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2014
11.27

三つの縁について

 仏教では、について三つの方向から考えます。

不動なる

 すべてのものは、原因があって生じています。
 大昔からあった山も、今、誕生したばかりの赤ん坊も、同じです。
 神様か誰かが、こうしようと意志をはたらかせ、勝手に創り出しているものではありません。
 このことをお釈迦様は説かれました。

「これがあるから、これが生じる」


 前の「これ」とは、山や赤ん坊を生じさせる原因です。
 後の「これ」とは、山や赤ん坊です。
 カラスも、車も、まったく同じです。
 カラスが生まれる原因と、車が出来上がる原因とはまったく異なるものであり、全部をひっくるめて神様か誰かのせい、と言ってみても仕方がありません。
 特定のものが生じるためには、必ず特定の原因があるということは古今東西、いつの世も変わりません。
 こうした不動のありようを「不動」と言います。

無常なる

 すべての存在に原因がある以上、自分自身でまったく自立しているものは何もありません。
 いかにどっしりとしている富士山も少しづつ変化しており、もしも噴火すれば一気に姿を変えます。
 赤ん坊もいつまでも赤ん坊ではいません。
 子供になり、大人になり、やがて必ず死にます。
 自分の力で「常」に存在するものは「無」く、無常なるありようを「無常なる」と言います。

能力

 噂話が広がると、こう言われます。

「火の無いところに、煙は立たない」


 もやもやした煙が生じたならば、どこかに必ず、煙をもたらす火があるはずであって、火以外の水や土などがいくらあっても、煙を生じさせることはできません。
 煙がある以上、燃やす性質を持った火と、燃える性質を持った紙などのモノがあります。
 リンゴの実は、リンゴの木として育つ種があり、木となって初めてリンゴがなるのであり、リンゴの実をつける能力を持たない梨の木をいくら育てようと、決してリンゴは得られません。
 このように、特定の結果をもたらす特定の原因には必ず、結果をもたらす能力があるというありようを「能力の縁」と言います。

 今から1600年以上も前に、インドの天才アサンガ無着)は、こうした真理を見つけました。
 お釈迦様の「これがあるから、これが生じる」に始まる仏法の探求は、今も続いています。
 よく学び、原因と結果を考えながら、自分の人生や人格や行動をふり返ってみたいものです。
 きっと、眼前に広がるこの世の景色がこれまでとはいささか、違って見えることでしょう。
 生き方もいささか、変わるかも知れません。




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2014
04.02

意図の善悪、暴力と非暴力 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(16)─

20140402023.jpg
〈岩出山の『森栖』さん〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第三章 カルマの法則

1 カルマ善悪

○行為を判定する基準は、意図結果による

「人が心をこめて善かれと意図したことも、ときとして最悪の結果を招来することがある。
 それとは逆に、邪悪な心に導かれてさえ、たまたま善い結果を見出す場合もある。
 ならば、意図がいかであれ、結果さえ善ければそれでいいのだろうか。
 否である。
 善き意図こそが大切なのだ。」

「特定の行為の善悪を分ける実際の境界区分を見つけることは、はなはだむずかしい。
 行為そのものが存在するところの基盤についても判定しなければならないからだ。
 しかし、物事を究極までつきつめたところでは、意図結果が、それぞれの行為の善悪を判定する主たるふたつの要素であろう。」


 私たちの日常は、意図結果がずれるケースの連続である。
 たとえば、病院へ友人のお見舞いにでかけ、早くよくなって欲しいとの一念から「私もご本尊様に祈ってるよ。がんばってね」と握手して別れたとする。
 訪ねた人が、「ああ、思ったより元気でよかった。あの分ならもうすぐ退院だろう」と安堵しながら帰途に就いている時、見舞われた人が必ずしも心から感謝しているとは限らない。
「がんばってくれと言われても、お医者さんの指示に従っているしかないのに、これ以上、どうがんばればいいの?どうせ、元気な彼女には、私の気持なんてわからないんだから」
 こんなふうに、ひねているかも知れない。
 古来、励ましの言葉として自然に用いられてきた「がんばって」すら、あまりにも神経質な受けとられ方をするようになった現代では、一語、一語の用い方が難しい。
 
 連続殺人事件で死刑判決を受けた木嶋佳苗被告が逮捕された直後、過去につき合いのあった男性の中で、どうしても信じられないと言った人がいた。
 彼は、木嶋佳苗被告にとって奪い尽くす対称ではなかったのか?
 それとも、まだ、仕掛ける段階ではなかったのか?
 我欲、怨み、怒りといったものがある以上、この世は隠れた悪意の岐(チマタ)であると言えないこともない。
 それでも社会が成り立っているのは、幸いにして、多くの人々が、悪意に正直になれば我が身が破滅することを知り、自分を守ろうとしているせいであると言えないこともない。

 いずれにせよ、意図と結果にはそれぞれ善悪がある。

非暴力とは、本質的に慈悲心の発露である

「例を挙げて見ていくことにしよう。
 たとえば暴力。
 暴力的に見える言葉、あるいは、目の前には暴力として表現されたある種の行為があったとしても、それが実際には暴力などといった悪しき行為ではないことがある。
 ただ、同情心、思いやり、慈しみにあふれた心が、たまたまひどい言葉となったり、物理的にも荒々しい働きかけとなったりすることがある。
 人を擲(ナゲウ)ったりする場合さえあるだろう。
 だが、心の深層に潜むその行動をつき動かしているものは、本物の親愛の情、人を慈しむ心である。
 この場合、意図は正しい。」


 粗野な言葉や態度でしか誠意を表現できない人がいる。
 多くの場合、愛すべき人柄が理解されなかったり、誤解されたりする場合も多い。

「では、こうした場合はどうか。
 優しく甘味な言葉で語りかけ、微笑み、あるいは、贈り物などして、人を欺こうという場合である。
 行為そのものは暴力的でもなければ、人をいたぶり苦しめるものでもない。
 結果はともあれ、表面には暴力として表現されない。
 だが、その意図においてこれは悪であり、暴力そのものである。」


 独り暮らしのお年寄りへ善意を装って近づき、詐欺や窃盗に走る輩がこの典型である。
 表面的な優しさを武器に、無理に高額な買い物をさせたり、不適切な契約を結ばせたりする手口は古今東西なくならない。
 怪しい宗教団体もまた、入り口の飾り具合がすばらしかったりする。

非暴力とは本質的に慈悲心の発露である。
 したがって、慈悲心に動機づけられた行為はすべて非暴力的なものとなる。
 逆に、憎悪によって動機づけられた行為は、基本的に暴力的である。
 憎悪より出た行為はすべて暴力と見なしていい。
 ここまでくれば後は明瞭だ。
 物事は、結果よりはるかに意図が重要だということが。」


 ダライ・ラマ法王は、他を害することすべてが「暴力」であると言う。
 いのちの力が悪によって暴れるのである。
 お大師様は説かれた。

「悪をやめよ。
 善をなせ。
 一切のためになれ。
 そのためにこそ、十善戒を守れ」


 ここに慈悲心があり、真の「非暴力」がある。
 表面的な言動が粗野であるかどうかではなく、むしろ、意図が戒めに背かないことこそが重要である。

○宗教的には、意図こそ最も尊重すべきもの

「では、道義心という観点から導き出される見解を述べてみよう。
 このとき、ある場合においては、意図はそれほど善悪の判断に関連してこない。
 意図そのものの重要度は低いという場合がある。
 行為そのものがより大きな意味を帯びる、そういう場合である。」

「ここに花がある。
 われわれは花の世話をする。
 われわれが花を慈しむのは、花がなんらかの有用のものであると思うからである。
 だから、花からの見返り、具体的な花からの働きかけがないにもかかわらず、われわれは花を植え、水をやり、可愛がる。
 花は美しく、心を和ませてくれるからである。」

「だが、花にはまったくその意図はない。
 われわれを楽しませようとする意図は花には皆無である。
 したがって、こうしたときには、意図よりも行為を、行為と呼ぶよりは、そのものがあることによって及ぼす影響を、重視するように考慮すべきだろう。
 花は何一つ意図しないにもかかわらず、われわれは花から多大の恩恵を受けている。
 花がわれわれに与えてくれるものは、厳然としてそこにある。」

「これと同様に、行為が意図に優先するような場合が他にも考えられる。
 意図とは無関係に行為が大切な役割を演じるような場面が存在する。
 意図しないままに他者に恩恵を施したり、施されたりすることが、現実の世界にはいくらもある。
 特定の事象にしぼって考慮すれば、意図とはかかわりなく、行為がその価値を決定することはよくあることである。」

「だが、宗教心の観点より考察したとき、意図は必ず結果より重要である。
 物事の善悪を見極めようとしたとき、意図こそが最も尊重すべきものであることは間違いない。」


 たとえば、嫌々ながら登校する、あるいは出社する、あるいは町内の行事に参加するといったケースを考えてみよう。
 今日は遊びたいけど、怖い母親にも先生にも叱られるから……。
 あの憎たらしい上司など顔も見たくないけど……。
 皆さん、こんな面倒なことやりたくないだろうに、暇な会長が張り切っているばかりに……。
 本心はこうした状態でも、「行為そのものがより大きな意味を帯び」て、結果オーライとなることには少なくない意義がある。
 順調な卒業、安定した収入、ご近所さんとの交流、いずれもが、生きてゆくことに資するのである。
 それでもなお、学校生活を楽しめるよう、仕事に精魂込められるよう、地域社会に親和の空気が流れるよう、心から願いたいものである。




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2009
12.26

予報と予言

 最近の天気予報はとても詳しく、解りやすくなりました。
 好青年やうら若い美女が、いかにも確信ありげに地図を前にして説明します。
 科学的観測とそれに基づくデータ、そして最高の分析技術をもって解明された未来は、あたかも動かしようがないかと思わせますが、意外に、外れたりします。
 それでも私たちは「予報が外れたためにせっかくの旅行が台無しになったから、損害賠償せよ!」と訴えはしません。
 科学の限界を感じ、予報士たちの確信に宿っている誤差を許しているからです。

 あたかも科学が万能であるかのようなこの時代には、こうした予報予告がより精密に、そして、より遠くの未来にまで及ぶことが求められています。
 遺伝子の解析により、生まれた人間が、いつ、いかなる病気になるかまで解るとされ、外国にはそうしたデータを基にした生命保険もあると聞きました。
 やがては、人の寿命まで予告されるのかも知れません。
 しかし、医者から「あなたはこれまで、本当に普通の日常生活ができていたんですか?」「あなたはいつ死んでもおかしくありません」「長くて、あと一年でしょうか」などと分析、予告された人々が10年以上も生きている事例は、当山の周囲にいくつもあります。

 こうした予報予告の誤差は、分析する対象の変化の波がゆったりし、長い時間を要するものであるか、それとも波が小刻みに短時間で揺れるものであるかによって異なります。
 海流の流れと気象の変化を比べれば一目瞭然です。
 今、銚子沖にある黒潮が一ヶ月後にどこにあるかは割合正確に予報できるでしょうが、銚子の一ヶ月後の天気を正確に予報することは困難でしょう。

 いずれにしても、私たちは科学的予報・予告を当てにして生きています。
 その一方で、予言予知もまた、私たちの足を止めたり進めたりします。
 ある人から「もし、あなたの家に古い刃物があったら良くありませんよ」と言われ、たまたま刃物があると気になります。
 そして、不意の事故が起こるなどしたならば、たちまち処分したくなります。
 何となくでかける気にならなくてキャンセルした飛行機が堕ちたという事例も山ほどあります。
 予言予知に科学的根拠はありませんが、こうしたものをまったく無視して生きている方は少数派だろうと思われます。

 それはなぜか?
 私たちは、起こってしまった過去を見れば原因結果の糸がある程度つなげられ、納得できます。
 しかし、過去を見本とし、原因起こりつつあるできごとについていくら考えてみても、まだ起こらない未来における結果をもたらす〈すべての糸〉は発見・分析しきれないからです。
 そもそも、現在そのものが流れであり、物理学では〈現在〉を客観的に観ることが不可能であるとされています。
 私たちはこうしたことを直感的に知っており、第六感などが因果の糸をまったく見せないままに示す〈まだ来ぬ未来という結果〉を信じる場合があります。

「科学的」というお墨付きを欲しがる現代人は、こうした分野にまで科学のメスを入れようと頑張っていますが、きっと、「目の前にぶら下げられたニンジンを追う馬」であり続けることでしょう。
 なぜなら、科学は精神のはたらきの一方面であり、人々が生きるという現実のすべてをその原理だけで動かすことは不可能だからです。
 なにしろ、私たちは、信じる医師から「あなたはすぐに治ります。大丈夫」と太鼓判を押されただけで、胃腸薬によって風邪が治ってしまうことが珍しくない極めてアバウトな存在なのです。

 科学に頼りすぎると、切り捨てられる邪魔物と一緒に宝ものを捨ててしまいかねません。
 第六感に頼りすぎると、道理や論理によって考えるはたらきが鈍ってしないかねません。
 その人なりに、科学的知見と第六感のバランスを上手にとりながらやりましょう。
 それは、科学と宗教を共に尊ぶ生き方でもあるはずです。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2009
12.11

宇宙の始まり(その1)

 宇宙始まりについて、釈尊は「無記」として直接には説かれませんでしたが、『大日経』には明記されています。
 お大師様はそのことを指摘されました。
 そもそも、原因が縁と結びつけば結果をもたらしますが、原因自体にそうしたはたらきがあるわけではありません。
 たとえば、卵があり、フライパンがあり、油があり、砂糖なり塩なりコショウなりもあるところへ火という縁が加われば卵焼がつくれますが、卵やフライパンにそうする力はあるでしょうか?
 コンロの火がかってにやるでしょうか?
 人間がそれらのものを用い、道理に従って料理をして初めてできあがるのです。
すべて同じです。
 両親の縁でこの世に生まれ出た私たちもまた、生成・成長というはたらきによって今の生が保たれています。
 親の恩は目に見えます。
 周囲の人たちや食べものや家や洋服も目に見えます。
 その〈おかげ〉よって生きていられるわけですが〈おかげ〉には、さらなる〈おかげ〉があり、それが、あらゆるものごとを理によって動かし続けているはたらきです。
 この世を成り立たせ私たちの命を育んでくださっている不断のはたらきを〈み 仏〉とお呼びするのです。


「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2009
12.08

イヌになったキツネ

 狐が犬科の動物であることは知っていが、狐が犬になったという説があるとはは知らなかった。
 ムツゴロウ先生の『海外レポート』によると、野生の狐のうち生まれつき人間に慣れ親しむ者を選んで繁殖を続けると、だんだんに犬化するのだという。
 すでに40年以上にわたって研究を続けている施設の〈犬化しつつある狐〉がテレビで紹介された。
 驚いたことに、姿形は狐でも人間に対するしぐさはすっかり犬そのものである。
 しかも、変化はしぐさだけでなく、毛の模様やホルモンの分泌までもが変わるのだという。

 さて、我が家に居ついた野良猫のクロも、生まれつき人になじんでいる。
 猫なら誰でも飛びつきそうな魚料理などの匂いがしても、与えられなければほとんど手をかけようとしない。
 警戒心が強く、目つきにも動作にも鋭さが漲(ミナギ)り、どこにある食べ物をも見逃さずに狙った母親とは大違いだ。
 いつも住居の入り口近くにいてほとんど離れず、主人がどこからか帰って来ると、犬のように喜んで出迎える。
 とにかく、人間のそばにいることを好む。
 いつも人間に親愛の情を伝えようと懸命になっている。
 自立心が強く気位の高いネコ族らしくなく、人間と一緒にいたがり甘えん坊のイヌ族に近い。
 形は猫なのに心は犬だなあといつも不思議に思っていたのだが、何となく謎が解けたような気がする。

 ところで、考えてみれば、動物の心が世代を追うごとに変化し身体までも変わるのだから、人間も、良い心がけで過ごす生き方を子孫へ伝えるならば、やがては今よりももっと徳にあふれた住みやすい世の中になるに違いない。
 
 釈尊は「すべては変化する」、「原因には結果が伴う」と根本的な真理を説かれた。
 釈尊が示した希望と意欲を持って生きる道を、狐も猫も教えてくれた。
 宇宙の万物が大日如来として説法しているのは確かである。

※この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りから高橋里佳さんがピックアップし、メルマガで再掲しているものです。


「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなた様にとっても、佳き一日となりますよう。





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