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2016
01.07

縁起と空 ─苦の断ち方─

201601050009.jpg
〈お正月になっても、まだ柿の実が残っています。地元の方々は、イノシシの勢力が強いのでクマが里へ降りてこられないからだろう、と言っていますが……〉

 を根元から滅するには、縁起(クウ)を理解せねばならない。
 仏道修行のすべてはここにある。
 
 しみはなぜ、誰も望まないのに、誰しもに起こってくるのか?
 そして、なぜ、み仏というしみのない存在があるのか?

 それは、私たちの誰しもが無明(ムミョウ)という〈見え方にとらわれた見解〉を持っているだけで、〈ありようそのもの〉つまり(クウ)が観られないからである。
 み仏は〈ありようそのもの〉をつかみ、を観て悟りを開かれたからしみがなくなった。

 悟られたみ仏は、望まぬしみにしむ私たちを見捨てておけぬお慈悲によって、自らが得られた智慧の教えを説かれた。
 私たちは、このお智慧にすがり、望まぬ苦から望む楽へと向かいたい。

「何でも縁起しているものは
 それはであると説く
 それは[他に]依存して仮設されたものなので
 それは中の道である」(「中論」)


 とは、っぽという意味などではなく、空を説く「般若心経」にたくさん「無」が出てくるからといって、「無」を意味するのでもない。
 すべてのものは他に依存しつつ存在しているので、存在するものすべてに共通する本質を空と言う。

 現象世界のすべてが他に依存して現れ、滅する成り行きを縁起と言う。
 縁起によって現れている現象世界にあるすべてのものは、例外なく他に依存しているのであり、そのありようは空なのだ。

 また、「私」と名づけた自分、「ネコ」と名づけられる一匹の動物、「ボールペン」と名づけられた一本の道具、それらのすべてがそれ自体で成立しているのではなく、単なる名前で特定される存在であるという意味でも空である。
 私もネコもボールペンも、名前があるからそれ自体で存在しているのではなく、仮そめに在る存在が名づけられただけのものである。

 例えば、好きな彼女がそれ自体で確かに居ると思う〈実体視〉する勘違いを実在論と言い、それは〈見え方にとらわれた見解〉に他ならず、無明という苦の根源に含まれる。
 例えば、「空という本質」について早とちりし、何にも不動の本質が無いのならすべては無だと諦めてしまう勘違いを虚無論といい、これもまた無明という苦の根源に含まれる。

 実在論にも虚無論にも偏らず、存在するものをありのままに空と観るのが「中の道」すなわち中道である。
 

「ゆえに、縁起しない現象
 何一つ存在していない
 ゆえに、空でない現象
 何一つ存在していない」(「中論」)


 私たちの苦は、3つの相貌を持つ。
 寒い、痛いなどの〈感覚的な苦〉、美女が老醜を避けられず、名陶が地震で破片に変わるような〈壊れて行く苦〉、そして、一切が無常であり何一つ掴まったり、掴んだりし続けられない〈流れ行く苦〉である。

 ありとあらゆるものが変化し続け、思い通りになどならない無常は事実なのに、私たちが事実を苦と感じてしまうのは、「〈ありようそのもの〉つまり空(クウ)が観られない」からに他ならない。
 たとえようのない穏和な表情のみ仏はすべて、〈ありようそのもの〉を観たので、何らの苦もなくなった方々である。
 ならば、その説かれたところを学び、会得すれば、自分だけでなく、愛する人の苦も憎む人の苦も、すべての生きとし生けるものの苦も、いささかは減らせることだろう。
 縁起と空をよく考えてみたい。




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2015
07.08

仏教と絶対者 ―言霊・縁起の法など―

201507070004.jpg
〈個別型永代供養樹木葬『法楽陵』に招魂木(オガタマノキ)が植えられました。3メートルの霊木はやがて30メートルにもなることでしょう〉

 仏教は「絶対者」や「創造主」の存在を仮定しない。
 ものごとの判断基準をそうした誰かに委ねない。
 あくまでも〈道理〉をもって考え、〈納得〉を求め尽くすのが仏道という道である。
 だから、仏教と科学は争わず、ダライ・ラマ法王と脳科学や宇宙物理学などの科学者たちとが公開対話を行い、互いに重要な示唆を得る場面も生ずる。
 仏教は、つきつめたところで何かを「信じるか信じないか?」と踏み絵を迫らない。
 人間を「信じる者」と「信じない者」に二分しない。

 では、仏教徒は何を信じるか?
 まず、道理が共有されることを信じる。
 だから、お釈迦様も、お大師様も対話を重視した。
 話し合うのは、「自分の言葉が相手へ通じている」と信じていればこそである。
 相手の話を聴くのは、「聴けばわかる」と信じていればこそである。
 両者が言葉によってやりとりができる不思議さから、私たちは古来、言霊(コトダマ)を考え、言霊学という分野さえある。

 万葉集にある「言霊(コトダマ)の幸(サキワ)ふ国」こそ、日本であり、幸せを求める私たちは祈り、つまり「斎(イ)告(ノ)り」を欠かさなかった。
 この「斎」とは神聖さであり、神聖なものである。
 そして「告」は思いの投げかけであり、呼びかけである。
 社会学者加藤英俊氏は語る。
「一般にメディアとはテレビやラジオ、新聞などですが、もう少し言うと、人と人をつなぐものすべてです。
 原点はカミ・ホトケと人をむすぶもの。
 聖と俗をむすぶものが、俗と俗をむすぶようになったのです」
 ちなみにチベット仏教には「問答」という激しい対論の修行があり、テストもある。
 み仏の世界へより近づくため、み仏や経典の言葉について、互いに言葉をもって確認し合い、深め合う。 
 日本の仏教界も見習うべきではなかろうか。

 だから、仏教は思考の行き止まりを認めず、八万四千もの法門があり、仏教は日々、深められ、高められ続けて変化をやめない。
 いのちと心と、この世界の連鎖、連続は無始無終であり、どこかで、〈この先〉を遮る絶対者が求められることはない。

 お釈迦様が説かれた峻厳な「縁起の法」はそうした存在を認めない。
「これが有るから、これが有る。
 これが生じるから、これが生じる。」
 すべては条件によって生じる。
 縁によって起こっている。
 だから、「縁滅の法」もある。
「これが無ければ、これが無い。
 これが消滅すれば、これが消滅する。」
 すべては条件によって消滅する。
 縁によって滅している。
 
 どこにも絶対者の居場所はない。

 その7~8百年後、龍樹菩薩(リュウジュボサツ)は、「(クウ)」を説いた。

「あらゆる存在には固定した実体がないから(クウ)である。」

 を体得したければ、『般若心経』を読誦し、行者に学べばよい。

 その6~7百年後、お大師様は、ありのままで仏性を生きる「即身成仏(ソクシンジョウブツ)」を説いた。

「浅はかな知ではなく、根本的な智に依っていのちを燃やし、ありのままに生きよ。」

 即身成仏を体得したければ、『理趣経(リシュキョウ)』(特に百文字でつづられた「百字の偈」)を読誦し、行者に学べばよい。

 私たちは絶対者創造主も仮定することなく、心次第で互いの仏性を認め合える。
 相手が猫や花や樹であろうとも……。
 そして、互いを尊び、互いのためになれば、この世は極楽になる。
 こうして現代の仏教は、相互礼拝、相互供養を目ざしている。




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2015
05.27

私たちはなぜ、輝けないか? ―尊者アジタの問い―

20150527041.jpg

 尊者アジタは申し上げた。
「この世の人びとは何に覆われているのですか。
 この世の人びとはどうして輝かないのですか。
 何がそれ(=この世の人びと)を汚すのですか。
 そもそも何がそれ(=この世の人びと)の大きな恐怖なのですか。
 あなたは説いてください。」
 世尊はお答えになった。
アジタよ。
 この世の人びとは根源的な無知で覆われている。
 物惜しみと怠りによって[この世の人びとは]輝かない。
 貪りが[この世の人びとを]汚し、苦がその[この世の人びとの]大きな恐怖であると、私は言う。」

○私たちは根源的な無知に覆われている

 根源的な無知は、無明(ムミョウ)すなわち智慧の明かりがない状態である。
 無明とは、縁起(エンギ)を知らないことである。
 この世のすべては因縁によって仮そめに生じ、必ず滅してゆくことが腑に落ちていないと二つの執着心が生まれる。
 (ガ…自分)と処(ガショ…自分の所有物)に対する執着心は、あらゆる悪行(アクギョウ)に走らせ、悪しき結果をもたらす悪業(アクゴウ)を積ませる。
 悪業四苦八苦となって表面化する。
 
○物惜しみし、怠惰になれば輝かない

 (ガ)と処(ガショ)にしがみつけば、皆、惜しくなる。
 汗を流したくない、施したくない、怠けたいといった心でいれば、何もかも所有していて豊かであると錯覚するが、それは、せいぜい、ネズミが穴を塒(ネグラ)として生きているようなものでしかない。
 人が人として輝くのはどういう場合か?
 誰かのためになり、誰かに喜ばれている時ではないか?
 施すために努力している人こそが輝いている。
 そうした人の徳が周囲に喜びを生み、喜びが光となってその人を包む時、その人は輝くのではないか。

 糸井重里氏はコピーライターをやめたと言う。
「エルメスにキャッチコピーはないですよね。
 よいコピーをつくることと、売れるものをつくることは別。
 よくないものをコピーで売るなんて、やめたほうがいい。」
 では何をやっているか。
「売る名人じゃなくて、売れるに決まっているものをつくっています。」
「使う人に喜んでもらえるか、考えぬく。
 喜ぶ姿が光景として浮かびあがらない商品は、ダメですね。」(5月25日付朝日新聞)
 氏はまぎれもなく、輝いている。
 
○貪る者は汚れている

 貪っている時の姿はハイエナも人間も同じである。
 生存欲の燃焼は確認できるが、霊性は輝いていない。
 野性の生きものは生きることがすべての世界で美しく見えたりもするが、人間は違う。
 獰猛なワニや狡猾なネズミの脳に左右されたままの人間が美しいはずはない。
 貪る自他の汚れた姿を見落とさない心と視点を失わないようにしたい。

○苦は恐怖である

 四苦八苦の根本原因は、根本的な智慧が眠ったままの無明にある。
 お釈迦様はそれを見抜き、明確に説かれた。
 自分の愚かさが自分へ苦をもたらし、他者へも苦をもたらしていることに早く気づきたい。




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「おん あらはしゃのう」
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2015
03.25

誰もが等しく宝ものを持っていることに気づけるか? ―テロリストの思考、仏教の思考(その1)―

201503240010123.jpg

 3月24日付の産経新聞は「
テロリストの軌跡・チュニジア襲撃(下)」において、実行犯の心が急変していた様子を報じた。

「『あなた方は本当のイスラム教徒ではない』。
 チュニジア博物館襲撃事件を実行して射殺されたジャーベル・ハシュナーウィ(19)が、家族に言い放った。
 聖典コーランに極度に傾倒するようになって間もなくのことだ。

 イスラム過激派が広く共有する思想に、『タクフィール(不信仰者宣告)』がある。
 たとえ同じイスラム教徒でも、信仰が足りない人や『敵』に協力的な人を不信仰と決めつけ、殺害さえ正当化する。

 高校生のジャーベルは『普段は家族と言い争うことはなかった』(兄のムラード)。
 が、こと宗教に関しては家族さえも一方的に断じる教条的な言葉には、過激思想の萌芽(ほうが)がある。」

「後にジャーベルとともに射殺されるヤシン・アビーディ(27)にも、似た傾向があった。

 昨年、ヤシンの近所に住む幼なじみはガールフレンドとお茶を飲んでいたところ、ヤシンから『男女交際はハラーム(宗教上の禁忌)だ』と難詰された。
 周囲との交際を絶っていたヤシンから聞いた久しぶりの言葉は、極めて攻撃的なものだった。」

「比較的ゆとりのある家庭で不自由なく育ち、真面目との評価も受けてきた2人。
 だがその性格は、信仰心が強くなるに従い他者への不寛容につながっていった。」


 狂信者が他の価値観を認められなくなる典型的なパターンである。
 肉親の情や恩さえもが、たやすく見えなくなり、忘れ去られる。
 心の目に頑強なフィルターがかかったのである。
 このフィルターはどこから来るか?
 難問を解くカギが、お釈迦様の悟りにある。
 仏教思想の根幹をなす十二因縁である。

 密教研究の専門誌『密教メッセージ NO20』(「密教21フォーラム」発行)において、北尾克三郎師は、難解とされているこの理論をわかりやすく説かれた。

1 無明(ムミョウ)
 人間と生きとし生けるものはみな生存欲(個体維持と種族保存の欲求:呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動など)をもって生まれてくるが、生の始まりにおいて知識はない。
2 行(ギョウ)
 だからまず、その生存欲にもとづいて活動する。
3 識(シキ)
 活動することによって学習し、世界を識別する。
4 名識(ミョウシキ)
 識別された世界がイメージとなったファイルされる。
5 六処(ロクショ)
 それらの識別されたイメージファイルによって、眼・耳・鼻・舌。身体・意識がはたらく。
6 触(ショク)
 眼は色・かたち・動き、耳は声・音と音のリズム・メロディー、鼻は匂い、舌は味(甘味・辛味・苦味・酸味・塩味)、身体は感触(動作の機敏さと強さ、物質の重さと軽さ、硬さと軟らかさ、熱さと冷たさなど)、意識は意味をとらえる。
7 受(ジュ)
 感受されたイメージが快・不快を生む。
8 愛(アイ)
 その快・不快が対象への愛憎を生む。
9 取(シュ)
 愛憎が対象への執着(煩悩)を生む。
10 有(ウ)
 その執着があるから生存が生じる。
11 生(セイ)
 生存があるから生が生じる。
12 老死(ロウシ)
 その生があるから老いて死ぬ。


 その結論である。

「以上の考察によって、釈尊は『人間の煩悩が識別を因とし、執着を果としている』(縁起論)とし、そのことによって『印と果をもたらす識別は人間の意識がつくりだしたものに過ぎないから、もともとはなかったものである。因がなければ果は生じないし、果がなければ因もない』(縁滅論)と結論づけた。
 しかしまた、果としての執着があるから、その執着が因となって人間は生きることができると結論づけた。
 その『縁起論』と『縁滅論』が〝方便〟であり、また、執着によって生きることを認め、その執着を許す心が〝慈悲〟である。
 仏教の根幹がここに誕生した。」


 この世に生まれた私たちは否応なく、このように生きている。
 変えようのない事実であり、ここに観られるのが人生の真実である。
 お釈迦様はまず、この理を悟られた。
 しかし、私たち凡夫はなかなか理解できないので、身近に起こる事象に応じて、理解できる範囲をわかりやすく説かれた。
 それが対機説法(タイキセッポウ)である。
 事象は膨大であり、説法の解釈も時により、所により、人によりさまざまなので教典も膨大なものとなった。
 この全体像をまとめたのがお大師様の「十住心論(ジュウジュウシンロン)」である。
 「十住心論」の解説書としてお勧めなのは、古くは文豪菊地寛著「弘法大師とその宗教」(大東出版社刊)であり、最新かつ最奥と思われるのが、高野山開創1200年を記念して出版された満福寺住職長澤弘隆師著『空海の総合仏教学』(ノンブル社刊)である。

 さて、重大なポイントはここにある。
「執着によって生きることを認め、その執着を許す心が〝慈悲〟である」
 お互いが、生まれた瞬間から否応なく識別行為と執着によって生きている以上、同じ存在パターンを持ち、同時に、それぞれが皆、異なった心といのちで異なった人生を生きているという事実をそのままに観れば、自他の生はおのづから〈等しく〉〈愛しく〉感じられるではないか。
 また、ものごとが因縁によって起こる(縁起論)以上、起こって欲しくないものごとは原因を滅すればよい(縁滅論)という原理は、よりよい自分、よりよい世の中を創るための適切な方法を見つけ出そうという意欲をもたらす。
 この方法こそ、真の意味での「方便」である。
 方便を見つけ出させるはたらきを智慧という。
 だから仏教は慈悲と智慧の宗教である。
 心の目に頑強なフィルターがかからぬよう予防し、治療する方法が慈悲と智慧にありはしないか?

 以下、(その2)としたい。




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2014
08.24

自我って何だろう? ―仏教的視点から観た自我(1)―

201408140003.jpg

 私たちは、物心がついた頃、いつの間にか「自分がいる」と意識し始めています。
 それ以来、自分はずっと〈他ならぬ自分〉としてこの世にいます。
 自分の身体は自分だけのものなので、身体をよりどころとして、自分はいつも〈ここ〉にいます。
 でも、何かの拍子に「自分とは何だろう?」と発した問いに、どっしりした答はなかなか返ってきません。

 さて、自分の核は自我意識です。
 この自我は、はたしてあると言えるのでしょうか?
 ダライ・ラマ法王著『ダライ・ラマの般若心経』をテキストにして、少し、考えてみましょう。

1 自我とは何か?

 仏教は、他の宗教と異なり、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はないと考えています。
 いわゆる「無我」が仏教の根本的立場です。
 でも、普通の感覚では「自分はここにいるし、君だってそこにいるじゃないか」ということになります。
 デカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」です。
 仏教も、「思っている自分は確かにここにいる」という理を否定はしません。
 認めますがそれは、日常生活的思惟をめぐらせてつかむ世俗的な真理としての範囲です。
 いわゆる「世俗(セゾクタイ)」です。
 一方、深い瞑想の中でつかむ無我の真理を「真(シンタイ)」または「勝義諦(ショウギタイ)」といいます。

 真理は二重になっており、お釈迦様が悟りを開いた当初、「これ(真)は誰にもわかるまい」と考え、悟って得た安楽の境地へ入ったままになろうとされたのは、当然です。
縁起の理は理解されず、涅槃(ネハン…絶対的安楽)の理も悟られないだろう。
 説いても徒労に終わるだろう」
 しかし、梵天(ボンテン)というインドの最高神によって説得されます。
「世間には目が穢れに覆われていない人々がおり、そうした人々も、法を説かれなければ、皆と同じように堕ちてゆくことでしょう。
 しかし、彼らは聞けば悟れる人々なので、どうぞ救ってください」
 そこでお釈迦様は説法を決心されます。
「耳あるものは聞け、古き信を去れ」

 確かに「縁起の理」は容易に理解されず、ましてや「涅槃(ネハン)の理」は誰にでも悟られるわけではありません。
 何しろ、お釈迦様ほどの方ですら、すべてをなげうち、周囲から、いのちを落とすのではないかと思われるほど徹底した瞑想の果てに、ようやくつかんだ真理なのです。
 たとえば、縁起とは「すべては、何かが縁となって起こったからこそ、そのように有る」という真理ですが、悪いことが起これば神様のお怒りだろうと考えて生け贄(ニエ)をささげたりする人々には、原因と結果が必ず結ばれていることを実感できる素地は少なかったことでしょう。
 ましてや、善い人が利用されたり誤解されたりして苦しみ、悪心を持った腹黒い人がうまくやって成功したり、褒めそやされたりする場合がある現実を眺めると、原因と結果の関係に納得できる妥当性を感じられないことでしょう。
 また、厳しい修行や幾多の輪廻転生の末に苦から解き放たれ、苦から脱した解脱(ゲダツ)すなわち涅槃(ネハン)の境地など、想像もできない世界です。

 では、どうやってお釈迦様は法を説かれたか?
 難しい理論などわからず、生きるのに精一杯で瞑想をする余裕もない人々がどうして救われたのか?
 そのキーポイントが「真理の二重性」です。
 つまり、問題を抱えた人なりに理解できる真理を入り口として、その先は、その人なりに行ける範囲まで行ってもらうというやり方だったものと思われます。

 最もわかりやすい例が、娘を亡くした母親キーサゴータミーの物語です。
 これまで何度もとりあげたとおり、娘を亡くして半狂乱になっているキーサゴータミーへ、お釈迦様は、「一人の死人も出したことのない家があったなら芥子の実をもらってきなさい。そうしたら、貴女の苦しみを取り除いてあげよう」と約束されました。
 しかし、村中を歩いても、死人を出したことのない家はありません。
 ご先祖様のいない人は誰もいないので当然です。
 キーサゴータミーはがっかりしてお釈迦様の元へ帰りますが、お釈迦様は黙したままです。
 きっと、本人が気づくことを知っておられたからでしょう。
 娘の亡骸を埋めてからお釈迦様へ弟子入りしたキーサゴータミーは、きっと、こんな順序で理解を深めたことでしょう。

・死人を出したことのない家はない
・誰しもが、人の死に悲しむ体験をしている
・自分だけが人の死に苦しむのではない
・人は必ず死ぬ
・自分もいつかは死ぬ

 きっと、このあたりまでが、世俗でしょう。
 そして更に、お釈迦様の弟子となって理解を深めたことでしょう。

・娘の死には、直接的原因と間接的原因があった
・死とは、肉体のはたらきや、感受作用や、意志作用などが壊れ、なくなることである
・娘の実態は仮そめの存在、つまり(クウ)だったのであり、自分もまた、(クウ)なる存在である
・すがりつくべき実体的な自我はない
を観ると心が安らぎ、生きとし生けるものが愛おしくなり、美しいと感じる
なる自分のなすべきことが見えてくる

 こうして真が深まったのではないでしょうか。
 まぎれもなく、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はなく、「無我」なのです。




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