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2016
04.24

寺院から送られるもののはたらき ─辟除と結界─

2016-04-24-0001.jpg

 寺院から発送されるものはすべて清められています。
 寺院がご本尊様のおられる聖地であり、日々、法が結ばれているからです。
 そのはたらきはこう説かれています。

○届いた先にいる亡者を救い、魔ものを祓う

 辟除(ビャクジョ)という祓いの法と、結界(ケッカイ)というご守護の法によります。

○送られたものを見たり触れたりする人にまつわる魔を祓う

 この世は物質的原理と精神的原理とによる二つの世界が融通無碍(ユウズウムゲ…互いに邪魔をせず、影響し合っていること)に絡み合って生じており、通じる人には通じるものがあります。

○送られたものを見て亡者へ祈ると成仏させられる

 ここでいう「見る」は、感謝し、心で何かを感じながら「観る」ことです。
 精神世界のことごとは私たちの感覚器官を通じて動いており、〈受ける〉のも、〈出す〉のも、それによります。
 女性が男性を蠱惑(コワク)する時は、流し目から始めるではありませんか。

○送られたものを見て、考え、あるいは聴いたり訊ねたりする人の六根清浄になる

 寺院の修法はすべて仏法に基づいて行われています。
 仏法清浄な世界から流れ出る清水のようなものとしてはたらき、積極的にそれを感得する人にとっては、その〈流れ〉が心身へよき影響を与えます。
 原因となることを行えば、必ず、何らかの結果は生じます。
 仏法に関して最も共通する部分が清めです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2016
04.08

今月の寺子屋は、四国巡りのお話です

 今月の寺子屋法楽舘」では、四国八十八か所巡拝のお話をします。
 画像処理が間に合えば、今回、巡拝した写真もお目にかけられます。
 四国霊場は、日本の宝とも言うべき〈生きた聖地〉です。 
 ご関心のある方はどうぞ、おでかけください。

・日時:4月9日(土)午後2時~
・場所:法楽寺講堂
・参加費:千円(中学生以下:五百円)
・送迎:午後1時30分に地下鉄泉中央駅そばの「イズミティ21」前から送迎車が出ますので、乗車を希望される方は前日午後5時までに電話(022-346-2106)などでお申し込みください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
03.19

四国霊場を巡る話 ─88の意味、心の変容─

2016-03-19-00012.jpg

 四国八十八か所巡りは、宗教宗派を超越した世界有数の聖地巡礼です。
 お大師様にゆかりの深い霊場を巡ると、各札所で何を体験したかという事実はもちろん大切な思い出になりますが、その全体が、日常的な自分を離れた〈何ごとか〉であったことを、あとからジワッとした充実感と共に感じとれるものです。

1 八十八の話

 ところで、「88になったのはなぜですか?」というご質問をよくいただきます。
 煩悩(ボンノウ)の数。
 男性42、女性33,子供13という厄年の数の合計。
 八十八の末広がり。
 その他いわれは多々あっても根拠はあいまいで、数にこだわる必要はなさそうです。
 ちなみに、星野英紀博士はこう書いています。

「開創については諸説あるが、信仰上では弘法大師空海が修行のため一寺一寺を巡ったことから始まったとされている。
 しかし、この説には史的データの裏付けがないこともまた確かである。
 無理のない学的推測の範囲でいえば、平安末期にはその祖型らしきものが確立し、鎌倉期、室町期を通じて次第に整備され、おそらく室町末期には八十八か寺が定まり、そして江戸期になって一般民衆の遍路者を多く迎えるようになったと考えられる。」(以下、「四国遍路の宗教学的研究」より)

「もし旧遍路道を徒歩で歩くとすると、現実には、参詣寺院は優に百か寺を上まわるのである。
 すなわち八十八の数は参詣のうえで、あまり実質的な意味を持っていなかったと考えることができる。」

「ある案内書には、八十八カ寺の他に『四国別格二十カ所霊場』を付加している。
 両者を併せると百八か寺となり、仏教のいう百八煩悩に通じると説明している。」


 実際、八十八カ寺以外のいわゆる番外札所も訪ねてみると、少なくともその〈聖性〉において、定められた札所にまったくひけを取らないすばらしい寺院が数多くある事実に気づきます。
 たとえば、細い山道の先に突然、光景が開け、山上とは信じられないほど広い駐車場に着き、本堂はいかにも修行寺らしい峻厳な空気を漂わせていて身が引き締まったりします。
 だから、あまり八十八という数字にはこだわらず、許された時間と体力の範囲で、ご縁に応じたお詣りを実践することが大切ではないでしょうか。

2 熟成される体験

 さて、私たちの日常生活は、家族や友人との関係、あるいは地域や会社の構造など、幾種類もの関係・構造が重なり合いつつ営まれています。
 それがあってこそ人間の社会であり、そこにこそ生きられる基盤がある一方で、関係や構造は、個人個人をつなぎ止めて救いとなるだけでなく、鎖としてそこに縛りつけるという一面も持っています。
 私たちは家族や会社に感謝しつつ、時には〈鎖〉から解放されたいという欲求も禁じ得なくなります。
 そうした欲求に導かれてでかけるお遍路さんは皆、平等であり、一切の階層や上下関係などが消えます。
 お遍路さんも地域の住民も互いに尊び合う四国遍路は、〈鎖〉の対称にある〈解放〉世界です。
 解き放たれたといっても孤独地獄へ放り出されるのではなく、自然な思いやりという信じがたいほど温かで柔らかい空気に包まれるのです。

 数々の苦しみや迷いから10代で四国遍路を体験した明治時代の女性史研究家高群逸枝(タカムレイツエ)は、苦闘の遍路体験を振り返り、20年後にこう書きました。

「その後、私の生活は、幾起伏(イクキフク)を辿(タド)ったけれども、それを一貫した態度としては、運命にまかせるところに、安心の境地をもつことであった。」


 お遍路の体験が、時の経過とともに高群の心へ「運命にまかせる」という根本的態度を育てたのでしょう。
 もちろん、そう意識されていようがいまいが、「運命」の成り行きと、「まかせる」気持を受けとめるのはお大師様です。
 霊場巡りは、いつしか、お大師様が目に見えない人生の同伴者となってくださる尊い修行です。

「〈生きている〉のではなく、〈生かされている〉のだという認識を得ることもできた。」(以下、体験者の話)

「心がきれいになったらいいなと、遍路に出る前に思った。
 終わってみて、心がきれいになったとはいえないが、世の中には優しい人がいることがわかった、接待などを通じて、ここまで心の優しい人がいるのかと思った。」


 四国は実に別世界であり聖地そのものです。




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2013
07.09

人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ ─旅の愁いと救い─

2013070900122.jpg
櫻井恵武著『四国名刹』の馬頭観音

 大正12年、釈迢空(シャクチョウクウ)は『供養塔』という五首の連作をしました。
 その冒頭にある一首です。

「人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ」


 ついている詞書(コトバガキ…説明文)です。

「数多い馬塚の中に、ま新しい馬頭観音(バトウカンノン…冠に馬がいる観音様)の石塔婆の立ってゐるのは、あはれである。
 又殆(ホトン)ど、峠毎に、旅死にの墓がある。
 中には、業病(ゴウビョウ…快癒の難しい病気)の姿を家から隠して、死ぬまでの出た人のなどもある。」


 今からおよそ90年前、この歌が詠まれたころは、「道ゆき」つまり旅をすることには、いのちがけという面がありました。
 治安、宿、病気など、今のように旅行の安全が保証されているわけではなく、「旅寝」には当然、野宿も含まれていました。
 また、旅といえば、仕事か観光以外にほとんど考えられない私たちとは違い、快癒の困難な病気を患った人が家族から離れて文字通り「死出の旅」に出たり、何か願い事を持って四国八十八霊場など遥か遠くの聖地を目ざしたりしたのです。
 馬など大型の家畜は当時、乗り物であり、荷物を運ぶ道具でもあり、もの言わぬ彼らもまた、人間に殉じました。
 古い街道を行くと、辻辻に崩れかけ、文字が判然としなくなった供養塔や石碑などを見かけますが、それらは、道行きの安全を願うと共に、そのあたりで客死した人や動物を弔うためにつくられたものです。
 供養塔を目にした釈迢空は、黙って逝った名もない人や動物の魂と交感し、死を間近にしたおりの彼らの気持が自分の心によみがえったのでしょう。
 「かそけさ」は「幽けさ」と書き、かすかであり、ほのかであり、あるかなしか判然としない、今にも消えゆきそうな儚く淡い気配のことです。
 その「かそけさ」は佇む釈迢空の生にも伴っており、生きとし生けるもののいのち全体のかそけさとして迫ってきたのではないでしょうか。

 他の4首は以下のとおりです。

「道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行くとどまらむ旅ならなくに」


 人に伴う馬も又、人同様に成仏が祈られました。
 馬頭観音などがその代表的な導き手です。    

「邑(ムラ)山の松の木(コ)むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓」


 客死した旅人が松の木の根元に葬られ、小さな墓碑が建てられているのでしょう。
 大きな松の木の横から指した陽光が、はからずも、ひっそりと目立たぬ墓碑のありかを示している光景です。
 托鉢に歩いた日々、車で通れば決して目に入らないだろう石碑の前で、幾度、手を合わせたかわかりません。

「ひそかなる心をもりて、をはりけむ。命のきはに、言うこともなく」


 釈迢空は、先亡の御霊が最後まで保ち続けた「ひそかなる心」を感じとっています。
 釈迢空もまた、特にどうこうと言い遺すこともなく逝った御霊と同じように、「ひそかなる心」を抱いてそっと逝きたいと願ったのではないでしょうか。

「ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり」


 深い草に包まれた動物の墓を見つけました。
 彼らも又、人が人生をまっとうするのと同じく、いのちの果てへ「行き着いた」のです。
「ゆきつきて 道にたふるゝ」は事実を述べているのではなく、想像しているのでもなく、そこへ行き着いた時の動物たちの思いが釈迢空の心に映って来ています。
 苦役を生き抜いた者が本来のかそけさのままに眠っている、そこは浄土なのではないでしょうか。

 確かに、詞書にあるとおり、この5首は「あはれ」な世界ですが、「かそけさ」がそのまま不思議な救いへ通じています。
 かそけさに感応する心があること自体、救いなのではないでしょうか。
 旅にでかける皆さん、このことも頭の片隅へおかれてはいかがでしょうか。




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2012
01.26

宗教って何? ─被災地に生まれつつある小さな霊場や聖地─

 最近は、若い学生さんの間で心理学と哲学が人気だそうです。
 学生が教授へ質問しました。
哲学宗教はどう違うのですか?」
 教授は答えました。
宗教には物語がつきものなのです」
 この話を聞き、教授の本も読んだBさんは釈然としません。
 Bさんは常々、向学心が旺盛なご婦人です。
 そこで旧知のCさんへ電話しました。
「物語があれば宗教だと聞いたけれど、そうかしらねえ」
 80才になるCさんは即座に答えました。
祈りがあるのが宗教よ」
 Bさんはとても納得しました。

 明治以来、仏教の研究は主として哲学的に、あるいは社会運動の視点から研究されるようになり、庶民の祈りを実現するといった面は一段レベルが低いがごとき扱いでした。
 しかし、〈切ない祈り〉こそが、他の分野では引き受けようのない宗教の核です。

 東北学を提唱した赤坂憲雄氏は1月23日産経新聞へ「なぜ、いま、民族芸能なのか」を書きました。
 氏は、震災後、南三陸町で出会った60才代の男性の話を紹介しています。
 津波ですっかりやられた男性は、2か月かけて瓦礫の山を探し回り、二つの大切なものを発見しました。
 一つは、海で拾った貝を加工して奥さんへ送った指輪です。
 もう一つは、鹿踊りの太鼓と衣装でした。
 きれいに洗い、生き残った仲間たちと避難所で踊ったら、お婆ちゃんたちが泣いたそうです。
 鎮魂供養は、芸能の復活として表れているだけではありません。

「海沿いを歩くと、いたるところに、小さな霊場聖地が生まれつつあります。
 草むらの中に卒塔婆が立っていたり、堤防の脇に花やお菓子がそなえられている。
 一瞬にして奪われたたくさんの命、それぞれの思いや記憶が行き場もなく浮遊しているのです」


 私も、托鉢でお世話になった海沿いの地域をもう一度、つぶさに歩くつもりです。
 かつて、娑婆で何もかも失った私は、見知らぬ集落の一軒一軒を訪ね歩き、地域の方々から生きる糧を与えられ、いかなる僧侶、いかなる寺院であるべきかも教えていただき、今に至りました。
 あちらの集落からも、こちらの集落からも山ほど授かった私は、〈小さな霊場〉で漂っておられる方々へ鎮魂祈りを捧げ、小さな恩返しをしたいと思います。
 それが、赤坂憲雄氏の言う「広い意味での宗教のありようが、いま深いところから問われようとしている」状況への、自分なりのささやかなかかわりようです。
 地域の方々の祈り、逝った方々の思い、そこへ溶けこみたいと願っています。

〈やはり、あれは、すでに、墓標だったのです〉
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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