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2016
08.19

猛暑が教えたこと ─文明の選択へ─

2016-08-19-0001.jpg
〈福島原発における放射性物質の拡散による避難区域を、チェルノブイリ事故の基準で考えた場合の地図〉

 多くの方々が「今年の夏は暑かった」と感じておられるのではないだろうか?
 文字どおりの酷暑であり、当山の本堂にある温度計は36Cを初めて越えた。
 むろん、立秋を過ぎた現在の残暑もまた、辛いものがある。
 小生のような年配者になると、自分が年々、弱ってきているので、特に応えるという面もあるのだろうと考えるが、それでも酷くなったと思えてならない。

 進化生物学者長谷川眞理子氏は「ヒトの適応力、追いつかない」と語っている。
 そこには、瀧のように汗をかいて体温を下げるという珍しい適応力に恵まれた人間でも、この先どうなるかわからない、という恐ろしい予見が含まれている。
 私たちの漠然とした「絶滅」への不安が徐々に裏付けられつつあるのだろうか?
 以下、朝日新聞の抜粋である。

「ヒトは、大量に汗をかくことでその蒸発熱で体温を下ログイン前の続きげることができる、珍しい動物です。
 ウマも汗をかきますが、ヒトは毛がないので、水のような汗をかく。
 炎天下のサバンナでもトコトコと歩いて獲物を追い、植物を探す。
 暑さに対してそういう特殊な適応をした、哺乳類の中でも変わった生き物といえます。
 だからこそ、マラソンもできるんです。」


 私たちは寒さには耐えやすい。
 暖かい建物の中で、暖かい衣装を身にまとっていればよい。
 他のほ乳類もまた、地中に潜ったり、何かをかぶったりしてがんばれる。
 ところが、暑さに耐えるのは難しい。
 この夏をエアコンなしで過ごした方も少なくないだろうが、大変な消耗をされたのではないか。
 他のほ乳類も、せいぜいが汗をかいたり、忙しく呼吸を行ったりするしかなく、あとは木陰でうずくまり、季節が変わるのを待つのみだ。
 

「ヒトには、涼しくするための技術もあります。
 気温が50度近いところなど、風土に合わせて生きていける文化もある。
 暑さへの適応は本来は得意なはずです。
 なのに、体温が上がりすぎて熱中症になる人が増えている。
 その意味を考える必要があると思います。


 環境変化のスピードが速すぎて、対応できなくなってきたのかもしれません。
 都市は冷房の排熱などでヒートアイランド化し、自分で自分を暑くしている面もあります。
 子犬が自分で自分のしっぽを追いかけているみたい。


 氏は「子犬のしっぽ」で都市文明の危うさを衝いている。
 まったく同感だ。
 核発電が核のゴミを生産し続けていることと同じく、目先の楽を求め、環境と未来への負担を増産している。

「人工的な環境のなかで暮らし、自然の変化を感じ取れなくなった。
 対応が遅れることもあるでしょう。」


 朝、目覚める時には、自動管理のエアコンが室内温度を適度に保ち、仕事場もまた同様であれば、自然の変化は、せいぜいが通勤途中かテレビの中におけるできごとでしかない。
 買い物や通院などでしかマンションから出ない年配者にとって、外は気をつけて早く通り過ぎるべき〈危険地帯〉でしかないのかも知れない。
 ましてや、体温よりも高い気温ともなれば、その中に身を置きたい人はわずかだろう。

「地球規模でみても、温暖化は生き物に大きな影響を与えつつあります。
 国連が2001~05年に行った『ミレニアム生態系評価』によると、北半球の99種の鳥やチョウ、高山植物の生息地は10年で平均して6・1キロ北に移動しました。
 122種の植物やチョウ、鳥、両生類が春に出てくる時期は、2・3日早まった。
 暑くなっても身体は急に変われず、逃げるしかない。


 私たちはすでに逃げている。
 私たちの予感はすでに、〈このままどこまでも逃げ切れはしないだろう〉という地点にまで達しつつある。

地球のあちこちで、こうした生息域の変化が起き、生物が絶滅の危機にある。
 水や物質の循環、そして生態系全体が変わったとき、いったいどうなるのか。
 実は生態学者にもわかっていません。
 しかも何万年もかけてできたシステムが100年、200年という時間で変わるかもしれない。
 いずれ安定するにしても、その過程で破壊的な変化が起きないか。
 それもわからない。


 子々孫々やこの国の未来を案ずるならば、誰かを頼るわけにはゆかない。
 日々の生活の中で、車をどうするか、エアコンをどうするか、などなど自分がやれることをやるしかない。
 自分がかかわっていない自分の〈環境〉など、どこにもないのだ。

 しかし、原発事故を起こしたあの時、大多数の国民が脱原発を望んだにもかかわらず、いつしか原発は「ベースロード電源」とされ、消費者が発電方式によって電力を買う企業が選べないまま放置されている状況は信じがたい。

 平成25年9月7日、安倍首相は、東京へオリンピックを招致したいあまり、大見得を切った。
「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。
 状況は、統御されています。
 東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」
 東日本大震災に遭い、福島県のみならず、一時的に故郷の消滅を覚悟した東北の人々は、一様に目と耳を疑ったはずだ。
 そして、東京が時期オリンピックの開催地となり、日本選手がリオデジャネイロで目の覚めるような活躍をしている今、汚染水が海へ流れ出ることすら止められない現実が明らかになっている。
 8月18日、東電は、凍結という方法によって地下水の流れを遮るこれまでの計画が破綻していることを認めたのだ。

 以前も言及したが、ドイツには、オリンピックのモットーを「より速く、より高く、より強く」の3つだけでなく、「より美しく、より人間らしく」を加えた5つにしようと提唱する人々がいる。
 そのドイツでは、日本の原発事故を契機とし、官民を挙げて脱原発に邁進している。
 電力を買う国民は、いかなる方式によって発電されたのかという情報を得て、電力会社を選択できる。
 それは、〈文明の選択〉に等しい。

 国民が願う方向へと政治が動き、経済も動く。
 ここにこそ、文明の「美しさ」も「人間らしさ」もあるのではなかろうか?
 
 危機を我がことと感じとり、子孫と未来への責任を果たす意識こそ、私たちがこの猛暑から受け取るべき贈りものではなかろうか?
 この世は苦海であると同時に、大日如来に荘厳された密厳国土(ミツゴンコクド)でもある。
 贈りものを見過ごさず、合掌する両手で受けとめたい。 




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2016
05.10

トランプ氏につきつけられたもの ─これでいいのか?─

2016-05-10-0001.jpg

 トランプ氏の騒動をきっかけにして思う。

1 トランプ

 アメリカ大統領選挙におけるトランプ氏の言動は、個人と社会との関係を考えるよいきっかけだ。
 建前や幻想といったものから離れ、生身の人間とその集団との血が通ったありようを考えなおすきっかけとも言えよう。
 人間そのものと、飛び交うモノや情報との違いも考えたい。

 私たちは、モノや情報といった環境世界の動きが高速化したことにより、人間そのものも、いつでも地球上を飛び回り、地球を庭にできると思うようになった。
 そこでは文化も思想も共有され、あるいは自由に選択され、自分が何者であり得るか、はてしなく自由な選択と自己形成ができると思うようになった。
 地域社会や国家もまた、より広い範疇へと枠が溶融し、国家が掲げる普遍的理想は世界の理想として人類を導くと考えるようになった。
 自由主義や民主主義が普遍的原理と考えられ、一方では社会主義や共産主義、あるいはキリスト教的世界観やイスラム教的世界観がグローバリズムに乗って理想郷をつくると主張されている。

 しかし、生身の人間という現実から眺めればどうか。
 モノが世界中から買えるからといって、いっぺんに和風と洋風と中華風と3種類の料理を並べ、これまでの3倍食べるわけにはゆかない。
 むしろ、欧米化した食事の影響で乳ガン、大腸ガン、前立腺ガンなどが増えている(田中雅博医師の見解)現実を直視したい。
 また、情報がたくさん得られるからといって、私たちの頭脳がキャパシティを急に拡大させたわけではなく、入れ物としての能力や咀嚼力や創造力そのものは何ら変わらない。
 入れる内容が違ってきただけのことである。
 たとえば、半世紀前の若者は、古典を読み、文学や哲学論争にふける時間をたっぷり持っていたものだが、大学が就職のための機関と化し、高校も中学校もその準備段階と見なされる今では、若者たちの多くが〈就職やお金もうけの有効な道具〉を得ようと血眼になっているように見受けられる。
 厳しい時代になったものだ。
 
2 人間と環境

 人間も生きものである以上、環境との関係性が、いのちをいかにまっとうするかという根本問題を左右する。
 ちなみに、コアラは1年間に1500万円、パンダは550万円もの飼育量がかかる。
 それによってようやく自分が生きられる環境を得つつ見せ物となっているのだ。
 人間もまた、遙かなご先祖様から受け継いだ遺伝子によって特定の特性を持った生体がつくられ、維持されている以上、環境のありようと無関係に生きられるはずがない。
 アザラシ、クジラ、トナカイといった動物たちを食べてきたエスキモーの人々が、西洋風の食習慣を取り入れたために心臓病や糖尿病が激増したことを見ても、人間が生まれ持った条件とマッチした環境で生きることの大切さがわかる。

 また、血液が体内を順調に循環しつつ人間の生体が保たれるように、言葉や生活感覚や情報がある程度、共有され、他国から容易に侵されぬ程度の自衛力を持ち、経済もまた滞りない循環構造を保っていればこそ、国家は独立した存在であり続けられる。
 その国に暮らす人々の生活が安定し、国家が安定的に存続してゆくための特定の条件は、その国なりのものだ。
 当然、千差万別である。
 同時に、独自性を持った国家が存立し続けるためには、周囲の国家との円滑な交流が欠かせない。

 人間も国家も独自なものでありながら、環境世界との関係性が存否を決定づける。

3 問われる価値

 私たちはこの〈独自性〉及び、環境世界との〈緊張感〉を少々忘れていたのではないか。
 言い方を変えれば、グローバリズム自由競争が世界中へ富をもたらすという幻想によって忘れさせられていたのではないか。
 人間も国家も、世界へ羽ばたけば誰もが富を得られると勘違いさせられていたのではないか。
 そもそも〈飛んで得る富〉は、私たち一人一人へ確かな幸せをもたらすものなのだろうか?
 地に足を着け、一坪の土地を耕して野菜を得る行為は、さしたる価値を持たないのだろうか?
 人間が一個の生物である以上、環境との関係性の中でしか生きられないという認識、環境との関わり方が生活の質を左右するという認識も、「バベルの塔」的な過ちを犯さないために必須ではないか。

 富の寡占という現実は、グローバリズム自由競争の絶対性が誰のために叫ばれてきたかという真実を明らかにしつつある。
 アメリカでは、ここ20年の間に所得上位5パーセントの人々が所得を15パーセント増やして年収約4000万円を得ているのに対し、、下位20パーセントの人々は所得を4パーセント減らし、年収約130万円ほどになってしまった。
 世界をまたにかけて動いたお金と人が何をやったか、白日の下にさらされたのだ。

 自由主義、民主主義、グローバリズム自由競争などは今や、人間にとって真に価値ある思想なのかどうかが厳しく問われている。
 無論、それらが無価値であり誤謬であるわけではない。
 問題は、誰がいかなる意図で、いかなる内容を込めてそれらを標榜してきたかという〈人間〉と〈国家〉が問われていることにある。
 また、それらを人間と国家の現実に照らして、生身の人間一人一人に、あるいはそれぞれの国家にどういう形で生かしてゆくか、人々の生活に根差した方法、世界の調和をはかる方法が問われていることも忘れてはならないと思う。




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2014
05.12

【現代の偉人伝】第189話 ―「使い捨ての社会は人間を幸せにしない」ウルグアイのホセ・ムヒカ大統領―

20140419034.jpg

 平成24年7月22日、「国連持続可能な開発会議(Rio+20)」においてウルグアイのホセ・ムヒカ大統領は衝撃的な演説を行った。
 大統領の個人資産は1987年型フォルクスワーゲン・ビート(約18万円相当)のみ、給与の大部分を寄附し、郊外の農村から自分で運転して公務におもむく。
 一ヶ月に1000ドルほどの生活費でまかなっているという。
 以下、少々長くなるが、サイト「hana.bi」を運営するAkira Uchimura氏の翻訳を転載する。

「会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
 ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。
 私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。
 国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
 しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。
 午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。
 私たちの本音は何なのでしょうか?
 現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?」


 会議の終わり近くになってようやく演説の順番が巡ってきた小さな国の大統領は、現代文明に対する最も根本的な疑問を投げかけた。
 世界を席巻する国際資本によって演出された生産と消費の急速かつ無限な膨張が、はたして本当に会議の目的である「持続可能な発展と世界の貧困をなくすこと」に貢献し得るのだろうか、と問いかけたのである。

「質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。」
 息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。
 同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?
 可能ですか?
 それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?」


 先進国に追いつくのが世界から貧困をなくす方法であるなら、先進国と同じものが後進国にも遍く普及すればいいのですか、と念を押している。
 西洋と同じように豊富なモノが恵まれればそれがそれが理想社会なのか、そもそも、それだけモノを分厚く人間へもたらすほど地球は資源に満ちているのか、と問うている。

「なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?」


 質素な国で質素な暮らしをしている大統領は、当然、無限にモノを求め、奪い合う気の遠くなるような格差社会などに理想を求めはしない。
 だから、「このような社会」(こんなに酷い社会)と言っている。

「マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。
 マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。」


 資本が世界を股にかけて覇を競う経済システムに慣らされた私たちは、いつの間にか「無限の消費と発展を求める社会」をつくってしまった。
 自由に競争することが正しいという一つの原理に頭を占領され、「もっと、もっと」と無限に欲しがり、無限に消費を増大させる生活が営まれている。

「このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で『みんなの世界を良くしていこう』というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?
 どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?」


 国際会議の欺瞞生を明確に指摘した演説は鮮烈極まりない。
 環境破壊、国家間や国家内の格差、文化の画一化などを生み出した資本主義、市場原理、グローバリズムを正義であるとしたままで、真の意味での「共存共栄」などはかりようがないと指摘した。
 グローバリズムの名のもとに世界規模の巨大資本が、あるいは強大な軍事力のある国家を後盾にした巨大資本が、地球上へ思いのままに富をすくいとろうと網をかぶせてしまっている現実は、きわめて「残酷な」ものであり、そこに真の意味での「仲間」はいない。
 ルールのない自由競争にあっては、自分以外すべて、「ライバル」となる。
 こうしたメカニズムと実態を問題視しないままでの「共存共栄」など、欺瞞に満ちた空論でしかない。

「このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。
 その逆です。
 我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、
 政治的な危機問題なのです。
 現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。
 逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。」


 大統領は、市場経済によってつくられた消費増大の社会を政治が放置していることこそ、問題であるとした。
 人間が社会をつくっているのではなく、社会のシステムに人間が翻弄され、あくせくさせられつつ猛烈なスピードで資源を消費していることに目を醒まそうと訴えた。

「私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。
 幸せになるためにこの地球にやってきたのです。
 人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。
 命よりも高価なものは存在しません。
 ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。
 消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。
 消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。」


 現代に生まれる人間は、「発展」という名の無限「消費」が課せられているかのようだ。
 幸せがどこにあるかをじっくり考える間もなく、消費にいそしむ。
 しかし、人間がどんどんモノを消費する存在であり続けなければ破綻してしまうような経済システムは人間を幸福にしない。

「このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。
 ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!
 そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。
 人がもっと働くため、もっと売るために『使い捨ての社会』を続けなければならないのです。
 悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。
 これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。」


 儲けることが至上命題である資本の自由に任せておけば、いかなるモノをつくるかは明白である。
 消費者が不満を持って買わなくならない程度、ほどほどのところまで長持ちし、あとは使えなくなり再び買わなければならない商品をつくる。
 そして、今まさに使っているものに不満を抱き、買い換えないではいられないような目新しい商品をつくる。
 そして現れたのが「使い捨ての社会」である。
 高度に進んだ資本主義国では、人間すらも企業に管理され「使い捨て」にされつつある。
 ここにある「悪循環」は「政治」が取り組むべき課題であり、政治以外誰も解決はできない。

「石器時代に戻れとは言っていません。
 マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。
 私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。」


 人間がシステムをつくるはずなのに、システムに取り込まれてしまった状態は、政治が何とかせねばならない。

「昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。」
『貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ』
 これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。」


 お釈迦様は2500年前に、はてしなく貪ることが不幸の原因であると説かれた。
 不慳貪(フケンドン)すなわち放逸に貪らないことは、苦から脱する「十善戒」の一つである。
 私たちは、喉が渇いて塩水を飲めばどうなるかを知っている。
 だから古人は「腹八分」や「足(タ)るを知る」と説いた。

「国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。
 私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。」
 根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。
 そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。」


 無限消費に駆り立てられれた「生活スタイル」のままでよいかどうか、私たちがこうした「生活スタイル」を変えないままに「水源危機と環境危機」は乗りこえられるのか?

「私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。
 私の国には300万人ほどの国民しかいません。
 でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。
 ヤギも800万から1000万頭ほどいます。
 私の国は食べ物の輸出国です。
 こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
 私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。
 そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。
 しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。
 なぜか?
 バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。
 毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。
 私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。」


 資源に恵まれたウルグアイでも、人々はローンに追われつつ年老いる。
 目の前にニンジンをぶら下げられた馬のまま走り続ける人生は幸せと言えるのか?

「そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?
 私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。
 発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。
 愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。
 これらをもたらすべきなのです。」


 真の発展とは人間に真の幸福をもたらすものでなければならず、もたらされるべきものは無限のモノではなく、温かな心の交流と、ほどほどのモノである。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。
 環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。」
 ありがとうございました。」


 大統領は、地球上の誰もが幸せを求めているのに、幸せとは何かが問われないまま論議を進めてはならないと訴えた。
 世界を覆う経済システムを放置する政治の責任を追及した。
 この演説は、人類が滅びない限り語り伝えられるのではないだろうか。

 そもそも、〈原理〉任せではまっとうな社会がつくれない。
 資本主義、共産主義、自由競争、さまざまな思想や宗教の原理主義、こうしたものは歴史が証明しているとおり、社会をギスギスさせ、無慈悲な空気をもたらし、やがてはのっぴきならない対立も、戦いも生みかねない。
 しかし、今、世界中で原理の徹底が叫ばれている。
 ――日本でも。
 原理にひきずられないために必要なのは叡智ではないか?
 ディルマ・ルセフ大統領は叡智の存在に目を見開かせた。
 この先、地球規模で有効な工夫ができれば、環境も人類も救われる。
 仏教では、こうした叡智を〈智慧〉と呼び、最上の手立てを〈方便〉と呼ぶ。
 仏教の理想は、〈慈悲〉という思いやりに立って〈智慧〉を磨き、〈方便〉を実践して共に苦から脱するところにある。
 私たちは、破滅が来ないうちに、お釈迦様が説かれた救済の道筋をたどれるのだろうか。




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2013
12.16

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その66)─恩と徳とに囲まれて─

2013121600001.jpg

 江戸時代まで寺子屋などでで用いられていた『実語教童子教』を読んでいます。

を戴(イタダ)いてを知らざるは
 樹の鳥の枝を枯らすが如し  
 を蒙(コウム)つてを思わざるは
 野の鹿の草を損ずるが如(ゴト)し」


(せっかくを受けて育ち、生きているのに、というものを知らなければ
 樹をより所とする鳥が、止まらせてもらう枝を自分で枯らしてしまうようなものである
 せっかくを受けて育ち、生きているのに、というものを思わなければ
 野にある鹿が、食べさせてもらう草を自分で絶やしてしまうようなものである)

 私たちは、受胎した瞬間から、この世での無限のをいただき始めています。
 まず、受胎という肉体的な縁がなければ、意識がこの世で新たな活動をする拠点が得られません。
 意識はんでもなくならず、どこかで、次のチャンスに備えています。

 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「この肉体、この特定の生命に属するこの具体的な肉体にとって、とは変化の時を告げるのみである。
 古い着物を投げ捨て、新しい着物を身にまとうように、普遍的存在が古い肉体を捨て去り、新しい肉体に宿る節目である。
 であるならば、《》に対する人間の対応は、恐怖とはまるで異なるものとなるはずだ。
 に臨むとき、自分の心から恐怖を取り払うことができるはずだ。
 精神的な修養を積んだ者なら、が現実に迫れば迫るほど、心は豊かに穏やかに、それでいて喜びに満たされるものなのだ。
『時は来たり。
 若々しく、新鮮で、より可能性を秘めた肉体を、そして、新しい人生を己(オノ)が手にする時が来たり』
と。」


 このように、前世でのを通過して、〈新しい人生〉を生きるチャンスが生じたのです。
 受胎とは何とありがたいことでしょうか。
 そして、生まれる時も、生まれてから生きて行く上でも、無数の人々や、いのちあるものたちから受ける恵は、無限というしかありません。
 それを知らないままでは、せっかくの縁を次々と枯らし、自分で自分の人生を破壊するようなものです。
 恩については、以下をご参照ください。

http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3973.html(11月21日)
http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3931.html(10月17日)
http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3929.html(10月16日)
http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3931.html(10月14日)

 また、私たちは、周囲の環境に無限のがあればこそ、まっとうな人間として生きて行けます。
 心は環境に染められ、黒い心に囲まれていればどうしても黒っぽくなり、白い心に囲まれていれば、いつの間にか白っぽくなります。
 古人は「朱に交われば赤くなる」と言いました。
 の高い親や先輩や指導者などに恵まれれば、いつしかその感化を受けて徳が高くなり、反対の場合はどうしても徳が伸びないものです。
 事件を起こした被告人が情状酌量を受ける際に、育った家庭環境などが勘案されるのは、そのためです。
 自分の意志だけでは抗えないほど強く悪へ向かわしめる力によってつくられた精神のありようを、すべて被告人のせいにしてしまうのは酷ではないかという共通認識が、私たちの社会にはあるのです。
 だから、私たちが罰せられるほどの悪行へ走らず、どうにか社会人として生きて行けるのは、徳を持った人々に囲まれて生きているからです。
 もしも、右に住む隣人はいつも窃盗を行い、左に住む隣人はいつも暴力を揮い、前に住む隣人はいつも生きものたちを虐待し、後に住む隣人はいつも道路へゴミを投げ捨てていたなら、私たちは落ちついた精神状態を保ちながら生活することができません。
 そして、いかなる〈功成り名遂げた人々〉も、決して自分だけの力で結果を出したわけではありません。
 周囲の徳が自分の徳を育て、自分の徳もまた周囲へ徳の輪を広げればこそ、ことは成ります。
 小関智弘著『どっこい大田の工匠たち』を読むと、世界に通用するほど卓越した個人的技術力や発想力を持つ「~師」と呼ばれる人々ですら、徳の縁によって力が生かされているという真実がよくわかります。
 こうした徳のありがたさに思いをいたすことができなければ、自分のいのちと心を養うありがたい縁を自分で絶やしてしまうのです。

 恩と徳をよく考えてみましょう。




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2013
10.12

利休の真剣勝負に思う ─変えられるものへの責任─

20131011004.jpg

 ある日、利休が紹安(ショウアン)の掃除を眺めていました。
 紹安は我が子、場所は路地です。
 
 掃除の終わった紹安がホッとした頃、利休は叱りました。
「充分ではない」
 さらに二時(フタトキ…4時間)あまりもかかって再び念入りに掃除をした紹安は報告しました。
「父上、もう私にはこれ以上、何もできません。
 庭石は三度洗いました。
 石灯籠や庭木には、よく水を撒きました。
 苔も生き生きして緑色に輝いています。
 地面には、塵一つ、木の葉一枚、ありはしません」
 宗匠は威厳に満ちた表情で叱りました。
「ばか者、路地の掃除はそういうふうにやるものではない」
 そして、庭へ降り、一本の樹木を揺すりました。
 紅色の木の葉は、塵一つない庭一面に散り敷きました。

 利休の美意識がみごとに表れたできごとですが、私たち市井の民にとっても、考えさせられるところが少なくありません。
 見え、聞こえ、匂う私たちの外界は、生きものである人間が生を営む環境でもあります。
 ちなみに、仏教では、環境世界を器世間(キセケン)と言います。
 人間も、ネコも、キリギリスもすべて、生存を許された〈器〉の中で生まれ、死んでゆきます。

 人間以外の生きものたちと人間にとって、器のありようは大きく異なります。
 彼らは能力の許す範囲で器を選び取るしかありませんが、人間は自分の生存に合わせて器を造り替えることができます。
 渡り鳥も回遊魚も、生存に適した器が破壊されれば現れなくなり、器が地球上のどこにもなくなれば絶滅するしかありません。
 今日(10月12日)のシンポジウム「ガンの渡りとふゆみずたんぼ」のパネリスト呉地正行先生は、雄大な地球を器とし、人間とは異次元の尊厳に満ちた生を営むガンたちと、その器を無自覚に破壊し、生存を危うくさせて恥じない人間の愚かさに気づかれ、数十年の年月をかけて器の確保と改良に努めてこられました。

 さて、小さな路地といえども、そこは器世間であり、器世間から目や耳や鼻に届く情報は、私たちの心のありようを左右します。
 また、心のありようによって器世間の様態は変わります。
 利休にとって、器世間との関わりは常に、自分の心との関わりであり、二十四時間が真剣勝負だったのでしょう。
 なぜ、勝負なのか?
 それは、自分が変えられるもののありようは、自分に責任があるからです。


 作家村上春樹氏はよく、文筆家の「誠実さ」に言及します。
 ブログ「傷ついた日本人へ(その23) ─心の変容、たとえば村上春樹の場合─」に書いたとおり、久しく離れていたジャズについて『意味がなければスイングはない』を書く際、こう考えたそうです。
「僕は一人の誠実な──そう思いたい──音楽のレシピエントとして、また同時に一人の職業的文筆家として(ここでは誠実さは当然の前提条件になる)、音楽についてそろそろ真剣に、腰を据えて語るべきではないかと思いなすようになったのだ。」
 真の創造的行為から誠実さは欠かせません。

 利休が常に器世間誠実に真剣勝負をしていたことが、まだ、紹安にはわかっていませんでした。
 しかし、この衝撃的な指導法によって紹安は目が醒めたのではないでしょうか。

 利休も、村上春樹氏も、自分が変えられるものについては自分に責任があるという誠実さを強烈に自覚し、誠実でない行為は断じて行いません。
 私たちも、学ぶべきところがあるのではないでしょうか。
 





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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