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2014
08.09

秋立つや皆在ることに泪して ―俳人の泪―

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〈酷暑の中で草刈りをしてくださる方〉

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〈彼はなぜ、水面に浮かぶ葉の上に乗ったのか〉

 暑い暑いと言っているうちに、立秋となった。
 当山のあたりでは、草も車も朝露に濡れ、虫たちの声が天地を満たしている。

「秋立つや皆在ることにして」

 明治から平成にかけて、4代を生きた永田耕衣の作である。
 秋立つ時期は、不思議に来(コ)し方をふり返りたくなる。
 耕衣は、ふり返ろうとした瞬間、〈〉現在、ここに〈生きて在る〉ことに衝撃を受けたのだろう。
 しかも、人々と共に在る……。
 〈〉は完ぺきである。
 過もなく、不足もない。
 机があり、ネコが寝ていて、カラスが鳴いている。
 身体のあちこちが傷み、記憶力は落ちかけ、友と会う機会も減ったが、そのままに生きて在る。
 自分を含め、皆が在るとは何というありがたいことか。
 いつの時代の〈〉も、全体として直感できる時、同じ〈〉を誘う。

 それにしても、世界中で流されているは、耕衣のとあまりにも隔たっている。
 赤十字の施設に逃れていてすら爆撃され、家族を失い、友人を失い、家を失い、傷ついたパレスチナの人々。
 国境も無視して一神教と暴力による支配を目ざすイスラム原理主義勢力に追われ、酷暑の山岳地帯へ逃れるイラク北部の人々。
 医師たちまでもがエボラ出血熱に冒され、病魔と死魔の猛威にさらされているギニアの人々。
 最近の祈りには二つを欠かさない。
「一心祈願不戦日本」
「一心祈願世界平和
 日午後からの寺子屋でも、皆さんと一緒に唱えたい。

 耕衣はこうも詠んだ。

「死螢に照らしをかける螢かな」

 先に逝ったホタルのすぐそばで、ホタルが光っている。
 生者死者を意図して照らすのか。
 耕衣は実際にこの情景を観たのか?
 それとも、幻影だったのか?
 いずれにしても、あまりのリアリティーにたじろがされる。
 この句を読んだ瞬間、なぜか、脳内スクリーンの左下に横たわったホタル、右上に光るホタルが出現した。
 しかも、まるで自分がかつて観た光景のように鮮やかだったのはなぜだろうか。
 こうして書いているも、同じ構図が頭にある。
 一枚の写真のように。
 耕衣のリアルと私のリアルは重なっているのかも知れない。

 それにしても、「死」と「照らしをかける螢」とは、まさに写真の中で等価であるように、二者で一つのシーンを構成している。
 息をする耕衣も、歩く耕衣も、詠む耕衣も、このシーン中の人物だったのではないか。
 詠む者と詠まれた世界が一つになっている。
 冒頭のは、そこで流されたのだろう。




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「おん ばざら たらま きりく」※日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2011
05.31

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その53)言葉と祈り

 最近は、大震災の〈間接的被災者〉とでも言うべき方々のご相談が増えました。
 何ら直接的被害は受けていないのに、「とても親族に集まってもらうことなどできず、年忌供養の機会を失い、亡き妻がかわいそうですっかり落ち込んでしまった」方や、「ただでさえ仕事がきついのに、辛い避難所生活をテレビで見せられると参ってしまう」などなど、心がつまる一方です。

 故田村隆一の詩「帰途」を思い出します。

言葉なんかおぼえるんじあなかった
 言葉のない世界
 意味が意味にならない世界に生きてたら
 どんなによかったか

 貴方が美しい言葉に復習されても
 そいつは 僕とは無関係だ
 君が静かな意味に血を流したところで
 そいつも無関係だ

 あなたのやさしい眼のなかにある
 きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
 ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
 ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

 あなたのに 果実の核ほどの意味があるか
 きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
 ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 言葉なんかおぼえるんじあなかった
 日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
 ぼくはあなたののなかに立ちどまる
 ぼくはきみの血のなかにたつたひとりで帰つてくる」


 言葉には意味があり、私たちができごとに意味を感じる時は、必ず、言葉が立ち上がってきています。
 言葉は、理解する人同士の間では同じ意味を有するので、通じ合いが生まれます。
 かわいい赤ん坊が生まれたという一つの事実が、生んだ母親と見守る父親だけでなく、それを伝え聞いた友人にも、母親と父親の持つ喜びに似た喜びをもたらします。
 営々として築きあげたすべてを失ったという事実が、失った人だけでなく、同心円状に伝わる情報を心でキャッチする人々へ、不安に満ちた喪失感をもたらします。
 
 この世には、言葉を、自己中心世界を確固たるものにするために用いようとする人々がいます。
 もう一方には、言葉による共感の海に漂う人々もいます。
 後者は、「あなたののなかに立ちどまる」し、「静かな意味に血を流し」ている人と心の音叉が共振し、放ったままどこかへ行けず「きみの血のなかにたつたひとりで帰つてくる」しかありません。
 ご相談来山され、ご加持を受ける方々は詩人の魂を持った方々なのでしょう。

 さて、5月29日、日本赤軍の幹部で「ドバイ事件」と「ダッカ事件」を起こした丸岡修受刑者(60才)が八王子医療刑務所で亡くなりました。
 無期懲役の刑が確定しても生涯、無罪を主張し続けていましたが、2月22日に書き、3月10日に追記が書かれた遺書には、自分が犯人であるとの真実が記載されていました。
 受刑者は、有罪が確定した後、「(有罪を認めていれば)人々への公的な謝罪の場があり、(量刑も)有期となる可能性があった」と悔いています。
 また、「墓場まで過ちを持ち込むわけにはいかない。死が現実になったところで決心した」とも述べています。
 重大事件の犯人とはいえ、受刑者は人間や社会をよく考えた人物です。
 さまざまな理想は次々に砕け散っても、言葉への信頼性だけは失っていなかったのでしょう。
 死を前にして人間らしく悔悟し、〈吐きだして〉しまわずにいられなかったのでしょう。
 受刑者は、言葉を利用して虚妄の戦いを続けてきましたが、最後には言葉が救いになったのです。

 私たちは感じ、思い、情緒の海に漂います。
 それが苦となる場合もあります。
 詩人は凄まじい覚悟で「たつたひとりで帰つてくる」のですが、皆が同じように生きるわけにはゆきません。
 では、どうするか。
 苦となり、辛くなったなら、〈思う〉だけでなく、〈祈る〉ことです。
 冒頭のご主人なら、
「供養会ができなくてごめんよ。でも僕は君をいまでも想い、君と一緒に残りの人生を歩んでいるのだよ。どうか安心しておくれ」
と祈るのです。
 冒頭のはたらきびとなら、
「皆さんどんなにか辛いことでしょうね。心からお見舞いします。でも、今の僕には駆けつけて手伝ったりすることはできません。一日も早く不通の日常生活に戻れるよう、心から祈るしか、できないのです」
と祈るのです。
 心で血が流れ、も浮かぶことでしょう。
 そこで大切なのは、非力な自分だけではどうしようもないので、仏神へおすがりもすることです。
 被災地から来られた方は言われました。

「子供が熱を出しても病院も、薬もなく、だた身体を抱きしめ、頭を冷やすしかありませんでした。
 夜中に泣くと他の方々の迷惑になるので、主人と代わる代わる廊下であやしました。
 そして、どの神様でも仏様でもいいからとにかく熱を下げて欲しいと心から思いました。
 祖母は、信仰している観音様へ祈ってくれていました」。

 
 言葉と祈りは必ず、忌日に供養を受けられない亡妻も、供養する人も、心優しい思いやりの人も、必ず救うと信じています。

210101 004



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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2009
05.03

5月の第一例祭が終わりました

 ようやく法楽寺の墓苑の桜が咲きました。 
 まだ桜の季節だというのに今週はなんて暑いんでしょうね~。

 でも、今日はとてもさわやかな風が吹いて気持ちのいいお天気の中5月の第一例祭が行われました。
 GWにもかかわらず、たくさんのみなさんがお越しいただきました。

 護摩法が始まると煙が本堂に充満してきて、ボロボロ。
 お経を唱えていても喉がやられて声が出なくなってきます。
 今までの本堂はとても寒かったので、あまり窓を開けられなかったのでなかなかの苦行?^^;でしたが、今日はぽかぽかだったので、窓を開け放つことができて煙はちゃんと外に出ていってくれたのでをこぼすことなく楽ちんでした。

 約一時間。みなさんとひたすらお経を唱えて、途中「護摩の火」にあたってお祈りします。
 例祭が終わるといつもとってもスッキリします☆

 先生の法話は、ダライラマ法王の「心の訓練」についてでした。
 例として、
「困っている人やいやな人だな~~と思う人がいたら、宝物と思いなさい」という教えです。
 なかなか強烈な訓練です(笑)
 たとえできなくても、こういう教えを聞いただけでも何かが違う気がします。
 がんばりましょー^。^v

 その後のお茶タイムも和やかに・・・♪
 Bさんが持ってきてくださった素敵な春の和菓子をいただきながら和気藹々でした。

 それとですね。
 今日は丹野さん(紳士)という強力な助っ人がお寺に来てくれました!
 これからいろいろお手伝いしてくださるそうで、本当にありがたい限りです。

 では、このへんで。例祭便りでした^^
 次回は第二例祭で、5月16日(土)14:00~です。

(書き手─橋里佳)

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2007
06.11

涙が連れて行く先は

 伴侶を失ったご婦人が、人生相談へ来られました。

 菩提(ボダイ)を弔う方法などにいろいろと問題があって、しきりに泣いておられます。

「涙をたくさん流した人は下へ堕ちて、極楽へは行けないと聞きましたが、苦労した主人同様、私も死後にまで苦しみが待っているのでしょうか?」

 

 お答えしました。

「それは誤りです。

 み仏の子である私たちに、そんな無慈悲な成り行きが待っているはずはありません。

 そうかといって、四苦八苦の宿命を負った私たちに、『悲しみや、辛さや、寂しさなどはすべて〈不の心〉だから、さあ、楽しみましょう、楽にやりましょう、いつも笑顔を絶やさぬようにしましょう』などという単純なプラス指向だけで生きられる人生もありはしません。

 

 なぜ、人生にはあたかも伴走者のように涙が伴うのか?

 それは、他者の悲しみや、辛さや、寂しさを知るためです。


 人間に与えられた霊性の根本は慈悲心であり、その輝きは、自らが涙し、他者の涙を知ることにより、我(ガ)なる覆いを突き破る力を持ち得ます。

 他者の涙をよく知っている人が、人を殺し、盗み、謀り、貪るはずはありません。

 この峠を乗り越えたならば、貴女はきっと観音様やお地蔵様のようなお心が強くなりましょう。

 ここへ足を運ばれた以上、これからの貴女は、守本尊様がそばにいてくださることをはっきりと感じる機会が増えます。

 そして、涙するどなたかへ心を寄り添わせ、どなたかの観音様やお地蔵様になれるはずです。



 ある方が、傷ついたハトを見つけて家へ入れて何日か手当をしているうちに、時折、伴侶らしいハトが近くをウロウロしているのに気づかれたそうです。

 傷が癒え、放してやったら、二羽で仲良く飛び去りました。

 その後、しばしば揃ってそのお宅を訪れるようになりましたが、ある日を境に、一羽しか来なくなりました。

 きっと事故か何かがあったのでしょう。

 残された一羽はずうっと訪れているそうです。



 こうして、鳥さえも、寄り添います。

 私たちは、寄り添う心を大切にしたいものです。

 貴女の涙は、その心を育てる清浄な水ですから、どうぞ、恐れることなく歩んでください」




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