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2008
06.15

岩手・宮城内陸地震に際して

 14日の岩手・宮城内陸地震に際して被災された方々へ心よりお見舞い申し上げ、亡くなられた方々へは深く哀悼の意を捧げます。
 
 当山へ各地からお見舞いのご連絡をいただき、まことにありがとうございました。
 おかげさまにて、当山においてはまったく何の被害もなく、無事、お勤めを果たすことができました。
 仏神のご加護とご縁の皆様のご誠心によるものと心より感謝しております。

 地震が発したのは寺務所から出た時で、あまりに揺れが強くあきれてしまい、何だこりゃあとつぶやくしかありませんでした。
 ただちに本堂を確認しましたが、ご縁の切れた方からお納めいただいた観音像以外は位牌一つ倒れていません。
 仏器などが多少動いたのを直すのは妻に任せ、墓地へ向かいました。
 早朝から奉仕活動をしていた行者O君がすでに見回りを終えており、「無事です。何もありません」との報告を受けてほっとしました。
 ご本尊様やお墓の様子が心配なのはもちろんですが、造成していた崖の附近を大きな重機で修復したばかりだったので、大きな安心感と感謝の思いが起こり、合掌しました。
 好天が続き、順調に工事を終えて重機をリース屋さんへお返しし、朝から晩まで汗を流してくださったTさんやKさんと「これで安心ですね」「良かったですね」と言葉を交わしたのは前々日のことでした。

 ミャンマーのサイクロン、中国四川省の大地震、そして今回の阪神淡路大震災に匹敵する規模の岩手・宮城内陸地震と天変地が続いています。
 私たちの文明へ対する天地からの警告かも知れません。
 天地の理です。
 すべては空であり、形あるものは、いつか必ず壊れます。
〉まれた私たち、そして私たちの創り出した文明が〈〉の段階にある時、そこに孕む〈〉への〈〉を観て自省せねばなりません。
「自分は今、死んで悔いはないか、自分たちの文明は今、消して悔いはないか」
 悲惨な情報に接した一人一人が被災者へ援助すると共に、新たな出発をすること。
 これが犠牲となった方々への一番の供養ではないでしょうか。
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2005
11.02

人はなぜこの世に生まれ、死ぬのでしょうか 

 人間はなぜこの世に生まれるのか?
 それは、宇宙は膨張という形で発展し、魂は向上という形で発展し、魂にとってこの世が向上の場だからです。
 宇宙はビッグバンに始まり無限の膨張を続けています。魂もまた、脳細胞の使用割合の増加に顕われているとおり磨かれつつあります。
 人間の頭脳は、現在、与えられている脳細胞の15パーセント前後しか使われていないとされますが、以前は使われる割合がもっと小さかったのですから、発展していることにまちがいはありません。
 そのことは、人間の一生を観てもすぐ解ります。
 子供のころと、大人になってからと、晩年とでは、どう違うでしょうか。
 年を追って生きものとしての動物的力はどんどん落ちるのに、人生の意義などへの理解は逆に深まります。
 脳細胞は20歳くらいから1日約10万個づつ死滅し始めます。
 運動機能なども含めて魂の入れ物である肉体は古くなれば一旦消滅するモノの原理で消滅へ向かうけれども、魂は限られた期間内でどんどん向上し、洞察力などの根本的機能を高め続けます。
 このように、宇宙も魂もまだまだ未完成です。
 だからこそ、魂は五感を備えた人間として生まれる必要があるのです。

 人間はなぜ死ぬのか?
 それは「生(ショウ)・住(ジュウ)・異(イ)・滅(メツ)」がこの世の原理だからです。
 いのちある者も、ないモノも、すべてはそのもの特有の形をとって生まれ、存在し、形を変え、消滅します。
 人間に当てはめれば、釈尊の説かれた「生・老・病・死」です。
 生まれた人間は、生きているうちに歳をとり、だんだんに老います。
 その変化がはっきりと現れるのが病気です。
 不整脈があればそれは脈拍の〈異〉常であり、ガンは〈異〉物。その〈異〉が進めばやがて〈滅〉としての死がやってきます。
 生まれたならば、必ず死なねばなりません。

 しかし、誕生と死は、無から生じ、また無へ還ることではありません。
 お大師様は、
「阿字の子が 阿字のふるさとたちい出て またたち帰る 阿字のふるさと」
と説かれました。
 誕生とは、「阿」で表わされる無限のいのちの世界からこの世へ旅立ってきたようなものです。
 み仏のいのちを分けいただいているのが私たちです。
 子供を「授かった」と言うのはこのことです。
 私たちのいのちは、み仏からお授けいただいたものです。
 死とは、そのいのちをみ仏へお返しすることです。
 元の広大ないのちの世界へ帰ることです。そこはふるさとに他なりません。
 いつ帰るのか、その時期は人間の決めることではありません。
 授かるのがみ仏のおはからいであるのと同じです。

 ふるさとである「あの世」は、基本的に休む世界です。
 この世の「切った張った」は、もう、ありません。
 だからお別れの時、決まって「どうぞゆっくりお休みください」「どうぞ安らかにお眠りください」と言います。
「どうか、あの世では安心に過ごせますよう」
 これは万人の願いではないでしょうか。
 しかし、どこでどのように休むことになるかは、この世での生き方次第です。
 なぜならば、原因は必ず結果を招くという「因果応報」の真理は、この世とあの世をつらぬいているからです。
 人を騙し、苦しめ、利用し、好き勝手なことをしたけれども、うまくのうのうと過ごした人。こんな人の積んだ悪業は、死によって帳消しになるはずがありません。あの世が逃げ場になると考えたら大まちがいです。
 人と助け合い、思いやりを忘れずまっとうに生きた人の積んだ善業もまた、死によって決して帳消しになるものではありません。
 つまり、場合によっては、あの世で必ずしも休憩が得られるとは限らないということです。
 悪事の多かった人は地獄界や畜生界へ行ってしまい、とても休むどころではないことでしょう。
 本来の「み仏のいのち」に還り切るためには、自らの悪行の重さ・恐ろしさをしっかりと魂で受け止める長い時間が必要なのです。
 殺人者も不倫者も二枚舌を使った者も、皆あの世で被害者の苦しみを体験するようになる、とされているのはこのことです。

 人は、「どうか、あの世では安心に過ごせますよう」と願い、「追福菩提(ツイフクボダイ)」と称して、遺族などがこの世で行なう善行の功徳があの世へ届き、御霊により苦しみの少ない所へ行っていただくよう祈ります。
 地獄界から天人界へ、あるいは修羅界から菩薩界へと導く修法も大きな力を発揮します。
 あの世でちゃんと休むには、この世で善行にいそしまねばならないし、追福菩提の供養をしてもらえるように徳を積んでおかねばなりません。
 さらには、いつの日かこの世へ転生する時に、みじめな者にならないためにも………。




2005
07.23

お墓へ入れない人はどういう人か?ペットは人間の墓所へ入れないか?

 昨日、ご友人同士が同じ聖地で眠るべく、一区画へ墓石が二組並んだお墓が完成しました。中央に敬愛してやまない不動明王像を配した品格のあるできばえで、感心しました。
 また、当山には、故人が生前可愛がっていた番犬の姿をそのまま石で造り、お墓へ置いた方もおられます。
 この際、以前書いた文章を元にして、姓の異なる人やペットを同じお墓へ入れられるかどうかという問題についてはっきりさせておきましょう。
 
 俗信は山ほどあり、それを恭しくあるいは断定的に宣って人を不安にさせる手合はいつの世にもいるものです。
 見聞きしたことを鵜呑みにせず、「正思」をもって考えてみましょう。
 思惑や都合を小とし、み仏の教えに立つならば、姓の違いで決定的に区別し同じお墓へ入れないなどというのは、今の世にふさわしくない考え方です。
 一族に連なる人々はどなたであれ共に弔って当然です。
 また、心が通じ合う人同士が同じお墓へ入られるのも、お墓が供養の場である以上「理の当然」です。
 そもそも、供養の根本は万霊供養にあり、それは生者が死者を供養するだけでなく死者も生者を供養し(ご守護です)、死者と死者、生者と生者の間でもわけへだてなく行われるものである以上、この世で縁の深かった人々があの世でも縁を深くして悪いはずはありません。

「名」というものについても、世間には多くの誤解があるようです。
 名は体や形や価値を示すのみで、姓名は持つ人の意識へ多少の影響を与えても、それが生死の大事に関わったり運命を大きく動かしたりはしません。
 それは、親が子供へ名前をつける場合を考えればすぐに解ることです。
 親は、自分の希望や夢を子供に託して「こうあって欲しい」と必ず良いもの、善いもの、佳いもの、好いものを考えます。
 考えられる限りのすばらしい名前をつけます。
 しかし、子供たちの現状、あるいは子供だった人たちの行く末はどうでしょう。
 地獄へ迷いこんだ子供や極悪非道な行為をした人間の名前に価値ある文字は入っていないでしょうか。
 尊ぶべきは、より吉祥をもたらす名前をつけてやりたいと努力し、子供の幸せを願う親心です。
「親は懸命に親の役割をはたす、子供は感謝する」それがすべてです。

 戒名を並べて吉凶や成仏や一族の家運をうんぬんすることもあるやに聞きますが、戒名が子孫へ影響を与える影響は、それほど大きくはありません。
 戒名は、御霊そのものの心や人生などに含まれる徳を表現したものだからです。
 何よりも大切なのは、戒名をよく読んでその徳を偲ぶことです。
 そして、一族の者として感謝と誇りを持つことです。そうすれば「人の道」を歩む力が授かることでしょう。

 また、人間と他の生きものとは、役割や徳が異なるのみで、根本的な差別はありません。
 輪廻転生の理によれば、人に生まれる場合と他のものに生まれる場合とでは、徳が違ってそうなっただけです。
 金のために人を苦しめ、殺し、食欲にまかせて生きものを殺し、恩を仇で返し、権力のために矜恃を捨て、我欲のままに生きて事たれりとし、日々地獄道や畜生道などの六道を輪廻している人間が、自然界の掟に従って生きている動物などを差別する資格がありましょうか。
 ましてや、縁があって同じ屋根の下であるいは同じ敷地で暮らした生きもの同士が、死んだからといってすぐにバラバラになり、片方は手厚く弔われ片方はゴミになるなど、道理ではありません。
 ただし、徳が異なる以上、お骨を一緒にするわけには行きませんから、同じ墓地であっても、区別すべきところははっきり区別をし、それなりの法を結ぶ必要があります。
(「差別」と「区別」は別ものです。それを混同している世間の迷いに毒されないようにしましょう)
 当山では、ご希望により、ペットをも弔う正統な形をご指導させていただき、この世で畜生であった者も成仏し、やがては畜生道を脱することができるようきっちりと修法しておりますからご安心下さい。




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