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2015
07.26

神殺しの日本人とお盆の意義 ―梅原猛氏の警告に思う―

201507260001.jpg

 来月はお盆を迎えます。
 一年で最も盛んに行われる仏教行事ですが、〈長期休暇〉にばかり気を取られず、ご先祖様からいのちを受け継いで今の生を生きる私たちは、本来の意義を思い起こし、この時期に人としてなすべきことを考え、実践しようではありませんか。

○日本の神殺し

 哲学者梅原猛氏は指摘しました。

「近代日本において神殺しは二度にわたって行われた。」
「廃仏毀釈(ハイブツキシャク)が一度目の神殺しであった。」


 明治に入ってすぐに行われた国家による仏教排斥運動は、現代の私たちが「けしからん!」と叫ぶIS(イスラミック・ステート)の仏教遺跡破壊などとは比べものにならぬほど過激で、徹底した蛮行でした。
 テロは、ISのメンバー一人一人に確固たる宗教的信念があっての異教へ対する破戒行為ですが、日本で起こった官憲や住民による仏教寺院の破壊は、それぞれが先祖から受け継いだ聖なるものへ無理やり刃を向けさせられるという悲惨で恐ろしいものでした。
 ご本尊様や寺院や過去帳は破壊され、焼かれ、還俗(ゲンゾク)させられた僧侶は生きようとして兵士になる者も多かったとされています。
 国家を強くするために心を一つにするよう求められた国民は、現人神(アラヒトガミ)に祭り上げられた天皇と現人神のご先祖様である天照大神(アマテラスオオミカミ)などの神々のみを奉じました。
 み仏だけでなく、自然信仰とあいまった多様な神々もまた、排斥されました。
 嵐のようなできごとを記した資料の多くは敗戦後に抹消されて一種のタブーとなり、廃仏毀釈と国家神道に関する広汎な検証や研究はいまだに不徹底です。
 日本人の持つ一面をきちんと知り、人の心を縛るという恐ろしい国家的蛮行を二度と繰り返さないために、決して〈無かった〉ことにはできない歴史的できごとです。

 梅原猛氏は第二の神殺しも指摘します。

「敗戦によって新しい神道も否定された。
 現人神そのものが、実は自分は神ではなく人間であると宣言されたことによって、この神も死んだ。」
「日本は西洋よりもっと徹底的に神仏の殺害を行ったことになる。」


 そして続けます。

「この神仏の殺害の報いは今徐々に表れているが、以後百年、二百年経つと決定的になるであろう。
 道徳を失っているのは動機なき殺人を行う青少年のみではない。
 政治家も官僚も学者も芸術家も宗教心をさらさらもたず、道徳すらほとんど失いかけているのである。
 政治家や官僚が恥ずべき犯罪を行い、学者、芸術家も日々荒廃していく世の動きに何らの批判も行わず、唯々諾々とその時代の流れに身を任せているのは道徳の崩壊と言わねばなるまい。」
「私は、小泉八雲が口をきわめて礼賛した日本人の精神の美しさを取り戻すには、第一の神の殺害以前の日本人の道徳を取り戻さねばならないと思う。」


○江戸時代の寺子屋に日本人の精神を思う

 当山は氏の指摘を待つまでもなく、江戸時代までの寺子屋で広く用いられた『実語教童子教』を毎月、読み続けています。

「山高きが故に貴(タット)からず。
 樹(キ)有るを以(モッ)て貴しとす。
 人肥えたるが故に貴からず。智有るを以て貴しとす。
 富は是(コレ)一生の財(タカラ)。
 身滅すれば即ち共に滅す。
 智は是万代(バンダイ)の財。
 命(イノチ)終われば即ち随って行く。」


 人の徳は、地位や財産や体格では測られません。
 この世でどう生きたかという〈まっとうさ〉こそが大切であり、あの世へ持って行けるものは、善き業(ゴウ)という徳の香りだけです。
 もちろん、悪しき業は腐臭となり、地獄や餓鬼や畜生の世界へ導くことでしょう。
 この文章は『実語教』の冒頭にあり、江戸時代までは、小さな児童から市井の大人に至るまで、人倫の基礎を身につけていました。

聖徳太子日本人の精神を思う

 一方、聖徳太子の十七条憲法は為政者の鏡となり、第一条の「和をもって貴しとなす」を目ざし、決定的な対立を招かぬよう穏和な話し合いを行う文化が守られてきました。
 梅原猛氏の言う「日本人の精神の美しさ」は、大和の国にとって「和」を抜きにしては語られません。
 幾度も書いているとおり、特に、最後の第十七条は権力者への普遍的戒めとなっています。
 小さなことなら独断でやむを得ない場合もあるが、大きな問題ほど、過ちを避けるため正々堂々、公正な論議を尽くさねばならないと締めくくっているのです。

「それ事(コト)は独(ヒト)り断(サダ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(アゲツラ)うべし。
 少事はこれ軽(カロ)し。
 必ずしも衆とすべからず。
 ただ大事を論(アゲツラ)うに逮(オヨ)びては、もしは失(アヤマチ)あらんことを疑う。
 故に、衆とともに相弁(アイワキマ)うるときは、辞(コトバ)すなわち理(コトワリ)を得ん。」


 ここで最大のポイントは「間違っているかも知れないと疑う」というくだりです。
 聖徳太子は日本史上まれにみる大天才であり聖者でもありますが、本人は「自分はもとより凡夫である」と述べておられます。
 そして、自らの考えに過ちがあり得ることを熟知した上で訴えました。
「どうか皆さん、いかに正しそうな、あるいは妥当そうな思想や主張や施策であっても、私たち凡夫のやることですから、過ちがあり得るという前提で、衆知を集め公正な議論を行い、人々のため、過たないよう万全を尽くしてください」

 ちなみに、かつての自民党は各派閥の論客を集めた総務会においてこの伝統を守り、全員の納得を得て衆議一決するまで徹底的な議論を行いましたが、小泉内閣時代に多数決を採用し、以後、麗しい伝統は失われ、政界全体から〈多数派の慎重さや謙虚さ〉が消え去ったように思われます。
 グループを白か黒か、多数か少数か、勝者か敗者かと単純に二分し、多数派から「改革」と称する目新しい政策が一方的かつ、次々と登場する危うい政治となった背景には、勝った負けたを面白おかしく眺める有権者とマスコミの姿勢が大きくかかわっていることを忘れるわけにはゆきません。

お盆の意義を考える

 上記のとおり、梅原猛氏の指摘に従い、私生活を行う個人としての人倫と、権力を用いる社会人としての人倫を考えました。
 ようやく、お盆に入ります。
 お盆は、二度の「神殺し」にも消滅させられなかった「日本人の精神の美しさ」が表れる大切な宗教行事です。

 日本人は自分のいのちを決して〈自分だけのもの〉とは考えず、ご先祖様から受け継ぎ、子々孫々へ受け継ぐ〈預かりもの〉と受け止める感覚を大切にしてきました。
 だから「おかげさま」なのです。
 目に見えない「御陰」とは仏神であり、御霊です。
 同時に、目に見えない天地万物や社会から受ける恩恵もまた私たちがいのちをつないで生きるためには欠かせず、こうして、時間的・空間的に無限の功徳へ感謝する言葉としての「おかげさま」は私たちの倫理を支えています。
 ご先祖様や先亡の家族を菩提寺や家でお迎えし、あるいは、お世話になった方々や忘れられない方々のお墓へお詣りするお盆は、日々の暮らしや仕事に追われている私たちがともすれば忘れかけている人間として欠かせない「おかげさま」の心を思い出し、自分の具体的な行動をもってそれをはっきりと御霊へお伝えするかけがえのない機会です。
 以下、長澤弘隆師編著『真言宗檀信徒のよろこび』を元に、お盆を過ごす心構えについて述べてみます。

一 報恩の精神

 ご先祖様のいない人は一人もいません。
 もしも遙かなご先祖様のお一人でも欠けていたなら、私たちはこの世に生を承けていなかったはずです。
 いのちをつないでくださったご先祖様は何とありがたいことでしょうか。
 自然ですなおな感謝の心を形に表しましょう。

二 ご先祖様に対する願い

 ご先祖様は決して無になってはおられません。
 影が形に従うように、いつも私たちをお見守りくださっています。
 その証拠に私たちは、大病に罹ったり、戦場へでかけたりするギリギリの場面で合掌するではありませんか。
 その対象が亡き母であれ、あるいはお大師様であれ、あるいは観音様であれ、すべて「御陰」と言うしかない方々です。
 普段は忘れていても、私たちは無意識のうちにそうした存在を知っており、感じてもいます。
 だから、ご先祖様にご安心いただき、ご加護いただくよう、自然ですなおな願いを持ちましょう。

三 自分を見つめ直す

 本堂や精霊棚や墓地でご先祖様の御霊と時間空間を同じくし、「御陰」を実感することによって、普段は気づかない、あるいは忘れている自分のルーツや家族、親族とのつながりを自覚します。それは、自分が何者であるかを見つめ直す機会でもあります。

 こうしたことをふまえ、同著は指摘します。

「日本中が仕事を休み身体を休めて本当の人間性に戻る日、それがお盆です。
 だからこそ人々はこぞってふるさとを目指し、なつかしいわが家へ帰るのです。」


 大切な時期を有意義に過ごしましょう。




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「おん あらはしゃのう」
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2015
03.04

建国記念日のいわれを説いた岩原豊起校長と聖徳太子の十七条憲法(その2)

201503040002.jpg

 日本が古来、いかなる国家像を目ざしてきたか、約1400年前に聖徳太子が作られた『十七条憲法』から抜粋、参照しておきたい。

「一に曰(イ)わく、を以(モ)って貴しとなし、忤(サカラ)うこと無きを宗(ムネ)とせよ。
 人みな党あり、また達(サト)れるもの少なし。
 ここをもって、あるいは君父(クンプ)に順(シタガ)わず、また隣里(リンリ)に違(たが)う。
 しかれども、上(カミ)(ヤワラ)ぎ下(シモ)睦(ムツ)びて、事を論(アゲツラ)うに諧(カナ)うときは、すなわち事理おのずから通ず。
 何事か成らざらん。」


(一に言う、をなによりも貴び、諍いを起こさぬことを根本とせよ。
 人はすぐに群れて流され、ものの道理をわかった人格者は少ない。
 だから、君主や父親に逆らい、近隣の人々とぶつかったりする。
 しかし、上に立つ者が権力的にならず人々と(ナゴ)み、下の者が仲良く睦み合い、ものごとを論議するならば、道理に合った皆が納得できる結果を得られよう。
 こうすれば、何ごとも、最もよい形で成就するであろう) 

「六に曰(イ)わく、悪を懲(コラ)し善を勧(スス)むるは、古(イニシエ)の良き典(ノリ)なり。
 ここをもって人の善を匿(カク)すことなく、悪を見ては必ず匡(タダ)せ。
 それ諂(ヘツラ)い詐(アザム)く者は、則ち国家を覆(クツガエ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ホウケン)たり。
 また佞(カタマ)しく媚(コ)ぶる者は、上(カミ)に対しては則ち好んで下(シモ)の過(アヤマチ)を説き、下(シモ)に逢(ア)いては則ち上の失(アヤマチ)を誹謗(ソシ)る。
 それかくの如(ゴト)きの人は、みな君に忠なく、民に仁(ジン)なし。
 これ大乱の本(モト)なり。」


(六に言う、悪を懲らしめ、善を勧めるのは、古来からの良きしきたりである。
 だから、善行は明らかに認め、悪行は必ず正さねばならない。
 へつらい、あざむく者は、国家を危うくする武器であり、国民を滅ぼす鋭利な剣のようなものである。
 また、すなおでなく媚びへつらう者は、上の者へ下の者のあやまちを告げ口し、下の者へは上の者の失敗を誹謗する。
 こうした人々は君主への忠に欠け、国民への思いやりもない。
 これは国家に大乱が起こるきっかけとなる)

「十に曰わく、忿(ココロノイカリ)を絶ち瞋(オモテノイカリ)を棄(ス)て、人の違(タガ)うを怒らざれ。
 人みなあり、おのおの執(ト)るところあり。
 彼是(ゼ)とすれば則ちわれは非とす。
 われ是とすれば則ち彼は非とす。
 われ必ず聖なるにあらず。
 彼必ず愚なるにあらず。
 共にこれ凡夫(ボンプ)のみ。
 是非の理(コトワリ)なんぞよく定むべき。
 相共に賢愚なること鐶(ミミガネ)の端(ハシ)なきがごとし。
 ここをもって、かの人瞋(イカ)ると雖(イエド)も、かえってわが失(アヤマチ)を恐れよ。
 われ独(ヒト)り得たりと雖(イエド)も、衆に従いて同じく挙(オコナ)え。」


(十に言う、中の怒りを経ち、怒りを表面に出さぬようにし、他人が自分と異なる言動を行っても怒ってはならない。
 人にはそれぞれ異なったがあり、それぞれに思い定めるものがある。
 相手がよいと思っても、自分はよくないと思う場合がある。
 自分がよいと思っても、相手はよくないと思う場合がある。
 自分が必ずしも正しいことを知っている聖人ではない。
 相手が必ずしも正しいことを知らぬ愚か者でもない。
 自分も相手も、誰しもが共に、欠点を持つ凡人同士である。
 是非善悪の理路をいつも決められる聖人は誰もいない。
 誰もが、時には正しく、時には過ち、それは、机や箪笥の取っ手が輪になっていて、端はないようなものである。
 だから、誰かが怒っていたならば、それに対して自分も憤らず、自分に過ちがないかどうか省みよ。
 自分だけが真理真実をつかんだと思えても、独り善がりにならず、人々の意見や判断に従って行動せよ)

「十四に曰(イ)わく、群臣百寮(ヒャクリョウ)、嫉妬あることなかれ。
 われすでに人を嫉(ネタ)めば、人またわれを嫉む。
 嫉妬の患(ワズライ)その極(キワマリ)を知らず。
 ゆえに、智(チ)おのれに勝(マサ)るときは則ち悦(ヨロコ)ばず、才おのれに優(マサ)るときは則ち嫉妬(ネタ)む。
 ここをもって、五百(イオトセ)にしていまし賢に遇(ア)うとも、千載(センザイ)にしてもってひとりの聖(ヒジリ)を待つこと難(カタ)し。
 それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん。」


(十四に言う、官吏たちはすべて、嫉妬を持ってはならない。
 自分が誰かを妬めば、相手もまた、自分を妬む。
 嫉妬がもたらす憂いや災厄は果てしない。
 だから、自分より智慧ある者に対してはすなおに認め喜ばず、自分より才能がある者に対しては嫉妬する。
 これでは、500年経とうと賢者に巡り会えず、1000年経とうと、たった一人の聖人の出現も望めない。
 賢者聖人がいなければ国家を治める人材はなく、まともな統治はできない)

「十五に曰(イ)わく、私に背(ソム)きて公(オオヤケ)に向うは、これ臣の道なり。
 およそ人、私あれば必ず恨(ウラミ)あり、憾(ウラミ)あれば必ず同(トトノオ)らず。
 同(トトノオ)らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。
 憾(ウラミ)起こるときは則ち制に違(タガ)い法を害(アオコナ)う。
 故に、初めの章に云(イ)わく、上下諧(ワカイ)せよ。
 それまたこの情(ココロ)なるか。」


(十五に言う、私心を捨てて公務に向かうのが公僕たる者の道である。
 およそ、人は私心ある時に怨みが生じ、怨みがあれば心を一つにした公務は果たせない。
 心を一つにした公務が行われなければ、私心による害悪が公務を妨害する。
 怨みがあれば制度に従わず、法律を破る行いも生ずる。
 だから、第一条で、上下共にを尊ぶべしと説いた。
 和を説いた理由はここにある)

「十七に曰(イ)わく、それ事(コト)は独(ヒト)り断(サダ)むべからず。
 必ず衆とともによろしく論(アゲツラ)うべし。
 少事はこれ軽(カロ)し。
 必ずしも衆とすべからず。
 ただ大事を論うに逮(オヨ)びては、もしは失(アヤマチ)あらんことを疑う。
 故(ユエ)に、衆とともに相弁(アイワキマウ)うるときは、辞(コトバ)すなわち理(コトワリ)を得ん。」


(ものごとを独断で行ってはならない。
 必ず、皆でよく議論をすべきである。
 些細なことならば、必ずしも議論を重ねずともよい。
 しかし、大事を決める際には、自分を過信せず、過つかも知れぬと怖れ、慎重になれねばならない。
 だから、独断を避け、皆でよく議論を進め、道理に合った結論を得るようにせなばならない)

 こうして読んでみると、憲法の精神には納得の連続である。
 しかるに……。

 和を尊んでいるか?
 善行と悪行がきちんと分けられているか?
 いきり立ち、自分だけが正しいという思いこみにとらわれてはいないか?
 嫉妬心につかまってはいないか?
 公私の別は大丈夫か?
 大事を行う際に公平な議論を重ねているか?

 現在の政治状況がどうであるかということではなく、聖徳太子の心が今なお、私たちの心へ響いてくることを確認しておきたい。




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2012
02.27

お葬式は不要か ─歯をくいしばり「おかげさまにて~」と腹から声を絞り出す喪主さんたちのために─

 お葬式関係の修法がすべて終わると、喪主さんが挨拶します。
「おかげさまにて、~を滞りなく送り出すことができました。
 きっと安心の世界へ旅立ったものと信じております」
 こうした一連の儀式を〈形式的〉であると批判する方々もおられます。
 批判の論理に耳をかたむけつつ、「では、み仏の前にぬかづく伝統的な儀式に代わり得るだけの重みを持つ何があるのか?」とも問います。

 大恩ある母親を亡くされた方も、最愛の夫を亡くされた方も、あるいは我が子を失い身代わりになってやれなかった事を悔いる方も、歯を食いしばって数日の儀式をやり終えます。
 順番と覚悟していながら、いざとなると惜別の思いに項垂れてしまう息子。
 この世の支えを失い、自分も一緒に行きたかったとご遺体にとりすがる妻。
 突然、娘を失い、蒼白の顔面で唇をわななかせながら喪主の挨拶をする若い父親。
 み仏と、皆さんと、自分と、三者が一体になる修法を行う身としては、こうした方々は皆、自分自身です。
「よく勤めたね」と若い父親の小刻みに震える肩を叩きつつ抱きしめたくなる時、父親と私に何の区別がありましょうか。

 悄然として帰山する車の中で考えます。
「こうした儀式がなかったならば、身の置きどころがないあの若夫婦は、いったい、いつまで、涙の乾く日を待つことになったことだろう。
『私たちは、手を取り合って何とか生きて行きます。
 これからも未熟な私たちをご指導ください』
 あの、社会性を持った決意の言葉を口にする瞬間がなかったならば、夫婦は底がない悲嘆の海に手を取り合って沈んでしまうしかなかったかも知れない……。
 これからくり返し、とてつもない寂寥感に襲われるだろうが、皆の前で別れの儀式を終えたという体験は、心に区切りがつくために小さくない力となることだろう。
 母を亡くした私もそうだった……。
 きっと彼も……」

 最近は少人数のお葬式が増えました。
 賑々しくなくひっそりと、でも確かに、送りたいのです。
 お葬式は要らないと公言する人々はむしろ、送ってくれるはずの仲間がたくさんいたりします。
 見知らぬご夫婦が必死の表情で訪ねてきます。
「何も要らないよと言っていた父親がもう危ないのですが、引導を渡してもらわなければ息子としての役割を果たせません。
 向こうへきちんと送らないでは気がすまないのです」
 実に、自分が死んだ後の始末は自分ではできず、その瞬間と後の処置にこそ〈逝く自分の人生〉が反映されるものです。

 お釈迦様が説法を始められた時は、社会の〈異端者〉でした。
 聖徳太子が仏法を選んだ時は、政界まで巻き込み、国中が仏教か神道かで争っていました。
 お大師様がインドで最後の仏教となった密教を日本へ持ち込んだ時は、九州で足止めされました。
 今の仏教界はいろいろ言われていますが、まがりなりにも仏教国であるはずの日本で正統な伝授を受け、お勤めができる自分はとてつもなく恵まれていると感じています。
 生き方に迷う方々と共に考え、祈って「この世の幸せ」を求め、「あの世の安心」を願う方々に確かな修法で心の区切りをつけるお手伝いをし、生きとし生けるものとあの世の御霊の安心のために、今日も法務に励みます。

土砂加持法を行います〉
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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2010
09.10

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その3)

 このページでは、江戸時代における日本の高度な文化を下支えした寺子屋で広く用いられていた『実語教童子教』を現代風に読み解きます。
 家庭でも学校でも学びきれないでいる道徳の基礎づくりに役立ててください。

3 真の財

「富(トミ)は是(コレ)一生(イッショウ)の財(ザイ)。
 身(ミ)滅(メッ)すれば即(スナワ)ち共(トモ)に滅(メッ)す。
 智(チ)は是(コレ)万代(バンダイ)の財(タカラ)。
 命(イノチ)終(オワ)れば即(スナワ)ち随(シタガ)って行(ユ)く。


(富は生きているうちの財物です。
 死ねばそれまでです。
 智慧は永遠の財物です。
 死んでもに寄り添い続けます)

 私たちは、目に見えるものを慈しみ、惜しむものです。
 それが、それぞれの身体であり、財物です。
 しかし、どれほど大金持ちになろうが、それは、「あ」と生まれ「うん」と息が止まるまでの相棒でしかなく、びた一文、あの世へ連れて行けはしません。
 それどころか、目立つ財産は身近な人からも無縁の人からも勝手に狙われやすく、私は、生前から悶着となる醜いケースさえ幾度となく見てきました。

 私たちは、目に見えないものの価値をなかなか実感できないものです。
 しかし最も大切なのは、人間を人間たらしめる真の智慧です。
 智慧に伴い、智慧ある人はいつまでも慕われるだけでなく、死後、ますます導き手としての力を発揮する場合すら珍しくはありません。
 お大師様は、「弥勒菩薩(ミロクボサツ)の浄土へ行ってこの世を見守り、やがては弥勒菩薩(ミロクボサツ)と共に人々の前に現れよう。それまで、人々の精進ぶりを見守ろう」と遺言されました。
 信じ、修法する行者にお言葉への疑いはなく、見守り、ご加護をいただいた体験は山ほどあります。
 お大師様のご加護とは何か?
 それは、お大師様の行者が感応する結果、お大師様のお力が行者へ、そして、行者を通じてご加護を求める善男善女へ流れ込むことであろうと考えています。
 釈尊も聖徳太子も弘法大師も、太陽のような暖かい不滅の智慧で、私たちの行く手を照らしておられます。

 なお、ここで注意すべきは、霊性を存在の核とする人間にとって最も価値あるものは智慧であると説かれていますが、だからといって富を貶めるわけではないことです。
 富は現実を動かす力でもあります。
 問題は富そのものにあるのではなく、それを得ようとする方法や目的、あるいは用いる際の心にあります。
 欲そのものに色はなく、煩悩(ボンノウ)として動けば黒、大欲(タイヨク)として動けば白になるのと同じです。
 富や欲を敵視すると、敵視という無意味なこだわりや、現実を動かす際に欺瞞が生じたりします。
 道具は空(クウ)の心で、正しい目的のために感謝しつつ使いたいものです。

 さて、目に見える身体や富を道具とする私たちは、道具を手放したくありません。
 しかし、道具はあくまでも手段です。
 死を前にして悩み苦しむ人々にとって朽ちて行く身体も、財物も救いにはなりません。
 究極の救いは目に見えない世界にしかありません。
 考えてみれば、何をきっかけとしても、悩み苦しむのは心なので結局は心の問題なのですが、私たちはどうしても、道具で何とかしようと、もがきます。
 そして、道具が役に立たないという真実を知るのが死ぬ間際だったりします。
 だから釈尊もお大師様も異口同音に「最も肝腎なのは心の問題であると気づき次第、心を何とかせよ」と心のトレーニングの大切さを説きました。

 道具を考え、心を考えましょう。

〈目線をとらえるもの〉
220910 022
 



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
08.22

「必死剣鳥刺し」

 藤沢周平原作の映画「必死剣鳥刺し」を観ました。

 普段、あまり目立たない下級武士兼見三左エ門は、藩政を歪める主君の妾を刺し殺します。
 周囲の論議を黙って聞いているだけの口数少ない男は、決意をおくびにも出さず、決行しました。
 死罪にならず閉門一年で済み、周囲の心配をよそに、男は毎日、黙って藩内を歩きます。
 大小を腰に差していても、たたずまいは托鉢僧と変わりません。
 殺した女の墓石に詣で、かつて女に仕えていた尼僧から「なぜ殺したのか?」と尋ねられても答えずに去ります。
 衝撃的な行為も、耐えるだけに見える日々も、一色に塗られています。
 説明の要らない真実という色です。
 
 兼見三左エ門の一挙手一投足すべてに、偽りはありません。
 スクリーンに映し出される真実の実在生は、聖徳太子が説かれた「世間(セケン)虚仮(コケ)、唯仏是真(ユイブツゼシン) 」を思い出させます。
 自分を含め、この世のことごとはかりそめのものに過ぎず、ただ、み仏のみが真実であるというのです。
 我が身にひき比べ、なぜ、男は一分の隙もなく真実を生きているのか?
 その謎は、天心独名流の達人である男が極めた秘剣にあります。

 「必死剣鳥刺し」と名づけられた秘剣は、半ば死にかけている時に用いられます。
 いかなる技であるかは独自で会得した男しか知らず、もちろん、眼にした人はいません。
 ラストシーンでくり出される一生に一度の秘剣が謎を解き明かします。
 自分の死の一瞬手前を想定して修行し、そこに一剣客としてのすべてをかけられるべく「その時」を待つ男に「虚仮」がなかったのは、生きようとあがくのではなく、死を生きていたからです。

 最近、共同墓『法楽の礎』へのお問い合わせが増えています。
 今あるお骨を納めたい方がある一方で、ご自身やご夫婦のために契約をする方も少なくありません。
 さらに、生前戒名を求める方も珍しくなくなりました。
 自分の死を具体的に考え、死後の行く先を決めるのは、死を同伴者として意識へ入れることを意味します。
 生前に契約される方々に心の澄浄さや静安さを感じるのは、気のせいでなかろうと考えています。
 
 豊川悦司の兼見三左エ門は出色のできばえです。
 各流派それぞれに「秘剣」があり、伝授を受けた修行者は、相手をその流れへ引き込めば必ず仕留められるよう、密かに稽古に励みます。
 突く形が多いとされているのは、返し技として工夫しやすく、動きも単純で、剣が相手へ届く時間を最も短縮できるからです。
 秘剣は当隠形(オンギョウ)流にもあり、特に技が勝れた者と限らず、稽古をしています。
 ただし、口外せず、動画に残さないのは当然です。
 豊川悦司のくり出した秘剣は、他を寄せつけず、目にもとまらぬ電光のような必殺剣でした。
 
 真実を求める方にも、「虚仮」に悩む方にも、そして、もちろん、剣の道に励む方にもぜひ、観ていただきたい作品です。

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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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