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2016
11.21

愛情をいくらでも受け止めてくれる子供のこと ─罪滅ぼしと生き直し─

2016-11-11-0293.jpg
〈これから開く四国霊場の花〉

 高崎順子氏は著書『フランスはどう少子化を克服したか』について言う。

子供は嫌がどれだけ愛情を注いでも、受け止めてくれるかけがえのない存在」

 これには参った。
 親の立場から、子供は親が自然に愛情を注ぐ対象、としか、考えなかった。
 実は、子供のおかげで、親になった人が自分の心から愛情をどんどん引き出してもらえるのだ。
 親はそうして愛情豊かな人間に育って行く。
 子供は親を人間らしく育ててくれる。

 可愛い仕草を見ると、可愛がる心が出てくる。
 言うことをきかないと、憎たらしさに耐えて、子供のために、よいことができるよう仕向ける努力をする。
 愛情は豊かになり、揺るがなくなる。

 こう考えつつ自分の子育てを振り返ると、愕然としてしまう。
 情けなくて涙も催す。
 いったい、何をやってきたのか……。

 女の子ゆえ、どう扱えばよいかわからなかった。
 照れくさくて、スキンシップは苦手だった。
 子供が喜べば嬉しいから、欲しいもの、必要なものは極力、与えるようにし、ときおり、妻から「甘やかさないで!」と注意された。
 育てるというより、漠然とではあるが問題なく育っているとしか見えず、信念として特に何かを教え込むということもなかった。
 事業に失敗し、家を失い登校できなくなった子供をこっそり、送って行き、心で〝済まない〟と合掌した。
 進学については、「俺の子なんだから」と勝手に高慢でちんぷんかんな高望みをして困らせた。
 そして子供たちはそれぞれ、はたらき、自分で伴侶を見つけ、自分たちで生きている。

 自分はいったい、何をやってきたのだろう?
 確かに〈食わせ〉はした。
 しかし、充分に愛情を注いだとは口が裂けても言えない。
 なぜなら、子供の悩みや苦しみや淋しさを共有し、その胸苦しさを共に感じ、自分も悩み苦しんだという記憶がないからだ。
 仕事が忙しかったなどという言いわけが通用しない嘘であることは自分がよく知っている。
 はたらき、遊んだのは〈自分の人生〉でしかない。
 生きてきた時間のうち、〈子供や妻との人生〉はいったいどれほどあったろうか?

 どれをとっても、子供との関係が薄い印象しかなく、それは自分が愛情豊かな人間に育っていないことを意味しているのではなからろうか……。

 上記の本に書いてあるわけではないが、フランスでは、かつて、既婚の女性たちも着飾って社交界で華を競い、子育てを使用人へ任せっぱなしにしたことが暴力的な革命分子が育つ温床になり、王妃までも公開ギロチンにかけるという残忍な行為へ走らせたという。
 だから、革命を二度と繰り返さぬよう宗教と情操の教育には充分に留意しているらしい。
 
 この世を去りつつある団塊の世代の方々よ。
 もしも、小生と似た感慨を覚えるならば、今からでも冒頭の言葉を噛みしめてみようではないか。
 遅ればせながら、密かに愛情を注いでみたい。
 子供や孫がいなかったり、子供にとって今さら親の干渉が不要だったりするならば、何かに愛情を注ごうではないか。
 愛情が必要で、いくらでも受け止めてくれる対象は無限にある。
 枯れつつある日々の中から、まだ、愛情という温かなものが流れ出てくるならば、それは心を豊かにし、生きがいが感じられ、罪滅ぼしを伴った〈生き直し〉になるのではなかろうか。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2016
10.25

生き直しの小さなヒント

2016-10-25-0001.jpg

 私たちは、お墓をどうするかなど、死後の準備をしていると自分の〈単独生〉に気づきます。
 お釈迦様は説きました。

「死に迫らるれば、親とても頼むべきなし」


 死に神がやってくると、家族などいかに親しい人であっても、追い返すことはできません。
 そして、手にしているものの頼りなさもわかります。
 確かに、お金などの財産があれば最後まで安全に生きられるでしょうが、それは、安心(アンジン)の土台にはなっても、安心を生むわけではありません。
 地位や名誉も同じです。
 誰かにとってそうしたものが力として役立つうちは、近づいて来る人もいるでしょうが、力を求められなくなれば、やって来る人もいなくなります。
 麗々しい肩書は、一人間としてのおつき合い上、邪魔にこそなれ、何ら役立ちはしません。
 死を意識し、死の準備をする私たちは、だんだん、〈自分そのもの〉になります。
 それは、裸で生まれ落ちた赤児に戻るようなものであり、夢中で生きてきた過去は何だったのだろう、と人生が一夜の夢のように感じられもすることでしょう。
       ○
 そうなってみると、二つのものが胸に迫ってきます。
 一つは、やり残したことや果たしていない責務、もう一つは償っていない過ちです。
 最後の力を振りしぼってそれらに挑戦していると、〈まだやれること〉と〈もうやれないこと〉が明らかになり、諦念が固まってきます。
       ○
 次々と周囲に別れが起こり、悲嘆の体験も重ねます。
 そうしているうちに、これまではテレビや新聞で目にしても心の目に映らなかった世界が、現実のものとして見えてくるかも知れません。
 他者の苦境が〈他人ごと〉ではなくなります。
 人々はすぐ近くで苦しみ、あるいは遠い異国で苦しみつつ、日々を生きています。
 母親の胎内から生まれ落ちた時は、同じ裸ん坊だったのに、その境遇は、天と地以上に遠く離れ、生活水準はもちろん、学力も、仕事場も、寿命すらも格差は広がる一方です。
 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は鋭く指摘しました。

「人類は、より大きな力を得ることにはたけているが、その力を幸せに転換する能力は高くない」


 確かに、言葉を用いてコミュニケーションを拡大させ、農業によって食糧を安定的に確保し、科学力を用いて豊富なモノをつくってきましたが、そうしためざましい発展の割には、人類全体の幸せ度は上がっていないかも知れません。
 戦火に追われ、異国で死んで行く子供たちの姿は、相も変わらぬ人間の業(ゴウ)を私たちへ突きつけてきます。
       ○
 人間とは何か、自分とは何か、社会とは何か、問題は〈追われている日常〉からだんだん遠ざかってきました。
 ここで思い出すのは、インド古来の「四住期」です。
 子供として学び、大人として仕事に励み家庭を守り、社会的な務めを果たし終えたなら世間的価値観を離れ、林に暮らして人生の根本問題と向き合い、最後は彷徨しつつ死を待つというものです。
 最後は裸の人間として死を迎えのが、赤ん坊の姿に還ることなら、自分とは何かといった素朴で深い疑問に沈潜するのは、青春期に還ることに例えられるかも知れません。
 多感な頃、私たちは解けない疑問にとらわれて煩悶し、心の許せる友と語り合ったではありませんか。
 生きんがため、役割を果たさんがために脇へ置きっぱなしにしてきた問題に、ようやく自分なりの解答が出せる時期が訪れたとすれば、何とありがたいことでしょうか。
       ○
 このあたりで何かが見えてきたなら、それは生き直しの入り口かも知れません。
 一人間として、いかなる価値観を持ち、何をやって過ごすか?
 それはまったく、自分次第です。
 もちろん、老老介護や闘病など状況はさまざまでしょうが、現役時代とは違います。
 それは、〝死へ向かっている〟という確かな意識があるからです。
 自覚した人間にはもう、見える世界が違っています。
 悲嘆の目から見える世界より半歩、先へ行っていると言えるかも知れません。
 死を覚悟した芥川龍之介は書き遺しました。

「自然の美しいのは、 僕の末期(マツゴ)の眼に映るからである。」


 彼の視線はきっと、哀しみという透明なフィルターを通して自然へ届いていたことでしょう。
 その哀しみは、み仏のお慈悲に通じています。
 なぜなら、み仏のお慈悲は〈哀しみ〉の共有に発しているからです。
 澄んだ心を持っている人がそばにいること、それ自体が慰めであり、救いともなります。
       ○
 このあたりで「生き直し」のポイントが一つ、見えてきます。
 それは思いやりの実践です。
 カール・ベッカー博士は、死別ケアなどにたずさわる人々の心構えについて指摘しました。

「深く哀しんでいる人と『隣に並んで歩むこと』『寄り添うこと』」。


 これは、お釈迦様が説かれたお慈悲そのものです。
「慈」は、広い友情をもって寄り添い、相手の幸せを望むことであり、「悲」は、他者の苦しみを見捨てず、取り除くことだからです。
 では、思いやりをもって生きるにはどうしたらよいでしょうか?
 優しい気持がすぐに怒りや怨みにひっくり返る私たちは、どうすれば、他者の哀しみがわかり、本心からの思いやりが持てるでしょうか?
       ○
 どうせ生き直しをやるのなら、根本からやりましょう。
自己中心」を離れて、み仏に成ってしまうのです。
 私たちの身体と心と言葉のはたらきを、み仏に一致させてしまいましょう。
 身体では合掌しましょう。
 右手をみ仏、左手を自分とみなして両方を一致させます。
 形はさまざまですが、掌をやや膨らませて、蓮華の蕾を連想するのがお勧めです。
 泥に咲いても清浄な色を失わない蓮華のような心が、私たちには必ず、具わっているのです。
 言葉では「あー」と唱えてみましょう。
「あ」はいのちと心を根源であり、故郷です。
 私たちは「あ」と生まれ「うん」と息を引き取ります。
 だから、寺院の山門には「あ」と「うん」の金剛力士像がおられます。
 合掌して目をつむり、お腹の底から息をゆっくりと吐きながら「あー」と唱えてみましょう。
 心では、口から出た「あ」という音が遠くへ遠くへと伸び、息が途切れた先へまでずうっと届いて行くと観想しましょう。
 ゆっくりと息を吸う時、宇宙のエネルギーが戻って来て自分を満たし、清めます。
 そしてまた、ゆるゆると宇宙へ伸び、広がって行く息と声は、自分をすっかり解放します。
 幾度か繰り返すうちに、自己中心的な気持など、どこかへ行ってしまうことでしょう。
       ○
 清められた心は、数々の出会いを思い出させるかも知れません。
 私たちはさまざまな人々と縁を結びながら人生を紡ぎます。
 そして、ある程度の年齢を重ねてから振り返って見ると、善い人だけでなく、酷い人との出会いも恩讐を超えた感覚で甦ることでしょう。
 色合いも大きさも異なる星々が揃って夜空という一枚のベールを織り成すように、出会った人々のすべてが人生に関わっています。
 その真実もまた、自己中心という小さな殻を忘れさせることでしょう。
       ○
 その方なりに、生き直しをじっくり考えてみてはいかがでしょうか。
 こうした生き直しは若い人にもお勧めです。




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2013
02.16

定年出家の落とし穴 ─娑婆にいた者の体験から─

20130216100.jpg
〈朝日新聞さんからお借りして加工した隕石落下の写真です〉

2013021600822
〈『森栖』さんです〉

 最近、定年後の出家が話題になっています。
 お葬式が減って成り立たなくなりつつあるお寺へ住んでもらおうと、積極的に勧める動きもあります。
 また、名刺とやることがないので、「のんびり僧侶でもやるか。でも最初の修行は大変そうだな」といった感じで出家を考える方々もおられます。
 加えて、簡単に僧侶の資格を与えるところも現れました。

 こうした需要と供給のバランスで即席僧侶が生まれ、寺院が隠居者の家になるとしたら、廃寺が減るよりも深刻な事態になりかねないという危惧があります。
 「不惑」とされる40才を超えた頃に出家し〈それまでの自分〉と20年以上の戦いを続けている〈一足早めの体験者〉として、率直な感想を述べておきます。

1 出家生き直しであり、これまでの自分すなわち、自己流の人生の渡り方を捨て切ることである。

 師から「お前はこれまでで一番、やっかいな弟子だ」と言われたことは忘れられません。
 不如意のままに商売を始め、無一文になるまでの過程で心にこびりついた悪しきものたちは、あたかも甲羅のように固く、本ものの僧侶として生きるためには血を流しつつはぎ取るしかないことを、よく自覚していたからです。
 世間へ出てから20年間、悪戦苦闘する中でつくられた自分流の生き方は、見事なほど、み仏の説かれる生き方とかけ離れており、以後、20年間戦ってなお、戦火は下火になりましたが終熄はしていません。
 40年以上も娑婆の風に吹かれた方々が、老境を迎える頃にそれまでの生きざまを捨てきるなど、簡単にできましょうか。
 自分の人生経験を生かして若い人たちを導こうなどという考えは、〈娑婆からの連続〉が前提となっており、出家者には不要であるだけでなく、そもそも出家の覚悟と相反しています。
 いかに捨てきるかが出家における真剣さのバロメーターであることをよく考えていただきたいものです。
 よく「修行は大変でしょう」と言われますが、どの世界でも練習や稽古が大変なのは当然です。
 学生時代から仏教を学び、座禅も行い、さんざん寺院や宗教団体をめぐり、それでなお出家は遠く、ついに全財産を失ってようやく、み仏に手を引かれるように出家した者として、捨てきる〈覚悟〉と、その後永遠に続く〈過程〉こそが大変であることを指摘しておきます。

2 出家者は、生きられる安易さに負けず、堕落せず、聖職者であり続けねばならない。

 お釈迦様は、『四十二章経』において、仏道を歩む難しさについて二点を説かれました。
「貧窮(ビングウ)にして布施(フセ)するの難(ナン)」
「豪貴(ゴウキ)にして道(ドウ)を学ぶの難(ナン)」
 自分が貧窮し困っていながら誰かのためになろうとするのは、とても困難です。
 同じように、モノ金に恵まれ世間で威勢を張っていながらにして、仏道を目ざすこともまた、簡単ではありません。
 もちろん、例外となる方々は少なからず存じ上げていますが、当てはまってしまった例もまた、数多く知っています。
 いずれにせよ、蓄財や年金によって生活が安定しているのに、そうしたものへすがらず、自分を切り刻むことは容易ならぬことと言えます。
 真剣勝負を行う必要のない方が、切るか切られるかの場へ進んで臨めるでしょうか。

3 他者の死を己の死として受けとめ、別れの悲痛を繰り返し感得し、死者を送る命がけの修法はプロのプロたる部分を研ぎ澄ませる。

 葬式坊主という言葉が広く用いられるようになって久しい感があります。
 しかし、ご葬儀で納められるまとまったお布施は寺院の運営に大きな力となりますが、僧侶は決して、それを当てにして生きるわけではなく、もちろん、それを当てにして修法するわけでもありません。
 無数の死を我が死とすること、無数の悲嘆を我が悲嘆とすること、この恐ろしい役割を担う僧侶は凄まじい業(ゴウ)を背負った者です。
 私は引導を渡す際に、歯を食いしばってしまいます。
 おかげで片方の奥歯は壊れ、もう片方もかなり怪しくなりました。
 歯医者さんから「めり込んで変形しています」と言われましたが、これは、死者を極楽へ渡す真剣勝負の証しであり、自分の悪業をいくばくかは削ぎ落とした結果でもあるような気がしています。
 葬送は、人類の歴史が始まって以来、途絶えることのない高レベルの精神活動です。
 ここを軽視、あるいは無視する〈宗教〉は考えられません。
 宗教者たちに堕落が見られるからといって、宗教行為そのものを貶めるのはいかがなものでしょうか。

4 僧侶は常に神経勝負を行わねばならず、勝負ができなくなれば試合には出られない。

 加齢には克てません。
 勝負できる心技体をいつまで鍛え、整え続けられるか。
 実はこれが定年後の出家における一番の問題です。

 急いで書き連ねましたが、安易にプロを目ざす危険性と、仏法の維持ではなく寺院の維持を目ざすかのような流れに潜む問題点に気づいていただければ幸甚です。
 もちろん、プロにならず、在家において生き直しを行い、生きられる安易さに負けず人の道を求め、他者の死を我が死としつつ生きることはどなたにでも可能であり、仏法の門戸は広く開かれています。
 菩薩(ボサツ)を目ざす出家者は、同じく菩薩を目ざす在家の方々と共に歩んでいます。
 愚考をたたき台にして、人生の最後の日々をどう過ごすかお考えいただければ幸いです。合掌




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
03.28

生前戒名をお授けしました。

 中年のAさんご夫婦へ生前戒名をお授けしました。
 ご本尊様の前で、恩を忘れず、戒めを守り、善なる目的へ向かってまっすぐに歩む決心をされ、ご夫婦そろっていつもの穏やかな瞳が強さを増しました。
 文字通りの「生き直し」です。

 大乗仏教における仏道の歩みは、自分の(ゴウ)を清めたり、ストレスを溜めない方法を身につけるといったところに目的があるのではなく、人間として備わった徳を磨き、自分を生かしている天地万物へ感謝し、恩返しのできる人間になることが真骨頂です。
 ありていに言えば、「おかげさま」と感謝し、「おたがいさま」と見知らぬ人へも手を差しのべつつ生きる「まっとうな人間」になるためにこそ、み仏のお導きがあると考えています。
「悪を積んでしまった人も、これではいけないと生き直し、他人の悪行や困難を目にしたならば、ストレスになるからといって逃げず、見返りを求めずに自分のできることを行う」。
 こうした道が菩薩(ボサツ)道ではないでしょうか。
 仏道=菩薩道は万人へ開かれ、大工さんも、看護士さんも、床屋さんも、誰でもが歩めるのです。

 こうして、この世の幸せは、あの世の安心につながります。
 Aさんご夫婦の仏弟子としての未来は、きっと、これまで以上に感謝と安心と福徳に満ちたものになることでしょう。

220326 024

220326 016



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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