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2015
08.10

オタマジャクシと百合の歌 ―宿命・戦争―

201508100002.jpg

 昭和26年、39才の宮柊二(ミヤシュウジ)は詠んだ。

「群がれる蝌蚪の卵に春日さす生まれたければ生まれてみよ」(宮柊二


 蝌蚪(カト)は、オタマジャクシである。
 大正の幕開けと共に本屋の長男として生まれた宮柊二は、中学時代に早くも歌誌への投稿を始め、上京して新聞配達をしながら北原白秋などに学び、兵役を体験する。
 敗戦の翌年、処女歌集を発表し、活躍した。

 冒頭の光景は敗戦から6年目である。
 ゴチャッと水中にあるオタマジャクシの卵たちへ春の陽光が当たっている。
 じっと観ている宮柊二は、きらめく水面の下でいかにも孵化を待っていそうな者たちへ「生まれたいのかい?」と呼びかけた。
 しかし、一瞬後には生と死をつぶさに観て来た視点から次の呟きが出る。
「もし、生まれたければだが……」
 ここでは、自分自身の生が一瞬にしてふり返られている。
 この世へ生まれ出たことは祝福に値するのか、それとも……。

 逡巡の後に、きっぱりと言う。
「生まれたければ生まれてみよ」
 意志を問うてはいるが、、私たちが普段、考えている自由意志の次元ではなかろう。
 形は「もしも君自身が生まれたいと願うならば」となっているものの、実際にはオタマジャクシに選択する力などない。
 生まれ出る宿命を持った者として、ただ、条件が揃う時期を待っているだけである。
 他の生きものに喰われなければ、水が干上がらなければ、カエルとなって生まれ出るだろうし、そうならないかも知れない。
 それでもなお「生まれたければ」と言わねばならなかったところに、宮柊二の思いが隠されている。
「いずれであろうと、お前さん自身の問題なんだからね」
 否応なくこの世へ生まれ、生まれ出た者としての宿命を生きるという地点からは、やがて現れるカエルも宮柊二も何ら変わりはない。
 思うがままに過ごして祝福される生となろうが、酷薄な世間にもまれ呪詛を抱えつつ死へ向かう生となろうが、〈生まれ、死ぬ〉という宿命の前では平等である。
 だから、一抹の厳しさは含みながらも、力強さと慈しみのある呼びかけとなった。
「生まれてみよ」
 
 それにしても、ここには哀しみも確かにある。
 やがて、72才になった宮柊二は詠む。

「中国に兵なりし日の五カ年をしみじみと思う戦争は悪だ」


 死ぬ2年前だった。
 人生の締め括りだったのではないか。

 悪の暗黒は沖縄でも詠まれた。

「ふるさとのなべての百合よ心あらば今年ばかりはすみぞめにさけ」(千原繁子)


 敗戦の翌年、真和志村(現在は那覇市内)の人々が「ひめゆりの塔」を建てたおりに捧げられた一首である。
 百合のように清純で、希望も夢も未来も持っていた乙女たちが、すべてを奪い尽くされた者として祀られる。
 塔には百合の名が付されても、彼女らにとっての百合はもはや冥界のものでしかない。
 合掌するこの世の者たちにとっても失われた百合しかない。
 死者にあるのも生者にあるのも「墨染め」の百合である。
 清らかに芳しくこの世の故郷に咲く百合は真実の裏返し!心あるなら真実を顕わにせよ!墨染めに咲け、故郷の百合たちよ!

 私たちは、生まれた以上、死ぬ宿命を背負っている。
 つかの間の生をどう生きるか。
 それが自分自身にかかっているのはオタマジャクシも人間も同じ。
 せめて、戦争はせずに死んで行きたいものである。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2008
05.21

6月の俳句

 6月は水無月(ミナヅキ)です。
 俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

かく生きし枝垂桜と立つ

 古い枝垂桜の花々は枝が折れんばかりに咲き競い圧倒的な存在感で風に揺らいでいる。
 人と眺めている作者は、眼前にある大樹が過去の膨大な時間の結晶であるであることを感じ、同じく〈ここまで生きてきた者〉として深い共感と納得と喜びに胸がいっぱいである。
 それは、傍らにいる人とも共通しており、三者は一体である。
 桜の笑顔は、自分の人生を丸ごと賞めてくれるかのようだ。
「立つ」が結論「生きし」を呼び、「これでもういい」という達観を超えた大肯定となっている。
 作者特有の勁さが存分に発揮された。

再会に散り急ぐ花とどめませ

 「再会」は、今年も満開の時節を迎えて眺められる桜と、久方ぶりに会った人の両方を対象にしているのではないか。
 作者は、行く時間を惜しみ、あまりに潔く散ろうとする桜に「ちょっと待って」と思いをぶつけている。 
 それは、帰らねばならないへの惜別と重なっており、行ってしまうのは重々解っていならがも、ゆとりを持ってこう言ってみるところに味わいがある。
 恋愛における「行かないで」と異なり、定めし、コンサートにおけるアンコールといったところだろうか。

百合の香にこもり本読む雨一と日

 ここでも、「こもり」が部屋にこもる百合の香と部屋から出ない自分との両方を示している。
 たたでさえはっきりした主張のある香が、しっとりした雨の日であればなおいっそう強く自分を包み込む。
 外出を阻む雨が、同時にぜいたくな空間を守ってくれている。
 これはもう、本を読むしかない。
 般若心経の「心にさわり無し」である。
 これ以上充実した時間と空間があろうか。

老鶯に至福の刻や朝目覚め

 鶯は春を告げる鳥だが、鳴く期間は意外に長く、夏になっても練れた上手な声を響かせている。
「あっ、まだ鳴いている」と思える頃が最も節回しが巧みで声色は艶やか、かつ円かでもあり、感心しているうちにいつの間にか役割を終えている。
 だから、最高の声を聴かれるのは、一年数度しかない。
 それを耳にして目覚めるなど、至福と言う以外に表現のしようはない。
 最高の一瞬をとらえる俳人ならではの句と言えよう。

紅枝垂影さす池に灯をともす

夏立ちぬと近況語り合ふ

紅しだれ友と楽しむ会席

夏つばめプリン揺るる午後三時

バラ活けて雀踊に行く気なし


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