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2016
08.30

漢文『法句経』を読んでみる(その7) ─真理を信じる力─

2016-08-30-0002.jpg

 前回にひき続き、『法句経(ホックキョウ)』の「篤信品(トクシンボン)第四」を意訳します。
 この章では、信じるという宗教の基本的姿勢と価値について説かれています。

篤信品(トクシンボン)とは立道(リツドウ)の根果(コンカ)なり。因に於(オ)いて正見(ショウケン)ならば行(ギョウ)、回顧(カイコ)せず。
(篤く信じる心は、仏道を確立するための基盤であり、仏道がもたらすものでもある。正しい見解から始まる修行は、振り返って可否を問うまでもない)

〔七〇〕信・慚(ザン)・戒・意財(イザイ)、是(コ)の法を雅士(ガシ)は誉(ホ)む。斯(コ)の道(ドウ)は明智(メイチ)の説なり。是(カク)の如(ゴト)くして天世(テンゼ)に昇る。
(信じること、反省すること、戒めを守ること、布施すること、この生き方を、正しく品位ある人は賞める。この道は賢者の説くところであり、やがては神々の世界へも昇られるだろう)

〔七一〕愚かなるは天行(テンギョウ)を修せず、亦(マ)た布施(フセ)を誉めず。信施(シンセ)して善を助くる者は、是(コレ)に従(ヨ)りて彼(カシ)この安に到る。
(愚かな者は、神々の世界へ行けるほどの善行を行わず、布施も称賛しない。仏法僧へ布施をして善行の助けとなるものは、神々の世界の平安を得る)

〔七二〕信ずる者は真人(シンジン)の長、法を念ずれば住む所安(ヤス)し。近づく者は意(ココロ)に上(ジョウ)を得、智の寿(イノチ)は寿(イノチ)の中の賢なり。
(信ずる者は仏道修行の完成者であり、真理から離れなければ、どこにいようと心は平安である。完成者に近づく者は心が向上し、智慧に生きる者は、いのちある者の中で最も勝れている)

〔七三〕信は能(ヨ)く道(ドウ)を得、法は滅度(メツド)を致す、聞(モン)に従いて智を得、到る所に明らかなる有り。
(信じれば仏道が成就し、真理は絶対の安心の世界へ導く。教えを学べば智慧が得られ、どこにいても道が開ける)

〔七四〕信もて能(ヨ)く淵を度(ド)し、摂(セツ)もて船師(センシ)と為(ナ)り、精進(ショウジン)もて苦を除き、慧もて彼岸に到る。
(信じれば迷いの淵を渡り、煩悩を克服すれば人びとを迷いの淵から安心の世界へ渡す船頭となり、精進の徳と力は苦を消滅させ、智慧によって悟りの世界へ入られる)




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2016
08.15

学べば心の目が開く ─漢文『法句経』を読んでみる(その6)─

2016-08-15-0001.jpg

 前回にひき続き、『法句経(ホックキョウ)』の【多聞品(タモンボン)第三】を意訳します。
 多聞とは文字どおり、たくさん聞いて学ぶことですが、お釈迦様の当時は書物がなかったので、聖者から直接、教えを聞くことが最高で唯一の学ぶ機会でした。
 現代の私たちとしては、まず、説く人物や団体の判断をまちがわぬようにせねばなりません。
 核融合が核爆弾や核発電に用いられているのを見てもわかるとおり、真理は目的によってどのような手段としても用いられ得ることを忘れるわけにはゆきません。
 正しいはずの教えが人を偏狭にしたり、争わせたり、あるいはマインドコントロールに用いられたり、さらには意図せぬ危険をもたらしたりもします。
 また、さまざまな宗教や経典からの〈良いとこ取り〉で継ぎ接(ハ)ぎだらけのモザイクが、新しい教えとして喧伝(ケンデン)されたりします。
 説き手を見極めた上で、情報をきちんと取捨選択し、慎重に学びましょう。 

〔六一〕仙人は常に聞(モン)を敬う、況(イワン)や貴(キ)・巨(コ)・富人(フニン)をや。是(コ)れ慧(エ)を以(モッ)て貴しと為(ナ)す。礼(ライ)すべきこと是(コレ)に過ぐるは無し。


(仙人は教えを聞いて悟った人を敬う。位の高い人や偉人や富豪も同じく、智慧ある人をこそ真に尊い人として敬う。礼をもって教えを乞うべきは、聞いて悟った人である)

〔六二〕日に事(ツカ)うるは明るさの為の故(ユエ)なり、父に事(ツカ)うるは恩の為の故(ユエ)なり、君に事(ツカ)うるは力を以ての故(ユエ)なり、聞の故(ユエ)に道人(ドウニン)に事(ツカ)うるなり。


(明るさを感謝して太陽を拝み、恩に感謝して父親に孝行し、力の庇護を求めて君主に仕える。教えを受けるためにこそ、行者供養するのである)

〔六三〕人は命の為(タメ)に医に事(ツカ)え、勝たんと欲して豪強に依(ヨ)る。法は智慧の処に在り、福行(フクギョウ)あらば世世に明るし。


(人は、いのちを守って欲しいがゆえに医者にすがり、勝ちたいがために屈強なものにすがる。真理智慧にこそあり、幸福をもたらす智慧に導かれた善行があれば、いつの世も明るい毎日となる)

〔六四〕友を察するは謀(ハカリゴト)を為(ナ)すに在り、伴と別るるは急時に在り、妻を観るは房楽(ボウラク)に在り、智を知らんと欲せば説に在り。


(共に計画を立てて実行しようとする時に友の真意がわかり、長年の人間関係が切れるのは急な事変に遭った時であり、妻を眺めるのは夫婦で過ごす時であるように、智慧を求めるならば聖者の説を聞かねばならない)

〔六五〕聞(モン)は今世(コンゼ)の利を為(ナ)し、妻子・昆弟(コンテイ)・友、亦た後世(ゴセ)の福を致す。聞(モン)を積みて聖智(セイチ)を成(ジョウ)ず。


(教えを聞けばこの世で役に立ち、妻子も兄弟も友人も含め、来世でも福徳をもたらす。よくよく学べば、やがて聖なる智慧が得られることだろう)

〔六六〕是(コ)れ能(ヨ)く憂恚(ウイ)を散じ、亦(マ)た不祥の衰えを除く。安穏(アンノン)の吉を得んと欲(ホッ)さば、当(マサ)に多聞者(タモンシャ)に事(ツカ)うべし。


(教えを聞いて学べば、憂いや怒りを消滅させ、巡り合わせの悪さなど運気の弱化を除く。安寧で幸せに暮らしたいならば、教えをよく聞いて学んでいる人に供養することである)

〔六七〕斫創(シャクソウ)は憂いに過ぎたるは無く、射箭(シャゼン)は愚かに過ぎたるは無し。是(コ)れ壮も抜くこと能(アタ)うこと莫(ナ)く、唯だ多聞(タモン)に従いて除く。


(いかなる刀傷も心の憂いより苦しいものはなく、いかなる矢で射られようとも、自分の愚かさに引きずられるほど人生を苦しいものにすることはない。憂いと愚かさは、いかなる腕力をもっても除けず、たくさんの教えを聞いて悟り、除くしかない)

〔六八〕盲(モウ)は是(コ)れに従(ヨ)りて眼を得、闇者(アンジャ)は従(ヨ)りて燭(ショク)を得(ウ)。亦(マ)た世間の人を導くは、目あるものが目無きものを将(ヒキ)いるが如(ゴト)し。


(教えをよく聞くことは、目の見えぬ者が心眼を開くようなものであり、暗闇にいる者が明かりを得るようなものである。悟った聖者が世の人びとを導くのは、目のある者が目のない者を率いるようなものである)、

〔六九〕是(コ)の故に痴(チ)を捨つ可(ベ)し。慢と豪富(ゴウフ)の楽(らく)を離れ、学を務め聞者(モンジャ)に事(ツカ)うる、是(コ)れを徳を積聚(セキジュウ)すと名づく。


(以上のとおり、愚かさを捨て去らねばならない。慢心と、権力や富の力で楽しむことを離れ、教えを学び、教えをよく聞いている聖者供養する。これが徳を積み集めることである)




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2016
06.05

漢文『法句経』を読んでみる(その5) ─学び方─

2016-06-04-0005.jpg

 寺院や寺子屋 ではもちろん、戦前まで広く親しまれていた漢文の『法句経 (ホックキョウ)』を読んでみましょう。
 戦場へ赴く若者が懐へ忍ばせていたという話も聴いています。
 当山では、寺子屋やNHKの講座で読み通しており、学びの柱として欠かせません。
 小生の土台はこの教えによってつくられました。
 どれか一句でも、皆さんの心へピンと届くものがあればありがたいことです。
 新たになった読み下し文を意訳してみましょう。 (「新国訳大蔵経」によります)

 前回に続き【教学品(キョウガクホン)第二】です。

〔四一〕学ぶには当(マサ)に先(マ)ず解(カイ)を求め、観察(カンザツ)して是非を別(ワカ)つべし。諦(タイ)を受ければ応(マサ)に彼(カ)れに誨(オシ)うべく、慧(エ)あるも然(シカ)くして復(マ)た惑わず。


(学ぶには、まず、自分が持っている疑問を解き、自分で是非を判断できるようにならねばならない。真理を会得したならば他者へ教えることができる。智者は自ら立ち、惑わぬ者となっている)

〔四二〕被髪(ヒハツ)して邪道(ジャドウ)を学び、草衣(ソウエ)しても内に貪濁(ドンジョク)あり。曚曚(モウモウ)として真を識(シ)らざること、聾(ロウ)の五音(ゴオン)を聴くが如(ゴト)し。


(髪を振り乱して邪道を学び、隠者らしい粗末な服装をしていても内心には貪りの汚れがある。心が確かでなく真理を知らないのは、聾者が声音を聞き分けられないようなものである)

〔四三〕学びて能(ヨ)く三悪(サンアク)を捨(シャ)し、薬を以(モッ)て衆(モロモロ)の毒を消す。健夫(ゴンプ)の生死(ショウジ)を度すること、蛇の故(フル)き皮を脱するが如(ゴト)し。


(学んで貪・瞋・癡を離れるのは、薬によって、毒が全身へ回るのを防ぐようなものである。強い意志で修行し、生き死にの苦を克服するのは、ヘビが脱皮して古くなった皮を脱ぎ捨てるようなものである)

〔四四〕学びて多聞(タモン)にして、戒を持(ジ)して失わざれば、両(フタ)つながら世に誉められ、所願は得(エ)らる。


(よく学び、戒めを守って保てば、現世でも来世でも称賛を受け、願いとする誓戒は具わる)

〔四五〕学びて寡聞(カモン)にして、戒を持すること完(マッタ)からざれば、両(フタ)つながら世に痛みを受け、其(ソ)の本願を喪(ウシナ)う。


(あまり学ばす、戒めを守りきれなければ、現世でも来世でも非難を受け、願いとしているものは成就できない)

〔四六〕夫(ソ)れ学ぶに二有り、常に多聞(タモン)に親しむと、安んじて諦(ツマビ)らかに義を解(ゲ)すとなり。困しむと雖(イエド)も邪(ヨコシマ)ならざれ。


(学ぶには二面がある。たくさんの教えを聞くことと、心を安定させて教えを理解することである。二つの修行が苦しかろうと、邪道へ行ってはならない)

〔四七〕稊稗(タイヒ)の禾(イネ)を害するが如)、多欲は学びを妨(サマタ)ぐ。衆(モロモロ)の悪を耘除(ウンジョ)せば、成収(セイシュウ)必ず多(オオ)からん。


(いぬびえと草びえが稲の生育を害するように、仏法以外のものへあれこれ関心をめぐらせれば肝心の学びが妨げられる。雑草を抜くように悪しき欲を取り除けば、実り多い収穫となる)

〔四八〕慮(オモンバカ)って後(ノチ)に言い、辞(コトバ)は強梁(ゴウリョウ)ならず。法説(ホウセツ)と義説(ギセツ)、言いて違(タガ)うこと莫(ナ)し。


(深く思慮してから話し、言辞は強く荒々しくないようにせよ。そうすれば、真理についても教義についても、説法に誤りはなくなる)

〔四九〕善(ヨ)く学びて犯すこと無く、法を畏れて暁(サト)く忌(イミ)す。微(ビ)を見る知者は、誡(イサ)めて後(ノチ)の患(ウレ)い無し。


(よく学んで戒めを犯さず、真理に畏れを抱いて賢く自分の愚かさをはばかる。見つけにくい真理がわかった智者は、自分を誡めて後顧の憂いをなくす)

〔五〇〕罪と福を遠く捨て、務(ツト)めて梵行(ボンギョウ)を成(ジョウ)じ、終身自(ミズカ)ら摂(オサ)む、是(コ)れを善学(ゼンガク)と名づく。


(娑婆での罪を離れ福を求めず、仏道修行に励み、一生、自分自身を統御する、これを善く学んだ者すなわち長老と名づける)

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2016
05.09

ミケ子はキジを獲り、人は人を殺す ─本来の仏が迷う姿─

2016-05-09-0001.jpg

 妻が騒いでいる。
「ミケ子がキジを獲ったみたいだよ」
 あり得ると思った。
 何しろ、小型でおっとりしているクロでさえ、かつてはスズメやモグラを獲って意気揚々と玄関へ運んで来たものだ。
 情報は、キジが歩いていたあたりでミケ子がウロウロしているという極めて曖昧なものだったので、それ以上の詮索はやめた。

 なぜか、最近、聴いた話を思い出した。
 かつてイラン・イラク戦争のおり、崩壊したイランのパーレビ王朝関係者がジャングルに亡命していて、侵攻したイラク軍兵士の暴虐ぶりを目にした。
 兵士たちはイランの女性を集めて暴行し、最後は一人づつコモにくるんで全員を爆殺した。
 飛んで来た肉片が近くへ落ち、この世の光景とは思えないものを見た彼は心のどこかが壊れ、時にはむやみと他人へ優しくするが、時には平然と冷酷な行動をとるようになったという。

 ケモノは節理に従うのみ。
 人間は真理道理に合わせるか、合わせないか、迷う。
 慈雲尊者(ジウンソンジャ)は不殺生について説いた。
 

「一切衆生(シュジョウ)は我が子なるによって、一切有命(ウミョウ)の者に対すれば不殺生となる。
 一切有命の者が眼に遮(サエギ)れば必ず慈悲心生ず。
 この菩薩(ボサツ)の心をと名づく。
 この菩薩の心、衆生に本来具有のものなれど煩悩(ボンノウ)・業障(ゴッショウ)の深厚(ジンコウ)なるによって現ぜぬまでなり。」


(いっさいの生きとし生けるものは、我が子同様に、み仏からいのちを分けいただいた者同士であり、この心で生きとし生けるもののに接すれば不殺生という律の実践者となる。
 生きとし生けるものが目に入れば必ず思いやりの心が生ずる。
 おのづからそうなった菩薩の心が、の成就である。
 この菩薩の心は、生きとし生けるものを代表する人間には本来的に具わっているものだが、自己中心的な煩悩と、悪行の悪しき影響力、そしてそれが招く障りによって表れにくくなっているのである)

「もし残忍の心をたくましくして、罪なき者をことさらに殺害して、極大(ゴクダイ)の苦悩怨恨を生ぜしむる。
 この時、業(ゴウ)の種子(シュウジ)が成就して、他時異日(イジツ)、我が身に集まる。
 無しと言われず。」


(もしも残忍の心を逞しくし、何ら罪のない者をわざと殺害して、この上ない苦悩と怨恨を生ぜしめたとしよう。
 その時は、悪しき影響力の核がはたらき、やがて悪しき結果がその者の一身に集まる。
 因果応報は避けられない)

「殺生の、人道に背き、天命に背き、正道理に違うことを知り、みだりに殺さずみだりに悩まさぬが、世間相応の持者。
 殺生の業果(ゴウカ)空(ムナ)しからぬを信じ、殺さず悩まさず、憎み恨まぬが、出世間少分相応の浄持戒者なり。」


(殺生が人道に背き、天命に背き、人間としての正しい道理に違うことを知り、他の生きとし生けるものをみだりに殺したり苦しめたりしないのが、一般世間における持戒者である。
 殺生の悪業が因果応報の理によって必ず悪しき報いを生じさせると信じ、他の生きとし生けるものを殺さず、苦しめず、憎まず、恨まないのが、出家の立場としては、最低限度、資格が保たれる持戒者と言える)

「人間に生まれしことの尊重なるを憶念するは、道に達する要津(ヨウシン)なり。
 自ら自己人身に尊重の心あれば、自暴自棄の患(ワズラ)い無し。
 更に、微細の虫蟻に至るまで本性の平等なるに達す、これを不殺生戒全きと名づく。」


(人間として生まれた事実そのものの尊さ、重さを肝に銘じて忘れないのが仏道を成就するための要点である。
 み仏から授かった我が身を尊重する心があれば、何があっても自暴自棄になるおそれはない。
 さらに小さな虫や蟻までもが尊いいのちを授かった者として皆、平等であると知って害さず、苦しめないのが、不殺生戒を完全に成就した状態である)
 

「人たる道に背き清浄妙心の中に地獄を建立す。
 大火を現ず。
 大水を現ず。
 仏と異ならぬ心を持ちつつ、自ら迷うて業相(ゴッソウ)の姿を構え、ここに死しては彼に生じ、しばらくも定かならず。
 生もなく滅もなき場所に、自(ミズカ)ら生死(ショウジ)を構えて種々に顛倒(テンドウ)す。
 自己心中に大安楽のあるを知らず迷うなり。」


(人間の人間たる道に背き、本来清浄で精妙な心の中に自分で地獄を現出させてしまう。
 無限の火炎地獄を生じさせる。
 無限の寒氷地獄を生じさせる。
 本来、み仏の子としての心を持っているにもかかわらず、自分から迷って悪業の結果として生じた姿になり、ここで死んだかと思えば、あそこに生まれ、迷いの世界を転々として彷徨うばかりである。
 本来、生死を超えた存在であることに気づかず、自分から生き死にの苦を招き、いのちを真理に反した形ではたらかせる。
 自分の心中に、無限の安楽があることを知らず、迷っている)




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「おん あらはしゃのう」
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2016
02.06

イラク戦争と靖国神社への祈り(その19) ─善悪とは?修行とは?─

2016020500012.jpg
〈造化の妙〉

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○善修行(2月27日)

 ご祈祷を行うため、早朝から上京した。
 東京駅はもちろん、周辺のビルなどの警備態勢にもただならぬ様子を感じた。
 宮床の雪が嘘のような快晴の下、春の陽を浴びたサラリーマンのワイシャツ姿が醸し出す長閑さと、オウム事件の首謀者に死刑が言い渡されようとしている緊迫感とが、何の違和感もなく共存していた。
 麻原 彰晃の弁護側は、「一連の事件は弟子たちの暴走であって、被告は無罪」と主張したが、東京地方裁判所は求刑どおり死刑を言い渡し、弁護側はただちに控訴した。

 帰山してすぐ、お通夜へ向かった。
 通夜振舞いの席で事件に関する質問が相次ぎ、殺人戦争について皆さんと対話を行った。
 
 釈尊は、「を為すなかれ、善を為すべし、自らを浄めよ。これが諸仏の説くところである」と説かれ、何よりも善をはっきりさせるよう指導された。
 オウム真理教の行為は明らかにであり、多くの犠牲者を生んだ。
 彼らの業(アクゴウ)は、幹部の死刑で償いきれるものではない。
 のパワーはすさまじい。
 その非道に巻きこまれた方々は、首謀者や教団を憎んでも憎んでも憎みきれるものではなかろう。
 心中は察するに余りある。
「なぜ自分が被害者にならねばならなかったのか?」
「なぜ子供が死なねばならなかったのか?」
 こうした答が期待できない問いを発せずにおられず、「麻原を憎まないでいられない自分が悲しい」という袋小路に入った方は、どこに救いを求められるのだろう。

 もしも、犠牲者やその身内が、み仏へおすがりした場合、こうしたお定まりの説法など何の役に立とうか。
「すべては空(クウ)なので、こだわらないように」
「いつまでもとらわれてはいけません」
 これだけで、そうですか、と深く納得し救われることはなかろう。

 かと言って、全ては因と縁によって成り立っており、変化して止まず、時空に屹立(キツリツ)しているものは何もないという道理がベースと成っている仏教は、そこから離れた真理を説き得ず、そこから離れた救いの手も差し伸べられない。

 釈尊はそこで、自分が汗を流すことによって真理を〈つかむ〉実践法を説かれた。
 典型が、一人娘を失ったキーサゴータミーの指導である。
 悲しみと絶望のあまり半狂乱になった彼女へ、釈尊は「一人の死者も出したことのない家が見つかったなら必ず救おう」と約束し、彼女は村中を訪ね歩いたが、ご先祖様のいない家は一軒もなかった。
 夢中で歩き、疲れ果てて釈尊のもとへ戻った彼女へようやく、釈尊は無常の理を説き、一瞬にして苦から解放した。
 こうした〈つかむ〉ための手段を方便(ホウベン)と称する。
 対機説法と呼ばれる釈尊の指導法は相手により、状況によって千差万別だった。
 言い換えれば、釈尊は千本の手に象徴される無限の方便を持つ千手観音である。
 こうした方便は、2500年の時をかけて整理され、深められ、修行の手引きであるお次第となった。
 自分に合った師を見つければ、必ずや師は適切な方便を授けるだろう。

 さて、善悪についてはどうだろう。
 十善戒の布教に生涯をかけた慈雲尊者は「瓔珞経(ヨウラクキョウ)」の一節をもって明快に説かれた。

「理に順じて心を起こすを善といい、背くを悪と名づく」


 道理・真理に合った心が善であり、背く心が悪である。
 尊者は続けて断じる。

「仏性(ブッショウ)に順じて心を起こすを善といい、これに背くを悪という」


 つまり、「理」は「仏性」であり、み仏の子である万人に具わった仏性が輝けば、身体も、言葉も、意志も、善なるはたらきをするのだ。

 ならば、「方便」とは、「仏性」を輝かす方法に他ならない。
 たとえば写経である。
 お手本となっている文字の一つ一つがそのまま写されれば、一文字一文字に秘められたそれぞれのみ仏が立ち上がってくるとされている。
 また、〝自分はうまくないな〟と気づくことが、仏性を汚しているものに気づくきっかけであるとも説かれる。
 たとえば経文を読み真言を唱える読経である。
 気分によって激しい抑揚がついたり、異様なだみ声になったりすれば、経典の清浄さはどこかへ行ってしまう。
 読み手の心はご本尊様やご先祖様へ届くだけでなく、聴き手の心へも鏡のように映し出されることを忘れないようにしたい。

 殺人は悪である。
 戦争も悪である。
 海軍大将となった最後の軍人井上成美(イノウエシゲヨシ)は日独伊三国同盟に反対した。

 「日本が亡びるようなときには戦争もやむをえないし、部下に死地に赴くよう命令もできる。
 しかし、国策の延長として独伊と結び、戦争に入るのは許せない。」

戦争というのはいいものではなく、私は、戦争は刑法でいう死刑と同じ必要悪だと、罪悪だと思います。
人を殺したり、人の物を破壊したり、そんなことをするのは、交戦国の権利として認められてはいるが、国の行為としては悪行為なのです。」


 何としても国民一人一人のいのちを守り抜こうという思いが感じとれる。
 およそ国をあずかる為政者は、いかなる艱難辛苦にも耐えて国民を殺さず、殺させないという強い決意を持ち、その決意は、うわべの言葉だけでなく、周囲に感得されるほどでなければならないと思う。

 善悪は、いかなる場面にあっても必ず明確にすべきである。
 むろん、善悪をあいまいにし、釈尊の教えをないがしろにする仏教などはあり得ない。
 他の悪を見て己の内なる悪におののき、善に向かって辛苦する過程が修行であり、そこを通って行く先に一段、上のステージが待っている。
 このステップアップを信じて何らかの修行を行う実践者こそが仏教徒だ。
 オウム真理教の誤りは、仏教を標榜しながら善悪の判断という根本を見失ったまま、思いつきの訓練へ走ったところにある。
 まっとうに生き、善悪をつきつめ、壁にぶつかり、その苦悩と正面から向き合った人が正当な伝授を受けて行う修行こそが本ものであり、み仏は必ずや救いのみ手を差しのべてくださるに違いない。




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