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2016
10.27

Q&A(その31)一〈こんな自分〉に苦しむ時は? ─謙虚さ・誠意の先を考える─

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 を持って介護職に就き、誠心誠意はたらいていると、自分自身の心や身体が〈あるべき状態〉に追いついていないと感じる場合がある。
 そして、自己嫌悪に陥ったり、立ち塞がる壁の圧迫感に潰されそうになったり、あるいは、そもそも自分が仕事に不向きだったと諦めたりもする。
 やらねばならない、やるべき仕事であることは重々承知し、準備万端整えたはずなのに、〝私にはできない〟と自分の何かがブレーキをかけてしまう。
 自分が、〈はたらかねばならない自分〉と、〈はたらけない自分〉の二つに、引き裂かれそうになる。
 やるべきことはわかっており、何ら問題なくはたらけるはずの自分であることを知っているだけに、この状況は辛い。

 小生もそれに通じる苦しみを嫌というほど味わった。
 托鉢を始めた頃である。
 伝授された作法を身につけ、歩く以外の生きようはなく、歩く準備もできたのに、目的地へ着いて車から降りられない朝がある。
 網代笠(アジロガサ)をかぶり、白足袋を履いても歩き始められない。
 理由の一つが上記の方々と似ていた。

〝──こんな自分のままで仕事をしては嘘になる……〟

 たとえば、出がけに妻と口論になり、時間がないので最後は怒鳴ったり、無視したりして強引に車を発車させた。
 こんな心のままで、どうして善男善女からお布施をいただけようか。
 玄関のチャイムが鳴り、托鉢僧を見て「どうぞ」と受け入れてくださる方々の多くは、合掌される。
 もちろん、決して自分が相手から拝まれるわけではなく、目に見えぬみ仏の世界へ向かっての合掌ではあるが、自分がそうした場面に立っては申しわけない人間であることを誰よりもよく知っている。
 しかも、お布施をいただいてよいのだろうか?
 こうした疑問と葛藤は、さまざまな法務の場面に付きものだった。
 人生相談もしかり、ご祈祷やご供養もしかり、〝こんな自分なのに〟という意識に苦しんだ。

 とうとう耐えきれなくなり、どうすればよいか、師へ訊ねた。
 答は簡単だった。
「あなたは、ご縁になるべき人としかご縁にならないのだから、結果はご本尊様へお任せして誠意を尽くせばよい」
 この一言で雲は晴れ、托鉢行を続けているうちに一山の開基を迎え、文字どおりの無から現在の法楽寺が生まれた。

 人生相談に訪れる善男善女のお話を聴き、この教えをお伝えすると、まじめであるがゆえに苦しむ人々にとって〈脱する〉ヒントとなり、心で手を取り合う思いになったりする。
 私たちは、仕事に責任感を持つ時、自分にかかわってくることごとのすべてに対して、完璧な対応をしないではいられない。
 しかし、私たちは、どこかに未熟な部分を抱えた〈未完成な存在〉である。
 研究者、技術者、芸術家、宗教者、教育者など、いかなる方面であれ、仕事を突き詰めている人のほとんどがその真実を自覚しているはずだ。
 米寿を超え、勲章を受け、功成り名遂げたはずの長老ですら「自分はまだまだ修行中」と言う。
 それは謙遜と言うよりも、むしろ実感だと思う。
 テレビドラマ『ドクターX』の大門未知子に人気が集まるのは、不可能を可能にする夢が実現されているからだろう。
 ひとときの虚構が、私たちの行き詰まりを忘れさせてくれる。

 言い方を変えれば、外からやってくる縁は無限であり、その中に、神ならぬ自分の力をもって、この上ない結果へ導き得ないものが含まれているのは当然なのだ。
 そして、自分の意思ですべての縁を選ぶこともできない。
 ならば、その事実を真実としてありのままに観るところから始めるしかないではないか。
 ところが、問題を孕んだ責任感がその邪魔をする。
 すべてをカバーしなければ満足できない、不安になる。
 そこに、私たち自身の気づきにくい慢心が潜んでいるのではなかろうか?

 師が「ご縁になるべき人」と言われたのは、「あなたが百点満点の対応ができる人」という意味ではない。
 もしも今、誠心誠意の中でとった対応が客観的に見て70点であっても、それがいかなる結果をもたらすかは、誰にもわからない。
 そもそも、〈未完成な存在〉が常に満点の行動をとれるわけがないのだ。

 そんないいかげんなことでよいのか?
 もしも手術が70点などということで許されるのか?
 100点満点はたくさんあるだろうに。
 こうした疑問や反論が考えられる。
 それについてはこう答えたい。
 たとえば、マスコミが流す医師や病院に関する〈成績〉などのデータは、見せられる私たちがそのまま丸呑みにできない事情を抱えている。
 個人や私的な組織だけでなく、政府や役所ですら、よいデータを流したい。
 マスコミは視聴者の耳目を惹き付けたい。
 抜きがたい意思は必ず作意する。
 もちろん、〈業界〉の外からは気づかれないように。
 だから、〈うまい〉データは眉にツバをつけて眺める必要がある。

 では、「ご縁になるべき人」とはどういう意味か?
 おそらく、「誠心誠意の中で、互いに縁を生かし合える人」だろうと思う。
 私たちは、〈うまくやる〉のではなく、〈誠心誠意やる〉以外、よき生き方はできない。
 自分の至らない点は客観的に、冷静によく見つめ、向上心をもって進むしかない。

 70点の自分が100点でないからといって〝こんな自分のままで……〟と苦しむのには微妙な錯覚がある。
 そこには、〝自分は本来100点であるべきだ、その自分になっていないなんて〟という勝手な思い込みがあるのではないか。
 よく考えれば、それは、誠意や責任感という皮をかぶった慢心というものではなかろうか?
 プロ野球を眺めてみよう。
 中には大谷選手のように時速160キロを超える直球が投げられる投手もいるが、ほとんどはそれよりも10キロ、20キロも遅い球で勝負し、堂々と仕事をしている。
 人間としての能力の限界と、個人的な能力の限界は違うし、現実に生きる人間にとって現場の勝負では常に、自分自身の限界しか問題にならず、言いわけもきかない。
 もしも誰かが〝自分が大谷のようなスピードで投げられない自分なんて〟と嘆いていたら、笑われるだけだろう。

 誠心誠意以上の価値はない。
 生きて年をとってみれば、誰にでもわかるはずだ。
 うまくやったことなど、たかが知れている。
 誠心誠意やったことは、消えない充実感や浄い誇りとなって生を支える。
 〝こんな自分〟と思うのは誠意ある謙虚な人であり、まっとうに生きられる人だろう。
 ただし、もう少し先も考えてみよう。
 そうすれば、ありのままの自分で尽くす誠意こそが真実であり、〈もっとすばらしいはずの自分〉という幻想からきっと脱することができるだろう。
 そうなれば誠意に磨きがかかり、人間としての自力も増すに違いない。




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2016
07.24

ポケモンGOが抱える根本的問題 ─背景とフィルター─

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 世界中を席巻すると目されているポケモンGOには、私たちの心や文化や人間関係を破壊しかねない、いくつもの問題があると思う。

1 背景の問題

 私たちは、周囲の世界を、〈ありのまま〉にはとらえていない。
 関心のある対象物は目に入りやすく、そうでないものは入りにくい。
 刺激を受ける目はカメラのような役割を果たしても、それを認識し、記憶するまでの間に、必ず〈選択〉が行われる。

 もしも、視力を失えば、景色は〈在る〉はずなのに、見えなくなる。
 認識という観点からすれば、景色は〈無い〉に近くなる。
 もちろん、現実的に景色は在るので、目をつぶって歩けば何かにぶつかってしまう。

 小生はときおり、意識的に目をつむって歩いてみたりする。
 見えている状態と、見えていない状態と、二つのちがいと自分の反応などを観察するためだ。
 自分が生きて動いている現実と、周囲の世界を、あらためて眺めることには意義がある。

 さて、ポケモンGOは言うまでもなく、架空の世界をつくり出し、環境と自分との間にそれを置くシステムである。
 しかも、ゲームの面白さによって、意識や関心は圧倒的に架空の世界へ向く。
 周囲の景色も、人も、単なる〈背景〉に過ぎなくなる。

 しかし、現実に在るのは〈背景〉とされてしまっている景色や人であり、生命活動はそこにしかない。
 寝起きする布団も家も、顔を洗う水道も、つけるテレビも、呑む牛乳も、会う人も、勉める仕事場もすべて、そこにある。
 もしも、これらを〈背景〉とし、架空の世界が主人公である時間が長くなるならば、私たちの精神生活はどうなるだろう?

 必ずや、〈背景〉となってしまうリアルな世界への関心は薄らぐ。
 背景となっていること事態がすでに、関心の強さにおいて二次的であることを意味している。
 リアルな世界と真剣に取り組んでいるつもりでもなお、悲喜こもごもの日々を送っている私たちが、心の活動をリアルな世界から遠ざけることは恐ろしい。

2 フィルターの問題

 ゲームはおもしろいから楽しみもし、没頭もする。
 おもしろいと感じることそのものには善も悪もない。
 いのちを活性化させるという利点もある。

 しかし、そのおもしろさに執着することは問題だ。
 おもしろさが主人公になれば、人間としての霊性は、はたらきにくくなる。
 おもしろいと楽しんでいる状態を抑制するものや止めるものがあれば、それは邪魔ものとなり、たやすく敵ともなるのは、各種の依存症に見るとおりである。

 お釈迦様以来2500年、私たちは、リアルな世界をいかに観て、霊性という満月にかかる群雲をいにして払うかという難問に取り組んで来た。
 群雲、すなわち、各種の執着心などとして現れる煩悩(ボンノウ)が、私たちへ苦をもたらすことを知ったからだ。
 私たちはすでに、煩悩という〈真実世界〉から隔てるはたらきを抱えており、それをどうするか、まだ解決の入り口に立ったばかりなのに、今般、隔てるフィルターを新たにつくったのではないか?

 現実の景色や人間を〈背景〉としてしまうこと。
 現実の景色や人間に真実を観るはずの心の目に、新たなフィルターをかけること。
 まず、この二つがポケモンGOに潜む根本的問題であると思う。

※以下もご覧ください。
ポケモンGOが抱える根本的問題(その2) ─視線・場・映画館─(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5158.html)
ポケモンGOが持つ共生の可能性(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5159.html)




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2016
06.04

「終活」と「終括」 ─自分を懸ける真実世界─

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 5月28日、お不動様のご縁日お焚きあげの修法を行い、皆さんから託されたお品とお心と向きあった後、「終活」ならぬ「終括」こそ大切ではないかと気づかされ、翌朝のブログへ書きました。
 もう少し、書き加えておきます。
 就職活動のように、自分の死後の始末を決めておく活動が盛んに行われるようになりましたが、手続きや始末によって、本当に〈死の準備〉ができるわけではありません。
 何よりも、人生を正面から総括し、残りのいのちをかけて本当にやらねばならないことを見つけたいものです。

 ──どうやって自分の人生を締め括るか?

 ギリギリの問いはこう言い換えられます。

 ──残りの人生を懸けられるものは何か?

 そこではもう、あれほど大事にしてきた健康も、財産も、誇りにしてきた権力や栄誉も〈対象〉でないことがはっきりします。
 それらはすべて、目的のための手段です。
 では、目的は何か?

 この地点において、自分がこれまで人として培ってきたものが顕わになります。
 そこで、人は2種類に分けられます。
「何かに懸ける人と、懸けるものが見つからない人」

 これまでは他人も自分も、こう分類してきたのではなかったでしょうか。
「健康や財産や名誉に恵まれている人と、恵まれていない人」
 
 しかし、死を意識して自分の人生を眺め、残りのいのちを想う時、そうした考えは背景に退きます。
 なぜなら、それらは〈比較〉による意識でしかなく、自分の人生やいのちそのものの絶対性の前では、比較が意味を持たないからです。

 かつて、娑婆で吹けば飛ぶような愚かしい威勢を張っていた頃、軽装で山へ登ったために遭難しかけたことがありました。
 気配に気づいた重装備の山男に無言で助けられ、お礼に差し出せもしないポケットのお札の軽さと無意味さに呆然としたものです。
 かつて、托鉢行に邁進していた頃、ボロボロのお宅で膝行(イザ)りながら出てきたお婆さんが、震える手でお札をくださったことがありました。
 添えられた励ましの言葉によって猛然と勇気が湧いた時の感覚は忘れられません。

 人が何か本ものに懸ける時、そこが真実世界になるのではないでしょうか?
 私たちは本ものに懸け、真実世界を生きているでしょうか?

 独り暮らしのAさんは愛猫Bちゃんを数年間にわたって看病し、最期を看取りました。
 Bちゃんは他の猫たちにも見守られながら眠るように逝ったそうです。
「Bちゃんが苦しむと私も苦しいのですが、ずっと私を支えてくれたBちゃんをきちんと送ってやるまで、私もがんばらねばならないと思って必死にやってきました。
 死んだことは悲しいのですが、Bちゃんはもう苦しまなくていいのだと思うと、大きな安堵感を覚えます」
 Aさんは、残った猫たちにも感謝しつつ、生かし、生きて行けるよう日々、祈りを欠かしません。

 それまでいろいろあったとしても、死を自覚すればもう、締め括るか、漫然と過ごすか、道は二つしかありません。
 満足感と安心感に満たされて死ぬか、不安と恐怖心に苛まれて死ぬか。
 最後に懸けて悔いないものを見つけ、真実世界の住人として真実世界へ還って行きたいものです。




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2016
03.29

Q&A(その22)お戒名はどうやって決まるか? ─テレビでは語られない〈宗教行為〉─

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 帰山したところ、たまたま「ぶっちゃけ寺」なるテレビ番組が目に入った。
 ある住職はお戒名を二つ作り、ご尊家様に気に入った方を選んでもらったり、二つから気に入った文字をご尊家様と一緒に組み合わせて完成させたりするという。
 司会者やコメンテーターのペースで、おもしろおかしく語られているのは〈経済行為〉でしかなく、死の絶対性に正面から向き合う〈宗教行為〉は語られていないと思われた。

 当山のやり方をもう一度、書いておきたい。
 当山では、故人の誕生日や命日などの情報を頭へインプットし、ご本尊様と一体になった状態で、ご本尊様から降りてきた文字を並べる。
 こうする理由は、一介の行者が、あの世という親元へ旅立つ〈みの子〉である御霊を特定するためのお戒名を求める場合、こうするしかないからである。

 この世へ生まれた私たちは、この世の親が〝──幸せな人生を歩めるように……〟と懸命に考え尽くした果てに現れた名前を授かって一生を過ごす。
 真であれ、華であれ、一生、自分の名前によって少なからぬ影響を受ける。
 だから名前は必ず、イメージのよい文字で構成される。

 親から授かった肉体の耐用年数が過ぎれば、今度は、の故郷であるあの世へ還って行く。
 肉体を離れ、霊性だけになった存在へ、今度はあの世の親であるみが名前を授けてくださる。
 それが、〝安心して欲しい〟〝迷わないで欲しい〟など、ご尊家様の希望に叶ったものであるよう、行者は至心に祈り、みからの応答を感得する。

 これが〈宗教行為〉というものであり、小生のような未熟者にとっては、こうするしかお戒名をお渡しする方法はない。
 ちなみに、お身内のお戒名をお送りしたAさんからいただいたお返事である。
「一文字一文字にとても感動し前向きに頑張りたいと思います」(Aさん、ありがとうございました。小生も頑張る力をいただきました)

 一文字一文字は、みの世界に連なっている。
 それを感じる時、私たちの心も、いのちも、清められ、本来の力を取り戻す。
 これが宗教の世界であり、お戒名をいただくという〈宗教行為〉の真実である。(宗教行為に値段のつけようがなく、まごころからのお布施によるしかない理由がいくらかはおわかりいただけただろうか……)




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
01.05

自分の苦楽と他人の苦楽 ─この世の〈見え方〉と〈ありよう〉について─

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〈おかげさまにてお正月の護摩祈祷は5回、無事、終えました。守本尊様の5種類のおはたらきもお話ししました〉

 私たちは、自分しみについては、よくわかります。
 心の葛藤や沈み込みや怨みや怒り、また身体の不具合や痛み、あるいは仕事や人間関係の不調や失敗など、何でも具体的に迫ってきます。
 しかし、他人しみについては、よくわかりません。
 耳で言葉を聴いたり、目で様子を見たりすればある程度は想像できまずが、身体の不具合や痛みなどは想像すらなかなかできません。

 では、他人を見捨てられない心はどこから起こってくるか?
 それには、ものの道理を学び、心のはたらきを道理に合わせる訓練が必要です。

 まず、自分他人も〈同じ人間〉であるという〈ありよう〉の真実をしっかりつかむことです。
 学び、考え、腑に落ちなければ、〈ありよう〉はわかりません。
 なぜなら、〈見え方〉は、〈ありよう〉と違うからです。
 自己中心というフィルターがかかったままの心では、他人自分は違った〈見え方〉がするだけであり、常に自分を主としているので〈同じ人間〉とは到底、思えません。

 私たちが普段、暮らしている生活の各場面においては、いつも〈見え方〉が基準になっています。
 さまざまな約束ごとや処世術は皆、そこから発生しています。
 たとえば商取引は、今日の自分がそのまま10日後も同じ自分であるというこの〈見え方〉に基づいており、約束ごとをうまくこなす人は大金持ちになったりしますが、必ずしも人間としてまっとうであるかどうかはわかりません。
 他人に後ろ指を指されたことのない人が、他人を思いやる人であるとは限りません。
 すべては無常であり、今日の自分が10日後にはこの世にいないかも知れないと達観し、〈ありよう〉をつかんだ人は、商売が下手でも、よき隣人として信頼されるかも知れません。

 では、どうすれば、〈ありよう〉をつかめるか?
 たとえば、自分も他人も、同じくを厭い、を求めているという真実をつかむために、まず、親しい誰かを想像してみましょう。
 家族でも、友人でも、先輩や後輩でも結構です。
 自分がしい時に手を差し伸べてくれたり、友人の仕事がうまくいった時に酒を飲んでお祝いしたりといった光景を思い浮かべれば、〈同じ人間〉という実感があるはずです。
 そして、あの人、この人とたくさん思い浮かべているうちに、そのことは確信に変わります。
 確かに、まぎれもなく〈同じ人間〉同士なのです。
 次に、あまり縁のない町内の人や、取引先の人なども〈同じ人間〉であると想像してみましょう。
 最初はなかなかできないかも知れませんが、具体的に、あのおじさんが転んで立てず踞(ウズクマ)っている姿、あるいは、あの奥さんが子供の入試合格で喜んでいる姿などなど。
 普段、あまり関心がない人びとも、を厭い、を喜ぶことは自分とまったく変わりないことがだんだんと腑に落ちてくることでしょう。
 そして最後には、憎い人や怨みのある人やライバルなどのも想像してみましょう。
 いつもは「あんな奴」と思っていた相手も又、苦しい時に苦しむのは自分とまったく変わりなく、たとえば、その人が苦しんでいる腹痛を自分のことと想像してみれば、「ざまあみろ」というわけにはゆきません。
 いつもは「人でなし」と恨んでいる相手も又、病気が治って嬉しいのは自分とかわりなく、たとえば、自分が風邪をひいて苦しんでいた頭痛から解放されたことを想像してみれば、「チェッ」と舌打ちするわけにゆかないではありませんか。

 こうして「人間は苦を厭いを求める存在として皆、ひとしい」という真実を学び、考え、それが腑に落ちればようやく、人間の根本的な〈ありよう〉がわかってきます。
 この〈ありよう〉がわかった時点では、わかるまでの過程において、他人と自分の苦とを想像上とはいえ数限りなく〈同じ〉と経験しており、自然に他人を見捨てられない心ができているはずです。
 これが「ものの道理を学び、心のはたらきを道理に合わせる訓練」です。
 こうした真実は、仏教の歴史が生んだ智慧に導かれてつかめるものですが、学び、実践する人を選んだり限定したりするわけではありません。
 宗教宗派にかかわらず、そうか、と納得できれば誰でもが〈見え方〉から〈ありよう〉へと自分を深める扉を開けるのです。

 そして、〈ありよう〉をつかみ、〈同じ人間〉と観えるようになった人は、他人へ手を差し伸べて喜ばれ、喜ぶだけでなく、自分が自分自身の苦しみに負けず、それを解く力も必ず高まっています。
 自分の苦しみは自分だけのものではなく、誰しもが人間としての苦しみひとしく耐えつつ生きていると思えば、自分一人の苦しみなど小さなものではありませんか。
 現に生きている人びとと共に生きようという勇気が湧いてくるではありませんか。
 その先には野辺のタンポポやスズメなどもまた、苦を生きていることが観えてくるかも知れません。
 こうして仏法は普遍的真理真実を説き、誰をも排除せずに導くものなので仏宝(ブッポウ)として尊ばれるのです。




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