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2014
08.13

「とらわれるな」だけではわからない ―お盆には無我を考えよう―

20140803107.jpg

 よく「仏教は、とらわれるな、って教えているんですよね」というお話を耳にします。
 皆さんは「そうか、とらわれなければいいんだ」で一件落着となりますか?

 いったい何にとらわれてはならないのか?
 それはなぜなのか?

1 自分にとらわれるのは勘違い

 私たちは、自分がいると思っています。
 普段は、確かにそうです。
 しかし、何かのおりに、「自分は何か?」と考えてみると、わからなくなります。
 それをつきつめた天才は、5つの要素を発見しました。

・色(シキ)…まず、モノとしての身体があります。
・受(ジュ)…感受作用があります。
・想(ソウ)…思い起こす想起の作用があります。
・行(ギョウ)…こうしようと意志する作用があります。
・識(シキ)…そして、自分がいる、と認識する作用があります。

 この5つを五蘊(ゴウン)と言います。
 そして、五蘊がどれ一つとして欠けずに、うまくまとまっているからこそ、こうしていられるので、そのことを仮和合(ケワゴウ)つまり仮そめの和合と言います。
 仮そめの状態を「(クウ)」といいます。
 何かの拍子にどれかが欠ければ、たちまち、自分は、こうしてはいられません。
 何かが5つを強固にまとめていて、いつまでもいられる人はいません。
 つまり、確固たる我は仮そめ、すなわちなのです。
 このことを「人無我(ニンムガ)」と言います。

 さらによく考えてみると、色・受・想・行・識それぞれも、でしかありません。
 このことを「法無我(ホウムガ)」と言います。

 二つの無我は、自分だけにあてはまるのではありません。
 家族にも友人にも、愛する人にも、憎む相手にもあてはまるのです。

 こうして、法無我人無我を理解すれば、自分を客観的に観られるようになり、狭い自我意識は遠ざかるはずです。
 幻の自分にすがるのは、蜃気楼をつかもうとするようなものでしかないのです。

2 自分も周囲の人々も等しくであると認識できないので、が生じる

 この世がままならないのは、お互いが自己中心的に生きているからです。
 自己中心とは我(ガ)が強いということであり、それは、我がであると知らないから起こる態度です。
 自分がであるとよく認識できれば、自己中心的意識は必ず薄れます。
 憎い相手が空であるとイメージできれば、憎しみは必ず薄れます。
 好きな人が空であるとイメージできれば、自己中心的な執着心は必ず薄れ、大切にしたいという思いやりが必ず大きくなります。
 こうして、ままならなさという本質的な〈〉は自分から遠ざかり、社会からも消えて行くはずです。

3 結論

 とらわれてはならない(とらわれても仕方がない)対象はまず、自己中心を招く自我意識です。
 なぜかといえば、お互いに空という真理を知らず、自己中心的に角張って生きているために、あらゆるを生じているからです。
 皆さんになじみの深い『般若心経』は、人無我(ニンムガ)と法無我(ホウムガ)を説いているので、ずうっと大切にされてきました。
 せっかくお盆になったのですから、こんなことも頭の隅において、般若心経をどうぞ、お唱えください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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