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2013
04.04

運勢を暗くする四魔について

20130404007.jpg
〈岩出山の『森栖』さん〉

 苦を抜く方法として、「大日経」は四魔を封じよと説いています。
 四魔(シマ)とは、煩悩魔(ボンノウマ)・天魔(テンマ)・死魔(シマ)・蘊魔(ウンマ)です。
 四魔は自分の心から発し、他から呼び込む場合もあります。

 四魔がはたらくと、人それぞれに異なる人格の香りが変化し、感覚に狂いが生じたりします。
 これはやがて病気になる場合もあるので、要注意です。
 性格や好みが偏ってきたり、何か一つしかできなくなってきたなら、早く体調を整えないと、事故や災難に遭いかねません。
 心が偏ると、どうしても、ものごとを悪くとりがちになり、悪いものに影響され動かされやすくなり、悩みも生じます。
 また、あちこちに身体をぶつけたり、事故が多くなったりしている人は、体調にまで影響が及んでいる可能性があるので、ご加持や病院での治療を受けてみたいものです。
 四魔の障害によって、いる場所や向かう方向があいまいになる場合があります。
 そして、魔ものなった悪心がはたらいている引け目は魔ものに見破られ、とり憑かれ、悪循環に陥りかねません。

1 煩悩魔(ボンノウマ)

 目や耳などの六根で好(コウ)・悪(オ)・平(ヘイ)・苦受(クジュ)・楽受(ラクジュ)・不楽不苦受(フラクフクジュ)と感じ、それが潜在意識へ入ってはたらき煩悩となります。
 煩悩が必要以上に求め、暴走し、障害を及ぼすのが煩悩魔です。。
 誰にでもある煩悩について巧みに語り、悪しき面でよく当たるように思わせる占い師などは、煩悩をうまく利用する煩悩魔です。

 自分から出たり、自分から呼んだりし、すぐに腹を立てる、あるいは邪慳になる、あるいは邪淫などの悪行に結びついたりもします。
 負けないための心がけとしては、恩を忘れず、感謝の心を持つことです。
欲に流され理性を眠りこけさせてはなりません。
 また、極論へ走らず、万事、偏らないようにしましょう。

 煩悩魔が離れると良縁がつくようになり、非行が防止され、夫婦円満、家庭円満となります。
 個人的、家庭的な運勢がよくなります。

2 天魔(テンマ)

 嫉妬が魔ものとなり、自分でもわけがわからぬままに他への害意を抱いたり、あるいは人智の及ばないところから害意を持って襲い来るのが天魔です。
 とかく悪口を言い、わけもなく他へ攻撃的になっていれば、天魔が生じているかも知れません。
 自讃毀他(ジサンキタ)といい、臆面もなく自らを讃歎し、他を貶めるような状態になれば、もはや重症です。
 天魔が強くはたらくと、仮の良縁はすぐに消され、実の良縁も、もぎ取られてしまいます。

 負けないための心がけとしては、謙虚になり、感謝の心を持つことです。

 天魔が離れると金運などに恵まれ、事業が伸び、社会的活動が活性化します。
 他動的な運勢がよくなり、社会的な運勢がよくなります。

3 死魔(シマ)

 死に対する怖れや、死に関係する人の悪心や、死に神から来る障害です。
 わけもなく、死にたくなります。
 あるいは傷つけたり、殺したくなったりします。
 死に対する歪んだ関心が、無用の怖れや道理でない期待となったりします。
 苦しんでいる人へ言葉によるいたわりをせず、心ない言動をとり、心からぬくもりが消えている人は、死に神になっています。
 一度口から出た言葉へいつまでもこだわり、凍った状態を溶かそうとしない頑迷な人も、ぬくもりから遠ざかっています。
 怨みや未練を持ったままで亡くなられた場合は、しっかり引導を渡さねばならないのはもちろん、供養法も重要です。

 負けないための心構えとしては、自分も世界も(クウ)であり、であればこそ愛しいという気持を体験することです。

 死魔が離れ、地縛霊が解かれ、死霊が安らかになると、周囲に陽光が射してくるような気配となり、運気が陽の方向へ転換します。
 亡者を怖れなくなり、呼び込まなくなります。

4 蘊魔(ウンマ)

 モノや感受作用や意志作用など、この世の構成要素の不釣り合いから来る障害です。
 言葉は巧みだけれども基本的見解の正しくない人や、自他のものの区別を忘れる人となり、ものを正しく観られないので、すぐにトラブルとなり、親子の争いが起きたりもします。
 物欲や食欲などの五欲が混乱するのは、煩悩魔と共に蘊魔もはたらいている場合が多いものです。

 負けないための心構えとしては、とにかく色眼鏡を外し、ありのままに観て正しい見解を持つことです。
 また、人も、ものごとも、入れ物だけでなく実態をよくよく見透さねばなりません。
 見聞きするものに惑わされない人間にならねばなりません。

 蘊魔を断てば、特に、人を動かす仕事関係においてよき変化が出ます。
 
 自分自身を省み、心がけを考えて過ごし、手に負えない時には四魔切りのご加持(カジ)によって障害を取り除き、善願成就となりますよう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
04.17

守護されている祈りの場 ─なぜ、修法の前後に唄うようなお経を唱えるのか?─

20120417001.jpg

 ご祈祷やご供養の修法が終わると、「最初と最後の長く唄うようなお経は何ですか?」と訊かれる場合があります。
 最初に「おんー」と始まるのは、四智梵語(シチボンゴ)といい、大日如来の智慧を四つの方向から讃えるものです。
 この声明(ショウミョウ)にともなって道場は東からも南からも西からも北からもみ仏の光明に照らされ、包まれます。

 まず、東におられる阿閦如来(アシュクニョライ)の智光が降り注ぎ、ものごとをありのままに観る智慧によって私たちの歪んだ見方が正されます。
 次に、南におられる宝生如来(ホウショウニョライ)の智光が降り注ぎ、ものごとをわけへだて無く観る智慧によって私たちの見ていない部分も明らかになります。
 次に、西におられる阿弥陀如来(アミダニョライ)の智光が降り注ぎ、ものごとの違いを見分ける智慧によって、この世の彩りが感受されます。
 次に、北におられる釈迦如来(シャカニョライ)の智光が降り注ぎ、ものごとのはたらきを知る智慧によって、この世のダイナミックなさまがわかります。

 こうして修法の場は智慧の光に満たされ、結界の中にいる私たちの迷妄も取り除かれているので、いつもとは違う心が仏神や御霊へ向かって開いています。

 また、そうしている間に、私たちの心に巣くう四魔(シマ)も封じられ、み仏から分けいただいた無限の仏心である四無量心(シムリョウシン)がはたらき始めています。
 
 まず、東におられる阿閦如来は天魔(テンマ)を断ってくださり、「捨(シャ)」の心が活性化されます。
 妬みや高慢心がなくなり、自分勝手なわけへだてを〈捨てる〉心になります。
 次に、南におられる宝生如来は蘊魔(ウンマ)を断ってくださり、「喜(キ)」の心が活性化されます。
 制御しがたいほどの心のはたらきも、身体のはたらきも、押し寄せる情報も整理され、他人の喜びを心から〈喜ぶ〉心になります。
 次に、西におられる阿弥陀如来は煩悩魔(ボンノウマ)を断ってくださり、「悲(ヒ)」の心が活性化されます。
 自己中心で〈欲しい〉〈惜しい〉とかき集める猪八戒(チョハッカイ)が持つ熊手のような欲がおさまり、生きとし生けるものの苦を〈悲しむ〉心になり、苦を取り除かないではいられなくなります。
 次に、北におられる釈迦如来は死魔(シマ)を断ってくださり、「慈(ジ)」の心が活性化されます。
 宿命としての死は生きものとして最強の恐れをもたらし、人の道を忘れさせる場合すらありますが、空(クウ)の境地に立ち、生きとし生けるものを〈慈しむ〉心になり、皆ともに楽しむ世界をつくらないではいられなくなります。

 これが、四魔封じと四無量心の活性化です。
 本堂であれ、墓地であれ、皆さんの居宅であれ、山であれ、海であれ、結界され聖地となった修法の場では、最初の数分の間にこれだけの法が結ばれています。
 導師も皆さんも別世界へ入り、み仏の心が輝き出しています。

 そして最後に「のうまくー」と不動讃(フドウサン)が唱えられる場合は、大日如来の使者として結界を張り、修法をご守護くださったお不動様を讃え、感謝申し上げます。
 あるいは、「願わくばこの功徳(クドク)をもってあまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」と廻向文(エコウモン)が唱えられる場合もあります。
 今こうして至心にまごころそのものになり、み仏のご加護をいただいた功徳を自分のためだけでなく、この世とあの世の一切へ廻し向け、世界がみ仏の道にそった清浄なものとなりますようにと願うのです。
 導師はただ、経文を〈読んで〉いるのではありません。
 密教の導師は必ず結界を張り、場を聖地化してみ仏を讃え、善男善女の願いをみ仏へお届けし、感謝の法をもって一座を終えます。

 泉墓苑でご納骨が終わり、空を見上げてAさんが言われました。
「ああ、心が晴れたようです」
 本堂で一周忌が終わり、涙の薄膜に覆われた瞳の奥から微かな喜びを発しつつ、Bさんが言われました。
「これまで、自分の悲しみの中だけに閉じこもっていたような気がします。
 やっと歩き始められそうです」
 ご加持(カジ)を受けたCさんが言われました。
「こうして四魔切りをしていただくのが、私の最後の救いの道だと思っています」
 祈りの場は、確かなご守護の場でもあるのです。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2009
08.11

ご本尊様として金色で巨大な大日如来を安置した理由

 当山は、まず、家の守本尊様として如来像を授かり、次いで、開山の本尊として金剛界大日如来像を授かりました。
 それ以来、如来像をもって先祖供養や御霊供養を祈り、開山後は、金剛界大日如来像と、守本尊法の尊である守本尊八尊像と地蔵菩薩像、そして弘法大師像へ祈りつつ今日まで来ました。
 守本尊八尊とは、子年生まれの方は千手観音、丑寅年生まれの方は虚空蔵菩薩といった方々です。

 今回、大きな大日如来像を安置したのは、ご縁の方々に経典の説く大日如来をイメージしていただきたいからです。

 私たちの心は、目で見るものにより、耳で聞くものにより、鼻で嗅ぐものにより、舌で味わうものにより、肌で触れるものにより、心に思い描くものにより、無意識のうちにはたらきようが作られてゆきます。
 至心に仏像を見れば仏像の心に近づき、敬虔な気持で読経を聴けば経典の心に近づき、色欲でポルノを観ればポルノの心に近づき、怨念で殺人法を聞けば殺人者の心に近づきます。
 経典を読み、僧侶の説明を聞けば宇宙の根本仏大日如来様の姿やご利益の内容を理解できますが、視覚のはたらきは〈感覚の王〉であり、やはり「百聞は一見にしかず」です。
 大日如来像を仰ぎ観て「ああ、そうなのか」となれば、読んだり聞いたりしたものの内容がより深く実感できることでしょう。

 ところで、大日如来がご本尊様となっている寺院はあまりありません。
 観音様やお不動様やお地蔵様などの方が圧倒的に多いはずです。
 その理由は、大日如来が、あらゆるみ仏方の徳全体を体現しておられる方であり、あらゆるみ仏方の徳の泉のようなものだからです。
 観音様ならまず〈お優しい方〉といったイメージがあり、お不動様ならまず〈厳しく恐ろしい方〉といったイメージがあり、お地蔵様ならまず〈親しみやすい方〉といったイメージがありますが、大日如来はきっとイメージしにくいことでしょう。
「光無消滅」と説かれ、決して消滅することなく影を作らない最高の光を放つ如来様なのですが、阿弥陀如来の浄土信仰が深まった時代を経ているので、〈光の仏様〉といえば、まず、阿弥陀を連想される方が多いのではいないでしょうか。

 しかし、当山は、宇宙の根本仏にお会いしていただき、真実の宇宙はみ仏のお慈悲と智慧の光に満ちた世界であり、私たちの居場所こそが宇宙の中心であることを実感していただきたいのです。
 いつでも綴じた瞼の裏側に金色の大日如来像が浮かべば、きっと、いかなる困難に遭っても乗り越える力が出ることでしょう。
 誰しもが〈できることしかできない〉けれど、誰しもが自分の思っている以上の力を持っているものです。
 思わずカッとなった時、暗く落ち込んだ時、固い壁にぶつかった時、なかなか眠れない時など、いつでも瞼の裏の暗闇で輝く金色の大日如来様は救いの手を差し伸べてくださるはずです。
 まして、その真言「おん ばざらだとばん」がお像へかぶされば言うことはありません。

 最近、作家の高任和夫氏から藪から棒に「いつ、死んでも良いと思わないか?」と訊ねられ、「ああ、そうだな」と応じました。
 もちろん、今回の講堂建立についての借金があり、これまで娑婆でお世話になかった方々への恩返しやご迷惑をおかけした方々へのお詫びなどが山積してるので、今、死ぬわけにはゆかないのが実情ではありますが、そこはもう、み仏へお任せしてあるのでいかんともできません。
 さりながら、とっさにそうだと口から出た理由の一つが、もう、私の心の奥深く金色の大日如来様が住まわれ、いつ、いかなる時でも瞼の裏側で確認できるという確信であることはまちがいありません。
 ご縁の方々が煩悩魔(ボンノウマ)、天魔(テンマ)、死魔(シマ)、蘊魔(ウンマ)の四魔に襲われた時など、いつでもお救いいただけるよう、日々祈り続けます。

〈小雨が降ったり止んだりの日、安置するためのパイプやぐらを外したお姿へ合掌した瞬間、陽光が窓から差し込みました。立って合掌した私の手が光っているようにも見えます。不思議な一瞬でした。撮影していただけたのも驚きです

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2008
03.10

運命転化法13 ―何かが希望を邪魔する時は―

 運気の流れがおかしいなと思った時は、『大日経』の説く四魔にやられている場合があります。
 魔ものは自他の心に住み、運勢に作用して苦をもたらします。

1 煩悩魔
 この魔ものが活躍すれば、「五欲」がむき出しのままで暴れます。

 意志を実現させ、生活に安定と安全をもたらすべき「財欲」は、奪い、奢り、品格を失わせる醜い力になります。
 恥を忘れず矜持を大切にし、社会貢献の機会を大きくする「名誉欲」は、勲章を誇り、他を見下す醜い力になります。
 子孫を繁栄させ、人生を彩る「色欲」は、生活に乱れと破壊と転落をもたらす醜い力になります。
 活力と身心の安寧をもたらす「食欲」は、節制を忘れさせ、身心に病気をもたらす醜い力になります。
 生命力を回復させ、精神を健全にはらたかせる「睡眠欲」は、怠惰をもたらす醜い力になります。

2 天魔
 この魔ものが活躍すれば、「幸せつぶし」が行われます。
「他人の不幸は蜜の味」というとんでもない言葉がありますが、こうした暗いものが心のどこかに潜んでいることは確かです。
 自分は他人と異なっているからこそ自分だという「自分らしさ」の意識がある一方で、周囲の人びとや周囲の生活や周囲の環境と同じだからという安心感もあるものです。
 この安心感は無意識にはたらいており、誰かが急に上昇を始めると敏感に反応し、悪口を言ったり邪魔をしたくなったりします。

3 死魔
 この魔ものが活躍すれば、夢は色あせます。
 私たちは死へ向かって生きている存在ですが、そのことを「知りつつ、程ほどに忘れている」のが健全な精神というものです。
 忘れ過ぎていれば我欲の虜になり、品位が失われます。
 釈尊は『法句経』において、その醜さをくり返し説いておられます。
 一方、意識させ過ぎるのが死魔のしわざであり、生きる力を害します。

4 蘊魔(ウンマ)
 この魔ものが活躍すれば、能力が発揮できなくなります。

 陰魔(オンマ)とも称されるとおり、運勢を陰の方向へ導き、意欲を歪ませます。
 一方、歪んだエネルギーが溜まると思いもよらない形で暴発し、自他を破滅させたりもします。
 校長先生が生徒へセックスを迫ったり、生徒が学校へ殺人予告をしたり、迷惑メールをばらまいたりといった行動は、この魔ものの仕業です。

 み仏は私たちを魔ものから救うため、守本尊として不断にはたらいておられ、それを「獅子奮迅(シシフンジン)」と言います。
 魔ものに負けないためには、教えを学び実践し、仏神のご加護をいただき、周囲へ良き縁を招き寄せることです。
 ご加護をお求めの場合は、守本尊法によるご加持やご祈祷によって魔切を行います。

 春になると特にはたらくのが煩悩魔です。
 やられないように気をつけましょう。

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2008
01.17

蓮華を踏むこと ―今年の抱負 その1―

 修法の作法に「足に蓮華を踏むと思うて堂前に歩行し」というものがあります。
 行者修法の場へ向かう際は(もちろん、登高座と称する座所へ向かう間も)、足で蓮華を踏むような感覚で歩まねばならないという意味です。

 蓮華はみ仏の座であり、常に美しくあらねばなりません。
 一足ごとに華を踏みながら前へ進み、かつ、それを壊さぬようにするにはどうしたら良いのか。
 指の方から着地するにせよ、踵(カカト)から着地するにせよ、普通の歩行であれば指のあたりで地面を蹴らねばなりません。
 それでは華を散らしてしまいます。

 結局、方法は一つしか思い当たりませんでした。
 足の裏を限りなく水平に保ちながら真上からそっと下ろし、そのまま垂直に持ち上げて前へ進むというものです。
 もちろん、未だにきちんとできているわけではありませんが、葬儀場で導師の席へ向かう時は、皆さんの背中の側から進むので、皆さんの視野へ入るまでほとんど気づかれない場合もあります。
 蓮華を壊す音が出ないからです。

 そして、これが「行者歩行」というものであれば、隠形流居合においてもそうした動きが基本にならねばならないのではないかという問題意識をずっと抱いていました。
 今年はこの地点から修行の再出発をし、何年かかるかは判りませんが、自分なりに納得の行くレベルを目ざそうと考えています。

 法力に己の衣をかけ、一振りの剣に己のいのちをかけていた時代には、数珠を手にする行者も、剣を手にする行者も、加齢を言い訳にして法力が使えなくなった、あるいは剣さばきができなくなったなどと口にすることは許されなかったはずです。
 それは行者としての死を意味するからです。
 身心を酷使し数に不足はないほど薬も服用していますが、病魔死魔と闘えるうちにできるだけのことを行い、いのちの核心となっているものが動かせるヒントを次の世代へ遺したいと願っています。
 修行と祈願を重ねると同時に、法事などの修法の場となるだけでなく、寺子屋としても居合の道場としても皆さんが使えるお堂を、何としても造らねばなりません。

 何人かの善男善女から同様のご質問があったので、忌憚なく書きました。
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