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2016
07.30

般若心経の救い

2016-07-30-0001.jpg

 皆さんのご関心が仏法に向かうこの時期、般若心経について少々述べてみます。

1 般若心経三蔵法師(サンゾウホウシ)が救われた話

 中国の敦煌(トンコウ)から見つかったお経が説く、般若心経の救いです。

 唐の時代、玄奘(ゲンジョウ)という意欲に満ちた僧侶がいました。
 彼は、学ぶ仏教に、自分ではどうしても解釈できない問題点を見つけました。
 そこで彼はインドへ行って直接、調べようと決心します。
 若き日のお大師様が、夢のお告げで『大日経』に巡り会った後、どうしても理解でない部分を解くために、唐の都長安を目ざしたのと同じです。

 しかし当時、長安から出ることは固く禁じられていました。
 それでも玄奘はこっそり出発します。
 やがてたどり着いた空恵寺(クウエジ)でインドから来て病気になった僧侶と出会い、手厚く看護します。
(空海とその師である恵果の「空」と「恵」が山号になっています……)
 すると僧侶は、インドへ向かう彼に、救済力のある経典として般若心経を教えてくれました。
 きっとこの僧侶は、般若心経にすがりながらインドからここまでの道中を生きてきたのでしょう。

 当時、道のない砂漠の中を進むには、人や馬などの骸骨が目印でした。
 白々としたお骨を求めて歩むある夜、突然、従者が剣を振りかざし、玄奘から路銀を奪おうとします。
 玄奘般若心経を唱えたところ、月光が刃となって従者の目を貫き、救われました。

 一難去ってまた一難、悪竜などが次々に襲ってきますが、般若心経はすべて退散させました。
 しかし、水がないのには困り果て、彼はついに故国へ踵(キビス)を返そうとします。
 その時、大音声が聞こえました。
「お前は何のために歩いているのだ。
 長安へ引き返して生きるよりも、西へ向かって死のう」
 突っ伏した彼に向かって一陣の涼風が吹き、顔を上げると、そこには草も水もありました。
 いつの間にか、天山(テンザン)山脈の麓にいたのです。

 あらためて勇気を奮い起こした玄奘は、山脈越えに挑みます。
 凍てついた平原や峻険な山、石つぶてのように叩きつける氷雪をものともせず、般若心経を先達(センダツ)として進んだ彼はついに、インドのナーランダー寺にたどり着きました。
 そこで彼を出迎えたのは、空恵寺で看病した僧侶でした。
「私は観世音菩薩である」
 こう告げた彼は消えます。
 般若心経と、その主尊観音様に救われた玄奘は懸命に励み、16年の歳月をかけ、インドから数々の経典を持ち帰りました。
 彼は三蔵法師(サンゾウホウシ)と称され、私たちは彼が翻訳した般若心経に救われ続けています。

2 お大師様が説いた般若心経の意義

 玄奘と同じように、真理を求めて荒海を渡り、長安へ行ったお大師様〈空〉海は、〈恵〉果阿闍梨(ケイカアジャリ)から密教のすべてを伝授され、帰国後、般若心経を解釈する「般若心経秘鍵(ヒケン)」を記しました。
 そこにはこんな文章が含まれています。

「仏法というものは、どこか遠くにあるのではなく、私たちの心の中にあり、誰にとっても身近なものだ。
 真実世界は自分から遠いところにあるのではなく、自分自身を捨ててどこかに探そうとしてはならない。
 迷いも悟りも自分自身にある。
 だから、真実世界を求めようと心の底から決心するならば、そこにこそ、悟りはある。
 迷いも悟りも、極楽も地獄も、遠くにあるのではない。
 教えを学び、信じ、実践すれば、それはたちまち明らかになる」

 原文です。

「夫(ソ)れ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し。
 真如(シンニョ)、外(ホカ)に非ず、身を棄てて何(イズク)にか求めん。
 迷悟(メイゴ)我れに在(ア)り。
 則ち発心(ホッシン)すれば、即ち到る。
 明暗(ミョウアン)、他に非(アラ)ず。
 則ち信修(シンシュ)すれば、忽(タチマ)ちに証す。」


 また、般若心経の最後にある「ぎゃてい、ぎゃてい、~」という真言についてこう述べておられます。

真言は不思議である。
 ご本尊様を正しく観想しながら一心に唱えれば、根源的な無智の闇は取り除かれる。
 一字一字に無限の真理を含んでおり、
 真言に導かれるこの身このままに真実世界の救いが実感できる」

 原文です。

真言は不思議なり
 観誦(カンジュ)すれば無明(ムミョウ)を除く
 一字に千理を含み
 即身に法如(ホウニョ)を証す」


 そして得られる世界はこう説かれます。

「ぎゃてい、ぎゃてい、という真言と共に、絶対の安寧がもたらされ、
 ぎゃてい、ぎゃてい、という真言と共に、根源的なみ仏の世界へ還り着く。
 迷う世界は旅人が泊まる仮の宿のようなものであり、
 本来の居場所は、自分自身にある悟りの世界である」

 原文です。

「行行(ギョウギョウ)として円寂(エンジャク)に至り
 去去(ココ)として原初に入る
 三界(サンガイ)は客舎(カクシャ)の如(ゴト)し
 一心はこれ本居(ホンコ)なり」


 結びです。

「般若心経に説かれる一文字、一文章はすべて真実世界に充ち満ちており、
 終わりも始まりもなく、私たちの心中に存在している。
 心の目が曇っている人には、心が閉ざされていて見えないが、
 この経典の主尊である文殊菩薩と般若菩薩(ハンニャボサツ)は、曇りを取り除いてくださる。
 この救いの妙薬を迷う人々へ与えて苦しみや心の乾きを癒し、
 さらに、根源的な無智をうち払って魔ものたちの軍勢を破摧しよう」

 原文です。

「一字一文、法界(ホッカイ)に遍じ
 無終無始にして、我が心分(シンブン)なり
 翳眼(エンゲン)の衆生(シュジョウ)は、盲(メシイ)て見ず
 曼儒(マンジュ)・般若(ハンニャ)は能(ヨ)く紛(フン)を解く
 この甘露(カンロ)を灑(ソソ)いで迷者(メイジャ)を霑(ウルオし
 同じく無明(ムミョウ)を断じて魔軍(マグン)を破せん」


3 ある人生相談

 墓石などにかかわっておられるAさんがしみじみと言われました。
「こういう仕事をしていると、いろいろ考えさせられ、〝自分はこうしていていいのだろうか?〟と疑問に思えてきます。
 今は虫一匹を踏みつぶすこともできないし、縁になるお客様には心で合掌しています。
 生きなおしを考えています」
 Aさんに前述の物語と、お大師様の教えをお伝えしました。
 般若心経がますますありがたくなったと言うAさんの瞳に力ある光が宿りました。

 8月9日の講演「お盆・終括・生きなおし」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5155.html)では、こうしたお話も申し上げたいと考えています。(022ー224ー3384)
 どうぞふるってご参加ください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2016
06.21

晩年のお大師様が表した願いとは? ─迷いを解き、万人を救うために─

2016-06-21-0001.jpg

 お大師様は、み仏の世界へ旅立つ7ヶ月前にこの文章を書かれました。
 すでに死期を悟り、2年前から穀類を断っているという状況にあって、金剛界と胎蔵界という大日如来の世界を表現し、行者が修法し、ご縁の方々が参拝して救われる仏塔とマンダラを造る事業にとりかかられました。
 しかし、高野山に資材が集まり、人は集まっても、食べる食糧が足りないのでお金一銭、米一粒でも布施していただきたいと願い、以下の文章を書かれたのです。
 少々、長いのですが、一文字たりとも省ける部分がありませんので、筑摩書房の「空海全集」から転記してみます。

「夫(ソ)れ諸仏の事業は、大慈を以(モッ)て先と為し、菩薩(ボサツ)の行願(ギョウガン)は、大悲を以て本(ホン)と為(ナ)す。」


(そもそも、もろもろの仏のなされることは、大いなるいつくしみの心を第一とされ、菩薩の衆生をすくわんとする行為と願いは、大いなるあわれみを、要点としている)

 仏菩薩は、私たちへお慈悲をたれておられます。

「慈は能(ヨ)く楽を与へ、悲は能(ヨ)く苦を抜く。
 抜苦与楽(バックヨラク)の基(モトイ)、人に正路(ショウロ)を示す、是(コ)れなり。」


(いつくしみは人々に楽を与えることができ、あわれみは苦しみから救い出すことができる。
 苦しみから脱し、楽を与えてやることの基礎は、人々に正しい仏の道を示してやることに他ならない)

 動物も植物も人間も、生きとし生けるものはすべて、楽に生きられる方向を求め、死へ向かう苦しみから脱したいと願っています。
 それを見捨てられないならば、救われる正しい道を教えてあげるに越したことはありません。

「謂(イ)う所の正路(ショウロ)に、二種有り。
 一には定慧(ジョウエ)門、二には福徳の門。
 定慧(ジョウエ)は正法(ショウボウ)を聞き、 禅定(ゼンジョウ)を修するを以(モッ)て旨と為し、福徳は仏塔を建て、仏像を造するを以(モッ)て要と為す。
 三世の諸仏、十方の薩、皆斯(コ)の福智を営みて、仏果を円満す。」


(いわゆる正しい道には、二種の行き方がある。
 一つは瞑想〔定〕と智慧〔慧〕をもっぱらにするもので、第二は、善行に因り人々に福を与えることをもっぱらにする行き方である。
 定と慧は、正しい仏の教えを開いて、深い瞑想を修行することを主とし、福徳を与えるのには、仏塔を建て、仏像を造ることを、要点とする)

 私たちがまっとうに生きたいならば、心を平静にして我欲や自己中心の心から離れ、真理・真実を見極めるのが一つ、もう一つは、他者へ福徳を与えることです。
 つまり、み仏の教えに基づいて瞑想の修行をするか、もしくは仏塔や仏像を造り、人々が救われる場とすることです。
 自分自身の心を制御し、他者のために役立つこと、これが歩むべき正しい路です。

「三世(サンゼ)の諸仏、十方の薩埵(サッタ)、皆斯(コ)の福智を営みて、仏果を円満す。
 是の故に比年、四恩を抜済(バッサイ)し、二利を具足(グソク)せんが為(タメ)に、金剛峯寺に於(オイ)て、毘盧遮那(ビルシャナ)法界体性塔(ホウカイタイショウトウ)二基、及び胎蔵・金剛界両部曼荼羅(マンダラ)を建て奉る。
 然(シカ)るに今、工夫(コウフ)数多(アマタ)にして、粮食(リョウショク)給し難し。」


(過去・現在・未来の仏たち、世界全体の菩薩たちは、みなこの福徳の行いをして、さとりの境地を完成するのである。
 この故に、最近、父母・国王・衆生・三宝の恩に報いんとして、すべての苦を除いて、自利・利他を完全になしとげようと思った。
 そこで高野山金剛峯寺に毘盧遮那仏という宇宙の本体を表すため二基の塔を建て、金剛・胎藏二部の曼荼羅をお作り申しあげることにした。
 しかしながら、今、労役する者はおびただしく、食糧を満足に与えられない)

 悟りを開いたみ仏は、智慧を磨き、世界へ福をもたらした方々です。
 自分勝手な考えを持ち、欲しい、惜しいと貪るままで不動の安寧を得ることはできません。

 そうした役割を果たそうとする仏教者として、お大師様は死期を迎えてなお、仏塔とマンダラを造ろうとされました。
 しかし、山上の高野山では、はたらく人々の食べものにすら事欠くありさまです。

「今思はく、諸(モロモロ)の貴賤の四衆と、斯(コ)の功業を同じくせんと。
 一塵(イチジン)大嶽(タイガク)を崇(タカ)うし、一滴広海を深うする所以(ユエ)は、心を同じくし、力を勠(アワ)すが、之(コレ)致す所なり。」


(今思うに、多くの貴者・貧者・僧・尼僧・男女の信徒たちとともに、この仕事を一緒になし遂げたい。
 塵も積もって大山として聳え、一しずくの水が広い海を、いっそう深くすることができるのは、それは心を合わせ、力を合わせてこそ、できるのである)

 人の道を行くよきことは、相手を選ばず、共に行いたいものです。
 私たちは子供の頃から「塵も積もって山となる」と、精進の大切さと価値を教えられたはずです。
 そして、ことをなし遂げるためには、心を一つにし、真に力を合わせせなばりません。


「伏して乞(コ)ふ。
 諸(モロモロ)の檀越(ダンオチ)等、 各(オノオノ)の一銭、 一粒(イチリュウ)の物を添へて、斯(コ)の功徳(クドク)を相済(アイスク)へ。
 然(シカ)らば則ち営む所の事業(ジゴウ)、不日(フジツ)にして成らん。
 生ずる所の功徳(クドク)万劫(マンコウ)にして、広からん。
 四恩(シオン)は現当(ゲントウ)の徳に飽き、五類は幽顕(ユウケン)の福を饒(ユタカ)にせん。
 同じく無明(ムミョウ)の郷(サト)を脱して、斉(ヒトシ)く大日の殿(デン)に遊ばん。
 敬って勧む。
 承和元年八月二十三日」


(心よりお願い申しあげる。
 多くの施主たちが、それぞれ金一銭、米一粒をあつめて、この功徳をなしとげるように。
 そうすれば、きっとこの大事業も、日ならずして完成するであろう。
 その行為によって生まれる功徳は永遠に亡びることなく、世界中に広く行きわたるであろう。
 四恩は現在および未来も、その恩に充分に報いることができ、五類の天は、目に見える。また目に見えぬ福を豊かに垂れてくれるであろう。
 そして皆ともに無知の迷いの世界を抜け出して、そろって大日如来のさとりの御殿に遊べるようにさせたまえ。
 謹んでおすすめ申しあげる)

 これは、西暦834年に書かれました。
 今から約1200年前のできごとです。
 恵まれた環境や、約束された栄誉をなげうって仏道に入ったお大師様は、還暦にいたってなお、烈々たる万民救済の意思を持ち、全身全霊をかけて法務に邁進しておられました。
 宮中で修法を行い、般若心経の解説書を書き、高野山ではこうした活動を行っておられました。
 そのおかげで私たちは、現在、学び、実践し、救われ、救うことができます。

 日本が戦争をせず、子供たちが怒りや怨みやイジメの心を離れ、ひいては世界が平和になるよう願い、祈る当山の「不戦堂」建立運動も、フンドシを締め直して進めねば、と奮い立つ思いです。




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
01.07

縁起と空 ─苦の断ち方─

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〈お正月になっても、まだ柿の実が残っています。地元の方々は、イノシシの勢力が強いのでクマが里へ降りてこられないからだろう、と言っていますが……〉

 を根元から滅するには、縁起(クウ)を理解せねばならない。
 仏道修行のすべてはここにある。
 
 しみはなぜ、誰も望まないのに、誰しもに起こってくるのか?
 そして、なぜ、み仏というしみのない存在があるのか?

 それは、私たちの誰しもが無明(ムミョウ)という〈見え方にとらわれた見解〉を持っているだけで、〈ありようそのもの〉つまり(クウ)が観られないからである。
 み仏は〈ありようそのもの〉をつかみ、を観て悟りを開かれたからしみがなくなった。

 悟られたみ仏は、望まぬしみにしむ私たちを見捨てておけぬお慈悲によって、自らが得られた智慧の教えを説かれた。
 私たちは、このお智慧にすがり、望まぬ苦から望む楽へと向かいたい。

「何でも縁起しているものは
 それはであると説く
 それは[他に]依存して仮設されたものなので
 それは中の道である」(「中論」)


 とは、っぽという意味などではなく、空を説く「般若心経」にたくさん「無」が出てくるからといって、「無」を意味するのでもない。
 すべてのものは他に依存しつつ存在しているので、存在するものすべてに共通する本質を空と言う。

 現象世界のすべてが他に依存して現れ、滅する成り行きを縁起と言う。
 縁起によって現れている現象世界にあるすべてのものは、例外なく他に依存しているのであり、そのありようは空なのだ。

 また、「私」と名づけた自分、「ネコ」と名づけられる一匹の動物、「ボールペン」と名づけられた一本の道具、それらのすべてがそれ自体で成立しているのではなく、単なる名前で特定される存在であるという意味でも空である。
 私もネコもボールペンも、名前があるからそれ自体で存在しているのではなく、仮そめに在る存在が名づけられただけのものである。

 例えば、好きな彼女がそれ自体で確かに居ると思う〈実体視〉する勘違いを実在論と言い、それは〈見え方にとらわれた見解〉に他ならず、無明という苦の根源に含まれる。
 例えば、「空という本質」について早とちりし、何にも不動の本質が無いのならすべては無だと諦めてしまう勘違いを虚無論といい、これもまた無明という苦の根源に含まれる。

 実在論にも虚無論にも偏らず、存在するものをありのままに空と観るのが「中の道」すなわち中道である。
 

「ゆえに、縁起しない現象
 何一つ存在していない
 ゆえに、空でない現象
 何一つ存在していない」(「中論」)


 私たちの苦は、3つの相貌を持つ。
 寒い、痛いなどの〈感覚的な苦〉、美女が老醜を避けられず、名陶が地震で破片に変わるような〈壊れて行く苦〉、そして、一切が無常であり何一つ掴まったり、掴んだりし続けられない〈流れ行く苦〉である。

 ありとあらゆるものが変化し続け、思い通りになどならない無常は事実なのに、私たちが事実を苦と感じてしまうのは、「〈ありようそのもの〉つまり空(クウ)が観られない」からに他ならない。
 たとえようのない穏和な表情のみ仏はすべて、〈ありようそのもの〉を観たので、何らの苦もなくなった方々である。
 ならば、その説かれたところを学び、会得すれば、自分だけでなく、愛する人の苦も憎む人の苦も、すべての生きとし生けるものの苦も、いささかは減らせることだろう。
 縁起と空をよく考えてみたい。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2015
05.27

私たちはなぜ、輝けないか? ―尊者アジタの問い―

20150527041.jpg

 尊者アジタは申し上げた。
「この世の人びとは何に覆われているのですか。
 この世の人びとはどうして輝かないのですか。
 何がそれ(=この世の人びと)を汚すのですか。
 そもそも何がそれ(=この世の人びと)の大きな恐怖なのですか。
 あなたは説いてください。」
 世尊はお答えになった。
アジタよ。
 この世の人びとは根源的な無知で覆われている。
 物惜しみと怠りによって[この世の人びとは]輝かない。
 貪りが[この世の人びとを]汚し、苦がその[この世の人びとの]大きな恐怖であると、私は言う。」

○私たちは根源的な無知に覆われている

 根源的な無知は、無明(ムミョウ)すなわち智慧の明かりがない状態である。
 無明とは、縁起(エンギ)を知らないことである。
 この世のすべては因縁によって仮そめに生じ、必ず滅してゆくことが腑に落ちていないと二つの執着心が生まれる。
 (ガ…自分)と処(ガショ…自分の所有物)に対する執着心は、あらゆる悪行(アクギョウ)に走らせ、悪しき結果をもたらす悪業(アクゴウ)を積ませる。
 悪業四苦八苦となって表面化する。
 
○物惜しみし、怠惰になれば輝かない

 (ガ)と処(ガショ)にしがみつけば、皆、惜しくなる。
 汗を流したくない、施したくない、怠けたいといった心でいれば、何もかも所有していて豊かであると錯覚するが、それは、せいぜい、ネズミが穴を塒(ネグラ)として生きているようなものでしかない。
 人が人として輝くのはどういう場合か?
 誰かのためになり、誰かに喜ばれている時ではないか?
 施すために努力している人こそが輝いている。
 そうした人の徳が周囲に喜びを生み、喜びが光となってその人を包む時、その人は輝くのではないか。

 糸井重里氏はコピーライターをやめたと言う。
「エルメスにキャッチコピーはないですよね。
 よいコピーをつくることと、売れるものをつくることは別。
 よくないものをコピーで売るなんて、やめたほうがいい。」
 では何をやっているか。
「売る名人じゃなくて、売れるに決まっているものをつくっています。」
「使う人に喜んでもらえるか、考えぬく。
 喜ぶ姿が光景として浮かびあがらない商品は、ダメですね。」(5月25日付朝日新聞)
 氏はまぎれもなく、輝いている。
 
○貪る者は汚れている

 貪っている時の姿はハイエナも人間も同じである。
 生存欲の燃焼は確認できるが、霊性は輝いていない。
 野性の生きものは生きることがすべての世界で美しく見えたりもするが、人間は違う。
 獰猛なワニや狡猾なネズミの脳に左右されたままの人間が美しいはずはない。
 貪る自他の汚れた姿を見落とさない心と視点を失わないようにしたい。

○苦は恐怖である

 四苦八苦の根本原因は、根本的な智慧が眠ったままの無明にある。
 お釈迦様はそれを見抜き、明確に説かれた。
 自分の愚かさが自分へ苦をもたらし、他者へも苦をもたらしていることに早く気づきたい。




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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2015
04.08

人間から切り離された人間の行き先は? ―不戦を説かれたお釈迦様―

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 お釈迦様が誕生された4月8日、天皇、皇后両陛下はペリリュー島にある日米双方の慰霊碑で献花さfれる。
 お釈迦様の血を吐くような平和への訴えに耳を傾けてみたい。

 お釈迦様の時代には、強い武器を持った民族が都市国家をつくり、平和に暮らしていた種族の共同体が破壊されて行った。
 強固だった部族が種族としてすら成立しなくなり、種族社会の地縁血縁が薄れ、人が人から切り離されて流民化し、伝統的な叡智に抑制されなくなった欲望の肥大化は戦争を繰り返させた。
 戦争の元凶は根源的な生への執着心に発する無明(ムミョウ…盲目的状態)の集団化であり、死と破壊に対する想像力の欠如である。
 小さな個人のエゴイズムが貪りや怒りや愚かさとしてはたらき、それらの業(ゴウ)が積み重なって国家的共業(グウゴウ)となる時、戦争に至る。

 慈悲の「慈」はインドの言葉でメッターであり、与楽(ヨラク)と訳される。
 誰かに幸せをもたらさないではいられない心である。
 また、「悲」はカルナ-であり、抜苦(バック)と訳される。
 他者の苦しみを見捨ててはおけない心である。
 そして、両方共に女性名詞である。
 母親が我が子にかけないではいられないような慈しみの心を思い出させる智慧の宗教が仏教である。
 お釈迦様は、バラバラになった人々が階級ごとに一まとめで国家に動かされ、血で血を洗う時代に根本的救済の教えを説かれた。

「母親がいのちがけで我が子を守るように、すべてのいきものを限りなく包容する心を養うべし」
「世界全体に対して、限りない慈しみの心を養うべし。
 上下左右へ向かって無制限に、憎しみも敵意も離れた心を養うべし」


 お釈迦様は、戦争をもたらす恐るべき共業へ立ち向かうには、一人一人が悪しき業をつくらぬことであると明解に説かれた。
 無明を離れた智慧がはたらかない限り、戦争は止まず、人間界から最大の苦は取り除けない。

戦争で百万人に勝つ者でなく、自分の心に克つ者こそが真の勝者である」


 貪る勝者、怒る勝者、愚かな勝者は所詮、他者の苦しみを我が糧とする仮そめの勝者でしかなく、自覚しようとしまいと自他へ苦しみをもたらしながら生き、死ぬしかない。
 

「すべての者は暴力を怖れる。
 すべての者は死を怖れる。
 自分をよく省みてそうした真実を知り、他者を殺すなかれ。
 他者をして殺させるなかれ」


 殴られ、蹴られ、切られ、いのちを危うくされることを本当に喜ぶ者はいない。
 犬や猫であろうとも。
 自分自身がそうであるならば、他者も同じであると想像できてこそ人間である。
 そこを忘れなければ殺せなくなる。
 殺させることもできない。

 お釈迦様は、あらゆるものが因と縁によって生じ、滅することを見通された。
 怨みや怒りなどの悪しき心は必ず争いに結びつき、悪しき結果をもたらす。
 他を思いやる善き心は必ず救いに結びつき、善き結果をもたらす。

「戦いの勝者は怨みを生じ、敗者は怨み悩んで暮らす。
 静安を得た者は勝敗を捨てて安らかに暮らす」


 生死を繰り返す生きとし生けるものが免れない因果の理法は、この世だけでなく当然、あの世へも及ぶ。

「生きとし生けるものは安らぎを欲する。
 他者を暴力で殺害して自分の安らぎを求める者は死後、安らぎを得られない」


 お釈迦様は呼びかける。

「我々は、怨みある者たちの間にあって、心安らかに生きよう。
 我々は、怨みある者たちの間にあって、怨みを抱かずに生活しよう」


 2500年前、すでにインドの地において、地域も家族も破壊された人々はバラバラになって迷い、国家は戦争を日常としていた。
 きらびやかな都市文明の光を浴び、仮そめの勝者として悦楽を享受する僅かな人々がいる一方で、多くの人々は苦の闇を濃くしていた。
 まるで今の世界と同じではないか。
 このままで推移すれば、イスラム教は世界の人口の3割を呑み込むという。
 イスラム教の特徴の一つは、いわゆる過激派であれ、穏健派や世俗派であれ、家族を重んじるところにある。
 教典クルアーンは説く。
「我は、両親への態度を人間に指示した。
 人間の母親は、苦労にやつれてその子を胎内で養い、更に離乳まで2年かかる。
 我とあなたの父母に感謝しなさい。」
 ロヨラ大学のマルシア・ヘルマンセン教授はイスラム教を選び取ってムスリムとなり、指摘する。
「崩壊した家庭の中にいる女性は、特に宗教に惹かれるかも知れません。
 というのも宗教は、家族に価値を置いているからです。」
 私たちは人類最大の愚行である戦争を何としても避けるため、終結させるため、自分たちの心のありようと生活ぶりをよくよく省みる必要があるのではなかろうか。
 明らかなのは〈このままではいけない〉ことではなかろうか。

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〈『米国国立公文書館所蔵写真集 敗戦国ニッポンの記録』(編著半藤一利)より「「釜山で福音船をつ日本兵 昭和20年」〉

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〈「お帰りなさいませ」〉

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〈「夫婦の再会」〉

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〈「復員兵と家族の笑み」〉

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〈「焼け跡と真新しいタライ」〉




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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