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2016
10.26

11月の聖語 ─法力と蓮華─

2016-10-26-0001.jpg
〈豪華でどこか哀しい……〉

 お大師様は説かれました。

法力(ホウリキ)の成就に至るまで、且(カ)つは教え、且(カ)つは修せむ。
 また、望むらくは、その中間(チュウゲン)において、住処を出ず、余の妨げを被(コウム)らざらんことを」


法力の成就を期し、弟子たちへ指導し、修法を行います。
 成就の時まで、ここに籠もることをお許しくださいますよう)

 薬子(クスコ)の変に際し、堂内に籠もって国家の安泰と世間の平安を祈るべく、嵯峨天皇に対して決意を披瀝した文章です。
 そこには「七つの難事をうち破り、四季の巡りが順調で、国を護り、家を護り、自他共に安寧な暮らしができますよう」と述べられてもいます。
 重要なのは「法力の成就」です。
 この身このままで、み仏そのものになることを目ざす密教においては、み仏から受けるお力を法力として発揮できるようになって初めて、一人前の行者です。
 外科医が実際に執刀ができるのと同じことで、小生の修業時代にはテストもあり、なかなか厳しいものでした。
 それは虚仮威(コケオド)しの見てくれを競うものではなく、誠心がご本尊様と感応すれば自然にはたらきだすのです。
 ただし、別段、超能力者である必要はなく、むしろ、修法に感応する素直な心が求められます。
 お大師様はそれを信修(シンシュ)と説かれました。
 信じて修行するという誠心と実践が必ず結果をもたらします。

 さて、仏法によれば私たちは等しく、み仏の子です。
 イメージとしては、心の奧に蓮華の蕾を持っているようなものです。
 『大日経疏(ショ)』は説きます。

「およそ、人の汚栗駄心(カリダシン)の状(カタチ)、なおし、蓮花の合してしかも、いまだ敷かざるがごときの像(スガタ)なり」


(人間に具わっているカリダ心の形は、蓮花の花びらが合わさっていて、まだ開かないような姿をしている)

 鎌倉時代の真言僧頼宝もまた、明確にしています。

「心には二つある。
 一つはチッタ心、これは慮知する心である。
 二つはカリダ心、これは中実の義である」


 心には二種類あり、一つは思慮し分別し、何かを知るといった日常的にはたらく、いわば表面の意識のようなものです。
 もう一つは、人間存在の中心をなすものとして深く蔵された心で、いわば無意識の世界のようなものです。
 後者として、普段は蓮華の蕾の姿で眠っているのが仏心(ブッシン)であり、仏心が開き、表面の意識が蓮華の姿ではたらくならば成仏です。

 私たちは誰でも尊い蕾を持っています。
 それを開くためには、開いた先達としてのみ仏を仰ぎ、自分の身体と言葉と心を、み仏に合わせる必要があります。
 仏道修行はこうして行われますが、在家の方々もまた、蕾を持っておられるので、いつでも〈生き仏〉になれる可能性があります。
 思いやる心が動き、誰かの何かが見捨てられずに手を差し伸べる時、私たちの身口意(シンクイ)は自己中心を離れてはたらきます。
 その時は、まぎれもなく生き仏になっています。

 最近、思い知らされました。
 駅のホームに立っていたところ、到着した電車の乗降口から降りたおばあさんがよろけ、転びそうになりました。
 ほんの2、3メートル先のできごとです。
 小生は、アッと思ったものの、とっさに両手の荷物を置いて前進することができず、立ったままでした。
 おばあさんに続いて降りた中年の女性が2人がかりで支え、ことなきを得ましたが、修行不足をつくづく実感しました。
 怠けていれば、怠けたようにしか身体は動きません。

 心も同じでしょう。
 蕾に気づき、学び、イメージトレーニングをしていればこそ、蓮華を開かせる可能性が高まります。
 私たちの心をつかむような誰かの行動はすべて、蓮華を開かせた、あるいは開かせかけた成功例と言えましょう。
 謙虚に、至心に学びたいものです。




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2015
06.27

生き仏に学ぶ ―『現代の偉人伝 第2巻 ―平成23・24・25年版―』の発行―

201506270001.jpg

 お大師様は説かれた。

「決して変化しない性質を持ったものはない。
 人もまた、悪者や愚者と定まった人はおらず、縁の次第によっては愚か者も悟りへの道を深く求め、教えに従えば凡人も賢者聖人の域へ近づけるであろう」

 原文の読み下し文である。

「物に定まれる性(ショウ)なし、人なんぞ常に悪からん。
 縁に遭うときは、すなわち庸愚(ヨウグ)も大道を庶(コ)い幾(ネガ)い、教に順ずるときは、すなわち凡夫も賢聖に斉(ヒト)しからんと思う」


 私たちには、ものごとを固定的に見て決めつけ、安心しようとする心理がある。
「Aさんは善い人だ」
「Bさんはバカだ」
「Cさんは私を好きだ」
「Dさんは私を嫌っている」
 決めつければ、あとは楽である。
 Aさんと会えば〈善い(はずの)人〉として相談し、約束ごとができる。
 Bさんと会えば〈バカな(はずの)人〉なので当てにせず、適当にしておけばよい。
 Cさんへは何でも話し、Dさんとはなるべく会わないようにする。

 こうして日常生活を過ごすが、時として、こんなはずではなかった!という実態が明らかになり、混乱し、窮地に陥ったりもする。
 ――善い人だとばかり思っていたのに、陰でとんでもないことをたくらんでいた。
 ――自分を認めてくれていたはずなのに、裏で悪口を言い、足を引っぱっていた。
 反対に、バカだとばかり思っていた人が人知れずボランティア活動に専心していたり、自分を嫌っているはずの人が困った時に真っ先に駆けつけてくれ、感激することなどもある。
 瞬間瞬間に変化し続ける自分の心の全体すらなかなかつかめない私たちは、他人の人間像全体など、簡単にわかるはずがない。
 そして、自分という意識は不動でも、心のありようは変化してやまず、誰かを好きになって成功を祈る一方、誰かを嫌いになり失敗を願う。

 こういう事実は何を教えているか?
「私たちは、〈今までの自分でない者〉になり得る」
 これではなかろうか?

 ならば、まず、「こうありたい」「こうでありたくない」と生き方のイメージを定めたい。
 ヒーローやヒロインの像を心に保ちたいし、反面教師も大切だ。
 本当の英雄たる人々は皆、生き仏であり、菩薩(ボサツ)である。
 これがお大師様の説かれた「縁に遭う」そして「教に順ずる」ことであり、「賢者聖人の域へ」少しでも近づく道ではなかろうか。

 今回、当ブログに連載している「現代の偉人伝」から、東日本大震災のあった平成23年、そして24年、25年の分をまとめて加筆修正し、一冊の本にまとめた。
 小生自身も偉人たちの生きざまを忘れぬようおりおりに繙(ヒモト)き、自分自身を戒め、活を入れると共に、偉人たちを話題にし続けたい。

 電話(022-346ー2106 AM9:00~PM5:00)やファクス(022-346-2107)、あるいはメール(ryuuchi@hourakuji.net)でお申し込みいただければお送りします。
(恐縮ながら、当山で印刷・製本しましたので500円の実費と、送料100円をお願いします)




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2013
06.16

【現代の偉人伝】第174話 ─最後まで半鐘を鳴らし続けた消防団員越田富士夫(当時57才)氏─

20130616001 (3)2
河北新報からお借りして加工しました〉

20130616001 (3)3
河北新報からお借りして加工しました〉

 東日本大震災から2年以上が過ぎた今も、生き仏の情報が新たにもたらされている。
 6月16日付の河北新報は、危機を知らせるべく最後まで半鐘を打ち鳴らし続けた消防団越田富士夫(当時57才)氏について報じた。

 岩手県大槌町安渡地区では、地域住民の1割を越す218人が犠牲となった。
 地区担当の町消防団第二分団では、団員41人のうち11人が殉職している。

 元分団長の佐々木大一郎氏(69才)は、当時をふり返る。

「地震直後、心配で駆け付けた屯所で、半鐘を鳴らす越田さんを目撃した。
 団員らは計14カ所の水門を閉めた後、屯所からポンプ車で住民の避難誘導に向かい、越田さんは屯所に残ったという。
 津波は間もなく6・4メートルの防潮堤を越えた。
 津波を見て、慌てて自転車で高台に向かった佐々木さんの耳には、半鐘の音が今も残る。
『早く逃げろ』。
 佐々木さんは心の中で越田さんに、こう叫ぶのがやっとだった。」


 半鐘は屯所が津波にのまれるまで鳴り続けた。

半鐘は震災の十数年前、フックの老朽化で火の見やぐらから外され、屯所2階に保管されていた。
 半鐘に代わり整備された屯所のサイレンは停電で作動しなかった。
 越田さんは、とっさに青銅製の半鐘を持ち出し、2階のてすりにぶら下げたとみられる。
 たたき方は、非常事態を知らせる『乱打』だった。」


「越田さんは震災から約40日後、遺体で見つかった。
 半鐘はいまだ見つかっていない。
 震災後、3月に行われる安渡地区の追悼式では、支援で寄せられた半鐘を『あの日』のように鳴らし、多くの住民が祈りをささげている。」


 大工だった故越田富士夫氏は、熱心に活動していた。
 歴史や時代劇の愛好家であった故人は「ふーさん」と呼ばれ、親しまれていたという。

 文明の利器が使えなくなった時、非常事態を知らせるための〈身体でやれる方法〉を知っていた故人は、それをやらないではいられなかったのだろう。
 押し寄せる津波から逃げず、「一人の人間ここにあり」と最後まで伝統に則った行動をとり続けた心を想像すると、涙を抑えきれない。
 自然に琴線が震え、自分もこうありたいと願うのは、私たちが仏性を共有しているからに他ならない。
 生き仏の情報に接し、生き仏を想う。




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2012
03.24

「南無大師遍照金剛」とは何か? ─阿部翔人君と心にある宝もの─

20120324001.jpg
〈http://image.rakuten.co.jp/fudasho0ban/cabinet/0101/1024wh1.jpgをお借りして加工しました〉

 お遍路さんが必ず唱える「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」とは何でしょうか?
 南無は「帰依(キエ)する」という意味です。
 帰依とは、信じた相手の前で心を裸にし、自分が無なる状態です。
 では、お大師様に帰依した結果は……。
 お大師様と一体になります。

 私たちの本体がみ仏であり、それに気づき、本来のみ仏になりきることが仏教の到達点であると明らかにしたお大師様は、天皇の前でも、そうなり切った姿を顕しました。
 即身成仏(ソクシンジョウブツ)を周囲の人々へ確信させたのです。
 いわば〈生き仏〉となった人を、仏教では応身仏(オウジンブツ)といいます。
 人間修行に応じて、み仏になった〈この世のみ仏〉です。
 こうした生き仏様に帰依すると、〈この世の〉という次元の先にある世界が感じ取れます。
 いわば「まごころ」そのものが広大な世界となって広がっているのです。

 たとえば、宮城県石巻工業高等学校野球部主将阿部翔人君が行った甲子園での選手宣誓と、試合での部員一丸となった活躍を考えてみましょう。

「東日本大震災から1年、日本は、復興の真っ最中です。
 被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、今も当時のことやなくなられた方を忘れられず、悲しみにくれている方が沢山居ます。
 人は誰でも答えのない哀しみを受け入れることは苦しくて、辛いことです。
 しかし、日本がひとつになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に、必ず大きなしあわせが待っていると、信じています。
 だからこそ、日本中に届けます。
 感動、勇気、そして笑顔を。
 見せましょう。
 日本の底力、絆を。
 我々高校球児ができること。
 それは全力で闘い抜き、最後まで諦めないことです。
 今、野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います」


 彼らは津波によって個人的な悲劇に遭っただけでなく、野球チームとしても深刻な被害を受けました。
 しかし、グラウンドを埋め尽くした津波の泥を黙々と排除するところから始め、やがて宮城県内の大会で並み居る強豪を破るほどの力をつけ、今回の出場となりました。
 選手宣誓も見事、試合ぶりも見事でした。
 彼らは選手として輝いている時、生き仏だったのではないでしょうか。
 夢中で拍手し、涙し、歓喜した人々は、少年の姿を通じて〈それ以上〉の真実と出会っていたのではないでしょうか。
 涙する地元の方々の姿をテレビで観る私たちもまた涙する時、選手も地元の方々も私たちも、広大な「まごころ」で通じ合っていたのではないでしょうか。
 そして、まごころ体験は、霊性のはたらきを高め、いのちを活性化します。

 こうして、特定の宗教の特定の修行を手段とするのみでなく、私たちはいつでも、自分の身体と言葉と心がまごころそのものではたらく時、誰かのまごころに素直に感応した時、人間本来のみ仏になっています。
 お大師様は説かれました。

「ああ、自宝(ジホウ)を知らず、狂迷(キョウメイ)を覚(カク)といえり、愚にあらずして何ぞ」


(ああ、迷い惑う人々は、自分自身にあるみ仏からいただいた宝ものを知らない。
 そして狂い、迷っているにもかかわらず、自分は目覚めていると錯覚している。
 これを愚かと言わずして何と言えようか)

 私たちは、自分自身の心の奥へ入り、財宝のある扉を開ける方法が伝えられているにもかかわらず、宝ものを外へ求めてウロウロします。
 そして名誉欲などの欲たちを満足させてくれる対象を見つけて人生の真実をつかんだような気になったりもします。
 しかし、そうしたものたちは、無常の風が一陣吹けばたちまち粉々になり、何かをつかんだはずの手は空っぽに帰します。
 一方、心におわすみ仏と会い、即身成仏(ソクシンジョウブツ)を体験したならば、無常の鬼にも魂が揺るがされはしません。
 確かな宝ものは外にではなく、自心にこそあると気づきたいものです。

 お遍路さんは「南無大師遍照金剛」と唱えて四国を歩き、石巻工業高等学校野球部の少年たちは志をもって野球にうち込み、み仏へ近づきます。
 お大師様が、「この身このままでみ仏であることに気づく道は万人へ解放されている」と説かれたことをよく考えたいものです。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2009
10.02

恋と生き仏

 80歳になるAさんは、ひょっこり訪ねてきた古い知人の話に耳を疑った。
 20歳の時に恋文を届けて以来、音信不通だったBさんが会いたいのだという。
 Aさんはすでに数回の手術を受け、現在も大病を抱えたままである。
 知人と一緒に会ったBさんは、しばらく前に夫を亡くしているという。
 すっかり腰の曲がったBさんは、一枚の写真をとりだした。
 黄ばんだ小さな写真に写っているのはAさんだった。
 奇跡に、Aさんは絶句した。

 当時20歳だったAさんは年下のBさんを見そめたが、Aさんの家は貧しく、お嬢様のBさんは文字どおり高嶺の花でしかなかった。
 家は遠く離れ、電話も車も少なく、もちろんテレビなどなかった敗戦直後の日本では、想いのたけをどんどんぶつける方法などなかった。
 たった一度、知人へ恋文を託したが、返事はこない。
 やがて都会へ出稼ぎに出て懸命にはたらき、家庭をつくったAさんにとって、Bさんは思い出の人でしかなくなった。

 Aさんはすべてを奥さんへ告げ、奥さんは笑って自由にさせてくれた。
 Bさんは決して自分から連絡をよこさない。
 たまにAさんが連絡をするだけである。

 大病で、時には弱気になることもあったAさんは、以前の覇気を取りもどした。
「この年になっても、女性の気持はよく解りません」
 目は、青年のそれである。

 真理をつかむと、納得し、満足感がある。
 善きことを行うと、清涼感があり、心地よい。
 美しいものに出逢うと、ときめき、心に光が残る。
 真善美は、霊性を輝かせる。
 お大師様は説かれた。

「常に自性(ジショウ)を見る者は即ち常に仏を見る」 


 AさんもBさんも、心におわすみ仏を大切にしつつ生きられたのだろう。
 そして今、互いにとって互いが「生き仏」なのではなかろうか。

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