かつてお世話になり、出家後に幽明境を分けた方々の菩提を弔うための一日がやってきました。
まずお訪ねしたのは、父親を亡くされた東京都練馬区のAさんです。
表通りから横町を少し入った神社の向かい側にあるお宅のたたずまいは昔と変わっていませんが、応対に出た若者は笑顔がなく少しこわばった表情をしており、会った記憶はありません。
名のると、入れ替わりにAさんが現われました。
「どうしたの?
まあ、上がんなよ。
どうしていたかと思っていたよ」
声はあの当時のままですが、少し眼の縁がくぼみ、髪は白くなり、頬もこけて見えるのは年月のせいでしょう。
さっきの若者はAさんと三人で旅行したことのある共通の友人Bさんのご子息で、ここに弟子入りしたのだそうです。
ただし、師匠はAさんでなくAさんのご子息。
文字通り代替わりしており、もう、あの進取の気迫に満ちた若獅子のようなリーダーAさんの時代ではありません。
求道者のAさんはゴルフを探求する人になっていました。
Aさんからお聞きする「あの当時の人々」の転変は、どれもこれも驚くべきものでした。
突然出家した我が身をふり返れば、そう驚く必要はないのかも知れませんが、何度「えっ!」と言ったことでしょうか。
師匠と心に定めていたCさん宅のチャイムを鳴らした時、後から「あらあ」と声をかけられました。
ちょうど、亡きCさんの奥様が買い物から帰られたのです。
居間は昔のままですが、覇気の塊のようだったご主人は、仏壇の前の遺影で「イヨッ」と手を挙げているだけです。
お線香を捧げ,お経を唱えてから、亡くなられるまでのご様子をお聞きしました。
数年前の正月明けに四人組の強盗に襲われ、家族三人は九死に一生を得ました。
強盗は実に用意周到で、充分に下見をしてから白昼堂々と乗り込みました。
ガムテープで縛られ動けないでいるうちにすっかり金品を持ち去られました。
三人とも頭を切られたり殴られたりはしたものの、「とにかく殺されないで良かった」と言われます。
実際、同じメンバーが、次に襲った宝石店で老婦人を殺害したそうです。
事情を知っている人が関係しているとしか思えない手口にすっかり気落ちしたCさんは、その年の九月、書類などを机の上へ出しておいたまま、すぐ帰るつもりで検査入院に向かった病院から帰ることができませんでした。
ものごとの筋道と人情を大切にしたCさんは、今も心の師匠です。
電車を乗り継ぎ、歩いて探したDさんの表札を見つけた時は、もう薄暗くなっていました。
すでに十年ほど経っているはずなのに、表札は門柱にはめこまれたままでした。
お父さんそっくりの娘さんやお孫さんたちもいるにぎやかなお宅。
夏になるとステテコ姿で市場の前方に陣取り、勝負は鋭いけれどもいつも穏やかで、どこへ行っても慕われていたDさんの人柄が偲ばれます。
片岡千恵蔵ばりのDさんは、仏壇で釈尊の横に小さく立っておられました。
ガンを患いかなり痛みが激しいはずなのに、家族の前では一度も痛いとか苦しいとか言うことなく静かに逝かれたそうですが、ある夜、奥さんは、医者をやっている弟へこっそりかけている電話の声を聞きました。
「お前も医者なら、俺の痛みがどうにかできないのか」
頬がふくよかで切れ長の眼に和やんだ色しか見せたことのないDさんのお人柄が偲ばれ、「さすがお師匠さん」と胸を張りたく、泣けてきました。
神様と称されるほどの目利き人だったEさんは、息子さんが馬で失敗したばかりに失意の裡に旅立たれたと聞きました。
もはや家も何もなく、ご一家は離散しているそうです。
誰しもが一目も二目も置いていたEさん、皆が独楽の中心と頼りにしていたEさん、そこに居てくださるだけで場が一つになったEさん、江戸の人だったEさんはいかなる思いで最期を迎えられたのか………。
電車の窓に映る自分の顔を見ながら、いつの日か必ずお墓を探してお参りしようと決心しました。
待ちに待った報恩の一日はあっけなく過ぎ、最終電車で帰山しました。
旅はまだ始まったばかりです。
いつ、続きが始められるかはわかりません。
あの方、この方、……。
どなたもが心の師匠です。
続けねばなりません。
(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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まずお訪ねしたのは、父親を亡くされた東京都練馬区のAさんです。
表通りから横町を少し入った神社の向かい側にあるお宅のたたずまいは昔と変わっていませんが、応対に出た若者は笑顔がなく少しこわばった表情をしており、会った記憶はありません。
名のると、入れ替わりにAさんが現われました。
「どうしたの?
まあ、上がんなよ。
どうしていたかと思っていたよ」
声はあの当時のままですが、少し眼の縁がくぼみ、髪は白くなり、頬もこけて見えるのは年月のせいでしょう。
さっきの若者はAさんと三人で旅行したことのある共通の友人Bさんのご子息で、ここに弟子入りしたのだそうです。
ただし、師匠はAさんでなくAさんのご子息。
文字通り代替わりしており、もう、あの進取の気迫に満ちた若獅子のようなリーダーAさんの時代ではありません。
求道者のAさんはゴルフを探求する人になっていました。
Aさんからお聞きする「あの当時の人々」の転変は、どれもこれも驚くべきものでした。
突然出家した我が身をふり返れば、そう驚く必要はないのかも知れませんが、何度「えっ!」と言ったことでしょうか。
師匠と心に定めていたCさん宅のチャイムを鳴らした時、後から「あらあ」と声をかけられました。
ちょうど、亡きCさんの奥様が買い物から帰られたのです。
居間は昔のままですが、覇気の塊のようだったご主人は、仏壇の前の遺影で「イヨッ」と手を挙げているだけです。
お線香を捧げ,お経を唱えてから、亡くなられるまでのご様子をお聞きしました。
数年前の正月明けに四人組の強盗に襲われ、家族三人は九死に一生を得ました。
強盗は実に用意周到で、充分に下見をしてから白昼堂々と乗り込みました。
ガムテープで縛られ動けないでいるうちにすっかり金品を持ち去られました。
三人とも頭を切られたり殴られたりはしたものの、「とにかく殺されないで良かった」と言われます。
実際、同じメンバーが、次に襲った宝石店で老婦人を殺害したそうです。
事情を知っている人が関係しているとしか思えない手口にすっかり気落ちしたCさんは、その年の九月、書類などを机の上へ出しておいたまま、すぐ帰るつもりで検査入院に向かった病院から帰ることができませんでした。
ものごとの筋道と人情を大切にしたCさんは、今も心の師匠です。
電車を乗り継ぎ、歩いて探したDさんの表札を見つけた時は、もう薄暗くなっていました。
すでに十年ほど経っているはずなのに、表札は門柱にはめこまれたままでした。
お父さんそっくりの娘さんやお孫さんたちもいるにぎやかなお宅。
夏になるとステテコ姿で市場の前方に陣取り、勝負は鋭いけれどもいつも穏やかで、どこへ行っても慕われていたDさんの人柄が偲ばれます。
片岡千恵蔵ばりのDさんは、仏壇で釈尊の横に小さく立っておられました。
ガンを患いかなり痛みが激しいはずなのに、家族の前では一度も痛いとか苦しいとか言うことなく静かに逝かれたそうですが、ある夜、奥さんは、医者をやっている弟へこっそりかけている電話の声を聞きました。
「お前も医者なら、俺の痛みがどうにかできないのか」
頬がふくよかで切れ長の眼に和やんだ色しか見せたことのないDさんのお人柄が偲ばれ、「さすがお師匠さん」と胸を張りたく、泣けてきました。
神様と称されるほどの目利き人だったEさんは、息子さんが馬で失敗したばかりに失意の裡に旅立たれたと聞きました。
もはや家も何もなく、ご一家は離散しているそうです。
誰しもが一目も二目も置いていたEさん、皆が独楽の中心と頼りにしていたEさん、そこに居てくださるだけで場が一つになったEさん、江戸の人だったEさんはいかなる思いで最期を迎えられたのか………。
電車の窓に映る自分の顔を見ながら、いつの日か必ずお墓を探してお参りしようと決心しました。
待ちに待った報恩の一日はあっけなく過ぎ、最終電車で帰山しました。
旅はまだ始まったばかりです。
いつ、続きが始められるかはわかりません。
あの方、この方、……。
どなたもが心の師匠です。
続けねばなりません。
(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2011
03.08
寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その17)─この世の荒波をのりきる法(その2)─
かつては江戸時代の寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
私たちの宝ものである『実語教・童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。
(慈・悲・喜・捨の四無量心を誰に対しても平等に起こさねば、四苦八苦のこの世を乗りきってはゆけない)
前回にひき続き、今回は「八苦」を考えます。
江戸時代の庶民が子供の頃から「この世は四苦八苦の巷(チマタ)」と教えられていたことは特筆に値します。
私たちが宿命として背負っている苦は、「生苦(ショウク)」に始まります。
この世に一人の子供が生まれ出る時からすでに、生む者も生まれる者も苦しみや危険を伴い、しかも、親は意識して子供を選べず、子供もまた親を選べないという宿命を背負っているという感覚は、喜怒哀楽や好き嫌いや損得に流されるのとは異なる〈深い精神〉のはたらきを育てたのではないでしょうか。
ままならない〈生〉を家族として、あるいはご近所さんとして、共に生きる者同士には〈ある連帯感〉があったのではないでしょうか。
落語の物語はすべて、この連帯感を影の主題として成り立っているように思われます。
共に生きていれば、否が応でも「老苦」「病苦」「死苦」は誰の目にも明らかであり、老いて賢者となった人の病苦や死苦は、周囲の人々にも実感として共有されたことでしょう。
子供が小さいうちから老・病・死を必ず自分にもやってくる宿命と感じ、苦にある人へ手を差しのべる日常生活は、心に大事なものを育てていたはずです。
現代のように亡くなった家族を家の中に放置したまま何喰わぬ顔で生活し続けるなど、考えられなかったことでしょう。
愛する者との別れに耐えること、憎い者に出逢った時の心の持ちよう、こうした心の修行もまた、兄弟であれ、親や祖父母であれ、師であれ、ご近所さんであれ、宿命と対峙して生きてきた人生の先輩がいろいろと指導したはずです。
清貧(セイヒン)は美徳でした。
たとえいかに能力や人徳があっても、ひけらかさず、華美な生活を求めず、いのちを永らえられる程度の環境で憩い、きちんと社会的役割を果たすといったイメージこそが万人の理想であり、出世した人々や成り上がった人々もまた、そうした尺度で社会のどこからか測られていたはずです。
この言葉は言外にモノや金や地位や名誉などを貪る者への軽蔑を含んでおり、貴賤を問わず、人々の品格の基礎になっていたと考えられます。
勤勉も美徳でした。
規則正しい生活を行い、心身を整え、鍛錬することは、社会人として基本中の基本です。
なぜなら、お互いに自分を律してこそ、お互いのためになれるからです。
自分をだらけさせるのは、百害あって一利なしです。
元気なら、わがまま放題で周囲を困らせ、たとえ自業自得でも心身が不調になればまた、見捨てておけない周囲を困らせるからです。
そもそも仕事とは何でしょうか?
辞書などには「生きるために行うこと」「すること」「すべきこと」「職業」といった意味が書いてあります。
しかし、実際に仕事へすべてをかけている者の実感としては、まったく異なる思いがあります。
仕事は「事に仕(ツカ)える」と書きます。
「仕える」の発祥は神仏への祈りから始まっているのではないでしょうか。
「見えざる事(コト)ヘお仕えする」のが仕事の原意だったはずです。
なればこそ、いかなる分野であれ、仕事人は自分の人生の幹を捧げています。
捧げている者は、〈きちんと捧げることができる者としての自分〉を保つために、必ず自分を律します。
仕事の種類によってそれぞれスタイルは異なっていても、自分を律しない〈プロ〉はいません。
仕事からこうした本意が忘れられ、仕事がただ単にお金を得るための手段でしかないならば、あるいは仕事を仕切る側がはたらく人々を道具としか考えないならば、人は「生きがい」をもって生きられるでしょうか?
なぜ、勤勉が美徳なのか、仕事とは何なのか、よく考える必要がありそうです。
ここまでで、四苦八苦を考えました、
江戸時代の庶民がどのように生苦(ショクク)・老苦(ロウク)・病苦(ビョウク)・死苦(シク)・愛別離苦(アイベツリク…愛する相手と別れる苦)・怨憎会苦(オンゾウエク…憎い相手とめぐり会う苦)・求不得苦(グフトクク…求めて得られない苦)・五蘊盛苦(ゴウンジョウク…心身や環境から生まれる苦)に対処していたのか、想像するのは意義あることです。
〈帰り行く〉
「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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私たちの宝ものである『実語教・童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。
四等(シトウ)の船(フネ)に乗(ノ)らずんば、
誰(タレ)か八苦(ハック)の海(ウミ)を渡(ワタ)らん。
(慈・悲・喜・捨の四無量心を誰に対しても平等に起こさねば、四苦八苦のこの世を乗りきってはゆけない)
前回にひき続き、今回は「八苦」を考えます。
江戸時代の庶民が子供の頃から「この世は四苦八苦の巷(チマタ)」と教えられていたことは特筆に値します。
私たちが宿命として背負っている苦は、「生苦(ショウク)」に始まります。
この世に一人の子供が生まれ出る時からすでに、生む者も生まれる者も苦しみや危険を伴い、しかも、親は意識して子供を選べず、子供もまた親を選べないという宿命を背負っているという感覚は、喜怒哀楽や好き嫌いや損得に流されるのとは異なる〈深い精神〉のはたらきを育てたのではないでしょうか。
ままならない〈生〉を家族として、あるいはご近所さんとして、共に生きる者同士には〈ある連帯感〉があったのではないでしょうか。
落語の物語はすべて、この連帯感を影の主題として成り立っているように思われます。
共に生きていれば、否が応でも「老苦」「病苦」「死苦」は誰の目にも明らかであり、老いて賢者となった人の病苦や死苦は、周囲の人々にも実感として共有されたことでしょう。
子供が小さいうちから老・病・死を必ず自分にもやってくる宿命と感じ、苦にある人へ手を差しのべる日常生活は、心に大事なものを育てていたはずです。
現代のように亡くなった家族を家の中に放置したまま何喰わぬ顔で生活し続けるなど、考えられなかったことでしょう。
愛する者との別れに耐えること、憎い者に出逢った時の心の持ちよう、こうした心の修行もまた、兄弟であれ、親や祖父母であれ、師であれ、ご近所さんであれ、宿命と対峙して生きてきた人生の先輩がいろいろと指導したはずです。
清貧(セイヒン)は美徳でした。
たとえいかに能力や人徳があっても、ひけらかさず、華美な生活を求めず、いのちを永らえられる程度の環境で憩い、きちんと社会的役割を果たすといったイメージこそが万人の理想であり、出世した人々や成り上がった人々もまた、そうした尺度で社会のどこからか測られていたはずです。
この言葉は言外にモノや金や地位や名誉などを貪る者への軽蔑を含んでおり、貴賤を問わず、人々の品格の基礎になっていたと考えられます。
勤勉も美徳でした。
規則正しい生活を行い、心身を整え、鍛錬することは、社会人として基本中の基本です。
なぜなら、お互いに自分を律してこそ、お互いのためになれるからです。
自分をだらけさせるのは、百害あって一利なしです。
元気なら、わがまま放題で周囲を困らせ、たとえ自業自得でも心身が不調になればまた、見捨てておけない周囲を困らせるからです。
そもそも仕事とは何でしょうか?
辞書などには「生きるために行うこと」「すること」「すべきこと」「職業」といった意味が書いてあります。
しかし、実際に仕事へすべてをかけている者の実感としては、まったく異なる思いがあります。
仕事は「事に仕(ツカ)える」と書きます。
「仕える」の発祥は神仏への祈りから始まっているのではないでしょうか。
「見えざる事(コト)ヘお仕えする」のが仕事の原意だったはずです。
なればこそ、いかなる分野であれ、仕事人は自分の人生の幹を捧げています。
捧げている者は、〈きちんと捧げることができる者としての自分〉を保つために、必ず自分を律します。
仕事の種類によってそれぞれスタイルは異なっていても、自分を律しない〈プロ〉はいません。
仕事からこうした本意が忘れられ、仕事がただ単にお金を得るための手段でしかないならば、あるいは仕事を仕切る側がはたらく人々を道具としか考えないならば、人は「生きがい」をもって生きられるでしょうか?
なぜ、勤勉が美徳なのか、仕事とは何なのか、よく考える必要がありそうです。
ここまでで、四苦八苦を考えました、
江戸時代の庶民がどのように生苦(ショクク)・老苦(ロウク)・病苦(ビョウク)・死苦(シク)・愛別離苦(アイベツリク…愛する相手と別れる苦)・怨憎会苦(オンゾウエク…憎い相手とめぐり会う苦)・求不得苦(グフトクク…求めて得られない苦)・五蘊盛苦(ゴウンジョウク…心身や環境から生まれる苦)に対処していたのか、想像するのは意義あることです。
〈帰り行く〉
「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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葱坊主寝かされてゐる屋敷畑
屋敷にある畑で抜かれたネギが横になっているだけの光景だが、土の匂いを運んでくる風や、ネギの白さを際立たせる日光や、畑を手入れしつつ暮らす家のある地域の雰囲気といったものまでがにじみ出てくる。
俳句は、実に不思議な力を持っている。
柴桜地の温もりを彩に出す
北アメリカから海を渡って来た柴桜は、高く伸びることなく、地上十五~二十㎝ほどのところで赤や紫や白などの小さな花をびっしりと咲かせる。
大地がぬくもりを宿す頃から暑い盛りまで、色鮮やかなベールとなって地を覆う。色彩は大地の息吹だろうか。
夏木立茂りてわが詩息ずきぬ
もの憂い春先は何となく勢いのつかない日々だったが、緑の葉を茂らせる夏の木立を眺めていると、眼に入るものたちが宿すいのちの光に感応する詩心がムクムクと頭をもたげ、言葉を紡ぐ力が湧いてくる。
生む心と生まれた詩が一体となって息づいている。
カーテンを引くもたのしき若葉光
雨の日は、カーテンを引く力が鈍る。体調が悪ければ、半分しか開けなかったりもする。
しかし、若葉の頃は、早く外光を部屋へ入れたい一心で、一気にカーテンを引ききってしまう。
この「一心」はほとんど無意識だが、とっさの動きが勢いのある句を生んだ。
毎年五月に行われる浅草神社の例大祭では、袢天姿の男たちが御輿をかついでねり歩き、藍絞りの袢天は、五月晴れによく映える。
江戸が気っ風が息を吹き返し、百万人もの人々が四十四町の繰り出す御輿と共に渦となって熱狂する。
いのちを回復する。
東京は吾がふる里よ夏祭
東京で人生の盛りを生きた作者の「吾がふる里よ」には、魂を握られたような思いがする。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と書いた室生犀星は、歯をくいしばっての東京生活だったが、作者にとってのそれは、今となれば輝かしい日々だったのではなかろうか。
[当山の花々です]