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2011
11.05

【現代の偉人伝】第138話 ─障害者解放運動家西岡務氏─

 平成18年1月29日、享年51才のその人は「伝説の門をゆらりゆらりとくぐって」逝った。
 私は名前を聞いたことがあり、顔もどこかで見知ってはいたが、実際に会ったこともなければ、心で向き合うこともなかった。
 しかし、かつてその人の身近におられたAさんと知り合い、一冊の本『ほな、たたかいまひょか』を手にし、つい5年前までこの世にあった偉人の人生と向き合うことになった。
 その人は西岡務氏。
 脳性麻痺による障害を持った運動家である。
 以下、『ほな、たたかいまひょか』を参考に、氏の志を考える。

 障害者は特別扱いされ、こう言われる。

障害者のいる家庭は何かあるで。血筋が汚れてんのん違うか」
「家系に問題あるん違うか」
「障害は遺伝するん違うか」
「この子は家のわざわいを背負って生まれてきたんだ。だから、この子を大切に育てなさい。この子を粗末に扱っては家に災いが来ますよ」
「この子には龍という動物の霊がついている」


 遺伝性疾患によって障害者になる確率は1割もないという。
 子供の頃のケガや病気が原因で障害者になるが、交通事故や中高年齢者が罹りやすい脳疾患でもたやすく障害を受けるわけで、誰でもが、いつなんどき障害者になっても不思議ではない。
 氏は言う。

「政治家や医者や学者、あるいは皇族と言われる人たちの中にも障害者はいる。
 家柄や家系や地域、そんなものは一切関係ない」


 しかし、私たちは、健常者と障害者を分けてしまう。
 私は、一軒づつ訪ねる托鉢の中で、障害者の方々と出会った。
 今回の津波によって流された地域では、チャイムを鳴らし玄関を開けると、暗い廊下の奥へ引っ込む気配がし、やがて年齢のわかりにくい男性の顔だけが覗いたことがある。
 声をかけたが黙って顔は消え、あとはしんとした沈黙だけになった。
 翌年は、チャイムを鳴らした途端に何か大きな声がし、急いでカギが閉められた。
 ある古く大きな家では、這いながら玄関に出てきた男性の後を追って、母親らしい老年にさしかかる女性が現れ、彼を奥へ追いやってから玄関にきちんと正座した。
 湿り気のある空気に乗った読経の声は家中に通ったが、湿り気の中に溶け込んでいるかのようにひっそりとしている女性は終始、何も言わなかった。
 やがて、こうした出会いはなくなった。
 世の中に施設が整備されてきたせいだろう。

 平成7年6月24日、関西大学の「人権問題に関する講演会」で31才の氏は指摘した。

「障害者の場合、何ぼ考えてもできないものはできない。
 できないから人の賃金の半分でいいかというと、そんなことはない。
 飯を食っていくのに、食堂へ行って定食を食うのに、障害者は半分なんて制度はないです。
 飯食うのに半額でいいなら賃金も半分でいいだろうけれども、そうではない。
 みんなと同じように金を使って一生懸命生きていかなければならない。
 なのに、能率が悪い、仕事がでけへんということで半分の賃金しかもられないというのはどう考えても差別や、と言える人間にならんとあかん」


 貨幣経済の社会では、米を買うために必要なお金は誰にとっても同じ金額になる。
 だから、富裕な人と貧困な人とでは、生きるためにモノを食う負担が天と地ほど違う。
 懸命になっても〈できない〉障害者は、能力に合った賃金をもらうだけでは生きて行けない。
 自分なりの力を尽くしてすら生きて行けない者をそのままにしておく社会のしくみには「差別」があると言う。

「皆さんはそれぞれの立場で一生懸命頑張っておられると思いますが、努力しても九〇しかできない人と、努力もせんと一二〇もできる人を比べて、努力せんと一二〇、一三〇できる人たちがええ目を見る社会なんてのは、やっぱりおかしいで。
 一生懸命頑張って九〇や八〇しかできない人が大切にされる世の中を作っていかんことには、一人一人が競争心をあおられて、毎日、ギスギスして生きていかなあかんのん違うか」
「我々、今資本主義の世の中で生きている以上、能力主義の価値観を持って生きています。
 それによって健常者の方一人ひとりが縛られ、削られ、ギスギスとして生きてるんじゃないかと思うわけです。
 そういうのをひとつ解き放って、能力主義という考え方を克服して、障害者も健常者も同じ人間として生きていける社会が当たり前やというふうに考えていただいて、取り組みを進めてもらえれば非常にありがたいと思います。
 障害からの解放ではなく、障害者差別からの解放というのを我々は望んでいるわけですから、皆さん方の人間性の復権と深く結びつけることができる課題であると信じてならないわけです」


 いつの世も、人間として誠心誠意はたらくことと、生活力の大きさとはそれほど比例しない。
 まして資本主義と自由競争の社会では〈利という結果を出せる能力〉のあるなしがすべてを決し、〈人間としてのまこと〉が関与できる余地は限りなく少なくなりつつある。
 人間一人一人の汗などとはまったく無縁の思考とお金が世界中を席巻し、国家も企業も過激な弱肉強食と栄枯盛衰を見せますが、その過程で一握りの人間が富を得る一方、膨大な人びとの〈人間としてのまこと〉をかけた日々が瞬く間に踏みにじられる。
 氏は、「懸命になってなお生きにくい障害者の姿は、気づかぬうちに踏みにじられている皆さんの姿を写す鏡ですよ」と主張している。
 いかにして能力主義から脱却するかが「人間性の復権」を実現するカギであり、そうした地点から考えれば、障害者と健常者は共に手を取り合って現状を打破する同志であると言う。

 最期を看取ったつれあい大田立子氏の言葉はこう締めくくられている。

「私は、とにかく生きててほしかった。
 二四時間、目を話せない状態やったけど、そのまま生きててくれるだけでよかった。
 ずうっと危篤で、本人は早よあっちへ行きたかったも知れんけど、もう痛いの嫌やったと思うけど、私は息をしてくれてるだけで、それだけでいい、とにかく生きててほしかった」


 仕事柄、私は数知れない方々から〈送った方々の思い〉をお聞きした。
 そうした耳に「私は息をしてくれてるだけで、それだけでいい、とにかく生きててほしかった」は限りなく新鮮に響いたことを書きとめておきたい。

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 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2005
11.30

限りない絆 ―「安宅の関」に想う?―

 最後の一つは、主従関係を通した人間の絆です。
 無事関所を通過した後、一休みとなった山道で、義経へ詫びる弁慶はなかなか泣きやみませんでした。
 いのちをかけても義経を守ろうとし、その理想の実現を生きがいとしていた弁慶にとって、こともあろうに主人義経を打ちすえるなど本来はあり得ないことで、なかなか自分を許せなかったのは当然です。
 あの時はああするしかなかったと頭では判っても、情けなく悔しく申しわけないという気持がわき上がるのを止められなかったのでしょう。
 涙のシーンではあっても、決して切れない絆で結ばれた主従は輝いていました。

 人が人にかけ、皆で共通の目的にかけて生きている時は、誰しもが輝いています。
 もちろん、何ごとをなそうとする場合も、辛いことや苦しいことは山ほどあって当たり前ですが、絆があればそこで流す汗もまた、大いなる充実感をもたらします。
 前回「たった一昔前、〈関守の富樫泰家〉は世間のどこにでも棲んでおり、身近にはいくらも小さな〈安宅の関事件〉がありました。」と書きましたが、たった一昔前、〈大いなる充実感をもたらす場〉もまた、日本のどこにでもありました。
 それは職場であり、育児をする家庭でした。
 NHKの『プロジェクトX』や、かつての子供たちの教育レベルや日本人の品位の高さはそれを証明しています。

 しかし、弱肉強食思想がもたらす偏った能力主義・成果主義・効率主義は、職場を限りなく殺伐としたものに変えつつあります。

 人事課にいた元社員の書いた『内側から見た富士通』という内部告発の書は、そのあたりの事情を見事に伝えています。
 人間が潤いのある人間性を保つためには、信頼できる人間関係が欠かせません。
 一日の大半を過ごす職場からそれが失われたならば、行き着く先に恐ろしい世界が待つのは当然です。
 かつて触れた『すべてを超える翼』によると、雁の驚異的な渡りの達成には強い鳥だけでなく、老年・若年・女性など弱い鳥の存在が不可欠であると書かれています。
 逆V字型の翼は強い者の列と弱い者の列からなっており、弱い者を助けつつ強い者はさらに強くなり、弱い者は助けられつつ力を増し成長します。
 群れが共有しだんだん高まる「群れの心」が信じがたい大飛行の原動力になるのです。
 ここで学ぶべきは、「同じ雁だから皆平等にやろう」という形にはなっていない点です。
 それぞれが、群れにおける自分自身の位置を知っています。
 その上でそれぞれが助け合い、精一杯やるのです。

 今、私たちは、子供たちの徒競走で一等賞・二等賞と区別せず、子供たちに自分自身の位置を自覚させないようにしています。
 一歩社会へ出れば通用しない明らかに誤った平等主義によって育てられた子供たちは厳しい社会へ適応できず、落伍者が急増しています。

 平等が異常に主張されている一方で、自由競争の名のもとに弱者は限りなく切り捨てられつつあります。
 個人も地域もどんどん見捨てられ、うまくやって巨富を手にする者たちが英雄視されています。
 万物の霊長であるはずの人間は、自然から授かった雁の智慧と正反対のことをやり、憂き世の憂いをさらに深めているとしか思えません。

 また、ジェンダーフリー思想と自由放任主義は、家庭から母性を発揮する〈母親〉をなくし、人間の基礎をつくる〈しつけ〉をなくしつつあります。

 NHKの『クロズアップ現代』を見て、恐ろしくなりました。
 自分の好きなものしか食べない子供の食べ残した給食が、大量に捨てられています。
 そして、当然ながら、子供たちの身体は健全に発育できず、小学生ですでに糖尿病や高脂血症にかかるのは珍しくないというのです。
 この傾向は、ここ10年で悪化の一途をたどっています。

 好き嫌いさせないという基本中の基本であるしつけが行なわれなくなっているなどとは、にわかには信じられません。
「子供に嫌いなものを無理に食べさせようとすると、母親のストレスになります」にも耳を疑いました。
 たとえ子供が泣こうが駄々をこねようが、親が子供のためにしつけをするのは当たり前ではないでしょうか。
 子供に喜ばれさえすれば良い、子供の笑顔だけがあれば良いというのでは、あまりに知恵も責任感もありません。
 番組の終盤でこういう真っ当な指摘があり、すべての親たちに聞かせたいものだと切に願いました。
「子供は小さいうちにいかなる食生活の習慣を持つかで、身体も心もどう発育するかが決まります。
 手をかけられた、たくさんの種類の食べものを食べた子供は健全な身体だけでなく、いろいろなことに興味を持つ情操豊かな子供に育ちます」

 こんな日本になっても、アメリカに比べればまだましなようです。
 11月21日付のニューヨークタイムズは、研修制度が未整備で地域によって千差万別のカリキュラムがあるアメリカは、教師の教育が盛んで全国統一のカリキュラムがある日本に学び、基礎学力をきちんとつけなければならないというコラムを掲載しました。
 しかし、「より小さな政府」「地方でできることは地方で」という旗印が、この誇るべき制度を破壊しようとしています。
 このままで進めば、誰でも自由に教師の役割を果たせることになり、教材も地方により地域により先生によってバラバラになり、今のアメリカの姿に近づくのは目に見えています。
 「肝心なことは国が責任をもってやらねばならない」こんな当たり前のことが行なわれなくなりつつある弊害が、今度の設計書偽造事件でも明らかになりました。
 もし国が何かの責任を放棄するならば、その行く先について充分な議論と検討を重ねねばならないはずなのに、何もかもが一権力者によって「いつまで」と期限を区切られ、「こういう方向で」と結論を示され、それに異論を唱えれば「抵抗勢力」であると排除される、こんな愚かしく恐ろしいことはありません。

 人間の絆が失われつつあります。
 職場も家庭も〈大いなる充実感をもたらす場〉でなくなりつつあります。
 その証拠がニートやフリーター、そして中高年自殺者の増大です。
 その根底には、「我(ガ)」の肥大があります。
 お互いが自分を主とすれば、他人は壁になり、ストレスの発生源になります。
 会社の同僚は競争相手、上司は乗り越える対象、部下は利用する対象でしかなくなります。
 自分の気分の良さを求める母親は、収入を得て気ままをしたい欲求に流され、正しくしつけをするという子供への責任を果たせず、意のままにならない子供によってストレスを発生させます。
 横暴な権力者は、我の権化です。彼の表情と行動は、時代の空気を如実に表わしています。

 病状はすでに深刻です。明らかに、「我の肥大」という最大の現代病と真剣に向き合わねばならない時が来ています。




2005
07.05

組織と正見

 40年にもわたって続いてきた同期会の総会を欠席しました。
 この歳になると、もはや幽明境を異にした会員が何人もおられ、一期一会の雰囲気が強まってきます。
 会長としてそうした場へ出席できぬことに責任を感じて会員のお一人へ辞表を託したことを思い出しながら床に就いた深夜、ご縁の方から切迫した電話が入りました。
 長期間無事を祈ってきたお子さんが事故を起こしたのです。
 処置法をお話しし、ただちに不動尊延命法へ入りました。
 幸いにして、ことは大事に至らず小事で済みましたが、ご縁の方にとっては文字通り命の縮む思いだったことでしょう。察して余りあります。

 あらためて僧侶の責務と日々の過ごし方についてみ仏からお教えいただいたできごとでしたが、この一夜は、立場というものについての確信を深めもしました。
 長の仕事は畢竟二つ、会へ参加し会員全員と心を一つにすること、結果に責任をとることです。
 参加できず心を一つにできなければ資格はありません。
 ことがうまく行ったならば、それは担当してくださった方々の努力のたまものです。
 しかし、問題が発生した場合は自らが具体的に責任を負うことができなければ資格はありません。
 資格がないと判断したならば速やかに辞任すべきです。もちろん、それが会のためだからです。

 人の組織というものは、何であれ、本来そうしたものでなければならないという気もします。
 立場なりの役割があり、それぞれがお互いの立場を尊びながらまっとうに役割を果たしてこそ組織は生きたものになるはずです。
 また、例のライブドア事件が思い出されます。
 あの時、学者も政治家も評論家も「会社は株主のもの」と主張していましたが、何度考えても首肯できません。
 労働者・経営者・株主の三者が協力して役割を果たし、利用者がその努力を認めてこそ会社は存続できるのであり、いずれかの一者のみが「所有者」として強者の立場を主張するのが正しいなどということがあり得ましょうか。
「法律がそうなっている」という事実の指摘なら解ります。
 法が人間社会の理想とずれていれば法を変えれば良いだけです。
 しかし、多くの論者は「会社は株主のもの」であるのが資本主義社会にあっては当然だと主張していたのです。
 こうした思想が本当に人々を幸せにできるでしょうか。
 
 かつて極端な平等を主張する共産主義が蔓延していた頃、労働者は資本家を打ち倒せという叫びが日本中を覆っていました。若者たちはデモに走りました。
 イデオロギーにより、不毛の対立がつくられていました。
 しかし、日本人は智慧をもってそれを克服し、人々は豊かになり、国は安定しました。
 今は極端な自由を主張する資本主義が一部の富裕層を潤し、所得格差をどんどん広げています。
 人生相談を受け、社会の様子を観ていると、人々の多くは老いも若きも、明らかに「使い捨て」にされつつあります。
 そうでなくとも技術文明の進展で人が労働力として不要になりつつある時、人をモノであるかのように金で自由にあやつる思想が日本を理想社会へ導けるとはとても考えられません。
 自由競争に名を借りた極端な能力主義がはたらく人々の人格を破壊し、組織の土台を崩すということも明らかになりつつあります。

 釈尊は苦を脱する八つの道を示されました。その第一番目は「正見(ショウケン)」です。
 正しい見解にはいくつかの面がありますが、一つは「極端へ走らない」ことです。
 しかし、人は極端へ走りたがります。
 理由は、ある意味で「楽だから」です。
 一番端にいれば、もう論議は不要になります。
 端へ来ない人々を中間的だと否定するだけで自分の正義を主張していられます。
 平等という何人も否定できないと思われる旗へ身をゆだねれば楽なものです。
 自由という何人も否定できないと思われる旗へ身をゆだねれば楽なものです。
 ジェンダーフリーも同様です。
 極端はさらに極端へと向かい、戦闘的な態度はますます鋭くなります。
 指導を無視した先生が、生徒たちを男女同室で着替えさせるなどの暴走を見ても、常識・良識・見識の破壊されているすさまじさが判ります。
 こうして人は極端へ走りたがるものだからこそ、釈尊は正見の大切さを説かれたのでしょう。
 
 一方、釈尊は因果応報の真理も説かれました。
 かつて、共産主義を煽っていた某大学教授は、革命思想に忠実であろうとした教え子たちが行なった暴力行為のために自分の研究室を無惨なまでに破壊され、ぼうぜんと立ちつくすしかありませんでした。
 今の資本主義やジェンダーフリーの暴走もまた、必ずや結果をもたらします。
 それは、熱に浮かされている人々の夢見ているようなパラダイスではあり得ないことでしょう。なぜなら「正見」ではないからです。
 幸いにして私たち日本人には、社会を家族ととらえる感覚や、礼を重んずる感覚や、仏神で争わない感覚など、「正見」を取り戻す智慧の泉があります。
 智慧を発揮するには忍耐が必要であり楽ではありませんが、先人は汗を流して日本をここまで導いて来られました。
 私たちも、目先の楽へと逃げ込まず真摯にやりたいものです。




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