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2016
12.05

自衛隊員の本音 ─出征する覚悟、辞める無念─

2016-12-05-0001.jpg
〈善男善女の願いを込め、続けられる例祭の護摩法〉

 福島で出会った自衛隊員から話を聴いた。

 南スーダンへの派兵は、自衛隊からの離脱者を続々と生み出している。
 たまりかねた政府は、戦死した場合の弔慰金を6千万円から9千万円へ引き上げ、指示通り「駆けつけ警護」に当たれば1日2万3千円を支給するという。
 しかし、現場の本音は、金銭などではごまかしきれない問題の核心を衝いている。

 Aさんは日本を守ろうとして入隊した。
 もちろん、見知らぬ外国で戦死するつもりなどまったくなかったので、現在の自衛隊の動きは想定外だ。
 それに、現場ではたらく日本人から求められていないのに、戦闘要員として出兵させられることにも納得できない。
 災害時に請われ、丸腰ででかける時のような使命感を持ちようがない。
 国会では、南スーダンは戦闘行為が行われていない安全な場所だから、武装した自衛隊が出かけても安全だという議論が繰り広げられている。
 そもそも安全であれば軍隊は不要なはずだし、スーダン出兵がどうして国是である専守防衛になるのか。
 納得できないので、いくらお金を積まれようが自分のいのちはかけられないし、仲間がいのちをかけることにも耐えられない。

 もっともだと思わされた。
 次の話には胸を衝かれた。

 隊員は口を閉ざしたまま、共通のイメージを持っている。
 それは、最初に出る犠牲者はきっと、撃つ前に撃たれるということだ。
 厳しく訓練された隊員は、必ず命令で動くし、命令されないことは勝手にやらない。
 一方、戦闘が起こる時、撃てという命令は必ず、危機的状況から遅れて出されるだろう。 
 一発の発射が日本という〈国を背負った行為〉になることをよく知っている優秀な隊員たちは、自分のいのちに危機が迫ったからといって、指揮官でない者がバラバラに判断をくだすことはないと、互いに信じ合っている。
 だから、きっと、射撃命令が出る前に撃たれてしまうだろうというのが、若いまじめな隊員たちの共通認識だという。

 涙が流れた。
 現場の隊員たちにとって、これほどまでに切羽詰まった出兵であることを、どれだけの国民が認識しているだろう?
 安全な場所に征くのだから大丈夫だと主張している人々へ、〈真実を知って出かける〉彼らの本音を聞かせてやりたい。
 あるいは、崇高な理想を諦め、安定した収入を捨ててまで〈辞めないではいられない〉彼らの本音を聞かせてやりたい。
 しかも彼らは、やがて生じるであろう犠牲者が軍神として祭り上げられかねない日本の空気に恐ろしさを感じ、固唾を呑んで仲間の無事を祈っている。

 砲弾の飛び交うアフガニスタンでさまざまな活動を行ってきた医師の中村哲氏は「ペルシャワール会報」の10月5日号で述べた。

テロとの戦い』を声高に叫ぶほどに、犠牲者が増えました。
 そして、その犠牲は、拳をあげて戦を語る者たちではなく、もの言わぬ無名の人々にのしかかりました。

 干ばつに戮れ、空爆にさらされ、戦場に傭兵として命を落とす──アフガン農民たちの膨大な犠牲は、今後も語られることはないでしょう。
 私たちは、このような人々にこそ恩恵が与えられるべきだとの方針を崩さず、現在に至っています。
 多くの良心的な人々の支持を得て、事業は着実に進められてきました。
 PM5は、誰とも敵対せず、仕事を進めてまいります。


 彼らの地道な活動こそが、世界における日本の信用と価値を守っている。
 彼らは、自衛隊に来てもらいたいとは決して言わない。
 武器を持った敵対行為こそが最も危険であると、骨身に沁みて知っているからだ。

 南スーダンの気温は35度前後だが、作業現場の体感気温は50度にもなるらしい。
 日本の若者たちはそこへ征く。
 武器を携えて……。
 これからの日本を背負う若者が、戦争に加担するか、それとも無職になるかと悩んでいる姿はあまりに痛々しく、こうした日本をつくった世代の一員として、詫びる言葉も見つからなかった。




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2011
08.12

【現代の偉人伝】第130話 ─死刑囚の減刑嘆願を行った被害者ライス・ブイヤン氏そしてマーク・ストロマン死刑囚─

 8月12日の読売新聞は銃で撃たれたイスラム教徒が、白人死刑囚の減刑嘆願に奔走したと報じた。

 米同時テロから10日経った平成13年9月21日の正午近く、ライス・ブイヤン氏(当時27歳)は、「どこの出身者だ!」という声を聞くと同時に銃撃され、いのちはとりとめたものの右目を失った。
 務めていた給油所でのできごとである。
 縦断の破片が30個以上残った頭は、IT技師となった今も痛む。

 事件後、恐怖から外出できない時期もあったが、「不思議と犯人への怒りはわいてこなかった」。
 同時テロに怒った白人死至上主義のマーク・ストロマン(当時31才)は、ライス・ブイヤン氏以外にも南アジア出身者2名を襲って殺害し、逮捕された。
 バングラディシュ出身のイスラム教徒ライス・ブイヤン氏は、法廷で「私こそ真の米国人だ」と主張する被告を哀れんだ。
「無知ゆえの犯行」と考えたからである。

 8年後、犯人マーク・ストロマン死刑が確定した。
 報道で死刑囚の反省ぶりを知ったこともあり、「彼のいのちを奪うことで社会から憎悪がなくなるのか」と考え、「彼を生かし、その声を広めることが再発防止への道だ」との結論を得たライス・ブイヤン氏は、減刑を望んだ。
 平成23年末には署名運動も起こし、1万人もの署名が集まっただけでなく、殺された被害者二人の遺族もまた運動を支援した。
 その一人であるパキスタン人の妻は言う。
「犯人への怒りから戸惑いもあったが、自分のつらさをこらえて憎悪の克服を説くライス氏の謙虚な姿に心を動かされた」

 平成23年6月死刑囚からライス・ブイヤン氏へ手紙が来た。
「あなたは私の人生最大の希望を与えてくれた」との「丁寧な文面に、涙が止まらなかった」。

「あなたがしてくれたことに感謝している」
 7月20日午後4時過ぎ、米テキサス州オースティンの裁判所近く。
 ライス・ブイヤンさん(37歳)は、自分を撃った男の言葉を確かに聞いた。
 同州ハンツビルの獄中から電話してきた男の名はマーク・ストロマン(当時41歳)。
 死刑執行が当日夕刻に迫っていた。
 必死に返す言葉を探した。
「僕は怒っていない。
 ありがとう」。
 たった5秒の最初で最後の会話だった。


 電話の後、ブイヤンさんはオースティンの裁判所で証言台に立ち、死刑の延期を訴えた。
「彼に会いたい。
 人間としての彼の心とつながりたい」
 だが、上級審の命令で審理は停止に。
 夜8時半ごろ、薬物注射で刑が執行された。


 ライス・ブイヤン氏は、マーク・ストロマン元死刑囚の言葉を人づてに聞いている。
「世界の憎悪を断ち切らなければならない。
 憎悪は一生の痛みとなる」
 そして思う。
「彼も同時テロ犠牲者だったのだ」
 今、ライス・ブイヤン氏は人権活動を行い、紛争地での和平仲介をも夢見ている。
憎悪をなくすことはマークとの約束」だからである。

 ブログ「怒りと憎しみの違い」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2830.html)へ書いたとおり、憎しみが悪であり自他を破壊する強い煩悩とされているのは、他を害する意識が潜んでいるからである。
 害されることを望む人もいきものもいない。
 誰しもが望まぬことを行うのは、まぎれもなく悪である。
 自己中心的意識によって互いを害し合う煩悩を抱えた私たちは、それが自他共に「一生の痛みとなる」結果をもたらすことから目を背けないようにしたい。
 そして克服したい。
 憎悪が起こさせる行動は、互いを「犠牲者」にしてしまうからである。
 マーク・ストロマン元死刑囚も、ライス・ブイヤン氏も、究極の犠牲者としてそのことを私たちへ訴えている。
 心深く受けとめたい。

20110810 0182



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2010
05.26

【現代の偉人伝】第100話 ─魁皇関─

 5月23日、大相撲夏場所千秋楽で、大関魁皇は、史上二人目の通算1000勝を達成した。
 市立直方第2中学校卒業後、すぐに相撲界へ飛び込んだ〈たたき上げ〉力士である。
 昭和63年に初土俵を踏んだ同期には、後の横綱曙・横綱貴乃花・横綱若乃花といった逸材がいた。
 横綱候補の筆頭と目された時期もあったが、不運やケガで大願成就はならず、大関の地位に甘んじたまま、じっと戦い続けた。
 その結果、十両以上の関取在位場所数第一位となり、大関以上の最高齢記録も超え、通算勝ち星の記録では頭上に千代の富士が挙げた1045勝があるものの、大鵬(872勝)や貴乃花(794勝)を遙かに凌駕するに至った。
 大相撲界きっての人気力士であり、特に出身地福岡では圧倒的な声援を受けている。

 達成の瞬間も、その後も、22年余りの土俵生活の成果に沸き立つ周囲にあって、当人はいつものとおり静かで謙虚なままだった。
 インタビューではこう答えている。
「いろんな人が応援してくれた。その声で気合が入って、とにかく絶対、自分の形で行こうと、それだけ考えていました」
 ガッツポーズの写真要求は断った。
 そして、決定的な言葉を口にした。

「いろいろなことを我慢し、犠牲にしながら、相撲のことばかり考えてきた。それが今につながっているのかな」


 飾り気のない述懐は、「いろいろなことを我慢し、犠牲にしながら」コツコツとやっている日本中の人々の心へ、まっすぐに届いたことだろう。
 同期だった貴乃花は「若い人たちはあの姿を目ざして欲しい」と讃えた。
 魁皇の姿は、まっとうな生き方の手本である。
 釈尊の教えを思い出した。

忍耐は行の尊である」


(最も尊い修行煩悩と戦い続ける忍耐である)




「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2006
03.01

武士道を求める人

 山形県から人生相談に来た青年は、真っ正面に正座し、「武士のように生きて死にたいが、そうした心が作れません。いざという時にちゃんと死ねるかどうか不安です」と言いました。
 武士とはどういう人ですかと質問したところ、一呼吸おいて、よく解りませんとのこと。何も考えていないのではなく、心身両面から探求してみた結果、いまだはっきりしたものをつかめていないということなのでしょう。
 そこで、「作家三島由紀夫の観た武士道」と、「布施」についてお話しました。

 三島由紀夫は、武士道とは畢竟、「自己尊敬」「自己責任」「自己犠牲」であると分析しました。

「自己尊敬」とは、自分を全体的に肯定する感覚であり、これがない人は簡単に恥知らずな行為に走ります。
 名誉欲は、高慢心と結びつけば悪しき煩悩ですが、「名を惜しむ」という感覚と結びつけば、恥を怖れる清浄な生き方をもたらします。
 自分の尊厳を大切にする人であって初めて他人の尊厳も大切にできるのであり、自分を粗末にする恩知らずな人は、他人をいいかげんにあしらう人に成り下がります。
 この感覚は、何よりも、幼い日にしっかり愛情を注がれることによって養われるとされていますから、若いお母さん方にはよく考えていただきたいものです。

「自己責任」とは、言い換えれば「社会人として大人である」姿勢です。
 この世が人間の社会として機能している根本的な理由は、法律があるからではなく、警察があるからでもなく、お金があるからでもありません。
 無意識の裡にお互いに信頼し合っているからであり、信頼がなくなれば、たちどころにこの世は崩壊することでしょう。
 たとえば、朝、起きて歯を磨く時に、水道水や歯磨き粉に毒物が混じっているかも知れないと不安だったらどうでしょうか。
 仕事にでかける時に、暴漢がいるかも知れないと周囲を窺ってから鍵を開けねばならなかったらどうでしょうか。
 人と会う約束が信じられなかったらどうでしょうか。
 信頼は、責任感がもたらすものです。お互いに、社会人として責任ある生き方をし、誤ったならば責任をとる覚悟があればこそ、信頼が確保されるのです。

 そうした点からすれば、昨今、世を騒がせている「にせメール事件」における民主党関係者たちの右往左往ぶりは、目に余るものがあります。
 問題は、メールの信憑性そのものにあるのではなく、軽率な行為を繰り返した人々の人間性にこそあることを全然認識しておられません。
 一連の行為で明らかとなった人間性がどう見ても国政を担当するという立場にふさわしくないのですから、職を辞するのが当然です。再び立場を求めるのなら人間性を鍛え直し、それが認められるかどうかは有権者の判断に任せるべきです。
 これ以外の根本的な選択肢はないのに、居直ったり、判断を回避したり、辞めると言っては慰留されて残るといった醜態を演じている様子は、とうてい「大人」の姿ではありません。
 今回の事件は、自己責任の欠如が社会から信頼を奪っている様子を明らかにしています。


「自己犠牲」とは、自分のためだけでなく、家族を含む社会の誰かのためになるところに真の生きがいを見いだすことです。
 たとえば、はたらいて米を得たならば、炊いたご飯の一部を誰かに食べてもらい喜ぶ顔を見て、自分が食べて得た満足以上のものを感じる心が、布施の心であり、その内容が犠牲です。
 この場合、犠牲となるものは米ですが、それは時間であっても、モノであっても、お金であっても、心であっても良いのです。

 鎌倉時代のできごとです。
 雪の夜、一人の修行僧が、陋屋の戸を叩きました。
 極貧の武士である主は、何のもてなしもできぬからと、唯一の宝として大事にしている梅と桜と松の盆栽の木を折り、炉にくべて、見知らぬ僧侶に暖をとってもらいました。
 修行僧は隠居中の執権最明寺時頼であり、やがて時頼と再会したこの武士はその誠心が認められ、取りたてられました。
 武士道に生きた佐野源左衛門常世の行為は、「鉢の木」の物語として今日に伝えられています。
 見かえりを求めずに施す「布施」は仏道修行の根本ですが、武士道も行きつくところは同じです。

 当山では、かつて、寺子屋の理念として、「美しい日本人たるよう『自己尊敬』『自己責任』『自己犠牲』(故三島由紀夫氏の分析した武士道)の精神を指導する」と書きました。
 武士道は単なる男性原理ではありません。
 日本人らしい美しさをつくるかけがえのない精神です。
 山形県の青年に宿り、やがて始まる寺子屋に集う子どもたちの心にも宿りますよう―――。




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