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2016
11.21

愛情をいくらでも受け止めてくれる子供のこと ─罪滅ぼしと生き直し─

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〈これから開く四国霊場の花〉

 高崎順子氏は著書『フランスはどう少子化を克服したか』について言う。

子供は嫌がどれだけ愛情を注いでも、受け止めてくれるかけがえのない存在」

 これには参った。
 親の立場から、子供は親が自然に愛情を注ぐ対象、としか、考えなかった。
 実は、子供のおかげで、親になった人が自分の心から愛情をどんどん引き出してもらえるのだ。
 親はそうして愛情豊かな人間に育って行く。
 子供は親を人間らしく育ててくれる。

 可愛い仕草を見ると、可愛がる心が出てくる。
 言うことをきかないと、憎たらしさに耐えて、子供のために、よいことができるよう仕向ける努力をする。
 愛情は豊かになり、揺るがなくなる。

 こう考えつつ自分の子育てを振り返ると、愕然としてしまう。
 情けなくて涙も催す。
 いったい、何をやってきたのか……。

 女の子ゆえ、どう扱えばよいかわからなかった。
 照れくさくて、スキンシップは苦手だった。
 子供が喜べば嬉しいから、欲しいもの、必要なものは極力、与えるようにし、ときおり、妻から「甘やかさないで!」と注意された。
 育てるというより、漠然とではあるが問題なく育っているとしか見えず、信念として特に何かを教え込むということもなかった。
 事業に失敗し、家を失い登校できなくなった子供をこっそり、送って行き、心で〝済まない〟と合掌した。
 進学については、「俺の子なんだから」と勝手に高慢でちんぷんかんな高望みをして困らせた。
 そして子供たちはそれぞれ、はたらき、自分で伴侶を見つけ、自分たちで生きている。

 自分はいったい、何をやってきたのだろう?
 確かに〈食わせ〉はした。
 しかし、充分に愛情を注いだとは口が裂けても言えない。
 なぜなら、子供の悩みや苦しみや淋しさを共有し、その胸苦しさを共に感じ、自分も悩み苦しんだという記憶がないからだ。
 仕事が忙しかったなどという言いわけが通用しない嘘であることは自分がよく知っている。
 はたらき、遊んだのは〈自分の人生〉でしかない。
 生きてきた時間のうち、〈子供や妻との人生〉はいったいどれほどあったろうか?

 どれをとっても、子供との関係が薄い印象しかなく、それは自分が愛情豊かな人間に育っていないことを意味しているのではなからろうか……。

 上記の本に書いてあるわけではないが、フランスでは、かつて、既婚の女性たちも着飾って社交界で華を競い、子育てを使用人へ任せっぱなしにしたことが暴力的な革命分子が育つ温床になり、王妃までも公開ギロチンにかけるという残忍な行為へ走らせたという。
 だから、革命を二度と繰り返さぬよう宗教と情操の教育には充分に留意しているらしい。
 
 この世を去りつつある団塊の世代の方々よ。
 もしも、小生と似た感慨を覚えるならば、今からでも冒頭の言葉を噛みしめてみようではないか。
 遅ればせながら、密かに愛情を注いでみたい。
 子供や孫がいなかったり、子供にとって今さら親の干渉が不要だったりするならば、何かに愛情を注ごうではないか。
 愛情が必要で、いくらでも受け止めてくれる対象は無限にある。
 枯れつつある日々の中から、まだ、愛情という温かなものが流れ出てくるならば、それは心を豊かにし、生きがいが感じられ、罪滅ぼしを伴った〈生き直し〉になるのではなかろうか。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
10.22

小さな達成感を得る ─どこにでもある生きがい─

2016-10-17-0002.jpg

 私たちが生きる上での問題はまず、安定した衣食住の確保、次に、生きがいの獲得ではないでしょうか?

1 無財の七施

 一番目については、自分の努力と社会のありようとが決めます。
 怠け者ではどうにもなりませんが、いくら労働意欲があっても社会が混乱したり、戦火の雲に覆われていたりすれば、どうにもなりません。
 自分の(ゴウ)と社会の共業(グウゴウ)をよく考えてみましょう。
 社会のおかげなくしては一瞬も生きられず、良きにつけ、悪しきにつけ、社会と無関係は人は一人もいません。
 だから誰一人、社会の傍観者ではいられず、傍観者であってはならないと言えましょう。 

 二番目については、ほぼ、自分次第、自分の生き方次第です。
 医療関係者や福祉関係者などの人生相談を受けていると、生きがいはどこにでもあると実感します。
 たとえば、ある女性の介護士さんが難しいことばかり言うお爺さんに手を焼いていましたが、ある日、昔話を聴いていたところ、どうしたことか「自分は子供の頃からへそ曲がりだった」と涙ながらに詫びられました。
 彼女は手を取って一緒に泣き、誠意を尽くしてきて本当によかったと喜び、初めて仕事を誇りに思えました。
 おじいさんは、その日から別人のようになりました。
 まごころの交流が、お爺さんの捻れをなおし、看護師さんにやりがい、生きがいをもたらしました。

 生きがいは、手応え、達成感の蓄積によって得られます。
 連続する確かな達成感が、喜びと力になってその人を輝かせます。
 この達成感は、どこにでも見つけられます。
 その典型が「無財の七施」、財物によらない施しです。
 
○眼施(ガンセ)
 思いやりのある優しいまなざしで相手を見ることです。
 眼は口ほどにものを言うのです。
○和顔悦色施(ワゲンエツジキセ)
 和やかさと笑みを含んだ相貌で相手と接することです。
 医師の穏やかな顔と接するだけで気持が落ち着いたり、孫の笑顔を見るだけで励まされたりします。
○言辞施(ゴンジセ)
 思いやりを含んだ言葉を相手へ届けることです。
「ありがとう」や「おかげさま」や「おたがいさま」が心を和ませ、勇気づけ、励まし、いのちの力を引き出すことは驚異的なほどです。
○身施(シンセ)
 身体を使って相手へ何かをさせてもらうことです。
 東日本大震災などで、みかえりを求めない珠玉の汗がどれだけ流されたことでしょうか。
○心施(シンセ)
 相手を思いやり、心配りをすることです。
 相手の立場や気持を思いやって心を配り、気を配るところから布施行は始まります。
○床座施(ショウザセ)
 相手へ座る所を提供することです。
 乗り物の席を譲る光景は例外なく美しいものです。
○房舎施(ボウシャセ)
 まず、来訪者を温かく迎えることが大切です。
 モノを渡さなくても、貸すことによって相手へ雨風をしのぐ場が提供できます。

 もしも、ベッドに横たわっていてすら、誰かへ穏やかな顔で和やかな言葉をかけられれば、それはまぎれもなく尊い布施行であり、一つの達成です。
 日々、「無財の七施」を心がけてみませんか。

2  「比丘の四法」

 付録として、せっかくの善行を台無しにしかねない〈人間関係の破壊〉から免れる方法を書いておきます。
 それは「比丘(ビク…男性の出家修行者)の四法」です。

○相手を非難しても、二度とは非難しない
○相手を怒っても、二度とは怒らない
○相手へ暴力的にふるまっても、二度とは暴力的にふるまわない
○相手の過失を暴いても、二度とは暴かない


 いずれも、そうしなければならない時、あるいは、そうしないではいられない時の心構えです。
 自他のために、誰かの過失を暴き、厳しく非難せねばならないならば、勇気をもってやらねばなりません。
 怒り、暴力的にふるまう必要性に迫られる場面からも逃げられません。
 自分と相手を救うだけでなく、悪行の害毒が広がるのを防ぐためです。

 もしも、自分に起こった感情を引きずり、繰り返すことによって相手へダメージを与えるところまで行けば、ことのスタート時には理があっても、最後は悪行(アクギョウ)に転じてしまいます。
 それは、人間関係を壊す行為になり、出家修行者の間で厳しく戒められていたことが理解できます。
 この戒めは、普通の社会人にとっても、必要な心がけであると思われます。

3 二の矢

 最後に、貪り・怒り・愚かさの三毒に陥らないための心構えである「二の矢の教え」について少々書いておきます。

 ある時、お釈迦様が弟子たちへ問いました。

「人間に生まれた以上、誰にでも喜怒哀楽がある。
 では、凡夫仏弟子とはどこが違うのか?」


 確かにそうです。
 お釈迦様は、いかに徳が高く、慈悲と智慧に満ち、法力に勝れていてもきっと、超然としてはいなかったことでしょう。
 周囲の人々が心の温かさを実感できたに違いなく、表情も豊かだったことでしょう。
 何しろ、観音様とお不動様が同居しておられたのです。
 ならば、喜怒哀楽が私たちとどう違うのか?
 弟子たちは誰も答が見つけられず、お釈迦様は、おもむろに説かれました。

「二つ目の矢を受けるか否かが違うのである」


 私たちは、外的刺激に対して、どうしても貪り、怒り、愚癡にたどりつきやすいのです。
 喜べば「もっと、もっと」とさらに欲しくなり、気に入らなければ「このやろう」と怒って排除したくなり、自分に利をもたらさなければ「知ったこっちゃない」と無視します。
 しかし、仏弟子は、快感に溺れず、不快感に左右されず、自己中心でなく周囲を観るので、因縁の糸を見失いません。
 こうありたいものです。




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2014
04.15

思考の癖、言葉の共有について

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 「マイベストプロ宮城」主催で行われた昨夜のクリティカル・シンキング講座は大変参考になりました。
 毎日繰り返されている思考の癖を変えるには、反復訓練が必要であるというスタートのあたりから、仏法に似た発想だと感じ、ボコボコになってみようと考えました。
 どんどん発言し、案の定、ボコボコになりましたが、自分にも会場の皆さんにも役立つ見本ではあったようです。

 集団内で起こっている問題の解決策を考える際に、まず、言葉によって問題そのものの内容を共有するという方向性には、目を醒まさせられました。

 問題が解決できないで悩み、当山へ足を運ばれる方々は現場での万策が尽き果てておられます。
 自分の存在を大づかみにしなおしてに再び灯をともしたり、倒れた衝撃で持っているのを忘れていた杖に気づいたり、あるいは自分の知恵を過信している傾向を見直すといった当山における再出発の方法は、個別具体的な現場からポンと離れたみ仏の眼を持つやり方です。
 こうした方々が、もしも今回の講座を受けたなら、当山へ来られるまでもなく、現場で問題を解決できる確率が上がるだろうと思いました。

 たとえば、「中間管理職が風通しの悪い職場をどう変えるか?」という〈問い〉そのものをよく考え、浮かぶイメージを求められた時、私の第一感は「一人一人にとって真に生きがいを感じながら仕事のできる職場にするにはどうすればよいか」、そして第二番目が「を共有し続けるにはどうすればよいか」、次が「誰かが気づいた問題点を生かすにはどうすればよいか」というものでした。
 会場では第一番目についての発言は控えましたが、「生きがい」も「」も実に〈問題そのもの〉から遠い観念であり、もしも私のような人間が現場にいたなら、問題そのものから遊離しフワフワした役立たずでしかないかも知れません。

 こんな一夜によって、あらためて、瞑想のありようを考えさせられました。
 眼前にある問題そのものへフォーカスするのは、自分の呼吸数を数えつつ行ったりする瞑想の第一段階に似ています。
 講師の方は最後に重大な発言をされました。
「皆さんは、時間がたくさんあれば、共有できる言葉によって問題そのものをつかんだのでしょうが、短時間で結果を出せと急かされたために、自分の慣れがはたらき、意識があちこちへと飛びました。
 短時間でも、実際に共有されている言葉で語り合えるようにするのが訓練です」
 これは、瞑想の第一段階を短時間でクリアすることに似ています。
 現実的問題の多くは、まず、ここを基礎として処理される必要があります。
 講座の有用性を強く感じさせられると同時に、当山で6月から始める予定の瞑想講座もしっかりやって行こうと思いました。
 もちろん、当山の瞑想においては、次の段階として良き心へ溶け込む体験が本番です。

 現場での対応力があり、良き心も持って過ごせればありがたいことですね。
 私も、ときおり自分の〈思考の癖〉を客観視ししつつ、やって行こうと思っています。
 講師の「いかに共有されている言葉で語れているかをふり返りましょう。さもないと、言葉を用いる環境が変わった場合、通じなくなる可能性がありますよよ」という指摘は、労働環境が流動的な現代特有の大問題でしょう。
 しかし、そもそも、私たちの一生から〈言葉を用いる環境の変化〉は避けられないのです。




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2012
09.30

子や孫のためにふり返っておきたい先人の導き(その26) ─「恩知らず」でなく「思いやりのある人」になりましょう─

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26 「お」 を忘れる者は断じて出世しない

 君国の御、父母の御、先生の御、世間の御、我等はと愛とに囲まれている。
 偉くなろうとする少年は、この御恩を忘れてはならぬ。


 私たちは山ほどの恩に包まれながら、生きています。

 社会のおかげで生活が営まれます。
 親とご先祖様のおかげでこの世に生まれ、育ち、一人前になれます。
 生きとし生けるもののいのちの世界にいればこそ、人間も生きられます。
 となる人や教えの導きによってを磨かれます。
 み仏と教えとそれを守り実践する人々によって、生きる羅針盤が得られます。

 私たちはなぜ、恩を忘れ、「おかげさま」の心を忘れてはならないか?

 それは、恩知らずになれば〈他を思いやる心〉が生まれず、育たないからです。
 では何が生まれ、育つか?
 自己愛着自己中心の心が動き出し、膨れあがります。
 それで自分が真の幸せをつかめるでしょうか?
 誰かを真に幸せにできるでしょうか?

 そもそも、私たちは自分を大切にすることによって、これまでにどれだけの感動を味わい、どれだけの感謝を受け、どれだけの生きがいを感じられたでしょうか?

 私たちが最も感動するのは、映画であれ現実であれ、我を忘れて誰かのためになる人間に接した時です。
 最も感謝されるのは、無償の施しを行った時であり、対価以上の心遣いなどができた時です。
 最も生きがいを感じられるのは、誰かの何かの役に立っていると実感できる時です。

 つまり、私たちが最も感動し、感謝され、生きがいという〈生きている意義〉が確認できるのは、決して自分を大切にするからではありません。
 その反対に、自己愛着自己中心を離れてこそ、がうち震える瞬間を得られるのです。

 だから、人生の真実をつかみ、自分が真の幸せをつかみ、他人をも真に幸せにするには、自己愛着自己中心を離れ、他を思いやる心を発揮しながら生きることです。

 他を思いやる心は、恩を感じ、感謝するところに生まれます。
 たとえば、人間関係の糸がもつれて疲れ、緑深い山道を歩きながら心が解きほぐされていると感じる人は、虫にも花にも優しくなります。
 たとえば、入院したおりに救っていただいた老医とバッタリ出会えば、「おかげさまで、元気でやっています」と挨拶し、「先生もどうぞお元気で」といたわりの言葉をかけます。
 そして、恩があり感謝の心が起きる対象は、心一つで無数に見つかります。
 朝、強盗や暴漢に襲われず無事に目覚められること自体、安定した社会に生きていられればこそであり、そうした恩に比べれば、カギをかけ忘れなかった自分の行動などは微々たるものでしかありません。

 恩に気づき、おかげさまの思いを忘れずに生きれば、花や虫に優しくなり老医をいたわるように、他を思いやる心が育ち、自己愛着自己中心は消えてゆきます。
 その先にはきっと、真の幸せが待っていることでしょう。
 だから私たち隠形流(オンギョウリュウ)居合の行者は稽古のたびに誓います。

「我、恩を着せず恩を忘れぬは、人の道を忘れず、自他の発展を願うがゆえなり」


 皆さんも朝、起きた時、同じように誓ってみてはいかがでしょうか。




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2010
08.11

『大日経』が説く心のありさま六十景 その8「疑心(ギシン)」

 私たちの仏性が輝こうとする時、邪魔をする心の曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の私たちの心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第8回目です。

8 疑心(ギシン)
 これは、心に不確定なものを抱えたままになっている状態です。
「常に不定(フジョウ)などのことを収持(シュウジ)す」。
 ものを真剣に考える人であれば、すべてを知り尽くして安心するのは不可能であると知っておられることでしょう。

 たとえば、自分が生まれてから3才あたりまでの記憶は消えており、「この世に出て何を考え、どう生きてきて今の自分があるのか」は、事実として知り得ません。
 それは、脳が発達する段階で、立って歩くなどの〈考えなくてもできるプログラム〉を刷り込むために、胎内にいた時の記憶を含めて邪魔なものは意識の表面から切り離し、隠してしまわねばならないからです。
 しかし、私たちは、それすらも知りたいと願うことは可能であり、「私は1才時の記憶がある」などという話に興味を持ったりします。

 たとえば私は、青春のある時期、未来に絶望してから中年で出家するまで、ずっと「自分の居るべき世界はどこだろう」という意識が消えず、浮き草状態でした。
 何をやっても、何を得ても、表面的な充足感や表面的な満足感でしかありません。
 決して離れない「不定」を伴走者として突っ走り、高転びに転びました。
 出家して後、いつからかこの意識は消えていましたが、それは結果でしかなく、自分では回答を見つけられませんでした。

 このように、知り得ないはずの事実まで知りたいと望む意識を持っている私たちは、「不定」を抱えた存在です。
 ではどうすれば良いか?
 大きな定まりを心に保ち、消えない「不定」を相対的に小さな存在にしてしまうことです。

 たとえば商売であれ、家事や育児であれ、生きがいのある仕事に没頭しているならば、「3才時の自分が思い出せない」、「自分は今、こうやっているべきなのだろうか」などと悩む余裕はないはずです。
 自分の与えられた環境で自分に求められていることを真剣にやってみましょう。
 そして、そうやって生きている自分はまっとうな人間であるかどうか、時折チェックしてみましょう。
 仏法はこのチェックポイントを明確に示しています。
 もちろん、完全な人間はいません。
 いたならば生き仏です。
 だから、至らないところだらけであるのは当然です。
 それを抱えたままでまっとうに生きているかどうかだけが問題なのです。
 この件に関して悩む必要はありません。
 ただ、省みる姿勢を失わければ良いのです。
 省みる姿勢自体、すでにまっとうであると言えるからです。

 こうして、今日も「よしっ!」と一日を始められるならば、「不定」は、はたらきを静め、疑心という魔ものは消えることでしょう。

〈眺める者を無心にさせつつ、無心に咲く花々〉
2208010 008





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