取り拒否にあったダウン症の男児を自ら育てると決心したことを報じた。
 ニュースで観た21才の女性は合掌したまま、インタビューの受け答えをしていた。
 すでに義援金が2000万円も集まったらしく、今後、女性がどのように生きて行くかはわからない。
 しかし、合掌の姿は神々しく感じられた。

 当山は、伝授を受け、修行した方法によって修法を行っているが、ご縁を求めてご来山される相手様が何を信じておられようと、まったく区別や差別を行わずに祈る。
 ダライ・ラマ法王と同じく「この仏陀の教えにどれほど助けられたかわからない」し、「異教、異宗派に私自身が開かれた心で接することができるのは、この教えがあったればこそである」というのが実感である。




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2014
07.15

仏教はまず〈人それぞれ〉を認め合う ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(42)─

20140712001376.jpg
〈7月12日の寺子屋『法楽舘』では、お盆と盆踊りについて皆さんと考えました〉

2014071200131.jpg
〈光明真言についてもお話しし、一緒に唱えました。8月9日の寺子屋では、「懺悔と救われる道」について考えましょう〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

2 最後のダライ・ラマ

○信仰は、きわめて個人的な問題である

人生を成就するための唯一の拠り所などというものは存在しない。
 何事につけても、最善の唯一のものなどありえない。
 すべてのものごとは、個々の人間の心の許容量、性向、その人が置かれた環境などに応じて判断されるべきであろう。」


 この文章を読んだ多くの方々は、意外に思われるかも知れない。
「チベット仏教の最高の指導者がそんなことを言っていいの?」
 次を読むと、さらにびっくりされるかも知れない。

「たとえば、私自身、ダライ・ラマ十四世は仏教徒である。
 仏教を信仰することが私個人の心の最善の拠り所となっている。
 これは間違いない。
 だが、全ての人にとってそうではない。」


 多くの方々はこう考えておられることだろう。
「どの宗教も自分たちこそ一番と信じ、信者を増やそうとしている」
 確かに、教団の都合でそうした強い姿勢と行動に走る宗教団体が見受けられる。
 そのほとんどは、二つの頑なさを持っている。
 一つは、唯一絶対と主張する絶対者や教義を錦の御旗とすること。
 もう一つは、他の宗教を攻撃すること。
 しかし、もしも仏教教団が頑なさを持つならば疑問符がつく。
 仏教は端(ハナ)から〈人それぞれ〉という真実を見極め、そこに立っているからである。
 悟ったお釈迦様は何をされたか?
 あくまでも〈人それぞれ〉の事情に合わせ、その人にとって最も救いとなるであろう内容と形で法を説き、法力を示しもした。
 しかも、救いを求める人を誰一人、宗教の違いなどによって見放したりはしなかった。
 後代になり、仏陀が相手に合わせて実行する最高の手立ては「方便(ホウベン)」という言葉になった。
 大乗仏教行者にとって生きる目的は、〈方便を見出し実践できる存在=菩薩(ボサツ)〉になることである。

 さて、私たちは菩薩たり得るか?
 相手それぞれの人柄や過去の因縁や目先の事情や周辺の状況をお釈迦様のように正確に把握し、最も適切な法を説き、法力を発揮できるか?
 ダライ・ラマ法王といえども、無理である。
 ならば、「何よりもまず、〈人それぞれ〉という真実に立とう、自分の拠り所などという狭いものから離れよう」というのが、この教えである。
 ちなみに、当山の人生相談は袈裟衣をまとい、法を結んでからしか行わない。
 それは、住職程度の行者では、世間話の中で相手様に必要な方便はわかりようもないからである。
 だから、ご本尊様のお力をお借りしてお相手をするしかない。
 まさに〈人それぞれ〉であるお戒名も、ご本尊様と一体という心で、ご本尊様から授かってお伝えするしかない。

「キリスト教がある人にとっては最高の導きになるだろうし、他の人にはまた違った途(ミチ)があるだろう。
 それはきわめて個人的な問題であり、その人個人の心に属することがらである。
 一切を一般化することは避けるべきである。」


 この「一切を一般化すること」こそが、特定の宗教を早く広めたい人々の陥りやすい陥穽(カンセイ…落とし穴)である。
 神ならぬ人間、菩薩ならぬ人間に〈一切の一般化〉は不可能である。
 しかし、相手を信じこませ、仲間を増やすためには、はっきりと、断定的に、告げる、やり方が効果的である場合もある。
 こうして、私たちは容易に〈人それぞれ〉という真実を忘れる。

 さて、お釈迦様へ戻ろう。
 相手に応じた極めて多様な内容のどれもが、悟った人すなわち仏陀(ブッダ)の金口(コンク)から流れ出た法なので「仏法」とされ、真摯で天才的な行者たちにより2500年かけて分析され、深められ、わかりやすい教えとしてまとめられたのが、今に伝えられた「仏教」である。
 だから、もしも、お釈迦様やお大師様といったレベルの菩薩がこの世に現れれば、仏教によってすべての人を救えるだろう。
 しかし現実は、凡夫として〈自分にピッタリくる〉範囲の教えによって救われ、関心を持つ人や、自分と同じ悩みに苦しむ人へ個人的体験の範囲について語る程度までが、せいぜいのところである。
 自分が知っている仏教は、8万4千あるとされる法門のうち、いったい、どれほどになるのか?
 こうした〈真の仏教徒〉としての自省と自覚があれば、他の宗教宗派を安易に誹謗したり、軽蔑したり、攻撃したりはできない。
 私たちは凡夫同士として、せめて、〈人それぞれ〉をはっきりと認め合い、互いに拠り所とする大切な心の杖を振りかざして争い合う愚行を慎みたいものである。
 



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2014
07.04

知力と情緒で〈真の人間〉になろう ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(40)─

2014070400111.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

1 無限の利他

知力に感情が伴えば、無限の利他へとつながる

「自然現象の必然というものがある。
 その極みが肉体の死であろう。」


 もしも、「どうしても避けられないものを、たった一つに絞って挙げなさい」と言われたなら、多くの方々が「死」を選ぶのではなかろうか。
 私たちは、動物としては生まれながらに〈人〉だが、精神的には、成長しつつ、だんだんに人間らしくなる。
 知恵がはたらくようになり、情緒が豊かになるからである。
 さらに、霊性をきちんとはたらかせつつ生きるためには、人の道を学ばねばならない。
 だから、慈雲尊者は、行うべきことと、行ってはならぬことをきちんと分けて考え、行動するのが〈人になる方法〉であると説き、「人となる道」を著した。
 しかし、私たちの肉体は、精子と卵子が出会った瞬間から、死へ向かって歩み始めている。
 まさにモノの世界における必然であり、精神の世界における宿命である。
 アジソンは言った。
「人間の一生は、ちょうど橋のようなものだ。
 生から死へかかっている橋、その橋を一歩一歩渡ってゆくのが人生だ」

 ビクトル・ユーゴーは言った。
「人間は死刑を宣告されている囚人だ。
 ただ、無期執行猶予なのだ


「その不可避な死を恐れおののかずに迎えるには、人間の知と心のどちらが有効だろうか。
 人間は肉体を内部から知と心によって支えている。」


 私たちの脳には、魚のように、とにかく呼吸や心拍を続けようと、生命維持に懸命な脳幹がある。
 そして、爬虫類のように、本能や縄張り意識などで動く大脳辺縁系がある。
 さらに、ネズミやモグラのように、情動を司り、うまく立ちはたらこうとする大脳旧皮質がある。
 これらがある以上、私たちは必ず死を恐れ、死を避ける行動に動く。
 こうしたワニやネズミの脳のはたらきをコントロールするのが、ほ乳類の大脳新皮質である。
 人間らしい知や心は、死の恐怖へ立ち向かう。

「したがって、この両者の結合にこそ意味がある。
 どちらが優位にあるか、どちらがより大きな影響を及ぼすか、どちらがより人生の節目を決定する力を有するか、そうした問いに答えることは不可能に近い。」


 知力情緒があいまって、過たず、生きがいのある生活が可能になる。
 どちらがより、私たちを幸福にし、どちらがより、不幸にするかはわからない。

「いかなる知、即ち知力、知識、学識なども、心の働きの助けなしには機能しない。
 知の助けなしに心は動かない。
 心がこもらない知によっては、何を行おうと有効にものごとを成し遂げることはできない。
 と同時に、知に支えられない心は狭くなる。
 このように知と心は、ともに助け合いながら働くべきものなのだ。」


 理性が強すぎると、冷たい人になりかねない。
 感情が強すぎると、ばかな人になりかねない。
 信頼される人格者は必ず、冷たくないし、ばかでもない。

「たとえば、心だけならどうだろうか。
 心に生まれる感情は、多くの場合、あまり芳しからざる働きをする。
 心だけでは、ときとして善からぬ働きをすることがある。
 理性とも知力とも無縁で働く場合がそうだ。
 たとえば、憎しみである。
 憎悪もまた心の所産である。
 たとえば、執着といった感情である。
 愛着が執着になったなら、これは悪しき感情の働きだと言わねばならない。
 したがって、心がこもればすべて善いというわけではない。」


『中阿含経』は説く。
「実のごとく苦の本を知るとは、いわく、現在の愛着(アイジャク)の心は、未来の身と欲とを受け、その身と欲とのために、さらに種々の苦果(クカ)を求むるなるを知る」
 執着すなわち、空の真理を知らず、囚われてもいたしかたのないものに囚われ、自ら苦を生じてしまう。
 執着心と苦との絡み合いが解け去らない限り、地獄界や修羅界など、苦の世界における輪廻転生(リンネテンショウ)から抜けられない。
 私たちは、輪廻転生の中で、戦争に苦しんできた。
 しかし、戦争のない時も又、苦しんできたのである。
 知力情緒も、持ち合わせていながら……。

「心は感情の生まれるところである。
 感情といえども、けっして悪しき心の働きだとは言い切れない。
 仏陀自身も激しい感情の持ち主であったはずだ。
 仏陀の説く無限の利他は、理性の基盤の上に、たっぷりと感情がこめられている。
 知力に感情が伴えば、利他の精神はより強められるということだ。
 仏陀は利他を強力な感情だと説かれたと理解したいぐらいである。」


 要は、思いやりを持ち、人の道を学ぶことに尽きる。
 そして、大事に際しては、いかに腹を決めるかである。
 み仏の表情は静かだ。
 しかし、決して冷たくはない。
 手を合わせると無性に懐かしさに似た感謝の感情が起こったりする。
 故郷や親のような無条件に受け容れるお慈悲がそうさせるのだろう。
 み仏には、みじんも揺るぎは感じられない。
 もちろん、迷いもまったく感じられない。
 み仏を慕い、み仏に憧れて合掌を繰り返し、知力、情緒を怠らず、向上させたい。
 そうすれば、きっと、利他の思いが深まることだろう。




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2014
06.26

世界はカルマによってつくられているのか? ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(38)─

2014061800123.jpg
〈西馬音内盆踊り〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
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第6章 宇宙の法則 ―大宇宙の真実が語りかけるもの―

2 宇宙の創造

宇宙も輪のように継続していく

「仏教的な視点からビッグ・バンを見れば、ビッグ・バンもまたカルマの力によって起こったと考えざるを得ない。
 なぜなら、そのときすでに生きとし生けるもの、意識を宿した存在があったからである。
 この存在自体には、すでに述べてきたように、始まりもなければ終わりもない。
 したがって、それらはすでに存在していたことになる。」


 意識がいつから在ったのかは、誰にもわからない。
 考えれば考えるほど、元から在ったとしか思えない。
 人生相談では、自分の犯した罪に苦しむ方から、こうした質問をいただく。

「私が犯した罪は、一生背負って行かねばなりません。
 ああ、あの人に申しわけないことをした――と考え始めると、夜も眠れなくなります。
 私が人を深く傷つけてしまったのは、私の前世が極悪人だったからでしょう。
 事実、占い師から、あなたは前世で人を殺していますと指摘されました。
 このこともまた、変えようがありません。
 事件が公になり、世間の人々は皆、私が前世も今も悪人だと知っています。
 人の目が怖くて一歩も外へ出られなくなり、毎日、自分を責めています。
 死のうと思いましたが、こうした自分は来世もきっと、同じなのでしょう?
 死んでもどうにもならい……。
 もう、どうしたらよいかわかりません」

 いのちと心における因果応報を感じとっておられればこその苦しみである。
 そして、苦しみは、ご本人の意識にある。
 こんなふうにお応えしたりする。

前世で人を殺していない人などきっと、いませんよ。
 私たちは誰一人、残らず、乱世でもいのちの糸がつながっていたから、こうして今を生きているんです。
 自分が生き残るために、誰かを生き残らせるために、人を殺さねばならない時代は当たり前のようにありました。
 村田喜代子氏著『蕨野行(ワラビノコウ)』のように、姥捨て山もありました。
 柳田國男著『山の人生』のように、口減らしをしようと子供が殺されたりもしました。
 しかし、殺す一方で、助けたり、助けられたりもしたからこそ、いのちはつながってきたのです。
 だから前世を怖がったり前世にとらわれたりするのは、ほとんど意味がありません。
 考えるべきは唯一つ、悪(アクゴウ)の因果により悪行(アクギョウ)を行い、善(ゼンゴウ)の因果により善行(ゼンゴウ)を行いつつ生きている私たちは、未来に悪行を行わないために、今、悪をつくる悪行を行わず、善ををつくる善行を行わねばならないということのみです。
 自分の悪行や悪をふり返り、あれはダメだったと思うならば、これから先、もうやらねばよいだけのことです。
 やってはいけないことを骨の髄まで知ったあなたは、確かに、悪行から離れ救われる道を歩み始めておられます。
 お釈迦様の言葉が『法句経(ホックキョウ)』に残されています。

『過失(アヤマ)って悪を為すも、追い覆(カエ)すに善を以てせば、是(コ)れ世間を照らす、定(サダ)んで其(ソノ)宣(ヨロ)しきを念ぜよ』

(もしも、うっかり悪しき行為をしてしまったとしても、善き行為によって過ちをうち払ってしまうような生き方をすれば、やがては世間の人々を導く灯火にもなれよう。このことを忘れず、善行の実践をすべし)
 いのちも、心も、これまでずっと続き、これからもきっと続いてゆくことでしょう。
 因果応報は真理であり、この世での行いが原因となり、結果としてのあの世は必ず、やってくるに決まっていますから」

「その結果、宇宙に浮遊した粒子が集まり、古い宇宙を破壊して新しい宇宙を創造したのだろう。
 この宇宙もある一定の長さだけ存在し、結局、溶融して消え、ふたたび、みたび新しい世界、新しい宇宙を形作るであろう。
 となれば、やはりすべてには始まりもなければ終わりもない。
 あるのは輪のような継続のみである。」


 仏教は、因果応報による四相(シソウ)を説く。
 万物は生じ、留まり、変化し、滅し、やがてまた生ずるという循環を繰り返す生・住・異・滅 (ショウジュウイメツ)の思想である。
 個々のが個々の輪廻転生をもたらし、個々による業の総体としての社会的業が、社会や国家や世界の輪廻転生をもたらす。
 始まりもなく、終わりもない輪である。

「では、カルマこそが力であり、エネルギーであるのか。
 カルマが何かを創造する根源的な力だと考えられるのか。」


 因果応報の主役はカルマ、すなわち、影響力としての業(ゴウ)である。
 それならば、世界はカルマによってつくられているのか?




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