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2016
08.25

『日本の伝統行事』『日本の童謡と唱歌集』そして「歌う会」について

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1 「日本の伝統行事」のこと

 村上龍氏著『日本の伝統行事』は、英訳付き、かつ、新たに描かれた画像が豊富で、これまでに類を見ない力作です。
 氏は序文で思いを語りました。

「日本の伝統的な行事は、酒や食事や部屋の飾り付けを通して、また歌や踊りや祈りなど儀式的な行為を共有することで、共同体の一員であるという自覚と、他の人々との一体感を、結果的に得るようにデザインされている。
 しかも祝祭的な催しを通じて、日本固有の価値の方向性ともいうべきものが、自然に刷り込まれる。
 つまり、家族や友人の大切さ、幸福への素朴な願い、女として生きていく作法と喜び、子どもは健やかに育つべきという教え、親や先祖は敬うべきものだという基本、弱者に憐れみを他人に思いやりを持つことの重要性などが、伝統的な行事を通して自動的に刷り込まれる。」


 私たちは、自分たちの手に〈共有〉しているものを忘れつつあるように思われます。
 それは、歴史に磨かれ、伝えられてきた〈価値の方向性〉が見えなくなりつつあるということでもあります。
 私たちの精神は、言葉遣いはもちろん、箸の持ち方や挨拶の作法など、呼吸するように身につけたことごとによって支えられています。
 いつの世も、そうした伝統に新たな体験や工夫が加えられ、その時代なりの文化が形成されてきました。
 

「この絵本は、わたしたちが美しい伝統的な行事を持っていることを確認するために作られた。
 この本で紹介した伝統的な行事は、わたしたちすべての日本人が、すでに広く平等に持っている無形の財産だ。
 経済成長による『世間』の消失、グローバリズムによる国家の枠の弱体化と地域社会の疲弊、共同体意識の消滅、そういった精神文化の危機に際して、すでに持っている財は滞留させず、運用したり活用したりしたほうが合理的ではないだろうか。」


 8月9日、日本代表が4位となった女子体操団体戦の決勝で、フランスのトマ・ブエル氏はこう伝え、問題となりました。
「まるで漫画のキャラクターみたいです。
 みんな大喜びしています。
 アニメみたいな満面の笑みで、小さなピカチュウがいっぱいです。」
 小柄な日本人に対する差別ではないかという私的が広がりました。
 しかし、小生は胸が冷たくなる思いをしました。
 アイドルグループやアニメのヒーローなどと一体化することによって自分の価値を確認するかのような、日本の若者たちの生き方に深い疑問を抱いてきたからです。
 私たちは、「広く平等に持っている無形の財産」を忘れ、次々と目新しいものを提供して消費者へお金を使わせる商業主義に取り込まれてしまっているのではないでしょうか。
 何かのバランスが大きく崩れかけているのではないでしょうか。
 フランス人が何を言いたかったのか、私たちはその深意を考え、自らをよく省みる必要があると思えてなりません。
 

「わたしたちは、その国の文化を、芸術や文学や音楽や映画から学ぶ。
 だが、伝統的な行事について知ることも、異文化を理解する助けとなる。
 今後、わたしたちの社会では、宗教も文化も国籍も違う人びととコミュニケーションしながら、ともに生きていくことが、何よりも重要になっていくだろう。
 日本の伝統的な行事とその価値を自ら確認し、内外にそれらを伝えることは、さまざまなコミュニケーションの手助けとなる。
 わたしはそう考えている。」


 東日本大震災で津波に遭った地域の復興は、泥の中から見つけた小さなお地蔵様を路傍に立てて合掌し、お祭を復活させるところから始まりました。
 長老に導かれ、老若男女がそれぞれの役割を果たす避難先での炊き出しは、まるで、お祭の準備をするように整然と、和やかに行われていました。
 地域がそっくり消滅するほどの危機に際し、伝統行事によって伝えられた感覚が私たちの心にまだ、確かに息づいていることを強く認識させられました。。
 私たち自身がそこに立つ時、「宗教も文化も国籍も違う人びと」との「コミュニケーション」がますます必要になってゆくであろう未来は、より友好的で創造性に満ちたものになるのではないでしょうか。

2 「日本の童謡唱歌集」と「歌う会」

 坂本龍一氏が総合プロデュースした『日本の童謡唱歌集』において、編曲者トベタ・バジュンは述べています。
 

「今回の仕事では、子どものころから馴染みのある『童謡唱歌』と、久しぶりに、また本格的に向かい合うことになり、まず最初に『なんて美しい歌曲なんだ!』と、思い知らされることになりました。
 考えてみれば当然ですが、当時の日本のトップクラスの作詞家と作曲家によって生み出された傑作ばかりで、それを再認識させられたということです。
 どの楽曲も、日本の美しい四季を、精密、かつ簡潔に描いた歌詞と、時代を超えた普遍性を持つメロディーが見事に融合していました。
 その独特の『和の音楽世界』へと、ぐいぐいと引き込まれていったわけです。」


 坂本龍一氏も指摘しているとおり、北原白秋、山田耕筰といった第一級の詩人や音楽家が子供たちのためにたくさんの楽曲を作ったことは、世界に類を見ません。
 高いレベルで洗練された音楽だからこそ、時代を超え、時には国境を超えてまで、尊ばれ、親しまれ、唄われ続けてきました。
 今般、以下の要領にて、友に唄う会を催します。
 どうぞ清浄で温かなひとときをお過ごしください。

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 私たちは今、社会に無慈悲さや卑劣さが広がっていると感じ、心にいささかの苛立ちを抱えつつ生きているのではないでしょうか?
 いじめ、パワハラやセクハラ、格差の拡大、無差別テロ、あげくの果ては戦争。私たちの心から、優しさという大切な宝ものが失われつつある、あるいはその輝きが何ものかによって覆われつつあると思われてなりません。
 宝ものとは慈悲であり、愛であり、優しさであり、許す心です。
 真の優しさには5つの要素があります。
〈信じる〉〈認める〉〈教える〉〈与える〉〈守る〉、これらが円満に実践されてこそ、「優しい人」と言えるのです。
 共に考えてみませんか?

 さて、今回の寺子屋では、「優しさ」を見つめなおし、唱歌を歌うことによって、私たちが持っている美しい情緒に息を吹き返させましょう。
 一人一人の心にある泉から清水を流れ出させ、お互いの心を癒し、社会の乾きに潤いをもたらそうではありませんか。
 合唱を指導してくださるのは、鎌倉女子大准教授で合唱指揮者、ウィーン国立音大にも留学した声楽家小山裕之先生です。
 仙台市出身の先生は、仙台市や鎌倉市や東京都などで、さまざまな合唱団を指揮するかたわら、広く一般の老若男女に歌う楽しさを味わっていただこうと、気さくな指導も行っておられます。
 当日は、広い会場で、「もみじ」「小さな木の実」「ふるさと」など楽しい歌や懐かしい歌を聴くだけでなく、共に先生の指導を受け、自慢の喉に磨きをかけられてはいかがでしょうか。
 お子さん連れも大歓迎です。
 どうぞ、お誘い合わせてご参加ください。

・日時:9月10日(土)14時~16時
・場所:仙台市泉文化創造センター(旧イズミテイ21) 小ホール(403席・車椅子可)
    仙台市泉区泉中央2−18−1 ℡022-375-3101
・会費:1000円(中学生以下無料) ※東日本大震災で被災された方は無料です。お申し出ください。
・参加:自由(事前申込みは不要です)
・主催:大師山法楽寺 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1 
※お問い合わせはこちらへ:℡:022(346)2106  mail:ryuuchi@hourakuji.net




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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2014
07.31

順境も逆境も仏心を磨く ―8月の聖語─

2014073100034.jpg
西條八十

 8月の聖語です。

「法味(ホウミ)を嘗(ナ)めて珠(タマ)を蘊(ツツ)む」


 数千人とも言われた膨大な弟子たちの中から、お大師様を後継者と定め、全てを伝授してくださった師僧である恵果阿闍梨(ケイカアジャリ)が亡くなられた際に、お大師様は碑文を書きました。
 そこにあるのがこの一節です。

「仏法のありがたさを知って、心にある珠のような仏心を磨き、大切に保ち続ける」

 師は常に弟子たちへ向かい、こうしたことを目的として、マンダラの教えを説かれ、導いてくださったとふり返り、感謝したのです。
 何という温かで奥深い表現でしょうか。
 仏法のありがたみは、そのままそっくり、師の人間性のありがたみとなっています。
 すべからく、仏法を学び、修行し、実践する者の心はこうありたいものです。

 大正7年に西條八十が作った童謡『金糸雀(カナリヤ)』を思い出しました。

「唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は
 後の山に棄てましよか
 いえいえ それはなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は
 背戸の小藪に埋(イ)けましょか
 いえいえ それはなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は
 柳の鞭でぶちましよか
 いえいえ それはかわいそう

 唄を忘れた金糸雀は
 象牙の船に銀の櫂
 月夜の海に浮べれば
 忘れた唄をおもいだす」


 優しい声でさえずることができなくなったカナリヤは、人間にとって〈役立たず〉です。
 しかし、捨ててしまったり、叩いてみたりしてはなりません。
 むしろ、これまでよりも手をかけ、目をかけてやれば、唄を思い出すかも知れないのです。
 お大師様の全体像へ迫る『エンサイクロメディア空海』(http://www.mikkyo21f.gr.jp/)に参加しておられる松岡正剛氏の言葉です。

「日本の童謡は世界で類例のない子供を対象とした表現運動でした。
 大正期前半に始まって一挙に広がり、戦争の足音とともに消えていったものです」(『日本という方法』より)


 お大師様は、ありがたい仏法によって仏心を磨き、保つと書きました。
 西條八十にあっては、難しい時代が、いつしか仏心を磨いていたのでしょうか。
 実に、順境逆境も、心一つで、み仏に成る機縁となり得るのです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2008
08.02

日本の歌 77 -浜千鳥-

浜千鳥
  作詩:鹿島 鳴秋 作曲:弘田 龍太郎 大正8年「少女号」に発表

1 青い月夜の 浜辺には
  親をさがして 鳴く鳥が
  波の国から 生まれ出る
  ぬれた翼の 銀の色

2 夜鳴く鳥の かなしさは
  親をたずねて 海こえて
  月夜の国へ 消えてゆく
  銀の翼の 浜千鳥


 この歌には厳粛さがある。
 なぜかは解らない。
 詩が誕生した経緯に特別なものもなさそうだ。
 新潟県柏崎市にある番神海岸を友人たちと歩いていた29歳の鹿島鳴秋は手帳にサラサラと詩を書いた。
 友人にせがまれ、笑いながら見せたページに鉛筆で記されていたのが「浜千鳥」だったという。

 小さな鳥が波間から生まれて親を求めながら鳴き、親が見つからないままに月夜の国へ消えて行ってしまう。
 悲しく、寂しく、神々しいこの感與
 天から舞い降りた言葉。
 真の詩は霊性が滴らせる清浄な雫ではないか。

 曲は、詩へ敬意を表するかのように、ただただ滑らかに流れる。
「ソーソ ラーソ ドーラ ソー ドードドラソ ドー」に〈転〉があるとはいえ、3つの音しか使わず、後半部分は前半部分を永遠の世界へつなぐようなおとなしい役割になっている。
 弘田龍太郎の仕事もプロの力を十分に見せている。

 こうした童謡が身近にある大正時代を生きた子供たちの幸せを想う。
2007
10.16

日本の歌36 ━サッちゃん━

43 サッちゃん 
   作詞:阪田寛夫(サカタヒロオ) 作曲:大中恩(オオナカメグミ)

1 サッちゃんはね サチコっていうんだ
  ほんとはね だけど ちっちゃいから
  じぶんのこと サッちゃんって呼ぶんだよ
  おかしいな サッちゃん

2 サッちゃんはね バナナが大好き
  ほんとだよ だけど ちっちゃいから
  バナナを はんぶんしか たべられないの
  かわいそうね サッちゃん

3 サッちゃんがね 遠くへ行っちゃうって
  ほんとかな だけど ちっちゃいから
  ぼくのこと わすれてしまうだろ
  さびしいな サッちゃん


 この歌は、阪田寛夫が幼稚園時代に一緒だった一年上の女子を思いおこして作詞したという。
 一番と二番は、サッちゃんの日常を周囲から眺め、〈まだ幼いがゆえの限界〉を半ば自分のこととして感じ、そばに寄り添っている。
 しかし、「おかしいな」と「かわいそうね」には、大人の視点もある。
 幼い日の思い出という過去へ降りて行っても、自分は現在に生きているという現実があり、その二重構造が表れた面白さがある。

 三番はガラリと変わる。
 いきなり自分との関係が登場する。
 傍観者としてサッちゃんを向こうに置くのではなく、そっと気持を寄り添わせて側にいるのでもなく、存在に正面から向き合っている。
 阪田寛夫にとってサッちゃんは他に代え難い何ものであるかという切実さが、そのまま表現されている。
 ただし、「ちっちゃいから ぼくのこと わすれてしまうだろ」は、あくまでも、大人になった阪田寛夫の発想だろう。
 自分も小さなうちに、相手が小さいから忘れるだろうとは思えないのではなかろうか。
 幼子の寂しさや不安を言葉にする段階で、明らかに大人の分別が顔を覗かせている。

 こうした、視点や思いや言葉の交錯が、一見単純な童謡を味わい深いものにしている。さすがは芥川賞作家である。
 なお、「おかしいな サッちゃん」のメロディは秀逸。一度耳にしたら忘れられない。
 この歌を忘れかけていたことを知った。
 今も、子どもたちには新鮮なのだろうか。
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